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検索対象: 邪馬台国論争
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1. 邪馬台国論争

これが、ただい て約六十カ所に及んだ。互いに小異を争うものの、千日手の状態に陥っている。 まの「邪馬台国」文献学の情況だろう。打開する道は、大かたの見るところ、考古学による新発見し さきたまいなりやま かない。こうして、昭和五十三年 ( 一九七八 ) の「埼玉稲荷山鉄剣銘ーの発見以後、考古学がキャス ティング・ヴォートを握るようになった。「考古学主導期」である。 おおのやすまろ そのころ、前後して太安万侶の墓誌が発見されるなど、考古学上の大発見が相次いだ。若い考古学 者の自負がつよまるのは、当然として、「墓誌の発見によって太安万侶の実在が証明された」という 過激な、倒錯した議論さえ飛び出した。そして、あらゆる物事が考古学によって証明できる、という 楽観論が語られた。考古学唯物史観である。 しかし、考古学上の大発見は、一朝にして情況を変える。たとえば、出雲荒神谷遺跡から見つかっ た銅ー三百五十八本の場合。それまで発見された全銅剣よりも多い数が、一挙に、それも空白に近か った島根県斐川町の遺跡から、出現したわけだ。それいらい、考古学者は「明日をも知れぬ身」と自 嘲 ( 自重 ) しながら、自信たっぷりに語るようになった。 予期せぬ大発見によって、形勢はフリコのように大きく振れる。「今日は九州、明日は大和」 「侍ニッポン」の台詞ではないけれど、とりわけマスコミは大発見に振り回される。九州では吉野ケ きゅうしつろうかんじようさく 里遺跡 ( 佐賀県神埼町・三田川町 ) における「宮室・楼観・城柵」の三点セットの発見と、畿内大和 では唐古・鍵遺跡 ( 奈良県田原本町 ) の「楼閣図」の出現が、いい例である。 吉野ケ里遺跡の場合、「邪馬台国はここだ」「邪馬台国はここ ( 楼観 ) から見える」などの名言を生 み、未曾有の吉野ケ里ブームを巻きおこした。唐古・鍵遺跡の場合、一「三階建ての漢風の「楼閣 せんにちて 2

2. 邪馬台国論争

ントらしい批判である。 しかし、マスコミ各社に、邪馬台国論争に関する方向づけがあろうとは思われない。発見のたび に、大和説と北部九州説の間を ( 学界の情況を映しながら、ほとんど無定見といえるほど ) 揺れている というところが、真相であろう。記者一人びとりの思い入れはあっても、報道に当たっては、禁 欲的に公正に取材し執筆する。記者個人としても訓練を受けているし、組織的にもチェック機能が働 ならば、な・せ、きびしいマスコミ批判が行われたのか。両氏のはげしい反発から、逆に、大和説に 傾く最近の考古学界の〈空気〉がうかがえよう。 いずれにしても、文献の解読に代わって、解決の鍵を握るのは、考古学上の発見だろう。その裏付 けを得て、どの解読法が正しかったかが判定されるのであって、逆ではあるまい。 なしめ そっぜん 卑弥呼にたまわった「親魏倭王」の金印や、正使・難升米 ( なんしようめ ) らに授けられた「率善 ちゅうろうしよう 中郎将」などの銀印、もしくは、魏帝の「詔書」 ( おそらく木簡 ) が発見されるといった、驚天動地 の大発見にでも恵まれないかぎり、 オーソドックスに考えれば、次の三つが考古学上の決め手と なろう。 ・紀年鏡を中心とする銅鏡の発見 ・「宮室・楼観・城柵ーの新発見 ・発生期の古墳の年代観の見直し したがって、発生期を代表する巨大古墳で、「卑弥呼の墓」ともいわれる箸墓古墳などの陵墓 ( 天 0 はしはか ′ 4

