〈あなたが思っていることとは違って〉という限定で使うのだ 使うのはどっち ? と書いてあり、大変優れた着眼だと感心しました。こうした 「全然」は、〈まったく問題なく〉という意味を表すもので、単「味わう」珥味あう」、ど 0 ち ? さき に程度を強調する〈とても〉や〈非常に〉とは明らかに異なる 「味わう」が正しい。「わう」は、「幸 にぎ ものだと一言えるでしよう。 わう」「賑わう」などの「わう」と同 さらにまた、二つの物や事柄を比較して「こっちの方が全然 じ ( 歴史的仮名遣いでは「はふ」 ) とか「さっきより全然よくなった。というように使う で、「味わわない・味わおう・味わい 用法も見られますが、これは、おそらく「断然」との類似から ます : ・」と活用する。「合う」と混同 広まったものでしよう。現在この用法もかなり一般化している して、「味あわない・味あおう・味あ います : ・」とはしない。 と思います。 いずれにしても、若者が「全然」を肯定表現に使っているか * 歴史的仮名遣いⅡ平安時代中期 らといって、それがすぐに間違いだと決めつけるのは問題でし 以前の文献を基準として定めら よう。どのように使っているのか、その使用状況をきちんと観 れた仮名遣い。 察してから、その正誤・適否を判断したいものです。 ( 小林賢次 )
使うのはどっち ? 一方、「なおざり」は語源ははっきりしていませんが、歴史 的仮名遣いでは「なほざり」で、「なほ ( 直 ) 」でないことを表「蹴れる・しゃべれる・すべれる」 は、ラ抜きことば ? していたようです。こちらは、古く平安時代の和文でも使われ ています。なお、「なおざり」を「等閑ーと書くことがありま 可能表現を「見られる・来られる・ すが、これは漢語の「等閑」に、「なおざり」という訓をあて 食べられる」としないで、「見れる・ たものです。 来れる・食べれる」のようにいうの 現代の意味・用法を考えてみましよう。 がラ抜き。表題の三語は一見ラ抜 〇おざなりな謝罪のことば。 きを思わせるが、いずれも五段動 >< なおざりな謝罪のことば。 詞の下一段化による可能動詞。こ 〇おざなりに話し合いをする。 れらはラ抜きことばではない。 x なおざりに話し合いをする。 などでは「なおざり」は使えず、逆に、 x 災害対策がおざなりにされた。 〇災害対策がなおざりにされた。 x 自分の健康をおざなりにする。 〇自分の健康をなおざりにする。 ( 0
4 使うのはどっち ? ワ」 「お待ちどおさま」珥お待ちどう さま」、どっち ? 「現代仮名遣い」では、オ列の長音 は「う」を添えて書くのが原則なの で、「お待ちどうさま」となるべき ところ。しかし、歴史的仮名遣いで 冖答え〕最近、「だからーと同様に、「なので」を文の先頭に 「 ( オ列十 ) ほ」と書いたものは例外 付けて前の内容を後ろにつなげる言い方 ( 接続詞の用法 ) がさ で、「お待ちどお ( 遠 ) さま」となる。 まどお れます。インターネットで検索すると、「は以前の抗「縁遠い」「遠浅」「間遠」など、「遠 い」から出た語はすべて「お」であ 鬱薬と同様、薬効発現までに一 5 二週間かかります。なので、 る。 最低、二週間は飲み続けてみる必要がありますーといった用例 がヒットしますが、小説や新聞のデータで検索すると、ほとん どヒットしません。話し言葉では、徐々に使われてきているが、 文章語としては、まだ定着していないことがわかります。 冖質問〕近ごろ、「 : ・ なので、・ : 」と説明を進めていく用 法が耳につきます。「なので」をこのように使ってもよいので しよ、つか なので
冖質問〕「全然いい」「全然平気だ」などの言い方をよく聞き ますが、「全然」を肯定表現に使うのは問違いではないでしょ 〔答え〕「全然」の呼応についてはしばしば論じられている ところです。問題は二点あります。まず、「全然」は、昔から 否定と呼応する形で使われてきたもので、肯定の表現に使うの は最近のものなのかどうか、という点です。 実は、歴史的に見ると、もともと「全然」は江戸時代の後期 はくわ のころに中国の白話小説 ( ロ語体で書かれた小説 ) に使われてい まったしか たものを取り入れて使われるようになったもので、「全く然 りーという訓がそのままあてはまるものでした。したがって、 全然い 4 ・ 使うのはどっち ? 「脱北 ( だつほくだっぽく ) 」、ど っち ? 登場してしばらくは、「だつほく・ だっぽく」の両者が行われていた が、今ではすっかり「だっぽく」に 落ち着いた。「脱 ( だっ ) 十皮 ( ひ ) 」 「原 ( げん ) + 発 ( はっ ) 」が、それぞ れ「だっぴ」「げんばっ」になるのだ から、「脱 ( だっ ) 十北 ( ほく ) 」が「だ っぽく」になるのも自然だ。
