陳寿 - みる会図書館


検索対象: 邪馬台国論争
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1. 邪馬台国論争

陳寿の経歴 ばしよく 陳寿は蜀 ( 四川省 ) の出身。諸葛孔明は泣いて馬謖を切ったとき、その参軍をつとめた陳寿の父が 連坐し陳寿も人生のスタートからつまづいた。不運な誤解も手伝って、「不孝者ーなどと毀誉褒貶に さらされたため、蜀時代はもちろん、晋朝に入っても、なかなか仕官できなかった。ようやく張華 ( のち副総理格の司空 ) に史才を認められ、「佐著作郎 ( 修史官 ) 」のポストをえた。二八〇年頃、魏呉 蜀の歴史 ( 一三〇ー二八〇 ) をまとめたのが「三国志」である。 パトロンの張華は、司馬懿の孫・武帝の次席秘書官から北方防衛の総司令官に転じ、朝鮮経営に尽 くして大きな功績を挙げた。著作に『博物誌』全十巻がある。その縁で陳寿の東夷伝は博物史的な記 述に富む一方、晋室の祖・司馬懿の功績を過大に顕彰したり、朝鮮半島と倭の地理を誇張したといわ れる。陳寿にかぎって、不行跡や人格が問題視されるのは、『三国志』の信憑性に関わるからだ。も おも し、陳寿カ / ; 。、トロンや世間に阿ね、筆を曲げる人物なら、その歴史叙述に全幅の信頼はおけない。一 万二千里の道のりも、七万戸の人口もあやしくなる。「曲学阿世ーの傍流の史官か、「直筆警世」の剛 直の史家か、と問われるゆえんである。 界 世 「魏志倭人伝」本文 の 『魏志倭人伝』は一九七三 ( 一九八八字とも、三品彰英によると、二〇〇七 ) 字からなる漢文である。 伝 人 原文は「倭人ーの見出しがあるだけで、もとより細かい分節や段落を設けたり、小見出しをつけてい 志 るわけではない。さいわい、何人かの研究者によって、『倭人伝』の構成を見やすくするため、章節

2. 邪馬台国論争

⑨「二つの邪馬台国ー説ーー喜田貞吉、大和岩雄 法隆寺再建論で知られた喜田貞吉によると、陳寿は、魏と直接交渉した九州の邪馬台国 ( 海人族 ) と、伝聞で知った畿内の大和朝廷 ( 朝鮮渡来の天孫族 ) を混同している。「水行陸行」の記事も、畿内 北九州より出雲・敦賀・大和への道程ーーを記したものと解すればよい。『後 の大和に至る道程 漢書』の范曄もまた、九州にある卑弥呼の邪馬台国と、九州まで支配する大和朝廷を混同して、「そ の大倭王 ( 天皇 ) は邪馬台国に居るーと誤解した、という ( 「漢籍に見えたる倭人記事の解釈」一九一 七 ) 。 だいわ おおわ 大和は、大和書房の創業者で古代史の研究書を続々と著しているが、『邪馬台国は二カ所あった 邪馬台国から初期ヤマト王権へ』 ( 一九九〇 ) で、いう。邪馬台国 ( 倭国 ) は、倭国大乱のあとに 卑弥呼を「共立」してできた「連合政体」で、北部九州から畿内までを含み、卑弥呼のいた女王国は 九州にあった。台与の時代 ( 二五〇年代初頭 ) に遷都して、邪馬台国へ移った。武力制圧をともなう 「東遷 ( 東征 ) 」ではない。陳寿が見た原史料では、女王国までの行程は日数で示し、畿内の邪馬台国 への行程は日数で示してあったが、陳寿は女王国Ⅱ邪馬台国と混同したため、「距離に混乱がおき、 邪馬台国の所在について、決着がっかない論争が、はてしなくつづいているのであるーと。 主として九州説に立つ人びとの、苦心の解読に、敬意を表すべきだろう。 それでは、畿内大和説は、『魏志倭人伝』の解読競争に敗れたのだろうか。 卑弥呼の迷宮 10 7

