昭和初期 - みる会図書館


検索対象: 替歌研究
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1. 替歌研究

第十二章昭和初期 第十一一章昭和初期 「昭和維新の歌ーほか 社会主義関係の替歌は大正末から昭和初期にかけてさ かんに歌われたが、 革命・労働運動が弾圧されてくると、 内務省警保局によって歌うことが「禁止処分」になった。 それらは当局の「宣伝歌調」に記録されている。 これらが「禁止処分」になると、運動員たちは、その 歌詞抜きで労働歌や革命歌の曲だけに歌い替えて抵抗し た。たとえば、「ラララ行進曲」。 ラーララララララーラララーララララララ ララーラララーラララララーラーララララーラ ラララーララ これは「インターナショナル」 ( 佐々木孝丸・佐野碩作 詞 ) の歌である。 立て飢えたるものよ今ぞ日は近し 醒めよわが同胞暁は来ぬ 暴虐の鎖断つ日旗は血に燃えて 海をへだてつわれら腕むすびゆく ※いざたたかわんいざふるいたていざ ああインターナショナルわれらがもの いざたたかわんいざふるいたていざ ああインターナショナルわれらがもの この左翼運動への弾圧は昭和初期に強くなっていった が、同時に右翼の街宣歌に対しても「禁止処分」が当局 の記録に残っている。 はらから 2j9

2. 替歌研究

電灯料金値下げの歌 ( 一九三三年 ) 作詞不詳 唱えシッカリ唱ってくれ ( 一九三〇ごろ ) 作詞不詳 女工の唄 ( 一九二七年 ) 」ろ ) 製糸労働組合本部 立てよ日本の女工 ( 一九二七年 ) 同右 正義の歌 ( 一九二七年 ) 作詞不詳 ピクニックの歌 ( 一九二九年ごろ ) 作詞不詳 〈「ラ・マルセイエーズ」の曲〉 労働歌 ( 昭和初期 ) 作者不詳 日本労働総同盟歌 ( 一九一一一年 ) 赤松克磨作詞 日本労働組合総連合歌 ( 大正十五年ごろ ) 松沢兼人 乍司 をイー一三ロ 替 の 、カ かよ 〈「デカンショ節」〉 の 動 メーデー歌 ( 一九二七年 ) 作詞不詳 義全農ピオニール夏季教程作詞不詳 会暴力禁制のこの大御代に ( 一九二三年 ) 作詞不詳 デモクラシーの歌 ( 一九一九年 ) 作詞不詳 章 革命のデカンショ行 負 ( 一九二三年 ) 作詞不詳 十 第 〈「うさぎとかめ」の曲〉 松阪伊勢表整理職工争議団の歌 ( 一九二八年 ) 作詞 全農山梨県連落合支部少年部の歌 ( 一九三〇年 ) 作 詞不詳 そのほかに、次の替歌が大正末から昭和初期にかけて 歌われている。〈〉は原曲。 〈「草津節」〉 労働者草津節 ( 昭和初期 ) 作詞不詳 市電ストライキ小唄 ( 一九三〇年 ) 作詞不詳 裏切り者の唄 ( 昭和初期 ) 作詞不詳 〈「東京行進曲ーの曲〉 プロ行進曲 ( 一九二九年ごろ ) 作詞不詳 神戸プロレタリア行進曲 ( 昭和初期 ) 久方静之助作詞 日の出行進曲 ( 一九三一年 ) 作詞不詳 交換台 ( 一九三三年ごろ ) 作詞不詳 257

3. 替歌研究

第十二章昭和初期 野崎参りは屋形船でまいろ どこを向いても菜の花ざかり 枠な日傘にや蝶々もとまる 呼んで見ようか土手の人 元歌は義太夫「野崎村の段」の連弾を取り入れて成功 した。昭和十年ごろ、地元レコードが人気を呼び、 市販された。替歌はエログロ・ナンセンスの春歌。 279