とらえられませんが、この一種ということになります。 現在は「障る」と「触る」とで別の漢字があてられ、意味の 「明るみに宀出る・なるご、どっち ? 上でも別語ということになりますが、語源的には同一のもので す。歴史的に見ると、手で触れるという意味にはもともと「触 「明るみになる」は、「明るみに出る おおやけ れる」が使われていて、「さわる」がその意味で発達するのは ( Ⅱ表だったところに出る。公にな 室町時代末期ごろからのことのようです ( 現代では「ふれる」 る ) 」と「明らかになる ( Ⅱ明白にな と「さわる」とは、類義語の関係にあり、「さわる」があちこ る ) 」とが混交を起こして生まれた ち手を動かし回るというイメージがあるのに対して、「ふれる」 もの。誤用である。近年、「明るみに は瞬間的で、また、そっと接触させるというイメージがありま なる」の他動詞形ともいうべき「明 すね。また、「さわる」に比べて「ふれる」は、やや改まった るみにする」というのも現れた。こ れも誤用である。ちなみに、「明る ニュアンスが認められます ) 。 このような変遷に伴い、本来の「目障り」「耳障り、「気障み」の「み」は、「深み」の「み」と同じ で、 5 である場所の意。 り」あるいは「差し障りー ( 古語としては「月の障り」 ) などに ざわ 対して、新たに、何かに触れた感触を表す「 5 触り」という言 い方が生じてきたものです。「歯触り」「ロ触りー「舌触り」「手 触り」「肌触り」、これらはいずれも触った感触ということにな 三 152
好きになれないんですよね」 これらの「じゃないですか」は、嫌だと感じる人もそうでな ( 〔〔凵〔〔〔の〔罔〔ダ〔 ! 〔〔〔回 い人もいるのではないかと思います。嫌だという人は、「ご飯「とおり」「とうり」、どっち ? を食べると眠くなることぐらい言われなくても分かってる」 「おとうさん・わこうど」などの長 「これが最近流行ってることぐらい私だって知っている」と感 音は「う」を添えて書くが、「通り・ じたのではないでしようか。これらの例は控えめな表現を用い 氷・公・とお ( 十 ) 」など、歴史的仮名 ていることに問題があるのだと思います。自明なことを「ご存 遣いで「ほ・を」と書いた若干の語 じないかも知れませんが」といった控えめな調子で教えられれ は、「お」と書く。「う」と書くと誤り かん ば誰だって癇に障ります。特に気にならなかった人は、自明な とされるだけでなく、ワープロで こととは捉えずに単なる情報確認だと感じたのでしよう。いず の漢字変換もできなくなる。 れにしても、右の例は人を不快にさせる危険性をはらんだ表現 だと一一 = ロえます。 次に、これとは少し違う例を見てみましよう。 「私って最近引っ越してきたばかりじゃないですか」 「私ってすごく忘れつばい人じゃないですか」 こちらの例の方が嫌だと感じる人は多いだろうと思います。
に現れる、口頭語的な表現で、地の文にはまず使われることが 使うのはどっち ? ありません。つまり、形容詞 + 「です」には、昔から文章語と してはどことなく落ち着かない感じがあって、何となく適格性「融通」を「ゆうづう」と書くのが本 則、「ゆうずう」と書くのが許容。こ を欠く表現だと意識されていたようでした。国語審議会でも昭 れほんと ? 和二七年発表の「これからの敬語」で、次のように言っていま す。〈これまで久しく問題となっていた形容詞の結び方ーーた 「現代仮名遣い」では、「ゆうずう」 とえば「大きいです」「小さいです」などは、平明・簡素な一言 が本則、「ゆうづう」が許容。「融通」 い方として認めてよい。〉 は歴史的仮名遣いでは「ゆうづう」 国語審議会の「お墨つきーを得たとはいえ、この、形容詞 + だが、現代語の意識では一一語に分 「です」は、その日を境にして大手を振って歩き始めたわけで 解しにくいものとして、そのよう に決めた。「じんすうりき ( 神通 はありません。口頭語では問題がないとしても、文章語として カ ) ・一日じゅう・さかすき・ときわ は、どこか気になる言い方として、その後も存在し続けてきま ず」が本則、「じんづうりき・一日ち した。確かに、日常語である「美しいーや「うれしい」に「で ゅう・さかづき・ときわづ」が許容。 す」がついた「美しい〔うれしい〕ですーは、平明・簡素で、 かっ、かなり一般的な言い方だと思われますが、ちょっと古風 * 本則Ⅱ「現代仮名遣い」における に「です」が な語感をもつ「かたじけない」や「つつがないー
