る。「詫 ( もっ ) 」という文字に特徴がある。 遣魏使の出発 ( 景初三年 ) から帰国 ( 正始元年 ) までの年次と魏の改元に合わせて、時々刻々、リア ルタイムで魏の年号を刻み、鏡を鋳造した、というわけだ。 王所長の明快な解釈にも、しかし、疑問がないわけではない。章を改めて王説をくわしく紹介し、 一「三の疑問点をあげながら、諸家の見解と私見を記したい。 「景初四年」鏡の逆説 「景初四年」鏡の出現は、国産鏡説に「鉄証」を与えたかにみえる。しかし、同時に、一部の国産鏡 論者にも不利な影響を及・ほした。 年号の代わるごとに、いわばリアルタイムで「景初三年ー鏡から「景初四年ー鏡へ、そして「正始 元年ー鏡へと作りつづけられたとすると、「景初三年ー鏡と「正始元年ー鏡は、額面どおり、景初三 いい。つまり、紀年鏡の年代は実年代を表すことになる。 年と正始元年に鋳造された、と考えて 「景初三年ーも「正始元年」も、実年代を表すものではない。有名な中国古代の年号を刻んだまで とする、金石学者・藪田嘉一郎らの見方は、完全に崩壊し、逆 で、〈卑弥呼の鏡〉とは無関係だ に、実年代であることを保証する結果をもたらした ( 注 4 ) 。 藪田によると、「景初三年ーは卑弥呼の朝貢した年として、後代まで長く記憶されたから、著名な 鏡 年号をいわば符牒のように使ったというのだが、「景初四年」鏡の出現で、こうした見方は成り立たの なくなった。 / 後の世の人が、はじめからない ( と分かっている ) 架空の「景初四年ー銘を、鏡に入れ卑
鏡を作った、と。 じっさい、陳氏の作鏡からみると、鏡師陳氏の生涯は次の三期に分けられるという。 一期は、呉国の鏡師期、すなわち陳氏の呉鏡製作期である。黄武七年ー黄竜元年の間、呉特有の神 獣鏡を製作し、呉紀年銘を刻む。 二期は、魏に亡命し、洛陽尚方鏡師として造鏡を行った時期で、呉式鏡に魏紀年銘 ( 景初や正始な どの紀年銘 ) を刻む。景初三年鏡と正始元年鏡は、ともに同向式神獣鏡で、景初四年鏡は盤竜鏡だ。 三期は、日本において鏡師として呉または魏の紀年をもちいず、三角縁神獣鏡を製作した時期だ。 日本出土の景初三年・同四年および正始元年の銘鏡は、陳氏の二期に魏の尚方鏡師として製作した ものが、日本に持ち込まれた。 それなら、陳氏は尚方鏡師として、どのような理由で、実際にはなかった景初四年鏡を製作したの か。王金林によると、皇帝は、「景初四年正月ーを同三年の「後十二月ーと宣布したが、実際の生活 において「後十二月ーを「景初四年正月」としたことは情理が通り、また正始改元の論旨とも違わな とい一つ。 もっとも、鏡銘の「景初四年五月丙午之日ーという ( 丙午にあたる ) 日付は、それでも存在し ない。架空の日付でも、金石文の常套句として許される、と王金林はみているようである。 要するに、王金林の提言は、 紀年銘の三角縁神獣鏡は、魏からの舶載鏡 ( 舶載の魏鏡 ) 無紀年の三角縁神獣鏡は、倭国での国産鏡 ( 国産の呉鏡 ) へいご 216