3. 邪馬台国論争

と、だれもが目をみはった。 える楼閣を見て、写実的に画いたものだろうか 調査関係者をはじめ、多数の意見は、「現実の光景を描写した」もの、という。古代人の絵画表現 にもくわしい佐原真は、銅鐸絵画と比較して、弥生人の絵画表現は写実主義で、眼前にないものを描 く空想画はまだなかった、と説いた。 考古学と歴史の統合をめざす辰巳和弘 ( 同志社大学 ) は、『高殿の古代学』 ( 一九九〇 ) で、古代のタ ろくめい カドノは大王や首長が豊作を祈る神事ーーー〈国見〉や〈鹿鳴聴聞〉などーーの舞台であることを明ら かにしたが、発見の情報に接すると、唐古・鍵遺跡の中枢部には、すでに二ー三層の「楼閣建築が建 てられていたとみるべきであろう。まさにタカドノであり、同遺跡とその周辺を支配した首長が祭儀 を実修した建物と考えられる」と強調した ( 『埴輪と絵画の古代学』一九九一 I)O その一方で、少数ながら、「中国の光景を再現した」ものとする見方もあった。後漢の都・洛陽で 見てきた壮麗な楼閣建築を、記憶にもとづいて再現的に画いた、というわけだ。 国見の楼閣 この「楼閣図」は一世紀前半の作というから、目前の「実景」にせよ、異国の「記憶」にせよ、邪 馬台国時代の状況を直接、反映したものではないけれど、しかし、その時期に早くもーーしかも、の ちのヤマト王権の発祥地にーー漢文明が浸透していたという事実は、きわめて重大な意味をもつ。毎 日新聞の「日曜論争」面 ( 九二年九月六日号 ) でも、北部九州説の大和岩雄 ( 大和書房会長 ) と大和説の の広瀬和雄 ( 大阪府教育委員会 ) に議論してもらった。その要点を記しておこう。

4. 邪馬台国論争

で製作したことが実証された。 論文「日本出土の『景初四年』銘三角縁盤竜鏡を論ずるーで論究したとおり、呉のエ匠が日本で作 った鏡のなかには、黄金塚古墳の「景初三年」銘画文帯神獣鏡を含む。この鏡の銘文には作鏡者が陳 是であると明記している。その銘辞のなかでまた、陳是作鏡の特徴とみられる「諂ーの字を用いてい る。いうまでもなく、陳是作鏡のなかの「景初三年」と「景初四年」、「正始元年」という紀年は、当 時の倭国が魏王朝に遣使・通交したという、重大な歴史的事件と不可分の関係にある。 日本の学者のように、紀年を根拠にして三角縁神獣鏡を魏鏡となすことは、″歴史の誤解〃であると、 他のところでいっている ( 「景初三年鏡と正始元年鏡の銘文の考察」 ) 。 一九八一年に「三角縁神獣鏡は東渡の呉のエ匠が日本で作ったものであるーと主張していらい、十 三年の時間を経たが、新発見の古代の銅鏡はすべて、程度の差こそあれ、「呉のエ匠の日本作鏡説」 に有利であって、日本の学者の堅持する「魏鏡説ーに不利であった。なかで、もっとも「魏鏡説ーを 不利にした重大発見は、二回あった。 一つは、広峯号墳の「景初四年ー銘盤竜鏡の発見であり、いま一つは、大田南 5 号墳の「青龍三 年」銘方格規矩鏡の発見である。この二回の発見で、次の事実が証明された。すなわち、三角縁神獣 鏡は呉のエ匠が日本で製作したものであり、魏帝恩賜の「卑弥呼の鏡ーは、方格規矩鏡など、洛陽を 中心とする黄河流域で流行した中原・華北系統の銅鏡である、ということだ。 196