頭語「ま」が、強調的に促音「つ、を伴うようになったもので さお す。また、「真っ赤」「真っ青」は、本来は「まあか」「まあお」 ( 歴史的仮名遣いでは「まあを」 ) で、「ま」が「あか、「あお、 という母音で始まる語の上に付くため、音が転じたものです ( 「まっさお」の場合、 co 音が添加 ) 。色彩語に関しては出てき ませんが、「真ん中ー「真ん丸ーのように Z 音や音で始まる語 の上に来る場合、撥音「んーが添加されることになり、「ま」 「まっー「まん」は一連の接頭語です。 この接頭語「真ーの類は、〈本当に〉とか〈完全に〉といっ た意味を加え、程度を強調するものですから、その接する語は ある程度限定されることになるでしよう。色彩語の場合、まず、 原色系の基本的な色彩に限定され、「肌色」「桃色」「灰色」な どに接するのはまず無理でしよう。外来語に「真ーを付けた 、いかにも不自然ですね。 「真っピンク」や「真っプル 1 」も では、「真っ茶」「真っ茶色」に近いものとして「黄色」の場 使うのはどっち ? 「訣別・決別・袂別」の中で、正し のはどれ ? 別れる意の「けつべつ」の本来の形 ー「訣別」。「訣」も「別」も別れる意。 「決別」は「訣」が表外字であること から生まれた代用表記 ( 但し、意味 けつべっ にずれがある ) 。「袂別」は、昭和初 期の文士たちが「訣別」の意を〈た もとを別っ〉と解して生まれた誤 用。「袂」の音が「べイ」であるとこ ろから、「ぺいべつ」のふりがなを 付けた本もあるが、これは誤りだ。 文士たちは「袂別」を「けつべつ」と 読ませていたのだから。 けつべっ い 39
「わたし的」に類する表現としては「気持ち的には若いつも すーなどがあります。「気持ちの上では」「暮らしについては」 「仕事に関しては」のように、以下に述べることがらの範囲を 限定するという意味を表すものですが、これらもまだ十分に自 然なものとしては受け入れられていない表現です。 以上は、〈 5 に関する〉〈—についての〉のような意味を表す 「的」の用法から拡張して用いられたものですが、「的ーにはも うひとっ〈そのものズバリではないが、それに似ている〉〈そ のような性質を帯びている〉という意味があります。「動物的 な感性ー「女性的なしぐさ」などの言い方です。最近ではその ような使い方の中にも多少不自然に感じられる言い方が増えて きました。「普通の暮らし的な生活をしてみたいー「うわさ的な = ⅱを聞いた」「こども的な男は嫌いーなどです。そのほかに、 「今までのは全部うそ的なことを言われーや「『嫌ならやめ ろ ! 』的な考え」などのように、少々長い句に「的」がつく言 使うのはどっち ? 「布団を敷く」「布団を引く」、ど っち ? 江戸っ子ならずとも、「布団を一敷 く・引く ) 」「車に一轢かれる・しかれ るこの区別は案外に難しい。前者 は「敷く」、後者は「ひかれる」が正 解。「敷く」は、平らに広く並べる意 だが、音が類似するほかに〈引く〉 動作を伴うためにますます混同さ れる。「敷き布団」「敷物」など名詞 を思い浮かべると、「ひ」が排除さ れやすくなろう。
い方も見受けられます。長い句に付く言い方は明治時代にも 「動もすれば俗になる。突拍子もねえことを言やあがる的にな る」三葉亭四迷『余が言文一致の由来』 ) のようなものがあっ たそうですので、ことさら目新しいものではないのですが、そ のものズバリと言えばいし ) ところをあいまいにしたり、人の一一 = ロ 葉を借りて表現したりしているという感じはぬぐえません。 「的」というのは元来は名詞に付いて形容動詞を作る接尾語 です。多くは漢語に付きますが、「メルヘン的」「マニュアル 的ーのように外来語の名詞を形容動詞に変える働きもします。 しかし和語に付くことはほとんどなく、逆引き辞典で調べても 「ぬえ的ーぐらいしか見つかりません。「お金的には不自由しな いは許容できないが「金銭的には不自由しない」なら許容で きると感じる人が多いと思いますが、この違いは和語か漢語か の違いによるものです。さらに、本来は名詞に付く語なのに、 最近では「マニアック的」「乙女チック的」など形容動詞に付 く例さえ見られるようになっています。 やや LO 使うのはどっち ? 「鍋に油を敷く」「鍋に油を引 く」、どっち ? これは、「布団を ~ 敷く・引くこ以上 に難問かもしれない。正解は「引 く」。意味は、引き延ばすようにし て表面に広く塗る意で、音が類似 するほかに、〈引き延ばす〉という 行為を伴うところが一一者の区別を さらに難しくしている。ネットを 始め、新聞・雑誌・小説にもしばし ば現れる。 なべ