後漢 - みる会図書館


検索対象: 邪馬台国論争
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1. 邪馬台国論争

二三九卑弥呼、魏に遣使親魏倭王・銅鏡を賜る 一一四〇倭使・難升米ら帰国 二四一一一倭王、魏に遣使 一一四五魏帝、難升米に黄幢を賜う 一一四七卑弥呼、狗奴国王と戦う 一一四八ころ卑弥呼、死す ( 七ー八〇 ? ) 、大冢を作る 男王が立ち、倭国乱れる 台与、女王になり、倭国治まる 台与、魏に遣使 二六五魏減び、晋おこる 一一八〇晋、呉を併合、天下統一 倭、晋に遣使 時】 このころ陳寿「三国志なる これ以後四一三年まで、倭国、中国史書 ~ より消える 二九五陳寿没 ( 六五 ) 弥生時代各期の暦年代は宇野隆夫 ( 「年代」「弥生時代の研究」 1 〈一九八九〉 ) による。皇子山を守る会編「シンポジウム大型建物から考える邪馬台国の時代 と近江」〈一九九四〉、大阪府立弥生文化博物館編「卑弥呼の世界」 ( 一九九一 ) を参照した。 倭 弥生中期 本国 Ⅳ期 : Ⅲ期 : Ⅱ期 前中関 国係 新漢 年 前表 西 弥生後期 V 期 Ⅵ期・庄内式 奴国王、後漢に遣使、金印を授かる 方五七 帯 浪一〇七倭国王帥升ら、後漢に朝貢 後漢楽 一四一工八八このころ倭国大乱 一八四ころ卑弥呼、共立される 二〇四以後倭、帯方郡に属す 三国 蜀・呉・魏 高句麗 ( 百済・新羅 ) 前一世紀倭、百余国に分かれ、楽浪郡に遣使 文献史料上の倭の動き 台 遺跡と出土遺物 吉武高木遺跡の大型建物 ( 福岡 ) 貨泉、西日本各地で出土 一世紀唐古・鍵の楼閣 ( 奈良 ) 五七金印「漢委奴国王」 ( 福岡 ) 吉野ケ里の環濠集落 ( 佐賀 ) 池上曽根の神殿・大井戸 ( 大阪 ) 高地性集落の・ヒーク 銅鐸の配布 伊勢遺跡の大型建物 ( 滋賀 ) 一八四黄巾の乱 一九〇年代中平年銘鉄刀察良 ) 一九〇公孫度、後漢から自立 楯築墳丘墓 ( 岡山 ) 一一〇四公孫康、帯方郡を分立 代 銅鐸の埋納 一三〇魏建国 二三〇呉の孫権、徐福の子孫を探させる二三五青龍三年鏡 ( 京都 ) 時 一一三八赤烏元年鏡 ( 山梨 ) 二三四諸葛孔明、陣没 ( 五 = l) 二三九景初三年鏡 ( 大阪・鳥取 ) 国二三八司馬公孫淵をほす 一一四〇景初四年鏡 ( 京都 ) 一一四〇正始元年鏡 ( 群馬ほか ) 一一四四赤烏七年鏡 ( 兵庫 ) 箸墓 ( 奈良 ) ? 馬 邪 中国・遼東の動き 前一〇八漢の武帝、朝鮮半島に楽浪郡など 四郡を設置 王莽、新を建国貨泉を鋳造 一一五光武帝、後漢を建国 八 纒向遺跡 ( 奈良 ) 二八〇ころ箸墓 ( 奈良 ) ? 298