( 2 ) 『三国志・魏書』によると、「景初四年ーは存在しない。 ( 3 ) 陳是は日本に東渡して故国を遠く離れたから、魏王朝の改元の事を知らなかった。そこで、三 角縁神獣鏡の銘文に「景初三年」の紀年を使ったあと、つづいて新作の盤竜鏡の銘文に「景初四年ー の紀年を使った。これが問題解決の鍵であゑ四世紀、楽浪・帯方二郡が陥落したあと、高句麗境内 にいた中国人の、墓誌銘と墓壁題記には、東晋王朝の年号を一 5 二年、延長して用いている。陳是の 鏡に「景初四年」の紀年が用いられている原因は、これと同じである。 さくじゅん ( 4 ) 『二十四朔閏表』などの年表によると、正始元年 ( 二四〇 ) 五月には「丙午ーの日がない。「五 月丙午ーがあるいはまったく虚構かもしれないし、あるいは「丙午」だけが虚構かもしれない。 なしめ 当時の行程から計算すると、卑弥呼の使者・難升米はこの年の六月以後に邪馬台国に到着しただろ う。陳是が「景初四年」鏡を製作したのは、正始元年の難升米帰国前の某月で、五月の可能性は排除 できない。 ていしゅん ( 5 ) 難升米が中国の送使・梯儁とともに帰国したあと、 ( 日本在住の ) 陳是は魏王朝の改元を知っ た。盤竜鏡の銘文の「景初四年」という紀年の誤りを正し、中国の使者の初の来訪を記念するため に、陳是は多数の「正始元年」銘三角縁神獣鏡を作ったのかもしれない。必然的に、「正始元年ー鏡 の製作時期は「景初四年」鏡より遅れるだろう。 鏡 以上を総合すると、「景初四年ー鏡が出現した結果、東渡の呉のエ匠が日本で製作したことが明らの 9- かになり、同時に一歩進んで、「景初三年」銘と「正始元年」銘の三角縁神獣鏡もまた、陳是が日本卑
ような、野暮な仕儀ではないか。 それとも、恩賜の舶載鏡が枯渇した段階で、二次的にーー仂製 ( コ。ヒー ) の三角縁神獣鏡を作って 配布したと、小林行雄がかって想定したごとくーーあらためて呉工製作 ( 国産・純正 ) の三角縁神獣 鏡を配布した、と考えるべきなのだろうか。その場合、仂製三角縁神獣鏡は、さらにその後で製作さ れたことになる ( 注 ) 。 ( 注 ) 魏鏡説のなかでも、最近は、中国のエ人が渡ってきて、倭人に技術を伝習したと認める人が増えている。 ただし、彼らの渡来時期は四世紀中葉、その数も少なかった。舶載鏡といわれる鏡群のうち、新しい「獣帯三神 三獣鏡ーを中心としたものにかぎられ、他は舶載鏡と考える。仂製三角縁神獣鏡は、倭人が渡来工人の技術指導 を受けながら、この「獣帯三神三獣鏡」をモデルにして製作した、という ( 第三十六回埋蔵文化財研究集会「倭 人と鏡」、一九九四年八月六・七日での、発表と討論 ) 。 逆に、魏王朝側には、卑弥呼の遣使を記念して年紀を入れる必要がまったくなかったであろうか。 ひょうそく 詔との平仄を考えれば、下賜の ( 舶載 ) 鏡に「景初三年ー「正始元年」の紀年銘を刻んで、しかるべ きだろう。田中琢が指摘するとおり ( 『倭人争乱』 ) 、これらの紀年鏡があればこそ、はじめて詔の内容 が担保される、と思われる。 鏡 の 「銅鏡百枚」の意味 呼 第三の、東渡の呉匠が、倭国で三角縁画像鏡と神獣鏡を折衷して新式の鏡を作ったとする点。これ卑 R