3. 邪馬台国論争

《銘文》 銘文は二十一のパターン ( 銘式 ) に分かれる。そのうち、三角縁神獣鏡論争にかかわりの深い銘文 を上げるとーー ( 数字は樋口の銘式番号、ロは判読不明の文字、傍線部分はキーワード ) 、 1 景ロ三年、陳是作鏡、自有経述、本是京師、杜ロロ出、吏人翩之、位至三公、母人之、保子 宜孫、寿如金石兮 ロ始元年、陳是作鏡、自有経述、本自ロ師、杜地命出、寿如金石、保子宜孫 4 吾作明鏡甚大好、上有仙人不知老、渇飲玉泉飢食棗、不由天下至四海、楽未央、年寿長保子宜 孫兮 五神四獣型 六神四獣型 騎乗神獣型 環状乳神獣型獣像の肩や腰がリング状に丸く 突起し、神獣が鈕の周りをめぐる型式 一「同向式神獣鏡神獣がすべて上向きに並ぶ型式 重層式神獣型 ばんりゅう 三、三角縁盤竜鏡例外的に霊獣のみ半肉彫りした型式 1 ) 0

4. 邪馬台国論争

第三の仮説 それはさておき、王金林は、陳氏Ⅱ「呉のエ人」の遍歴についても、王仲殊とは異なる独自の「第 三の説ーを組み立てている。 「陳氏 ( 陳是、陳世 ) 作鏡」は、中国の平縁神獣鏡と日本の三角縁神獣鏡を合わせて二十八面ある。 「陳氏作鏡ーの三角縁神獣鏡が、呉の神獣鏡の図像から直接的な影響を受けているのは、いまや周知 のことだが、それだけではない。洛陽出土の「尚方作鏡ーの銘文と対照すると、基本的に似ている。 尚方鏡の銘文のうち、 1 「尚方作竟真大好ー「尚方作竟自有紀」 2 「上有仙人不知老ー「上有西王母東王公」「渇飲玉泉饑食棗ー 3 「長宜子孫」「君宜高官」「寿如金石ー 4 「左龍右虎」「巧工刻之成文章」 などの銘文は、 ( 樋口隆康の銘文の分類では、椿井大塚山・備前車塚鏡を含む類の ) 陳氏鏡に直接的な 影響を与えている。このような強い影響は、洛陽の尚方局に長く暮らしていなければ、不可能だと考 える。 このように、陳氏作の三角縁神獣鏡が呉鏡と魏鏡の要素をそなえているところから、王金林は次の 鏡 ように結論する。呉の鏡師だった陳氏が呉を捨てて、いったん魏の都・洛陽に上がり、尚方局の鏡師の になった。そこで紀年銘入りの三角縁神獣鏡を作ったあと、間もなく日本に渡って、他の三角縁神獣卑刀

5. 邪馬台国論争

陳寿のイメージ 「一三 00 余里」の解釈 邪馬台国は、『魏志倭人伝』によると、伊都国 ( 不弥国 ) から一五〇〇里 ( 一三〇〇里 ) の距離にあ る。晋の尺 ( 一尺約二四・一センチ ) からすれば、約ハ〇ロメートル ( 五六五キロメートル ) の距離である。一」れを額面どおり受けとめれば、邪馬台国尸、 -. 、、、、抛は . 九州島に取はあ , ず、畿内大和に あったことを、つよく支持することになる。晋朝短里 ; または局地的短説に立てば、一三〇ー 一〇〇キロメートル ( 一二〇ー九〇キロメートル ) となって、北部九州説を裏づける。 両説対峙して譲らないが、九州説には数学的なトリックがあるように思う。 いままで、一三〇〇里という不確定な距離を計算するのに、これまた不確定な末盧ー伊都国間五〇 〇里や、対馬ー壱岐間千余里と対比したうえ、現代の精確な地図と比較してきた。そこに、欺瞞 ( 錯 覚 ) がある。あまり自覚されていないようにみえるけれど、これは『魏志倭人伝』の地理観が正確で あったことを、暗黙のうちに前提としている。あるいは、『魏志倭人伝』の数値と現実の数値は、比 例関係にあることを、自明の理としている。比例法は「古代の地図は、絶対値では不正確であって も、相対値は正確だった」ということを前提にしているが、その保証は実はない。 もし、陳寿や当時の中国人の地理観が、誇大化 ( 意識的・無意識的を問わず ) されたり、錯覚があっ 「道程ー記事 108

