利用し、廃棄をゼロに持っていく。しかも、サービスを充実させ顧客に喜んでもらうこと。当時は、 参考となるリサイクルの先行事例はなく、また関係する諸法令も十分に整っていなかった。このため、 試行錯誤しながら取り組みを進める以外に方法はなかったのである。 まず再利用やリサイクルを目的に商品を解体するには、その商品の設計を正確に把握しておかなけ ればならない。ゴミとしてすべて廃棄するのであれば、設計や使われた部材のことなど正しく理解し ておく必要はない。しかし、再利用やリサイクルということになれば、そうはいかない。 ここが出発 点だ。 さらに進めば「ただ設計を理解するだけでは不十分ーということもわかってくる。そもそも、解体・ 分類できない設計であれば、行き詰まってしまう。リサイクルするためには、設計段階まで戻り、解 、 0 0 、 1 ツのある部分を再利用したいと考えれば、そ 体しやすい素材やパーツを使わなければならなし のパーツも解体できる設計にしなければならない ーツで購入するほうが安くても、分解・再利用 丿ース期間が五年であれば、ヾ できるパーツのほうをあえて採用しなければならない。 ーツの耐久寿 命も五の倍数年となるよう調整する必要がある。解体の時に傷つきやすいもの、納品の時しか使わな いもの、他商品と互換性のあるもの、これらを一つひとっ検討・整理しなければならない。こうして、 開始から一年も経たないうちに、このプロジェクトは、設計段階の関係者多数を巻き込む大きな運動 に発展した。 さらには、全国の商品を回収しても、それを解体し再資源化する効率的なシステムがなければ、リ サイクルは動かない。外部処理業者に任せれば、カネになりそうな有価物だけを取り外し、後はすべ 230
近代の本質は合理主義 それでは、難波田氏は、どのような根拠をもって「倫理や道徳なしに、経済は成り立たないと説 いていたのであろうか。私の記憶をたどりながら、その論理を整理してみたい。 難波田理論は、現代社会が抱える問題の多くが近代に登場した「合理主義ーにあるという。同理論 によれば、「合理主義」とは人間の理性を最高のものとして捉え、その理性でもって説明されるもの だけを信じ行動する、という哲学であり精神である。 中世にあっては、人々は、宗教が説くことを何の疑いも無く、また伝統が示すことを当然のことと して、そのまま受け入れていた。しかし、近代に入り、その姿勢はことごとく打ち砕かれた。理性で もって説明できないものは信ずるに足らず、また合理的な根拠のないものは、それに従う必要なし、 と考えられるようになった。その意味で、合理主義は近代にあって初めて登場する精神態度であり、 る また合理主義に基づいて打ち立てられた社会科学も近代特有の現象であった。 任では、なぜすべての問題が「合理主義、に帰着するというのであろうか。理性でもって物事を理解 会するということは、観察の対象となるものを細かく分けていくことを意味する。日本語で「分かる」 にという表現を使うが、これは対象を「分ける」ことで「理解する」という意味である。哲学的には、 企理性を通じてのこうした理解を「悟性的分別知。という。 近代の問題は、分けて理解された分別知なるものが、全体とは関係なく、それ自身で独立して説得 5 力を持ち始めたところにある。もともと、全体を理解するために分けていくわけであるから、分別知 は分別知のままであってはならない。それは、再度、全体知の中で位置づけ直されなければならない。 161