ねじれ現象 以上、最新の論文と『三角縁神獣鏡』によって、王仲殊説をくわしく見てきた。王が満々たる自信 を示すとおり、その断案は鉄壁であり、「鉄証ーを得たかに見える。 もっとも、上に見たとおり、「呉匠製作」説の王仲殊は邪馬台国Ⅱ畿内説に立つ。この点で、「魏 鏡」説の日本人学者と一致し、「呉人作鏡」説の日本人学者 ( ほとんど邪馬台国Ⅱ北部九州説に立っ ) と対立する。一見、奇妙なねじれ現象である。 もともと、日本の「呉人作鏡」説は、大和中心史観 ( 日本書紀史観 ) に傾きやすい邪馬台国畿内説 その総本山ともいうべき〈考古学京都学派〉 に対するアンチテーゼとして出されたもので、 多元的な地方分権史観に立っていた。そこで、畿内説の強力な支柱となった小林行雄の「舶載鏡Ⅱ卑 弥呼の鏡」説をくつがえすため、そのアキレス腱をついて案出されたのが、「呉人作鏡ー説であった といえる。 卑弥呼と無関係であることを証明するには、 ①銅鏡の産地 ( 魏からの舶載鏡ではなく、日本列島内の国産鏡であること ) 、 ②製作の年紀 ( 卑弥呼遣使の「景初三年・正始元年」と関わりのないこと ) 、 この二点を衝けばよい。その代わり、たとえ国産であっても、紀年銘が実年代であっては不都合で ある。そこで、著名な年号・ーー日本の美術史でいえば、天平、弘仁、貞観、元禄など、中国の陶磁史 鏡 でいえば、成化、万暦など・ーーを選んだにすぎない 、とされた。「産地問題ーが舶載鏡説の〈アキレの 弥 ス腱〉なら、逆に、「紀年問題」は国産鏡説にとって〈弁慶の泣き所〉である。 卑 2
紀年鏡一覧表 〔魏の紀年鏡〕 一七・四大田南 5 号墳 「青龍三年」銘方格規矩四神鏡 ( 二三五年 ) ■京都府峰山・弥栄町一九九四年出土 「景初三年」銘平縁神獣鏡 ( 二三九年 ) 一 一三・一和泉黄金塚古墳只大阪府和泉市 一九五一年出土 かんばら 二三・〇神原神社古墳 「景初三年」銘三角縁神獣鏡 ( 二三九年 ) ■島根県神原町 一九七一一年出土 「景初四年」銘斜縁盤竜鏡 ( 二四〇年 ) 一七・〇広峯号墳象京都府福知山市一九八六年出土 「景初四年」銘斜縁盤竜鏡 ( 二四〇年 ) 一七・〇伝持田古墳群 宮崎県西都町 一九八六年公表 一三・七森尾古墳 「正始元年」銘三角縁神獣鏡 ( 二四〇年 ) ・兵庫県豊岡市 一九一七年出土 しばさきかにざわ 一一・六柴崎蟹沢古墳 「正始元年」銘三角縁神獣鏡 ( 二四〇年 ) ・群馬県高崎市 一九〇九年出土 「正始元年」銘三角縁神獣鏡 ( 二四〇年 ) 一一一一・六御家老屋敷古墳山口県南陽市 一九八〇年解読 〔呉の紀年鏡〕 せきう 「赤烏元年」銘平縁神獣鏡 ( 二三八年 ) 一一一・四鳥居原狐塚古墳・山梨県三珠町 一八九四年出土 あくら 「赤烏七年」銘平縁神獣鏡 三四四年 ) 一七・四安倉高塚古墳 ・兵庫県宝塚市 一九三七年出土 げん一う かみこま 「元康ロ年」銘平縁神獣鏡 三九一ー九年 ) 一三・〇伝・上狛古墳 京都府山城町 〈注〉京都府立山城郷土資料館『鏡と古墳』 ( 一九八七 ) をもとに、できるだけオリジナルな資料にあたって確認 した。面径は、王仲殊『三角縁神獣鏡』付録の「日本出土三角縁神獣鏡総表」 ( 松中由美子作成 ) 、近っ飛鳥博物館 編『鏡の時代』の「三角縁神獣鏡出土地名表」および森下章司「紀年鏡と古墳」 ( 「考古学ジャーナル」三八八号 ) 、 西田守夫「竹島御家老屋敷古墳出土の正始元年三角縁階段式神獣鏡と三面の鏡」 ( 「」一九八〇年十一一鏡 月号 ) などを参照したが、 : 諸書によって一ー一 一ミリのちがいがある。 ( 只は前方後円墳、・は円墳、・は方墳、数呼 5- 字は面径・センチを表す ) 卑