6. 邪馬台国論争

神話」の扶桑樹に、酷似している。近江昌司 ( 天理大学教授 ) の説くとおり、扶桑樹をデザインした ものにちがいない ( 拙著『発掘の迷路を行く』下巻、参照 ) 。 めずらしづか その目でみると、「珍敷塚古墳」に描かれた壁画「太陽の舟」のモチーフも、扶桑伝説に借りたも わらびでもん のと思われる。「太陽の舟」をおおう巨大な蕨手文は、扶桑樹をデフォルメしたものにちがいない。 『倭人伝』を読む あいまいな邪馬台国 大江健三郎の『あいまいな日本の私』ではないけれど、日本は国家誕生のときから、あいまいだっ た。二ー三世紀の黎明期の日本を描いた『魏志倭人伝』が、漢字でわずか一九八八字 ( テクストによ こうかいどおうひ っては一九七三字または二〇〇八字 ) 、高句麗の「広開土王碑ー ( 一八〇二字、四一四年建立 ) とほ・ほ同 。し . し、刀 / . し じ長さである。いかんせん、これでは簡単すぎて、文意は多義にとれ、達意とよ、 と、つ もっとも、中国の正史の扱う外国伝のなかで、『倭人伝』の長さは異例に属するという。『魏志』東 ふよ 夷伝のうち、韓伝がこれについで一五三四字、高句麗伝が一三五三字、夫余伝七一五字などの順。 「著者の陳寿がもう少し詳しく、明晰に記述していたら、邪馬台国論争はなかったろうに」というの ・はうしよく は、したがって、望蜀の言だろうか。 論争を整理するに先立って、まず、『魏志倭人伝』のあらましと、陳寿の経歴を記し、ついで『倭 2

7. 邪馬台国論争

第一一章卑弥呼の迷宮ーー・「水行十日陸行一月」 百家争鳴の時代 2 邪馬台国への道ーー方位 邪馬台国への道ーー行程 4 陳寿のイメージーー「道程ー記事 いくつかの争点 第三章卑弥呼の鏡ーーー銅鏡百枚 謎の三角縁神獣鏡 2 同笵鏡論 王仲殊説の登場 4 鏡研究の新段階 217 187 767 142 124 108 89 79 72

8. 邪馬台国論争

南へ振ることになった。邪馬台国から先の狗奴国 ( 毛野 ) についても同じで、東北であるべき場所が 南となって、ついに一三五度も狂ってしまった、という。 こうした誤認説を超えて、「中国人の伝統的な地理観に由来するーと説いたのが、戦後の邪馬台国 畿内説の総帥ともいうべき古代史家の三品彰英であゑ『魏志』の撰者は「倭地は南に延長された島 国で、会稽東冶の東方に迄のびてゐる」と考証した として、次のように強調した ( 「邪馬臺の位 置 . 一九四八 ) 。 ふれつ 日本列島が南方へ敷列してゐると云ふことは、明らかに日本の地理と矛盾するけれども、さう かっ 批判する前に、吾々は陳寿の時代と比較にならない程の正確な且詳細な地図を持ち過ぎてゐるこ むし とを反省すべきではあるまいか。寧ろ吾々は、『魏志』の文を読むに当っては、陳寿時代の地理 知識」即して一一す、、きゑ即ち南と云ふ方位記事を東に訂正するよりも、吾々のて ん・を地図上が印本列島を、南の方に敷列せしめるやうに、しかも不正確な形に歪めて、九十 転回を試みるのが撰者の考へに即する所以である。 ・ : 吾々の追求してゐるのは、この南に延び てゐると考へられた日本列島のどの辺のところに、邪馬臺の都が位置してゐるかと云ふことなの である。右の如き態度で倭人伝を読んで行けば、邪馬臺は九州の筑後や肥後の如き近いところに 位置してゐるとは考へられ難く、近畿地方の辺に求むべきであらう。 そして、「吾々は『魏志』が書いてゐる通りに読めばよい ・ : 特異な読方や解釈を試みたり、時

