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検索対象: 邪馬台国論争
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1. 邪馬台国論争

が『魏志』を研究したすえ、、「邪馬台国を日本国の前身と認め、日本国発源の地域すなわち「大和」 を九州邪馬台の名をと 0 てヤマトと呼ぶに至 0 た、という見解さえ主張された」わけである。先にあ げた尾崎雄二郎の見解もその一つであろう。 三品彰英は長嘆息する。「ヤトの名は最初畿内に有利であるに見えたが、事ここに至 0 ては、畿 内の大和の名は、後代になって倭人伝から採択された新しい追称的な称呼にすぎないものとされた。 結局九州論者は、大和の国名までも九州邪馬台に持ち去 0 てしま 0 た。同じ九州説ながら、ちょうど 熊襲女酋僭称説 ( 注・熊襲が畿内大和の邪馬台国Ⅱ大和朝廷を僭称したとする本居宣長らの考え ) と は主客転倒した形になってしまったのである」と ( 『邪馬台国研究総覧』 ) 。 ヤマトの蓬莱山 最後に、私見を記したい。 日本は山国である。「山処」であれ「山門。であれ、「畳なづく青垣、山籠れる。盆地性の土地柄な ら、どこでもヤマトと呼ばれる資格があったし、現に「山門 , 「大和」など「ヤマト」系の古地名は 一一十例にのぼる ( 中山修一「ヤト地名考、一九五八 ) 。そのなかで、畿内の大和がほとんどこれを独 、「特異な山」を擁したから 占していったのはーー大師は弘法に、黄門は光圀にとられたように であろう。 古代史の和田萃によると、ヤマトはもともと三輪山を間近に仰ぎみる一帯をさしたが、三輪山の神 が各地に勧請された結果、広がったものらしい。したがって、ヤマトの「山 , は一般の山をさすので 294

2. 邪馬台国論争

再考」 ( 『考古』一九九四年第八期 ) を発表し、さらに、その秋十一月、京都府峰山町の歴史講演会で も、再説した。 この論文は、多岐にわたる自説を王みずから要約したうえ、「青龍三年鏡ーに論及したもので、王 説の要点と最新の考えを知ることができゑややくわしくその論点をたどってみよう。 1 「青龍三年」鏡について 青龍三年 ( 二三五 ) 当時、公孫淵が遼東に割拠して、朝鮮半島にある楽浪郡・帯方郡を占領してい た。卑弥呼は魏王朝と通交できなかったから、「青龍三年鏡」は景初三年 ( 二三九 ) 前に倭国に伝入し えなかった。 「青龍三年」銘銅鏡は、魏帝が卑弥呼に与えた詔書のなかにあげる「百枚の銅鏡」の一枚であって、 翌正始元年 ( 二四〇 ) 、卑弥呼のいる邪馬台国に送達された。 洛陽を中心とする黄河地域の各地で出土する後漢・魏晋時代の銅鏡の種類からみて、魏帝が卑弥呼 ないこうかもん きほう りゅうほうもん に下賜した百枚の鏡は、「方格規矩鏡」「内行花文鏡」「鳳鏡」「獣首鏡」「双頭龍鳳文鏡。「修至三 こう 公鏡」などだ。「青龍三年 , 銘方格規矩鏡の出土で自説 ( 王説 ) に誤りのないことが証明された。 かって私 ( 王 ) は、椿井大塚山古墳出土の方格規矩鏡が「卑弥呼の鏡」である、と明確に論定した が、この鏡の形状と図紋は、大田南 5 号墳の「青龍三年 , 鏡と酷似し、私の判断が正確であったこと を証している。 しさん 188

3. 邪馬台国論争

たしかに、「解不定」で検証のしようがないから、「われ幻の国、見たり」と、おのがじし主張しあ う。百家争鳴の時代に入って久しい。 古代史家の上田正昭 ( 大阪女子大学長 ) は、英雄時代論争はなやかなりしころ、「邪馬台国はすでに 専制国家の段階に入った」と説くとともに、邪馬台国論争の状況をコメントした ( 「邪馬台国問題の再 検討」一九五八 ) 。 邪馬台国と卑弥呼の問題に触れた著作は、まことに夥しい。そして幾度か「最後の断案」とか せき・かく 「解決」とかいうテーマのもとに、史学の碩学が筆をとり、その最終的見解が公表されてきた。 しかし、問題は終焉を告げるどころか、むしろ愈々精緻となり、微細をきわめてぎた。 すでに四十年近いむかしのことだが、邪馬台国問題をめぐる状況は、上田の指摘どおり、ますます 「精緻となり、微細をきわめーる一方で、「終焉を告げるー曙光はいぜんとして見出せない。 「倭人伝』の欠陥 古代史家の直木孝次郎 ( 大阪市立大学名誉教授 ) は、「国家の発生」 ( 一九六二年版・岩波講座『日本宮 迷 歴史』 1 ) や『倭国の誕生』 ( 小学館版『日本の歴史』 1 一九七一一 l) などで、早くから邪馬台国問題をの 論じてきた。「四たび邪馬台国を考え」たという「永遠の謎か、邪馬台国と女王卑弥呼」 ( 『王権の争卑ち

