王仲殊 - みる会図書館


検索対象: 邪馬台国論争
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1. 邪馬台国論争

それに比べて、王仲殊は、そうした学派的思惑にとらわれなかったから、 ①「産地問題」では国産鏡説Ⅱ「東渡の呉匠作鏡ー説をとり、 ②「紀年問題ーでは景初三年・正始元年をそのまま実作年と見て、 自由に「新・邪馬台国畿内説ーを打ち出せたのであろう。 三角縁神獣鏡をもとに、日本国内の物流システムと鋳銅技術を論じるのが目的なら、王仲殊説と徹 底的に争わねばならない。しかし、三角縁神獣鏡が舶載鏡であれ、国産鏡であれ、邪馬台国の所在地 論に関するかぎり、両者は 「三角縁神獣鏡 ( 同笵鏡 ) の分布状況からみると、邪馬台国は畿内にあった」 という最重要な点で、一致している。あとは、 「卑弥呼の鏡」が、三角縁神獣鏡であったか、方格規矩鏡や内行花文鏡、盤竜鏡、位至三公鏡か ? という、単なる鏡種をめぐる争いになって、争点がやや矮小化せざるをえない。 大量規格製品で、かならずしも一級品ともいえぬ三角縁神獣鏡が、小林の同笵鏡論の登場いらい これほど注目されてきたのは、ひとえに「邪馬台国論争の決着の鍵をにぎるーと期待されたからであ る。それが、王仲殊によると、舶載鏡説の部分は否定されても、同笵鏡の分有関係から、邪馬台国Ⅱ 畿内説は揺るがない 、というのである。「呉匠作鏡 [ 説Ⅱ畿内説に立っ王仲殊は、日本の「舶載鏡」 説Ⅱ畿内説の人びとにすれば、 たとえば、藤澤一夫が「王仲殊さんは分有関係を認めているのだ から、 しいじゃないですか」と認めたように ( 大阪文化財センター主催「邪馬台国シンポジウム」 ) 、論敵であるとともに論友である。逆に、「呉匠作鏡ー説Ⅱ九州説の人びとにすれば、論友であ 202

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って論敵である。両義的な王仲殊説に対して、日本の学界にはアンビヴァレントな感情が働くのでは あるまいか。 文献史家の直木孝次郎も指摘する。 この説が正しいとしても、三角縁神獣鏡の分布に変化がない以上、渡来したエ匠たちは畿内に あった政治権力者のもとで作業したと考えるほかなく、三世紀においてそのような政治権力の保 持者としては、卑弥呼またはその後継者をあてるのがもっとも妥当である。三角縁神獣鏡が舶載 であろうと渡来工匠の製作ないし仂製であろうと、鏡出土状態が畿内説にとって有利なことに変 わりはない ( 「永遠の謎か、邪馬台国と女王卑弥呼」 ) 。 魏鏡説の弁明 これに対して、「奇怪な学説」ときめつけられた「魏鏡説ーに立つ日本の考古学者は、どう反論し ているのか。はたして、王仲殊説にもアキレス腱はないのか。 こんどうたかいち 近藤喬一 ( 山口大学教授 ) は、王仲殊・徐苹芳らの見解に対して、「基本的に鋳造業の劣悪な条件に あった華北と、条件に恵まれていた江南、という図式が先験的に存在し、必ずしも客観的なものとな 日 っていないのではないか」と指摘している ( 「西晋の鏡ー『共同研究「日本出土鏡データ集成」 鏡 の 本出土鏡にかかわる諸問題』国立歴史民俗博物館研究報告第集、一九九四年 ) 。 呼 「魏に鋳鏡技術なしーとの批判に対して、近藤は、建築史・金石学の福山敏男 ( 元京大教授、朝日賞卑 R

