卑弥呼の「鬼道」は、五斗米道の道教の「師君ー ( 教団の最高統率者 ) 張魯の「鬼道」 「遂 ニ漢中ニ據リテ鬼道ヲ以テ民ヲ教フー ( 『魏志』張魯伝 ) ーーや、その母の「鬼道ーと、内容・性 格において最も近似すると見てよいであろう。 卑弥呼の使者が魏に朝貢した正始四年、陳寿はまだ十歳余りの少年だったが、卑弥呼の「鬼 道ーに張魯ないしその母の「鬼道」を重ね合わせて理解していた可能性は、十分考えられる。卑 弥呼の「鬼道」が「能ク衆ヲ惑ハシタ」とされるのに対し、張魯の「鬼道」もまた「道書ヲ造作 シテ百姓ヲ惑ハシター ( 張魯伝 ) と同様の記述がなされている点も、そのことを有力に裏づけよ 張魯の五斗米道における「鬼道」の教法も、 ( そのルーツともいうべき ) 張角の太平道のそれ ふじゅっ えんせいぼっかい も、ひとしく漢の武帝の時代に「燕斉 ( 渤海沿岸の河北・山東などの諸地域 ) ノ方士 ( 巫術の 職業的専門家 ) 」たちの「使鬼ー ( 鬼神の駆使 ) の道術すなわち「鬼道」を保守的に継承するもの であった。 まつり まじない のり のりと この「使鬼」の道術Ⅱ「鬼道」は、内容上 ( 1 ) 祭祀 ( 2 ) 祈疇 ( 3 ) 禁呪 ( 4 ) 祝詞 ( 5 ) おふだ かみがかり おっげ 護符 ( 6 ) 憑依 ( 7 ) 神託の七点セットとして整理できるであろうが、この七点セットの「鬼 道」と対応するとみられるのが、『日本書紀』神功紀に現れるオキナガタラシ姫 ( 神功皇后 ) の 「使鬼」の道術すなわち「鬼道」である。神功紀では、卑弥呼とオキナガタラシ姫を強引に一体 化させようとしているが、この「鬼道ーの点でも注目される。 0 234
久米雅雄も、「新邪馬台国論ー女王の鬼道と征服戦争ーー ( 『北山茂夫追悼日本史学論集』所収 ) で次 のように説いた ( 沈仁安「前掲書』の引用による ) 。 ①卑弥呼が銅鏡好きであって、銅鏡が道教に固有の霊具であること、 ②図像と銘文が道教的観念を表出していること、 この二点から、「卑弥呼の鬼道とは、基本的には従来からの原始神道的なものに道教的要素の加わ った、一種の〈道教系的鬼道〉として捉えてよいものと思われる」と。 さらに、鬼道の性質を分析して、「共同体ー的な宗教ではなく、「個人救済的ーな性格の宗教ーー・不 ちょうぎ へきじゃ 老長寿・長宜子孫・延年益寿・神仙辟邪といった、個人に対して永生・繁栄・守護を保証する宗教 であって、よく人心をつかみえた。のみならず、教団の中には、非常に強力な階級構成と、厳格 な「法ーの規制があったから、鬼道が強力な国家体制樹立の上で、十二分にその機能を果たしえた。 と、重松と同様、その組織力に注目している。 民族学の大林太良も、外来文化に対抗する一種の土着主義的な新興宗教の性格をもち、内容的には ひょうい 南方的な憑依型シャーマニズムを、外来の道教的要素を触媒として再組織したもの、とした ( 『邪馬 さいし 台国』一九七七 ) 。卑弥呼の鬼道を中心に「祭祀同盟 ( アムフィクテ = オニア ) 」が成立して、倭国大乱 が終息したという、大林の魅力的な仮説については、終章で触れる。 道教研究の大家・福永光司は、九四年秋、福岡市で開かれたアジア文明国際シンポジウム「鬼道 衆を惑わせた卑弥呼の正体を探る」で、あらまし次のように説いた。 卑弥呼の墓 233
井上光貞も、卑弥呼は「霊力に秀でた独身の女性、つまりシャーマンーだったという ( 『日本の歴史 ①・ーー神話から歴史へ』一九七一一 l) 。山尾幸久も「卑弥呼は単なるト占師でなく、また呪術者でもなく、 霊魂崇拝・祖霊信仰を決定的に重要な一要素とするシャーマニズム」とみる ( 『新版・魏志倭人伝』 ) 。 直木孝次郎は、三世紀の日本には北方系の祭儀がまだ伝わっていないとし、〈鬼道〉を中国南部の山 岳地帯から江南地方にひろがる照葉樹林帯の祭儀との関連で検討すべきだ、という ( 「邪馬台国の習俗 と祭儀ー一九七四 ) 。 こうした「鬼道Ⅱシャマニズム」観を、重松明久は批判する。