4. 邪馬台国論争

したがって、「方位、里数、戸数は『親魏倭王』の副産物だからまったく信用してはいけないーと 力説する。 過大な里数や戸数は、一一三九年に倭の女王卑弥呼に『親魏倭王』の称号を贈ったときの、いわ : こうして『親魏倭王』の副産物として、偉大な邪馬台国という幻影が生ま ば建前である。 れ、おかげで現在に至るまで、邪馬台国の位置と卑弥呼の正体について、わが国の古代史に関心 を持つ人々すべてが悩まされる結果になった。しかしそれはすべて、三世紀の中国の内政上の都 合によるフィクションに過ぎなかったのである。 ( 中公新書『倭国』 ) 要するに、「司馬をもちあげるためのでっちあげである」というのである ( 前掲論文 ) 。 細々とした考証から超越して、古代東アジアの状況と後代の記録・伝承を考えて、「邪馬台国も、 瀬戸内海の東端の、畿内のどこかと考えるのが穏当であろうーとする ( 同書 ) 。ただし、最近の岡田 の『日本史の誕生』 ( 一九九五年 ) によると、邪馬台国は本州西端の山口あたりに求められると説く。 同時に、江南の呉政権に対する牽制の意味もあった。『魏志倭人伝』の地理観では、邪馬台国は会 稽東冶の東にあって、魏と倭が呉の腹背から挟撃する位置関係にあゑこれを喧伝して、呉政権を牽 制しようとした、というもので、白鳥庫吉の考えに代表される。 迷 白鳥の「卑弥呼問題の解決ーによると、魏の明帝が公孫氏討伐のため、司馬懿率いる四万の軍勢をの 遼東に派遣しようとしたとき、魏の内部は積極派と消極派に分かれた。「されば一歩を進めて倭国討卑 101

5. 邪馬台国論争

ここで触れていない重要な点を、『三角縁神獣鏡』から補足すると (<) 「銅出徐州、師出洛陽ーの銘文をもった三角縁神獣鏡が約十面ある。「銅出徐州」と、 ら、実のところ徐州は銅を産出せず、しかも、呉の領域である。「師出洛陽ーに至っては尊大な虚詞 で、中国出土の鏡にはまったく見えない。したがって、これをもとに、「三角縁神獣鏡は、洛陽の鏡 師が徐州の銅を用いて作った」という魏鏡説の根拠にはできない。 (=) 「尚方作鏡」なる銘文は、「師出洛陽ーの場合と同じ性質の、自尊自大の虚詞であった。中国古 代の銘文の内容には、実もあれば虚もあり、よくよく分析してからでないと、正しい理解は得られな しということである。 ( ) 呉工の日本渡航について、はじめは「熟した考えがない」として触れなかったが、その後、次 のようにのべている。 当時、呉と日本の交通を直接に示す史料はないが、風に吹かれて偶然に日本にたどりついたと いうのではなく、意志を持って日本に行ったと考えられる。当時は政治情勢からみて北方経由は いしゅうたんしゅう 無理で、『三国志』孫権伝にあるように、海に船を浮かべ夷洲・亶洲 ( 日本の一角 ) に攻めこん だり、亶洲の人が会稽にやってきて布を商ったことなどをみてくると、陳是が会稽東冶県より日 本にむけて出発したとは明らかにいえないが、その可能性を排除することはできない。 鏡 の 呼 (z) 彼らが日本で鏡を鋳造するとき、故国で流行していた鏡をもとにした。同時に、「笠松形ー文卑 19 7