5. 邪馬台国論争

いからであって、 : : : 邪馬臺 ( ヤマと ) は山門 ( ヤマト ) であらうといふ説をきいたならば、驚くで あらう」と詰め寄った。 「上代特殊仮名遣」は、本居宣長とその弟子・石塚龍麿が発見し、一九一七年、橋本進吉が再発見し た、国語学史上の金字塔だが、大森はこの点をついて、次のように説破した。 今や、本居の発見した上代特殊仮名遣ひの法則は、本居の説きだした邪馬臺九州説の中核を粉砕 たて することとなった。おのれの鍛へた矛をもっておのれの作った盾を突き破る結果になったともい ふべきであらうが、 : おのれの矛を鍛へしめたこの先達の偉大さを思はずにはをれないのであ る。本居の学問の精神は「吾に従ひて物学ばむともがらも、わが後に又よき考への出で来らむに なず いたず は、必ずわが説にな拘みそ、道を思はで徒らに我を貴とまむは、わが心にあらざるそかし , とい ふ、かの玉勝間の一文に明らかだからである。 言語学者の反論 勝負あったかにみえたが、これにいち早く反論したのが、古代史家の田中卓 ( 元皇学館大学長 ) で ある。「邪馬臺国の所在と上代特殊仮名遣」 ( 一九五五 ) で五カ条にわた 0 て疑問を呈した。その後、 の 書き下ろされた新書版『海に書かれた邪馬台国』 ( 一九七五 ) によってみると、 呼 ①三世紀後半の『魏志』のころと、七ー八世紀に成立した記紀・万葉集のころと、前後四百年余の卑 間、音韻が少しも変わらなかったか。 たかし

6. 邪馬台国論争

確定性関係によって制限された知識しか得られない」というジレンマである ( 並木美喜雄『量子力学入 門』 ) 。邪馬台国問題の情況も、これと似ていよう。邪馬台国の位置を精密に定めようとすると、里程 ・日程記事が合わない。里程・日程記事を精密に追うと、邪馬台国の位置は南方の海中に没してしま このアポリアを解くには、従来の古典力学とはちがった、新しい量子力学が必要であろう。さしず め近世いらいの文献学的方法は古典力学であり、考古学・言語学をはじめ、隣接諸学の力を借りる古 代学的方法が、量子力学にあたろうか。邪馬台国問題の解決の鍵は、考古学上の発見が握っている いまや衆目の一致するところだが、とりわけ銅鏡と古墳に関する新発見・新研究が、決定 権をもっていよう。 毎日新聞の歴史・考古学担当の一人として、私は一一十年余り、取材・報道に当たってきた。その間 しばしば邪馬台国問題にかかわる重要な発見に際会し、そのたびに、「邪馬台国畿内説」に与するか 「北部九州説」に立つか、踏み絵を迫られる思いを味わった。しかし、ジャーナリストはだれしも公 正を期するよう訓練を受け、習慣づけられているから、個人的な見解、心情的な傾斜はあっても、そ れでもって読者をリードすることはしない。なんとかバランスを図ろうとする。職業的な倫理ーーと いうより習性である。 このたび、浅学非才の私が「邪馬台国論争」という大きなテーマを与えられたのも、たぶん、ジャ ーナリストなら自説に拘泥せず客観的に諸学説を紹介できよう、と期待されたからであろう。私は自 め 分の役回りを自覚して、先学が粒々辛苦のすえに生み出された諸説を、できるだけ公正に紹介しようは