邪馬台国の宗教形態は、これまで東 北アジアの宗教をもとに、きわめて一般論的な漠然とした推定が行われてきたとして、「陳寿の記述 意図に沿って、従来の考察より、一層具体的な性格比定を試みなければ、研究の一歩前進は不可能で ある」と強調した ( 「邪馬台国の宗教の実態ー『古代国家と道教』一九八五 ) 。 重松は日本史学者のなかでいち早く、日本文化に対する道教の影響に注目した一人だが、この場合 も、やはり中国の道教系の〈鬼道〉に着目して、こう説いた。『魏志』にみえる〈鬼道〉の用例を調 ちょうろ ふうび ごとぺいどう べると、第三代教主・張魯の伝に用いられ、当時、中国で風靡していた五斗米道をさす。したがって おふだまじないみず 卑弥呼の「鬼道」も道教の有力な教派名であって、符と呪水を用いる災厄除けの宗教を意味する、 と ( 『邪馬台国の研究』一九六九 ) 。 重松によると、鬼道教団の総帥・張魯は、建安二十年 ( 二一五 ) 、後漢王朝に降伏するまで約三十年 、漢中の地において宗教国家を建設し、「師君ーと自称した。鬼道の信者ははじめ「鬼卒」と呼ばの れ、篤信すれば「祭酒ーと称して、部下を統率し、教団の政務をとる。さらに一段上に「治頭大祭卑幻
「鬼道」Ⅱ道教的シャーマニズム 鬼道に事えた卑弥呼 きどうつか 卑弥呼は「鬼道に事へ、能く衆を惑は」した、という。この〈鬼道〉がなにを指すか、これまで民 族学的な関心から論じられることが多かったが、邪馬台国の所在論にとっても、はなはだ重要な意義 をもっと思われる。 はじめに、〈鬼道〉は、弥生時代の宗教のなかでどう位置づけられるのかを、みておこう。さいわ 、弥生宗教のイメージを復元した大阪府立弥生文化博物館の『弥生の神々』 ( 一九九一 l) がある。そ のなかで、宗教・精神文化研究の第一人者・金関恕 ( 館長 ) が、弥生の祭場のたたずまいを簡潔に想 い描いているので、一節を抜粋しよう。 村はずれに鎮守の森ほどの、円形または方形の広場があり、参道がついている。広場の周囲と ちょうかん 参道沿いには玉垣のように鳥竿が立ち並ぶ。広場の中心には世界樹的な巨木が立っている。やや たねもみ 奥まったところに二棟の高床の建物がある。男女の木彫りの神像がおかれている。建物には種籾 も保存されている。春祭りの日、巨木の枝には一対の銅鐸が懸けられる。『魏志』馬韓の条の鈴 に当たるものである。鳥装の司祭たちが神像をとり出し、性的和合の所作をする。鹿を儀牲に捧 228
容」「弥生の神々』 ) 。 広瀬は、〈鬼道〉と神仙思想を結びつけて考えるが、かっての〈鬼道〉のイメージは、原始的なシ ャーマニズムとして理解されていた。 たとえば、神話・歴史学者の三品彰英は、次のとおり説いた。 ( 鬼道は ) 直接に神霊と交わるの意であり、卑弥呼のシャーマン的性能を最もよく伝える一句で ひょうい ある。一定の儀礼を通して憑依状態に入ったシャーマンが、神霊と直接交融し、種々の神託を伝 える宗儀的様態は、今なお中央アジアや北アジア・朝鮮・日本、更には南米の未開諸民族の間に おとこみこげき 見られるところである。シャーマンには男巫 ( 覡 ) ・女巫の別があるが、その肉体的・精神的条 件からして女性シャーマンが多く、かっ男巫に対する先行形態であるのみならず、その尊信性に おいても優位を保ち、特に未婚の場合は、なおさらそれが顕著であることは学界のひとしく認め じんぐう やまとひめのみことやまとととひももそひめ るところである。 ・ : わが古代史料においても倭姫命・倭迹迹日百襲姫命・神功皇后等、こ のような巫女的性格の女性を数多く伝承し、更には伊勢神宮・賀茂神社等の最高奉仕官である斎 しっち 王が、未婚の皇族女性であったことは悉知の事実である。古代史料に伝承されるこれらの女性 は、いずれも国家の非常時に際会して活躍した点において一致している。卑弥呼も倭国大乱に際 して共立され、国運を賭しての抗争と考えられる狗奴国との戦いにあたっても、彼女の神託が重 大な役割を果たしたものと思われる ( 『邪馬台国研究総覧』注解 ) 。 230