6. 邪馬台国論争

は押し寄せに誇大化されて行くことになった」という。韓国の面積を誇大に報告したのは、帯方郡の きゅうじゅん 役人で、正始年間の対高句麗の激戦によって、自分たちの太守弓遵を戦死させた、拙い戦いの言い 訳として、ことさら誇大に表現したのだろう、と説く ( 『前掲書』 ) 。 ⑥大局観 「大局的にみて、九州島におさまるーという考えだ。 その一つは、短里説とも共通するが、不等式をつかって表すと、 壱岐国ー末盧国間一〇〇〇余里 △伊都国 ( 不弥国 ) ー邪馬台国間一五〇〇余里 ( 一三〇〇余里 ) △対馬国ー末盧国間一一〇〇〇余里 という大小関係がみてとれる。これに着目して、邪馬台国は、次ページの地図のように、最大でも 対馬ー末盧を半径とする円内に含まれる、とみる。とても、畿内大和まで届くものではない ( 藤井滋 「『魏志』倭人伝の科学」東アジアの古代文化一九八三年春号、安本美典『日本誕生記 2 』所引 ) 。先の比例 法を図化し、ヴィジュアルに示した分、説得力をもつ。 いま一つは、『魏志倭人伝』の次の記事を証拠とする。 「女王国の東、海を渡る、千余里。復た国有り。皆倭種なりー 迷 この記事があるかぎり、女王国Ⅱ邪馬台国の畿内大和説は成り立たない、と主張する。畿内大和説の に立っと、大和の東に海はな、。 伊勢湾や琵琶湖があるといっても、一〇〇〇余里の大海ではありえ卑

7. 邪馬台国論争

末盧国起点説をとる ( 『邪馬台国はここだ』一九八一 ) 。 《はこれらの説をつぶさに検討・批判したうえ、『倭人伝 れているのは、順進直行のコ 1 スとしか読みようがない、と論断した東アジアの中の邪馬臺国』 九七六 ) 。 ②魏晋短里説ーー古田武彦 中国の里の長さは、王朝・時代によって異なるが、別表のとおり、魏晋時、は一里約四三五メト しすれにしても、私たちの約四キロメートノという ル、隋唐時代で約五三〇 5 五六〇メートル。 : 単位感覚とは大違いである。それでも、一万二〇〇〇里といえば、五二二〇キロメートル。帯方郡か らじっさいの地図にあてはめると、赤道を越えてオーストラリアに近いアラフラ海にまで達する ( 木 原武雄『中国人が解いた邪馬台国』一九九一年 ) 。あるいは、、 / ワイかグワム島周辺に至る ( 岡田英弘、 前掲書 ) 。 伊都国から先の一五〇〇里でも、約六五〇キロになゑ距離感からいえば、もう圧倒的に畿内説が 有利だが、ここで案出されたのが、「魏晋朝短里ー説だ。かって白鳥が「魏代に特別な里制が行われ ていたのではないか」と考えて、検討のすえ放棄したものである。 古田武彦は、『魏志倭人伝』の里程記事で、狗邪韓国ー対馬国 ( 対海国 ) 、対馬国ー壱岐 ( 一支国 ) 、 壱岐ー末盧国が、すべて一〇〇〇余里と記されているのと、地図上の実距離を比較・対照して、 一里Ⅱ約七〇メートル 卑弥呼の迷宮 9 )

8. 邪馬台国論争

五 ) 。 邪馬台の語義 国語学者の松岡静雄 ( 柳田国男の弟 ) いらい、「邪馬台」の原義は「山処」の意とされてきた。 いわゆる ト」で、邪馬国と台与国の連合国家 これに対して、重松明久は、ヤマトは「ヤマー 「山ー豊連合国 . と解し、国号はこれを「連称」したものという ( 「邪馬台国の国号について」『古代 国家と道教』 ) 。 くまそ 二つの国名を連称した例として、重松は五世紀の熊襲をあげる。また、一世紀の例として、「伯済 国、をあげる。これは、後に百済の中核とな 0 た国家だが、もとは族と族の連称国家名とみる説 もあるが、「かって中国の史料に、貊穢とよばれる連合勢力が、馬韓地方に南下し、卑字をさけて伯 済とよばれていたのが、さらに音通により百済となったもの」とする。それは部族連合国家であっ たからで、「北九州における奴国・伊都国・松浦国などの部族国家が、主として隣接国の間で連合国 家を形成することも、半島の例からみて当然ありえたと思われる」。金印の「漢委奴国王」について も、委土 ( 伊都 ) と奴の連合国と考えゑ興味深い仮説である。 東洋史家の宮崎市定は、「邪馬台」はーー上代特殊仮名遣にはとらわれずーー「山門」であり、杉 のような船材を産する吉野「山 , の「門。戸にあたるからだ、とみゑ豊富な船材で船を造り、瀬戸 内を中心とする水上交通を掌握したのが、邪馬台国発展の経済的基礎であったというのである ( 『古 代大和朝廷』一九八八 ) 。 292