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でなくとも、魏の都であってもよいのではなかろうか」と ( 「同向式神獣鏡と景初・正始年鏡ー『別府大 学紀要」号、一九八九 ) 。 王仲殊への疑問 鉄案のごとくみえる王仲殊説も、以上のような問題点をはらむ。のみならず、次のように、しく っ かの仮説部分を含んでいる。 ①「銅鏡百枚」は魏王朝の特鋳鏡ではなく、手許にあった雑多な後漢式鏡をかき集めた、とみる 点。 ②「卑弥呼の鏡」として、卑弥呼遣使の年とまさに一致する「景初三年」鏡や「正始元年」鏡をあ えて捨て、それより四年前の「青龍三年ー鏡をとる点。他方、「景初三年ー鏡や「正始元年」鏡を、 卑弥呼遣使を記念して作られたと見ざるをえない占。 ③呉のエ匠が日本に東渡し ( て、三角縁画像鏡と平縁神獣鏡を折衷した、新式の三角縁神獣鏡を創作 し ) た、と推測する点。 まず、第一の、「雑多な後漢式鏡」とみる点。 先に ( 第二章四節 ) 、中国の沈仁安が、日本の学者の通弊として、「邪馬台国の存在を過大評価しが ちであるーと批判している点にふれた。私は端的に、われわれの内なる「夜郎自大」の意識を婉曲に 鏡 批判したものだ、と理解した。しかし、私たちが「夜郎自大ー的思考に陥りやすいように、王仲殊らの 弥 中国の学者は、逆に、「中華 / 東夷」的思考に偏りがちではないだろうか。

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て、三角縁神獣鏡舶載説は重大な。ヒンチに見舞われた。京大考古学の築きあげた金字塔も、内外から の批判の強風に揺れ、ついに倒壊するかと思われた。とくにマスコミの報道を通してみるかぎり、勝 負は決した観さえあった。京大系の有力考古学者から「小林先生の気持ちを考えてみろ」と私に注意 があったのも、「勝ち馬に乗るーマスコミの偏向が目立ったからであろう。 、はたして、舶載鏡説は命脈を断たれた、と決めつけられるだろうか。「呉匠作鏡」説の奔流 のなか、私は毎日新聞の「〈景初四年鏡〉の行方」と題するコラムで、婉曲に疑念を示した。短文な おおわいわお がら、マスコミに登場した希少意見だったらしく、大和岩雄編集の『東アジアの古代文化』の「景初 四年鏡」特集号に、加筆載録された。私の疑問は、王仲殊説を紹介したあとで、のべる。 王仲殊説の登場 王論文ーー青天の霹靂 中国の考古学者のなかで、論文・講演を通じて、もっとも精力的に繰り返し「卑弥呼の鏡ー問題を 論じ、全面的に舶載鏡説を批判してきたのが、上にもしばしば引用した王仲殊である。 日本の学界に「青天の霹靂」のような衝撃を与えた諸篇は、『三角縁神獣鏡』 ( 西嶋定生監修、尾形 鏡 勇・杉本憲司編訳、一九九一 l) に収められたが、一九九四年春、「青龍三年鏡」が出現すると、いち早の く「日本出土の青龍三年銘方格規矩鏡を論ずーーー《三角縁神獣鏡Ⅱ日本に渡った中国呉匠の制作》説卑 へきれき 18 7

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様のような、中国になかった新しい文様をつけくわえた。また、倭人の好みにあわせて、中国の神獣 鏡に比べてかなり大きい三角縁神獣鏡をつくった。 (o) 肝心の邪馬台国の所在地についても言及がないが、次のような表現で邪馬台国畿内説を支持し ている。この点は、日本の学界ではほとんど不問に付されているやにみえるけれど、肝心要の論点だ から、もっと注意されていい。 、はたまた畿内かは、当然、今後の継続的な研究をまつべきであ 邪馬台国の所在地が九州か る。しかし、私は三角縁神獣鏡が東渡の中国職人の手で日本でつくられたものだといっても、こ のことによって「畿内説」が不利な立場にはならないと思っている ( 第一論文「日本の三角縁神獣 鏡の問題についてー一九八一 ) 。 最後に、王仲殊の辛辣な批判を紹介しておこう。いわずもがなのことながら、考古学はその時代の しやくどく 与えられた資料で考える学問だ。景初三年鏡も未発見で、正始元年鏡も釈読の確定しない大正初期の 情況にあって、富岡謙蔵の考証は、考古学ーー、というより金石学の、最高の達成であった、と私は信 しんしやく じるけれど、王仲殊はいっさい斟酌せずに裁断する。 要するに「魏鏡説」の提起は、基本的には、調査・発掘の仕事を基礎とする近代考古学の豊富 な成果に依拠してのものではなかったのであり、ただただ、銅鏡の銘文を文字づらで解釈するこ かなめ 198