2. 邪馬台国論争

の 5 古墳の造られた時代』一九八九年 ) 。 いまや、この「三世紀半ばー説は、突出した少数派の〈独唱〉から、多数派の〈大合唱〉へと広が りつつある。石野の先の「巻頭論文」はその象徴といえよう。 こうした最近の動向を踏まえて、直木孝次郎も、邪馬台国問題の帰趨を決するのは、古墳発生の年 代の問題だ、とみる。畿内における古墳時代の始期を三世紀後半にまでひき上げる、白石らの年代観 にしたがって、次のようにいう ( 「永遠の謎か、邪馬台国と女王卑弥呼」 ) 。 畿内説の場合は、卑弥呼の死後、その後継者と卑弥呼から鏡の分与を受けた豪族たちは、鏡を 半世紀ばかり伝世・保存し、古墳をつくるようになってから副葬したと説明し、九州説の場合 は、卑弥呼の死後若干の年月を経過したのち ( : : : 少なくとも二十ー三十年後 ) 、北九州の中心勢 力が鏡の大部分をもって畿内に移動し、さらに二十 5 三十年後に古墳に埋めた、とする。いずれ もかなりの臆測ないし仮説を必要とする。 しかし、三世紀の後半から古墳時代にはいり、まず畿内で古墳がつくり始められ、周辺地域に 及んだとすれば、畿内説では鏡についての疑問は消える。卑弥呼の死後、卑弥呼の後継者や卑弥 呼に従属した諸国の王が、卑弥呼から継承または分与された後漢と魏の鏡を、自分の墓に副葬さ せたと考えればよい。そのなかには壱与の墓もあるかもしれない。それが畿内およびその周辺に 多い後漢や魏の鏡を出土する前期の古墳であるということになる。 卑弥呼の墓 2 ) 7

3. 邪馬台国論争

をまつる円丘に曹操 ( 武皇帝 ) を、地をまつる方丘に皇后を配祀した事実に注目し、前方後円墳は中 国の祭祀ー墓制にならって、円丘と方丘を結合したもの、と考えた。 かないづか 考古学の金井塚良一は、石野博信との対談で、「前方後円墳は大和政権を主軸にした政治的秩序の 形成の証だ」とする従来の考えでは、「前方後円墳という墳形に表象されているかもしれない宗教イ デオロギー的側面を正しく理解することができないんじゃないか」と、的確に指摘した ( 「東アジアの 古代文化」号、一九八一 ) 。 しげまつあきひさ 「前方後円墳は道教的イデオロギーで造られた」とはじめて指摘したのは、先の重松明久である。重 松の『古墳と古代宗教』 ( 一九七八 ) によると、後漢末に盛んになった道教は、老荘の哲学・神仙思想 ふじゅっ ちょうろ ・巫術・方術、さらに張角・張魯らの狭義の道教などの諸要素を混然と集大成したものだった。「天 地の神霊の体現者ーを守護神としてまつるとき、道教では通念にしたがって、「天円地方」 ( 天空は円 だこていかんぼ 形、大地は方形 ) のイメージを象った前方後円形の墳墓に納めた。後漢の「打虎亭漢墓」 ( 河南省 ) が その代表例とみる。 卑弥呼の〈鬼道〉が後漢末いらいの中国の鬼道を輸入したものなら、そして、卑弥呼自身、西方の せいおうぼ 日神・西王母や「天地の神霊の体現者ーに見立てられたものなら、卑弥呼の墓も、前方後円形に造ら とうおうふ おうしきようせきしようし れた、と推測される。三角縁神獣鏡は、図像には東王父・西王母・王子喬・赤松子ら神仙道教の神々 を浮き彫りにし、銘文には神仙の名をはじめ、「海東に至るー「寿は金石の如し」といった神仙的常套 句を刻む。この図像と銘文からみて、三角縁神獣鏡は「鬼道系道教の祭具」にふさわしい 邪馬台国宇佐説に立つ重松は、三角縁神獣鏡を五面、納めてあった前方後円型の豊前・赤塚古墳こ 236