4. 替歌研究

子どもの替歌 第九章デモクラシ開花期 演歌師その後 「平和節」その他 第十章大正後期 関東大震災前後 「ヨサホイ節」誕生 「数え歌」さまざま 第十一章社会主義運動のなかの替歌 労働歌・革命歌・農民歌 プロレタリア音楽運動鬨 女工の歌 水平歌 第八章大正初期 「新どんどん節」 「カチューシャの唄」のころ 177 ー 201 201 251 177 2 ろ 1 第十一一章昭和初期 「昭和維新の歌」ほか 映画主題歌とともに ェログロ・ナンセンス 第十三章日中戦争前後 非常時体制のなかで ーマネントは止めましよう」 「反戦連盟」と替歌 お国のために 第十四章軍隊流行歌 「特高月報」より 「紀元一一千六百年」 第十五章太平洋戦争中 国民歌謡・軍歌・その他 春歌 50 ろ 259 520 262 う 05 259 27 ろ う 25 う 25

5. 替歌研究

第十二章昭和初期 に歌わせた。作者は加太こうじの恩師だという。「替歌 百年」より。 ェログロ・ナンセンス 昭和二、三年以後、エロチック ( 好色的 ) 、グロテス ク ( 怪奇的 ) を縮めてエログロと呼ばれ、昭和五年頃か らナンセンス ( 無意味 ) と一体化して、その後の煽情的 で露出的なばかばかしい舞台や言動をさす流行語が生ま れた。 ◆丘を越えて替歌 土手を越えて行こうよ おへその下は滑らかにぬれて 楽しい心地わくはいろの泉よ 抱えよわが腰をいざ行け 早くもち上げ頂戴よ 土手を越えて行くよ おへその下はほがらかにぬれて うれしい処湧くはいろの泉よ 273

6. 替歌研究

第十二章昭和初期 元歌は昭和五年の松竹蒲田映画「麗人」の主題歌。 替歌 「知らないうちが花なのよ」が流行語になったが、 ではそれを処女に歌い替えている。 ◆だって逢わずにいられよか ( ザッツ・オーケー替歌 ) だってやらずにいられよか 新婚間もない二人なら 明日と言わずに今すぐに とこの間枕に致しましよ、つ アアイノネエーサワッテネ オオキニオオキニザットオオキニ 作詞多峨谷素一 元歌 だって逢わずにやいられない 思い出てくる二人なら 明日とい、つ日も待ちかねる そんな心で別れましよう しいのね しいのね誓ってね O O ザッツ O 元歌は昭和五年、松竹映画『いいのね、誓ってね」の 主題歌。「ザッツ・オーケー」が当時の流行語になった が、替歌で「オオキニ」と京ことばに替えられている。 ◆のんき節 貧乏人のセガレどもは満州の広野でタマに当って 君のため国のためじゃと戦死しているのに 金もちゃ塩を売ってしまっとくへへのんきだね 月給が三十円で化粧代が四十円 たまにやお茶のみキネマ見る 何処で勘定が合、つのやら 職業婦人はトクなものですねへへのんきだね 26j

7. 替歌研究

ギロチンの歌〈馬賊の歌〉 ( 大正ころ ) 加藤一夫 ( ? ) 乍司 ・イー三 1 ロ 搾取の歌〈四季の歌〉 ( 大正期 ) 作詞不詳 大杉栄追悼歌〈紅燃ゆる岡の花〉 ( 大正後期 ) 中浜鉄 ( ? ) 作詞 くろがねの扉〈憎しみのるつば〉 ( 一九三三年ごろ ) 作 詞不詳 労働者革命軍歌〈中村大尉〉 ( 一九三一年ころ ) 作詞 不詳 労働者の歌〈枯れすすき〉 ( 昭和初期 ) 製糸労働組合 本部 水平社の請願隊音頭〈東京音頭〉 ( 一九三三ごろ ) 作 詞不詳 バラック擁護の歌〈天は許さじ〉 ( 大正十一一、三年 ) 作 詞不詳 血染の赤旗〈元冠〉 ( 大正期 ) 作者不詳 同志の歌〈人を恋うる歌〉赤松克磨作詞 大阪鉄工組合歌〈青年の歌〉 ( 大正末 ) 永井幸次作 官業労働総同盟歌〈愛する日の本〉 ( 大正末 ) 作詞不 1 一一 1 ロ 詳 日本労働組合総連合〈行進歌〉 ( 大正末 ) 関西連合会 熱血国歌生野道益太郎詞 革命今や近づけり・労働歌〈わが行く道〉 ( 大正末 ) 作詞不詳 革命安来節〈安来節〉 ( 一九二三年 ) 作詞不詳 国際労働会議の歌〈ョサコイ節〉 ( 昭和初期 ) 作詞不 詳 2j8