7. 邪馬台国論争

プーメランのように日本に戻ってきたわけで、「アメリカ大陸への到達ーと「鎖国日本の開国」を促 したという、世界史的な意義をもっていた。 ちんじゅ 一方、「女王国」は、はるか三世紀の昔、陳寿が描いていらい、好奇の目で眺められ、こちらも意 外に世界史的な影響を及・ほした ( 注 2 ) 。決してドメスティックな問題ではないのである。しかし、「女 よう 王国」の方は杳として行方が知れず、いまだに見出されていない。明治このかた、歴史家・考古学者 ぎしわじんでん をはじめ神話学・地理学・一一一一口語学の大家・新進が、「われこそコロンブスたらんーと『魏志倭人伝』 わこく の海図に従って海東に乗り出したものの、卑弥呼女王の治めた倭国の首都・邪馬台国に行き着いた人 はしないのだ。 「北部九州こそ邪馬台国だ」と信じる人、「畿内の大和こそ女王国だ」と疑わぬ人。大和説と北部九 たいじ 州説が対峙しているばかりか、南九州や四国、伊豆を目指した人、さては南海のジャワやエジプト辺 ほ、つらい しんきろう りに漂着した人さえいる。邪馬台国は、しよせん、行き着けぬ〈蜃気楼の王国〉なのだろうか。蓬 山のように漂う、〈海東の迷宮〉なのだろうか。 いや、そうではあるまい。邪馬台国もまた、ジパング同様、すでに見出されているにちがいない。 ただ、せつかくの発見地を「邪馬台国であるーと同定するだけの、客観的な材料を欠くので、邪馬台 国問題は一見、迷宮入りしたと映るだけなのだろう。 邪馬台国論争の陥っている姿をみると、私は量子力学の「不確定性原理ーを連想したくなる。量子 の位置を精密に決めれば、運動量が完全に不確定になゑ逆に、運動量の精密測定をすれば、位置が まったく不確定になる。「位置についての精密な知識と運動量についての精密な知識は両立せず、不 さん

8. 邪馬台国論争

大和によると、吉野ケ里遺跡の「楼観ーは、軍事的な物見櫓ではなく、〈国見行事〉のような祭祀 のための楼閣型の高殿で、「卑弥呼的司祭者のこもりの聖所」であった。卑弥呼を擁立した倭国連合 体は、北部九州・瀬戸内海沿岸・畿内を含む勢力で、大陸・半島の文化が北部九州以外の地にもいち 早く普及したから、こうした高殿は吉野ケ里だけではなく、唐古・鍵や吉備、出雲にも建っていた。 「楼閣図ーが現れても当然で、中国文化の影響のつよかったことを示す、という。 広瀬によると、瓦葺きの多層建築に鳥がとまった「楼閣図ーは、構図・表現の両面で漢代の画像石 に近い。「後漢の貴族邸宅の楼閣、しかも神話的世界に翻訳された絵を、理解できた人が描いた」は ずで、訪中経験のある弥生人というより、中国からの渡来人が描いたとみるべきだ。おそらく大和の しようへい 政治勢力が招聘し、漢人のもたらした〈もの〉・情報・技術などを独占した、と推測できる。畿内の 支配層が、北部九州を経ずに直接、大陸の文物を吸収しはじめたことを教える、という。 はやしみなお たまたま、中国考古学の大家林巳奈夫 ( 京大名誉教授 ) の『石に刻まれた世界』 ( 一九九一 l) が出て 間もなく、この「楼閣図」が発見された。そこには四川省巫山から出た「天門図」 ( トレース ) が収め てあった。図 ( 二六八ページ ) のように、天門の両側や上層の屋根の間には、うねうねとした小さい 渦巻文が彫られている。林によると、これは「雲のエッセンスで、日月と星など天上世界にえがかれ る」。天の入り口の門柱の間にいるのは、東王公のような神様。両肩から立ちの・ほる天衣か翼状のも のは、「神の発散するエネルギーのエッセンスーだという。 「楼閣図ーと「天門図ーの、なんとよく似ていることか。ともに渦巻文が描かれる。二層の屋根には 鳥がとまる。そして、なにより、屋根瓦とおぼしい斜線の表現に、注目ねがいたい。二層の高殿を目 2 70