4. 邪馬台国論争

公孫氏政権の評価 もっとも、公孫氏 ( 一九〇ー二三八年 ) の鋳鏡技術については、評価がわかれるから、面倒だ。 立木修 ( 奈良国立文化財研究所 ) によると、当時、中国の河北は、盗賊が跋扈して治安がきわめて 悪かったうえ、一九〇年、公孫氏が独立するに及んで、中原から楽浪郡への道は、幾重にも閉ざされ てしまった。中原と韓・倭との交通もまったく途絶していた、と考えられる。したがって、倭への鏡 ′っきん の流入も「黄巾の乱ー ( 一八四年 ) 以後、半世紀ほどは途絶えていた、と説く。 ばんきょ 公孫氏の盤踞した現・遼寧省から、漢式鏡は二八面出土しているが、公孫氏政権期の後漢末ー三国 時代初頭の鏡は、ほとんど認められない。そこでは独自の鏡生産は行われていなかった。中国本土で も、南北とも三世紀代は踏み返し鏡が主体であった、という ( 「漢式鏡に関わる諸問題ーーー弥生時代終 末・古墳時代前期出土鏡の評価。ーー」「倭人と鏡その 2 』 ) 。 紀年銘の語るもの 「紀年鏡は作られた年代、地域を明確に示すことから、中国鏡の日本への流入路を跡づけるトレーサ ーとすることができる」 ( 森下章司「紀年鏡と古墳」考古学ジャーナル 388 号 ) 。というわけで、三世 紀の紀年鏡には、とりわけ目の色が変わる。 林裕己は、漢式鏡のうち紀年銘をもった鏡一三一面を集成した。前漢末の居摂元年 ( 西暦六年 ) か ら北朝の東魏・天平三年 ( 五三六 ) に亘るが、圧倒的に後漢末から三国時代 ( 三世紀代 ) が多い。そ卑刀 はやしひろみ ばっこ きよせつ

5. 邪馬台国論争

2 同笵鏡論 富岡説の考証 これまで再三のべてきたように考古資料のなかで、もっとも注目されてきたのが、三角縁神獣鏡で 鏡 ある。現在、「三角縁神獣鏡こそ〈卑弥呼の鏡〉」とする舶載鏡説をめぐって、シリアスな論争がつづの くが、はじめから〈卑弥呼の鏡〉と認識されたわけではなかった。大正初年、富岡謙蔵 ( 京大講師 ) 卑 しくは景初三年後十二月 ) という特異な月に鋳鏡されたか、さらには、都・洛陽ではなく、帯方郡または呉地の 鏡工人に発注して作ったか、もしかすると、景初四年正月は当初、暫定的に存在したのだが、直前になって「景 などなど、いくつかの場合が考 初三年後十二月」に呼びかえられたといった事情があったのかもしれない。 えられよう。 きょえん の中国側の出入口 ) の要塞・居延で見つかった漢簡 ( 後漢代の木簡 ) による ( 注 3 ) 河西回廊 ( シルクロード と、都・洛陽からの改元詔書を伝達するのに四十日かかった ( 菅谷文則「景初四年銘鏡をめぐる諸問題ー『謎の 鏡』所収 ) 。また、日本の例では、離れ島の隠岐に流された後鳥羽院が、改元のことを知らずに、「暦仁二年二月 九日」 ( 暦仁二年は二月七日まで ) の年号入りの遺言を書き残した ( 水無瀬神宮蔵「国宝・後鳥羽院御手印」 ) 。 ( 注 4 ) 藪田嘉一郎は博覧強記の在野の古代史家で、松本清張とも親交があった。私のみるところ、飛鳥の石造 遺物の謎解きをテーマにした新聞小説『火の路』の、陰の主人公らしい。没後、清張の肝煎りで名著『日本古代 文化と宗教』 ( 一九七六年 ) が出版された。 かんかん 16 7

6. 邪馬台国論争

石不動 語るーーと説いた。有名な「伝世鏡論」である。 しかし、近年、「伝世の事実は証明できない」としてきびしく 批判され、これをタブー視する風潮さえあったようだ。岡村は、 これに対して、次のような新しい証拠をあげて、「伝世ーの事実 す を があったことを主張する。 ③舶載の漢鏡は、上のように編年・分類できるが、漢鏡の時期 の 山 別に出土・分布状況を図化すると、とくに畿内とその周辺では、 神・ 几又 天・ 一「三百年後の前期古墳から出土するさまが、 はっきり見てとれ 山前 新・の発る。 金申村 ④大量に埋納された弥生甕棺墓や古墳の場合、鏡が粒そろいと 岡 角 いえるほど型式が一定である。つまり製作後間もなく一括して輸 奥 - の入され、保有されたらしいと考えられる。 ⑤古墳時代直前の遺跡から、「破鏡ーが見つかる。舶載鏡を分 代 7 割したうえ、割れ口をていねいに磨き、ぶら下げる孔をあけてい 呼 る。これも、鏡の製作からほどなく日本にもたらされたあと、日 本列島のどこかで分割され配布され、宝物として伝世した、と考 鏡 帯えるのが妥当であろう。北部九州でも、弥生Ⅳ期ごろから伝世のの 画風習が広まっていったことが、想定できる。 卑刀