8. 替歌研究

リンゴ可愛や可愛やリンゴ 飢えて死ぬのを君知るや あの娘よい子だ気立てのよい娘 元歌 作詞西条八十 リンゴに良く似た可愛い娘 ひとり都のたそがれに思いかなしく笛を吹く どなたがいったかうれしいうわさ ああ細くはかなき竹笛なれど かるいクシャミもとんで出る こめし願いを君知るや リンゴ可愛や可愛やリンゴ 元歌は昭和二十一年から流行。大映映画「ある夜の接 元歌は昭和二十年十月封切りの松竹映画『そよかぜ」吻』のテーマソング。替歌は戦後の食糧難時代に歌われ 、」 0 主題歌。レコードは翌年一月発売され、明るい歌が敗戦 後の荒廃した各地に流れた。替歌 < は、食糧不足とイン フレにあえいでいる一方、ヤミ市場には食糧が積まれて いる時期に歌われた。替歌は最初の接吻映画として話 題になった大映映画「或る夜の接吻」 ( 一九四六 ) が話 題になっていたころである。 ◆悲しき竹笛替歌 ひとり壕舎のたそがれに思い悲しく芋を喰う ああ細くはかなき配給なれど ◆宵待草替歌 待てどくらせど出ぬ肉の あのなまぐささのやるせなさ 今宵もくじらが出るぞいな 元歌「待てど暮せど来ぬ人を / 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな」 ( 竹久夢二作 ) 大正から昭和の 初期にかけて、とくに学生間で歌われた。 368

9. 替歌研究

何やら咽喉にたったようえへんえへんと咳ばらい 唾液を吐き出しよく見れば万里の長城が飛んで出た 「どどいつ」と替歌 「どどいつ」は江戸末期から明治にかけて愛唱された 「情歌」で、七七七五の二十六文字であれば、どのよう な節回しで歌ってもよかった。現今のものは、初代の 都々逸坊扇歌 ( 一八〇四、一八五一 I) の曲調が標準にな っている。常陸国 ( 茨城県 ) 生まれのかれは、一八二〇 年 ( 文政三 ) ごろから諸国を放浪し、三〇年代の初め ( 天保初期 ) には名古屋の寄席へ、三八年 ( 天保九 ) には 江戸の寄席に出演し、なぞ解き唄や「トッチリトンーで 好評を博した。最盛期の一八五〇年代 ( 安政期 ) 以降は、 さまざまな趣向が凝らされ、東海道五十三次や年中行事、 あるいは江戸名所といったテーマ別の歌が現れてくる。 こんにち、扇歌作と伝えられる「どどいつ」の歌詞は 次の六首である。 たんと売れても売れない日でも同じ機嫌の風ぐ るま あきらめましたよどう諦めたあきらめきれぬと

10. 替歌研究

とともに「生活の知恵」で紹介されたことがある。 戦後の代表的な替歌である。は昭和三十四年、皇太子 が正田美智子と結婚した以後に歌われた。 ◆この道替歌 この道は去年きた道 ああそうだよ がまロの十円おとした道だよ 元歌は北原白秋作詞、山田耕筰作曲。昭和初期から歌 われだした。替歌は前者と同様、一九六〇年代に歌われ た。このころの十円はいまとちがって、まだ値打ちがあ った。前出「流行しているこどもの替え歌」より。 ◆雀の学校替歌 グウグウスッスグウスッス 居ねむり学校の先生は 朝から晩まで グウスッスグウグウスッス グウスッス 生徒もまねしてグウスッス グウグウスッスグウスッス 元歌「ちいらいばつば / ちいばつば / 雀の学校の先生 は / むちをふりふりちいばつば : ・ ( 清水かつら作詞・弘 田竜太郎作曲 ) は大正末から歌われた。替歌は、現在の 子どもがいたずらつほく歌い替えたもの。替歌研究会員 採収。 ◆背くらべ替歌 柱の傷はおととしの五月五日の大げんか ちまき取られて兄さんが頭をぶつけた傷のあと きのう見てみりゃなんのこと やっとかすかに見えるだけ 元歌 柱のきずはおととしの 作詞海野厚 434