6. 邪馬台国論争

ねじれ現象 以上、最新の論文と『三角縁神獣鏡』によって、王仲殊説をくわしく見てきた。王が満々たる自信 を示すとおり、その断案は鉄壁であり、「鉄証ーを得たかに見える。 もっとも、上に見たとおり、「呉匠製作」説の王仲殊は邪馬台国Ⅱ畿内説に立つ。この点で、「魏 鏡」説の日本人学者と一致し、「呉人作鏡」説の日本人学者 ( ほとんど邪馬台国Ⅱ北部九州説に立っ ) と対立する。一見、奇妙なねじれ現象である。 もともと、日本の「呉人作鏡」説は、大和中心史観 ( 日本書紀史観 ) に傾きやすい邪馬台国畿内説 その総本山ともいうべき〈考古学京都学派〉 に対するアンチテーゼとして出されたもので、 多元的な地方分権史観に立っていた。そこで、畿内説の強力な支柱となった小林行雄の「舶載鏡Ⅱ卑 弥呼の鏡」説をくつがえすため、そのアキレス腱をついて案出されたのが、「呉人作鏡ー説であった といえる。 卑弥呼と無関係であることを証明するには、 ①銅鏡の産地 ( 魏からの舶載鏡ではなく、日本列島内の国産鏡であること ) 、 ②製作の年紀 ( 卑弥呼遣使の「景初三年・正始元年」と関わりのないこと ) 、 この二点を衝けばよい。その代わり、たとえ国産であっても、紀年銘が実年代であっては不都合で ある。そこで、著名な年号・ーー日本の美術史でいえば、天平、弘仁、貞観、元禄など、中国の陶磁史 鏡 でいえば、成化、万暦など・ーーを選んだにすぎない 、とされた。「産地問題ーが舶載鏡説の〈アキレの 弥 ス腱〉なら、逆に、「紀年問題」は国産鏡説にとって〈弁慶の泣き所〉である。 卑 2

7. 邪馬台国論争

第一一章卑弥呼の迷宮ーー・「水行十日陸行一月」 百家争鳴の時代 2 邪馬台国への道ーー方位 邪馬台国への道ーー行程 4 陳寿のイメージーー「道程ー記事 いくつかの争点 第三章卑弥呼の鏡ーーー銅鏡百枚 謎の三角縁神獣鏡 2 同笵鏡論 王仲殊説の登場 4 鏡研究の新段階 217 187 767 142 124 108 89 79 72

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王金林の異説 中国では王仲殊説が定説の位置を占め、これに反対する人はごくわずかだという。そのなかで、日 本史研究者の王金林は、王仲殊説とややスタンスを異にする一人であろう。『弥生文化と古代中国』 ( 一九九一 l) のなかで、「一九八二年、洛陽で一一一角縁神獣鏡が見つかった」というショッキングな事実 を紹介し、さらに、自説を展開している。 「洛陽出土の三角縁神獣鏡ーがもし、真正の三角縁神獣鏡なら、長年の製作地論争は解決に向かって 大きく前進する。王金林によると、一九八五年、上海復旦大学でひらいた「日中考古学の諸問題」と 題したシンポジウムのさい、洛陽博物館の趙振華が「洛陽博物館には三角縁神獣鏡が二面ある」と報 一面は三角縁神獣鏡 ( 日月天王神獣鏡 ) で、他の一面は三角縁画像鏡という。 告したという。 日本にはそれより早く、発見の翌八三年、岡山市立オリエント美術館で開かれた「古都洛陽秘宝 展ーに出陳された。私も会場を訪れたが、洛陽出土の唐三彩に目を奪われたのか、残念ながら、三角 縁神獣鏡については記憶がない。会場で買い求めた「古都洛陽秘宝展」の図録には、埼玉稲荷山古墳 の環状乳神獣鏡と比較した書き込みがあるだけだ。 図録の解説によると、「日月天王ー神獣鏡 ( 直径一四・三センチ ) は、 ばんち せっしもん 「幅広い縁が突出し、縁には蟠黐、禽獣、櫛歯文などがめぐる。内区には有翼の神像を浮彫にしてい る。神像の間は『日月天王』の四字十三個と環状乳で飾っている。中原地区には珍しい青銅工芸品中 の佳作であるー という。また、「東王公西王母」画像鏡 ( 一九・二センチ ) については、 卑弥呼の鏡 213