7. 邪馬台国論争

がもんたい 画文帯環状乳神獣鏡が見つかっている。こちら 入 をけた中う は、中国四川省にあった後漢の官営工房で作られ 文避しでよし 銘を置まのわ たらしい ( 原田三寿「後漢の紀年鏡について」考古 青献三年 吉配る石さ 不く至金ふ 学ジャーナル 3 8 8 号 ) 長 作 顔氏作竟成文章 をき正孫硬る 究 か 6 鏡置て九 研 おうもうしん のをつ子きに 左献右乕辟不詳 学 方格規矩四神鏡というのは、王莽の新代を中心 こ虎従八で族 カ 氏右陽者と侯 が王考解に作られた代表的な鏡。戦国時代後期にはじま 朱爵玄武順陰陽 に -*D つく 、橿文り、前漢末から後漢・三国時代にわた 0 て流行 0 年に武持就て 八子九孫治中央 康 三左玄をにし 隆 のた。図のとおり、中心の鈕の周りに方形 ( 方格 ) 立月 と ) 現職ご ロ 青た雀の官生 寿如金石宜王 三をおき、外側に円形を配する。この外周に、・ れ朱この長 しじん *-a ・形の幾何学文を並べ、その間に、四神 ( 青 龍・白虎・朱雀・玄武 ) を線彫りする。中国人の思想では、天は円く、地は四角い。この天円地方の 宇宙観を表したのが、方格をデザインした円鏡。また、»-2 のうち、 ( または >) は規 ( コンパ スⅡ円と陽のシンポル ) を、 *-Äは矩 ( 定規Ⅱ方と陰の象徴 ) を表すとみたてて、規矩鏡と名付けられた。 しかし、最近の考え方では、古代中国で盛んにおこなわれた双六 ( 六博 ) のゲーム盤ーーっまり六博 盤 ( 博局 ) を象ったもので、全体として天円地方と神仙思想にもとづく文様という。 この方格規矩鏡は、形の幾何学文様のうち、が正字形になっている。この点が大きな特 徴で、中国からの舶載鏡の場合、逆 i-ä字形が多いのと対照的である。四神を含めて、文様のよく似た びやっこすじゃく 〔釈文〕 -0

8. 邪馬台国論争

でなくとも、魏の都であってもよいのではなかろうか」と ( 「同向式神獣鏡と景初・正始年鏡ー『別府大 学紀要」号、一九八九 ) 。 王仲殊への疑問 鉄案のごとくみえる王仲殊説も、以上のような問題点をはらむ。のみならず、次のように、しく っ かの仮説部分を含んでいる。 ①「銅鏡百枚」は魏王朝の特鋳鏡ではなく、手許にあった雑多な後漢式鏡をかき集めた、とみる 点。 ②「卑弥呼の鏡」として、卑弥呼遣使の年とまさに一致する「景初三年」鏡や「正始元年」鏡をあ えて捨て、それより四年前の「青龍三年ー鏡をとる点。他方、「景初三年ー鏡や「正始元年」鏡を、 卑弥呼遣使を記念して作られたと見ざるをえない占。 ③呉のエ匠が日本に東渡し ( て、三角縁画像鏡と平縁神獣鏡を折衷した、新式の三角縁神獣鏡を創作 し ) た、と推測する点。 まず、第一の、「雑多な後漢式鏡」とみる点。 先に ( 第二章四節 ) 、中国の沈仁安が、日本の学者の通弊として、「邪馬台国の存在を過大評価しが ちであるーと批判している点にふれた。私は端的に、われわれの内なる「夜郎自大」の意識を婉曲に 鏡 批判したものだ、と理解した。しかし、私たちが「夜郎自大ー的思考に陥りやすいように、王仲殊らの 弥 中国の学者は、逆に、「中華 / 東夷」的思考に偏りがちではないだろうか。