しんせいしいぎやく 別のものである」との立場から、倭国でも夫余型の〈王殺し〉つまり〈神聖弑逆〉がおこなわれたと は即断できない、と保留する。代わって、卑弥呼の「鬼道」を中心とした王権の構造について、すぐ れた考察をしている。大林によると、「倭国大乱ーのあと、倭の諸国は卑弥呼を共立して、王権の構 造の〈政治・宗教改革〉をした。摩擦をおこしやすい男王制に代わって、聖と俗の役割分担をはっき りさせた女王ー男王制 ( ヒメーヒコ制 ) を採用したことである。それとともに、港市の代表者 ( 奴国 王または伊都国王 ) たる倭王の統合下にあった倭の諸国が、後背地の聖所・邪馬台国の、卑弥呼の 「鬼道ーを紐帯とした「祭祀同盟 ( アンフィクテュオニア ) 」に変わった、という。 いつばんに、絢爛たる外来文化と接触したときに、港市と後背地の間では、「豊かな者」と「貧し い者」との緊張が生まれる。後背地の「貧しい者」は港市の「豊かな者」を妬み、土着主義的な反発 をおこして、宗教に救済を求める。卑弥呼の「鬼道」は、この土着主義運動的な新興宗教の性格をも つもので、内容的には土着の、おそらく南方的な憑依型シャーマニズムと、外来の、港市における漢 人商人たちの道教が、混合してできたもの、とみる。 この祭祀同盟を結んだ結果、同盟の諸集団間に〈神の平和〉をもたらし、内戦に終止符をうった。 異宗教を奉じる狗奴国との間に、いぜん緊張・抗争がつづいたが、その分、内部の結束を高める効果 を生んで、異例ともいえるほど長い〈神の平和〉が保たれた。しかし、その反面、外部の狗奴国に対 せんめつ の 呼 しては、殲減戦ともいうべき〈仁義なき戦い〉がつづいた、という。 弥 そのなかで、卑弥呼は死ぬ。老衰か、戦死か、殺害か。〈神の平和〉が破れて、卑弥呼はみずから卑 と想像される。 従容と死についた
をまつる円丘に曹操 ( 武皇帝 ) を、地をまつる方丘に皇后を配祀した事実に注目し、前方後円墳は中 国の祭祀ー墓制にならって、円丘と方丘を結合したもの、と考えた。 かないづか 考古学の金井塚良一は、石野博信との対談で、「前方後円墳は大和政権を主軸にした政治的秩序の 形成の証だ」とする従来の考えでは、「前方後円墳という墳形に表象されているかもしれない宗教イ デオロギー的側面を正しく理解することができないんじゃないか」と、的確に指摘した ( 「東アジアの 古代文化」号、一九八一 ) 。 しげまつあきひさ 「前方後円墳は道教的イデオロギーで造られた」とはじめて指摘したのは、先の重松明久である。重 松の『古墳と古代宗教』 ( 一九七八 ) によると、後漢末に盛んになった道教は、老荘の哲学・神仙思想 ふじゅっ ちょうろ ・巫術・方術、さらに張角・張魯らの狭義の道教などの諸要素を混然と集大成したものだった。「天 地の神霊の体現者ーを守護神としてまつるとき、道教では通念にしたがって、「天円地方」 ( 天空は円 だこていかんぼ 形、大地は方形 ) のイメージを象った前方後円形の墳墓に納めた。後漢の「打虎亭漢墓」 ( 河南省 ) が その代表例とみる。 卑弥呼の〈鬼道〉が後漢末いらいの中国の鬼道を輸入したものなら、そして、卑弥呼自身、西方の せいおうぼ 日神・西王母や「天地の神霊の体現者ーに見立てられたものなら、卑弥呼の墓も、前方後円形に造ら とうおうふ おうしきようせきしようし れた、と推測される。三角縁神獣鏡は、図像には東王父・西王母・王子喬・赤松子ら神仙道教の神々 を浮き彫りにし、銘文には神仙の名をはじめ、「海東に至るー「寿は金石の如し」といった神仙的常套 句を刻む。この図像と銘文からみて、三角縁神獣鏡は「鬼道系道教の祭具」にふさわしい 邪馬台国宇佐説に立つ重松は、三角縁神獣鏡を五面、納めてあった前方後円型の豊前・赤塚古墳こ 236