9. 邪馬台国論争

魏帝が宮廷 ( または尚方 ) の「手持ちの雑多な鏡ーをかき集め、東夷の女王・卑弥呼の使いに授け いつく とまで詔 ておいて、「鄭重に汝に好物を賜ふ」のである、「国家 ( 魏 ) の哀しみーを国中に伝えよ もったい うた に麗々しく、勿体をつけて謳うであろうか。近藤喬一がいうとおり、「はるか遠くの倭地から戦塵さ めやらぬ半島・遼東を経由して、命がけで倭人の朝見してきたことは、呉や蜀の外敵に対しても、 ・ : 魏国内に対しても、まことに時宜を得た政治的セレモニーの場を提供した」のだ。「汝の在る所、 はるか 踰に遠きも、すなわち使を遣して貢献す。これ汝の忠孝、我はなはだ汝を哀しむーという詔書は、新 皇帝・芳の率直な喜びを表して余りある。ここは新鋳の「銅鏡百枚ーが中心になった、と考えるべき ではないだろうか。 もちろん、現代の国際援助でも、発展途上国にわが国の中古車などが提供されているし、終戦直後 の日本にもアメリカの中古品・旧製品が氾濫した。したがって、国際間の贈答品はできたての新品に かぎるというわけではないけれど、詔にうかがえる「鄭重ーな歓迎 ( または真率の「哀しみ」 ) ぶりか らしても、新鋳品とみたい。 さたん 第二の、紀年銘が「景初三年ー「正始元年ーに集中する点。王仲殊やこれに左袒 ( または先行 ) する 日本側の研究者の多くは、倭国ーー邪馬台国側が倭魏交渉を自祝して、記念のために入れた、と解す る。そうすると、倭国ーー邪馬台国は、みずから作った記念の紀年鏡 ( 国産の三角縁神獣鏡 ) を添え て、雑多な下賜の舶載鏡ーーしかも、王仲殊もいうとおり、かなり小ぶりで粗雑な鏡ーーを各地の首 長に配ったことになる。しかし、これはずいぶん奇妙な光景である。海外の高価な「プランド品」 ( ただし記念日抜き ) を帰国土産として贈るのに、同時に、渡航記念日入りの「コ。ヒー商品」を添える 208

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晋の年号 ( 泰始〈二七〇年代〉など ) をもった鏡がある。 ②呉のエ人が北方系の ( 三角縁 ) 盤竜鏡ーー和泉黄金塚鏡などーーをなぜ作ったのか。 ③「銅出徐州ー「 ( 名 ) 師出洛陽ーの銘文をもった方格規矩鏡が、中国東北部の遼寧省や朝鮮半島・ 楽浪郡の魏晋墓から出土した。数少ない北方的な銘文がなぜ、呉工の製品に現れるのか。 などの疑問点をあげたうえ、田中は、三角縁神獣鏡が積極的に魏鏡とつらなる要素 ( 内区の外周をめ ぐる文様帯 ) をもっていることを指摘して、「魏を含む中国北方の製品であるーと主張する。 さらに、三角縁画像鏡が三角縁神獣鏡より前に存在したという証明は、まだできていないから、三 角縁画像鏡と平縁神獣鏡を合成して、三角縁神獣鏡が作られた、とは簡単にいえない。「海東」は、 「浮由天下敖四海ーの句とともに、神仙思想上の定型句を表し、やはり東方の仙界をさすとみる。三 角縁神獣鏡は大型で、九〇。ハーセントが面径二〇ー二五センチの間に収まり、規格的な量産品であっ たことを示唆する。これらの点を総合すると、三角縁神獣鏡は邪馬台国専用に同笵の技術で量産され た「特鋳品」と解される、という。 田辺昭三も、王仲殊説の実証性と説得力を認めながら、三世紀の呉と倭とのつながりを立証する考 古資料も文献記録もないところに、弱点がある、と指摘している ( 「三世紀の日本と三角縁神獣鏡の問 題」『三角縁神獣鏡の謎』 ) 。 賀川光夫も、次のようにいう。神原神社古墳の景初三年銘鏡に「絶地亡出」の銘のあることや、柴 崎古墳の正始元年銘鏡に「杜地命出」の銘のあることから、「 ( 王仲殊は ) 呉の ( 都や揚州出身の ) 鏡師 が日本に亡命し、ここで、これらの鏡を作ったと主張されている。しかし、陳是の亡出地は遠い日本 206