9. 邪馬台国論争

②九州出土の三角縁神獣鏡と対になる同笵鏡は、すべて畿内にもある。 鏡の分配 こうした分布状況を踏まえて、小林は、三角縁神獣鏡の「分配ーと、その後の「伝世」と「埋納」 に至る過程を、次のように推定する。 卑弥呼・台与の入手した同笵鏡は、ある期間、邪馬台国に保管された。やがて、同笵鏡の保管者 ーー初期大和政権は、京都・椿井の首長 ( 後の大塚山の被葬者 ) を起用して、まず単像式鏡をおもに 選んで、西日本 ( 畿内から福岡にまたがる ) 地方に重点的に配布した。つづいて、東日本 ( 畿内から関 東に及ぶ ) 地方に複像式鏡を分配した。このときには、椿井の首長のほかに、岡山・湯迫の首長が協 力した。 その時期は分からないけれど、おそらく四世紀のうちに終わったろう。四世紀の中ごろ、魏の鏡が ・はうせい 乏しくなると、それを模倣した国産の仂製鏡を作って、各地の首長に分配した。 同笵鏡の入手 ( 二四〇年以後 ) から分配までの「ある期間」と、古墳への「埋納」 ( 三〇〇年以後 ) に至る時間を合わせて、小林は五十年から百数十年を仮定している ( 「同笵鏡考」 ) 。 しん 古墳に埋められた中国鏡のなかには、一世紀前半の新や一ー二世紀の後漢の鏡もいっしょに含む場 合がある。古墳の出現を四世紀はじめごろとすると、鏡の製作から埋納まで三百年ばかりの隔たりが ある。畿内の古墳出土の漢鏡も、 ( 北部九州と同様 ) 弥生時代に畿内に入ったものだから、埋納までの 、それそれの首長が持ち伝えたことになる。 1 76

10. 邪馬台国論争

一族をまつる、という。 邪馬台国が、航海にたけた丹後の豪族と手を結んでいたあらわれで、鏡の持ち主は景初三年 ( 二三 うえだまさあき こんどうたかいち 九 ) 、卑弥呼の送った使節団ーー「景初遣魏使ーの一員の子孫という ( 近藤喬一 ) 。上田正昭も「ヤマ ト王権を媒介としてもたらされたものだろうが、日本海とのつながりで独自の発展を遂げた重要地域 であったからこそ、これだけの鏡を入手できたのだろう」という。 しかし、ややほと・ほりのさめた同年秋十月、弥栄町で開かれたシンポジウムで、ある。ハネラーは婉 きよく 曲に鏡の優劣を比較して、こういった。「先年、 2 号墳から見つかった後漢のみごとな画文帯神獣鏡 と、こんどの魏の『青龍三年』方格規矩鏡と、そのいずれかをもらうとしたら、自分は後漢鏡を選び と。また、ある。ハネラーは後日、こんなホンネをもらしている。「シンポジウムのときは地元 に遠慮したけれど、あれは二流の古墳の、二流の鏡だ」と。古墳と銅鏡の、当代屈指の専門家がこう までいうのだから、安本の説くような四道将軍一族は、むずかしくなったかもしれない。 丹波とは「たには」であり、田庭に由来する、という。難波が「なにはーであり、魚庭に由来する のと同じ語構成であろう。次項で触れるように、丹後王国が独自に魏と外交関係をもっていたとする と、『魏志倭人伝』に丹波の国名が記録されていてもよかろう。「今、使訳通ずる所、三十国ーに含ま たな れているはずである。『倭人伝』に「姐奴国ーという国名がみえる。もし、これが「妲奴国ーの誤写 現 としてよいならば、「たには ( 丹波 ) 」の音に近くなる。一案として記しておきたい。ちなみに、早くの 鏡 たかの 年 から「姐奴国」を丹後町の竹野にあてる人もあった。 青 2 さな えん