酒」がいる。治病の祈疇師は「姦令ーと呼んだ。信徒の間に階級組織を構成し、祭政一致を実現して 信徒には、入信または平癒のさい、五斗の米を出させた。五斗米道のゆえんである。 ざんげ 病人は懴悔して罪の許しを乞うため、「三官手書」を作り、天地水の三官の神々に捧げる。また、 しよくざい 贖罪のために道路の修復に従った。教団は無料宿泊所の「義舎」を道路の傍らに設け、米肉を置き、 無料で旅行者に提供するなどの福祉事業も行った。 ′」うきん 張魯の西方教団に対して、黄河と淮水の大平原には東方教団 ( いわゆる黄巾の賊 ) の張角がいて、 鬼道と酷似した「太平道」を広めていた。「二世紀後半頃から、中国において道教旋風が吹き荒れて いたことに注意すべきであるーと、重松は指摘する。 ・はくし さらに、張魯の鬼道は墨子を教祖と仰ぎ、卑弥呼はこれをほ・ほ直移入的に採用していた、という。 げ・いてきし その証左として、伊都国におかれた「大率ーを上げる。「大率」の出典が『墨子』の「迎敵祀」条に あるからだ。それによると、城郭の中央に「大将ーがおり、四方を四人の将帥ーすなわち「大率」が 固める。城上の百歩ごとに百人の長の「百長ーがいて、「大率ーに従った、という。 墨子の宗教思想の特徴をあげると、天ー鬼神を信じて正しい行為をすれば、必ず天ー鬼神は人を守 る。天ー鬼神の前に、人間は貧富・賢愚・地位の上下を問わず、すべて平等であるという尚同主義に 立つ。部族国家間の血縁的秩序を重んずる儒教に対して、墨子は、地縁社会を越えた大同団結主義を ひょうぼう 標榜する。部族国家の枠を超越して、国家連合の結成を促す宗教思想的条件を作った点にも、重松 は注目するのである ( 「前掲論文」 ) 。 かんれい だいそっ 232
げ、種籾をその血にひたす。海辺の村では、祖霊または穀霊を迎えるため船を漕ぎ出して行く。 村人は連れ立って酒盛りし、歌い、大地を踏みしめて踊り舞う。 ゅ、つ′」く 馬韓や倭の邑国が、強力な国家体制に纏めこまれて行くと、素朴な蘇塗の祭りは国家の祭儀に 席をゆずり、祖霊像も鳥竿も消えてしまった。 牧歌的な弥生宗教に代わって、支配階級の宗教的イデオロギーとなったのが、卑弥呼の〈鬼道〉だ 彼ら首長たちは、集団を率いて米づくりのかたわら、自給できない珍しい物資 ( 鉄・銅・塩など ) や新しい情報、高度な技術を手にいれるため、血縁関係を結び、依存関係を深めていた。〈もの・人 ・情報〉は、はりめぐらされた「首長層のネットワーク」 土にのって、集団の間を行き来した。この支配秩序の永続を げんぜり 遺ねがう首長たちのために、不老長寿を約束する「現世利 益ー的な新宗教が、在来の弥生宗教とは別個に、創り出さ れた。その新宗教が卑弥呼の〈鬼道〉であり、その祭具 ンが、神仙世界をえがいた三角縁神獣鏡であった。舶来の鏡 一は、銅鏡の霊力と魏朝の権威でもって、首長たちを結びつ シ の と、考古学の広瀬和雄 ( 大阪府教育委員会 ) は、 呼 弥 9 殿〈創り出された支配者の宗教〉を想定する ( 「弥生宗教の変卑幻
かなせきひろし また、都出比呂志や金関恕も、前方後円墳の祖型を崑崙山に求めていることを、後に知った。 内外の強力な援軍を得た思いで、私は「ひとり妄想に囚われているのではない」と確かめ、安堵し た。当時はまだ、奇矯な思いっきのそしりを免れなかったけれど、さいわい、ここ数年来、蓬莱山の 図像学的・宇宙論的研究が相次ぎ、いまや「壺型の蓬山」のイメージは共通の知識になりつつある 以上、当面の「邪馬台国問題ーから離れた、前方後円墳の起源論に深入りしたのは、他でもない。 きすう 次にみるように、「前方後円墳がいっ・どこで発生したか」が、邪馬台国論争の帰趨を制するとみら れるようになってきた現在、前方後円墳の本質を明らかにしておくことが、まず必要と思われたから である。 前方後円墳の起源論は、卑弥呼の「冢」にかかわるだけではない。卑弥呼の宗教的イデオロギーた る「鬼道」や、その呪具である「卑弥呼の鏡」にも関連する。 のみならず、「やまとー「しき」 「しきしまーという国名・郡名・宮名の由来とも関係するらしい ( 「邪馬台の国語学」の節を参照 ) 。 重松も説くとおり、卑弥呼の「鬼道ーは、三角縁神獣鏡の図像や銘文からみても、神仙道教の要素 をもっと考えられる。卑弥呼が葬られた「冢」もまた、神仙道教と無縁ではなかろう。 卑弥呼は、三角縁神獣鏡にデザインされた東王父らの神像をかざしながら、東王父のいます「蓬莱 山」のユー ト。ヒアを語ったであろう。われわれは死後、無明長夜の冥界をさまようのではない。不老 つか 246