紀年鏡は、表 ( 一五五ページ ) のとおり、これまでなぜか、景初三年と正始元年に集中してきた。 ( 元康ロ年〈二九〇年代〉鏡を除くと ) こんど十枚目にしてはじめて、新しい紀年鏡が加わった。 わずか数年のちがいだが、片目よりも両目の方がものの距離感をつかみやすいように、歴史的な時 間と距離を測る場合も、これと似た効果が期待できよう。 卑弥呼の遣使以前 卑弥呼の遣使以後ではなく、以前である点でも、豊かな情報を内包し、視野を広げてくれゑしか も月龍三という年代がたいへん意味深長な年である。この年、魏の都・洛陽では大極殿をはじ め、大規模な宮殿の造営がはじまり、鋳銅事業もおこされた。鏡作りの職人も洛陽に集住したことで あろう。近年、三角縁神獣鏡Ⅱ舶載鏡説の間で注目されている年なのだ。 しよかっこうめい ごじようげん さらに、その前年の二三四年、魏を苦しめた蜀の総帥・諸葛孔明が、五丈原の陣中で病没した。な ちゅうたっ おしばらくは「死せる孔明、生ける仲達を走らせる」のだが、その結果、これまで西部戦線に張り付 けになっていた司馬仲達率いる魏の最強軍が、引きあげることができ、やがて東部戦線の遼東作戦に えん こうそんえん 転じて、燕王・公孫淵を討伐する。ここにはじめて帯方郡の障害が取りのぞかれ、卑弥呼の使が洛陽 おおばおさむ に至る環境が整った。中国古代史家・大庭脩の筆法を借りると、「孔明死んで、卑弥呼の使、洛陽に 通ず」だ。「青龍三年鏡」は、この複雑怪奇な二三〇年代の国際関係を映しているにちがいない。 こうした情勢を念頭において「青龍三年ー鏡を見なおすと、魏と公孫氏と倭の三国間で凝らされた 権謀術策が、浮かびあがってくる。つまり、魏が倭を近づけて、公孫氏を背後から牽制させるため
①②から、洛陽と徐州の地名・表記が同時に存在したのは、魏・晋両朝にかぎられる。 また、③から、「師出洛陽」の銘文をもった鏡は、晋代の製作ではありえず、魏代の鋳造というこ とになる。 こうして、三角縁神獣鏡が魏鏡であることが証明された。これにともなって、「 ( 正 ) 始元年」銘鏡 も、「正ーの字が欠けていたけれど、晋朝の「泰始」などの年号ではなく、魏の「正始」に決した。 富岡は、こうした鏡鑑を多数副葬する古墳文化が、畿内を中心として全国に及ぶことに着眼して、 所謂倭人の酋長として魏と盛に交通せる卑弥呼の、正にこれを大和朝廷の 或る勢力ありし女性を指せり。 と考えるのが、もっとも妥当であると断じたわけだ。 代もっとも、三角縁神獣鏡国産説が登場するとともに、富岡の考証に対しても 忌 る疑問が投じられた。古田武彦は、富岡の考証の跡を追試した結果、「師」の字 す が諱として忌避されたことはない、と反論した。そして、徐州の地名が存続し のた期間 つまり、魏晋二百年間 ( 劉宋初年の四二二年まで ) が、その候補た りうる、とした。また、「景初三年ー「正始元年ーの紀年銘を疑い、他の年号の と 可能性のあることを主張した ( 『ここに古代王朝ありき』一九七九年 ) 。 また、近年、菅谷文則も富岡説を批判している。鏡銘の徐州は「九州」の一 鏡 つである公算が強く、洛陽も有名な都市として選ばれたもので、吉祥地名であの 洛師洛 弥の ろう。鏡銘は「商業広告 ( コ。ヒー ) 」にすぎないから、実際に「徐州の銅ーを卑 後漢 ( 各隹陽 ) ( 彭城 ) 420 22 ( 彭城 )