9. 邪馬台国論争

とから、当然、邪馬台国の生活文化圏では絹が紡がれ、錦が織られていたことが分かる。 ぬのめじゅんろう 布目順郎 ( 京都工芸繊維大学名誉教授・富山市日本海文化研究所長 ) の『絹の東伝』 ( 一九八八 ) によ ると、弥生時代の絹製品を出した遺跡は、吉野ケ里遺跡をはじめ、吉武高木遺跡・立岩遺跡など、す べて北部九州にある。古墳時代前期になって、ようやく大和の天神山古墳 ( 奈良県天理市 ) をはじめ、 出雲・丹後・丹波・能登などの古墳に埋納されて出てくる。したがって、「弥生後期に比定される邪 馬台国の所在地としては、絹を出した遺跡の現時点での分布からみるかぎり、北九州にあった公算が 大きいといえるであろう。 / わが国へ伝来した絹文化は、はじめの数百年間、北九州の地で醸成され た後、古墳時代前期には本州の近畿地方と日本海沿岸にも出現するが、それらは北九州地方から伝播 したものと考えられる」という。 絹の出土分布に関するかぎり、これはもう北部九州の独壇場で、邪馬台国畿内説の成立する見込み はないだろう。しかし、絹や真綿のように冬の寒気をしのぐにも便利で、風合い・肌触りのすぐれた 織物が北部九州でせき止められ、一歩も出なかったということがあろうか。その点、布目も慎重に顧 慮していう。「養蚕絹織りが数百年もの司、ヒ 尸」九州以外の地へ伝わらなかったとすれば不思議であっ て、後日、本州・四国など北九州以外の地で弥生時代の絹が発見される可能性が残されているーと。 養蚕と製紙が、古代中国でも長く秘伝とされたことは、よく知られている。したがって、養蚕と絹 織りの技術が倭国に伝来したあとでも、北部九州で独占されたということはありえよう。しかし、そ れでもなお、絹製品までが たとえ高価であってもーー北部九州から門外不出であったとは、考えの 弥 にいことではないカ 卑 2

10. 邪馬台国論争

古代史家の岸俊男によると、地名としての「倭」は、いわゆるヤマト ( 奈良盆地 ) のなかでも、と しき くに三輪山の西麓・南麓から、のちの磯城 ( 城上・城下 ) ・十市の三郡に含まれる一帯 ( 中東部 ) を いう。それが大和一国 ( 狭義のヤ「ト ) をさし、やがて版図の拡大とともに、「倭」「倭国」「大倭国 . あるいは「日本」と書いて「ヤマト、と読み、日本列島の全土をさす国名 ( 広義のヤマト ) に転化し た。七五七年、橘奈良麻呂の変のあと、「大倭国」は「大和国」の表記に改められた、と説く ( 「「倭 . から「ヤマト」へ . 日本の古代 1 ) 。 ところが、一部の邪馬台国山門論者の手にかかると、このヤマトは畿内自生のものではなく、九州 の「ヤマト」を移植したものとなる。東洋史家の和田清は、飛鳥奈良時代の学者が『倭人伝』の「邪 馬臺 . を今の大和地方と信じたので、国郡名選定のときに、「大倭」の文字と「ヤマト」の訓をとっ た、という ( 「魏志倭人伝に関する一解釈」一九四七 ) 。元からあ 0 た地名ではなく、後から学者が机上 で解釈・比定した結果にすぎない 、というのだ。橋本増吉によると、大和朝廷が卑弥呼の邪馬台国を 併合したあとに、海外にまで知られた「邪馬台国」の名を襲った、という。 両説を紹介した古代史家の坂本太郎 ( 元東大教授 ) は、もちろん、九州論者だが、さすがに移植・ 踏襲説には賛成しかねるとして、九州と畿内に「ヤマト」の呼び名ができたのは、偶然の一致である という。ただ、「倭。の字は、まず日本国の総称として用いられ、のちに畿内「ヤマト の地方名と しての「ヤマトにも、「倭ーの字が用いられるようになった と、岸とは逆の考えを示している呼 弥 卑 ( 「『魏志』倭人伝雑考ー『邪馬臺国』一九五四 ) 。 このように、一部とはいえ、「ヤトの名が九州から持ち込まれた」とか、推古・飛鳥時代の学者終