9. 邪馬台国論争

漢民族社会では、日本列島は南北に長く連なっていると信じこんでいたことがうかがえる」。 ちょうりよう ていじゃくそう 明代になって倭寇が跳梁しはじめると、日本を大きな島国と誤認した。鄭若曾の『日本図纂』 ( 一 五六一 ) などは、日本製の地図の著しく退化したものだが、長く行われて、「その後の漢民族社会にお ける日本像を支配する結果となった。 : : : 蛮夷の一つに過ぎない日本など、地図の上でどのような形 さじ をしていようと、それはとるに足りない些事であったのであろう」。 こうした畿内説側の「日本列島の南転説 ( 南延説 ) 」に対して、古田武彦や奥野正男らからはげしい 反論があらわれた。 奥野によると、宋代の貿易の発展と航海術の進歩がいちじるしく、当然、正しい地理知識をもって 海外に進出したはずだ。「明末から清代にかけて中国沿岸各地から来航した厦門船、南京船、広東船、 泉州船等々の航海者たちの地理観が、もし『混一疆理歴代国都之図』のようなものだったら、彼らは 定期的に来航できなかったであろう。 : : : 地図の表記法が同時代中国人の地理観を代表するものでは ないことを論議の余地なくしめしているのであるー ( 『邪馬台国はここだ』一九八一年 ) 。 中国歴代の地図の系譜とは別に、『魏志』をはじめ『漢書』や『後漢書』にもとづいて、陳寿時代 の地理観を推定・復元したのが、江畑武の「『漢書』地理志と倭の地理像ー ( 『日本書紀研究』第二冊、 一九六〇 ) である。陳寿は、大 一九六六 ) と「魏志・東夷伝に於ける倭の地理像ー ( 『文化史研究』 陸国とはちがった島嶼国の地理像を、苦心のすえ、次のように描いた。 ・倭地の北端・狗邪韓国は、帯方郡からの距離を計算すると、東冶真」あるとみられる。 ・倭地の南端・邪馬台国は、文身風俗の類似から推測すると、海南島å棄方にあたるらしい ずさん

10. 邪馬台国論争

かかわらず、簡潔・適確な文章によって、三国時代の正史と認められてきた。 ( 『晋書』以後は官選の かこうたん グルー。フ編集に代わる。 ) 同じく三国時代の『魏史』を夏侯湛が編んだけれど、陳寿の『三国志』を見 て、及びがたいことを悟ると、さっさと火に焚いたという。もっとも、簡潔すぎて難解なところが少 なくない。そこで、四二九年、宋の裴松之が史料を集めて欠を補った。いわゆる裴注である。 魚豢と陳寿は、魏晋代に四度、洛陽を訪れた「倭の使節を目撃し、あるいは直接に話を聞いた可能 。『魏略』『魏志』の内容 性もある。少なくとも倭国を訪れた魏人同僚の直話を聞いたであろう : ・ は、倭人に関する当時現在の生の史料に近いものである」と、三品彰英も可時代史、としての価値の 高さを指摘する ( 『邪馬台国研究総覧』 ) 。 はじめに『魏志倭人伝』は二〇〇八字と記したが、『魏略』逸文に残った倭人関係記事が採集され た結果、都合六カ条二七四字分、ふえた ( 三品『前掲書』 ) 。 中国の歴史書の特徴は、先行史書の内容を大胆に踏襲・引用する点だ。著作権意識の発達した現代 からは想像しにくいことだが、後代の方がはるかに豊かで正確な情報が得られるはずなのに、かたく なに先行史書の記述を踏襲するケースが、しばしばある。はじめて豊かな内容を盛りこんだ『魏志倭 人伝』の場合もそうで、自ら先行の史書に学んだが、同時に、『後漢書』から『旧唐書』に至るまで 歴代の正史に摘録されている。したがって、本文解釈が『魏志倭人伝』のように分かれる場合、先行世 ・後続の史書ではどう扱われているか、その文脈に立ち返って考える必要がある。 伝 そこで、歴史書間の先後ー継受関係が、重要な問題になる。さいわい、三木太郎にくわしい研究が倭 志 ある。『魏志倭人伝の世界』『邪馬台国研究事典—』によると、『魏略』 ( 三世紀 ) がまずあって、つい