9. 邪馬台国論争

9 7 8 4 0 6 2 5 8 0 5 2 6 邪 馬 旧川川 IIII Ⅷ刪Ⅱ 1 9 1 0 5 2 1 01 6 0 0 2 ⅱ冊 I S B N 4 ー 06 ー 2 5 80 5 2 ー 7 C 0 5 2 1 P 160 0 E ( 0 ) 定価 1600 円 ( 本体 155 ろ円 ) 、岡本健一 邪馬台国はどこか ? い ( 全国各地が名のりをあげ、論争ははてしなく続く 一九九四年、京都府丹後から「青龍三年鏡」が発見された。 「卑弥呼の鏡」か ? がぜん畿内説が優位にたった。 しかし、北九州論者も猛反撃する。 侃々諤々の大論争をわかりやすく整理し さらに、前方後円墳に注目した独自の論を展開。 岡本健一 ( おかもと・けんいち ) 一九三七年京都市生まれ。 京都大学文学部史学科卒業。現在、毎日新聞社特別編集委員。 一九七九年〈稲荷山鉄剣銘 ) 発見のスクープで日本新聞協会賞受賞。 著書に、「発掘の迷路を行く」上、下 ( 毎日新聞社 ) 、共著に、「アレクサンダー大王の謎」 ( サンボウジャーナル ) 、 「古事記の証明ーワカタケル大王と太安万侶ー」 ( 毎日新聞社 ) などがある。 〔本書の内容〕 ・青龍三年鏡の出現 ・「魏志倭人伝」の世界 ・卑弥呼の迷宮ーー邪馬台国への道 ・卑弥呼の鏡ーー謎の三角縁神獣鏡 ・卑弥呼の慕ー丨前方後円墳の発生 ・卑弥呼の最期 講談社選書メチェ 邪馬台国論争 岡本健一 カバー図版 青龍三年鏡 ( 毎日新聞社 ) と 巫女の埴輪 ( 群馬県塚廻り四号墳 ) 〔国 ( 文化庁 ) 保管〕 マーク世界樹 講談社選書メチェ

10. 邪馬台国論争

9 7 8 4 0 6 2 5 8 0 5 2 6 邪 馬 旧川川 IIII Ⅷ刪Ⅱ 1 9 1 0 5 2 1 01 6 0 0 2 ⅱ冊 I S B N 4 ー 06 ー 2 5 80 5 2 ー 7 C 0 5 2 1 P 160 0 E ( 0 ) 定価 1600 円 ( 本体 155 ろ円 ) 、岡本健一 邪馬台国はどこか ? い ( 全国各地が名のりをあげ、論争ははてしなく続く 一九九四年、京都府丹後から「青龍三年鏡」が発見された。 「卑弥呼の鏡」か ? がぜん畿内説が優位にたった。 しかし、北九州論者も猛反撃する。 侃々諤々の大論争をわかりやすく整理し さらに、前方後円墳に注目した独自の論を展開。 岡本健一 ( おかもと・けんいち ) 一九三七年京都市生まれ。 京都大学文学部史学科卒業。現在、毎日新聞社特別編集委員。 一九七九年〈稲荷山鉄剣銘 ) 発見のスクープで日本新聞協会賞受賞。 著書に、「発掘の迷路を行く」上、下 ( 毎日新聞社 ) 、共著に、「アレクサンダー大王の謎」 ( サンボウジャーナル ) 、 「古事記の証明ーワカタケル大王と太安万侶ー」 ( 毎日新聞社 ) などがある。 〔本書の内容〕 ・青龍三年鏡の出現 ・「魏志倭人伝」の世界 ・卑弥呼の迷宮ーー邪馬台国への道 ・卑弥呼の鏡ーー謎の三角縁神獣鏡 ・卑弥呼の慕ー丨前方後円墳の発生 ・卑弥呼の最期 講談社選書メチェ 邪馬台国論争 岡本健一 カバー図版 青龍三年鏡 ( 毎日新聞社 ) と 巫女の埴輪 ( 群馬県塚廻り四号墳 ) 〔国 ( 文化庁 ) 保管〕 マーク世界樹 講談社選書メチェ