それに応えるかのように、考古学上の大発見が近年、相次いだ。邪馬台国時代と古代国家形成期に かかわる、戦後の主な発見を採りあげると、次のとおりである。 〔紀年鏡〕 1 「景初一一一年ー銘平縁神獣鏡和泉黄金塚古墳大阪府和市 かんばら 2 「景初一一一年 , 銘一一一角縁神獣鏡神原神社古墳島根県神 ~ 町 3 「正始元年ー銘三角縁神獣鏡御家老屋敷古墳山口県南陽市 4 「景初四年」銘斜縁盤竜鏡広峯号墳京都府福知山市 5 「景初四年ー銘斜縁盤竜鏡伝持田古墳群宮崎県西都町 ( 辰馬考古学資料館蔵 ) 6 「青龍三年」銘方格規矩四神鏡大田南 5 号墳京都府峰山・弥栄町 〔三角縁神獣鏡〕 雪野山古墳滋賀県八日市市 7 三角縁神獣鏡三面 権現山号古墳兵庫県御津町 8 三角縁神獣鏡五面 にしもとめづか 西求女塚古墳兵庫県神戸市 9 三角縁神獣鏡七面 〔紀年刀〕 ちゅうへい 東大寺山古墳奈良県天理市 川「中平年ー銘鉄刀 さきたま しんがい 埼玉稲荷山古墳埼玉県行田市 「辛亥年」銘鉄剣 一九五一年出土 一九七二年出土 一九八〇年解読 一九八六年出土 一九八六年公表 一九九四年出土 一九八九年出土 一九八九年出土 一九九三年出土 一九六二年出土 一九七八年解読 卑弥呼の鏡 14 )
公孫氏政権の評価 もっとも、公孫氏 ( 一九〇ー二三八年 ) の鋳鏡技術については、評価がわかれるから、面倒だ。 立木修 ( 奈良国立文化財研究所 ) によると、当時、中国の河北は、盗賊が跋扈して治安がきわめて 悪かったうえ、一九〇年、公孫氏が独立するに及んで、中原から楽浪郡への道は、幾重にも閉ざされ てしまった。中原と韓・倭との交通もまったく途絶していた、と考えられる。したがって、倭への鏡 ′っきん の流入も「黄巾の乱ー ( 一八四年 ) 以後、半世紀ほどは途絶えていた、と説く。 ばんきょ 公孫氏の盤踞した現・遼寧省から、漢式鏡は二八面出土しているが、公孫氏政権期の後漢末ー三国 時代初頭の鏡は、ほとんど認められない。そこでは独自の鏡生産は行われていなかった。中国本土で も、南北とも三世紀代は踏み返し鏡が主体であった、という ( 「漢式鏡に関わる諸問題ーーー弥生時代終 末・古墳時代前期出土鏡の評価。ーー」「倭人と鏡その 2 』 ) 。 紀年銘の語るもの 「紀年鏡は作られた年代、地域を明確に示すことから、中国鏡の日本への流入路を跡づけるトレーサ ーとすることができる」 ( 森下章司「紀年鏡と古墳」考古学ジャーナル 388 号 ) 。というわけで、三世 紀の紀年鏡には、とりわけ目の色が変わる。 林裕己は、漢式鏡のうち紀年銘をもった鏡一三一面を集成した。前漢末の居摂元年 ( 西暦六年 ) か ら北朝の東魏・天平三年 ( 五三六 ) に亘るが、圧倒的に後漢末から三国時代 ( 三世紀代 ) が多い。そ卑刀 はやしひろみ ばっこ きよせつ