企業に求められる社会的責任 (ocox) には二つのレベルがある。その第一は「事業を遂行する上 での誠実さ」を具体的な形にすること。これは言わば「個別企業レベルで取り組む課題。と表現する ことがでよ、つ これに対し、もう一つの取り組みとは、産業界全体としてのイニシャテイプである。しかも、「企 業性善説」を重視する日本社会においては、それは、特に重要な取り組みとなる。なぜなら「厳しい 法制度や制裁を設けなくても、産業界は基本的に社会全体の利益を考え行動する」との暗黙の合意は、 つまり、企業性善説は事実として産業界全体のイニシャテイプが起こらなければ、簡単に否定されか ねないからだ。 もともと、とは「社会が事業者に対して期待することを産業界が責任をもって推進すること」 を意味する。しかるに「日本社会が産業界に何を期待しているのか」を明らかにすれば、第二レベル のも自ずと見えてくる。そこで本章では、社会が産業界に求めるものを明らかにし「消費者支 援基金ーに対する産業界の理解を促したい。 ここに一言う消費者支援基金とは、もともと麗澤大学企業倫理研究センターが、「・」 という文書を通して、創設を呼びかけたものであるが、今後、産業界の理解と支援なくして具体的に 機能するものではない。それゆえ、本章で、改めて、その意義と必要性を整理する 手順として、一見遠回りのようであるが、まず「欧州でがいかに推進されてきたのか」を概 観しよう。欧州の産業界がリーダーシップを発揮してきたイニシャテイプを確認することで、日本の 産業界は、今、自分たちが何をなすべきなのかを、明暸な形で理解することができるようになると考
「企業には社会的責任がある」という考え方が、一一一世紀の到来とともに受け入れられ始めた。そ リゼーションの進展により、世界的な流れとなっている。たとえば、欧州は、 れは情報化とグロ 1 地域経済の活性化と持続的成長を目的として、域内の企業に、協力とそのための社会的責任 ( ) を求めている。エンロン・スキャンダルに端を発した一連の企業不正で、アメリカは民主主義と市場 システムに対する信頼を失墜した。これに類似した現象は日本でも起こっている。このため、企業不 祥事の続く両国では、力点の相違はあるものの、企業に対し「経営の誠実さ」を厳しく問い始めた。 さらに児童労働や強制労働の問題を抱え若い世代に十分な教育機会を与えることのできない途上国 は、これらの問題解決に関し、先進国企業の理解と支援を求めている 簡単に言えば「こうした社会現象が起こっているから、企業は社会的責任を積極的に果たしていか なければならないーと結論づけることができよう。ただ本章では、さらに一歩踏み込み「企業に社会 的責任がある」との主張には、いったいどのような理論的根拠があるのかを考えてみたい。確かに「今、 が求められているのだから、理屈なしで、それに対応すればよいーと考える人もいよう。しか しながら、「もし世の中が求めるから対応する」という発想だけでを受け入れるとすれば、そ れは「世の中の声が小さくなれば、対応する必要なし」という論理にもなりかねない。それゆえ、あ えてが求められる理論的根拠を整理するわけだ。 ただし、思いつくまま見解を並べるわけにもいかない。そこで、次の二つの問いをたて、それに答 の第一は「企業は株主の所有物であるにもかかわらず、なぜ他 える形で、根拠を描き出したい。問い のステークホルダーのことまで考慮しなければならないのか」、第二は「各人が自己利益だけ考えて
齢者や社会的弱者などに優しい社会をつくるということは、まさに日本社会の持続可能性を実現する ことになるわけだから、これを支持・協力しようとする人は、皆、ロハスと呼ばれよう。もっとも、 ロハスと呼ばれるかどうかはそれほど重要なことでない。 強調したいのは、日本にこれまで無かった消費者重視の新制度ができようとする歴史の転換点にお いて、事業者が「企業性善説」の実態づくりに努めれば、また消費者や市民がより広い視点から企業 を総合的に評価するよう意識すれば、日本社会の持続可能性は一気に高まっていく、ということだ。 消費者支援基金というのは形式的には団体訴訟制度を財政的に支援するものに過ぎないか、それは、 結果的に、こうした社会変化を促す触媒となり得るのである。 では、消費者支援基金は、現在、どのような状態にあるのか最後に、近況を紹介しておこう。 基金創設の社会的意義を理解し、真っ先に賛同の声をあげてくれたのは、日本ハム株式会社であっ た。それゆえ、同基金は、日本ハムの寄付 ( 二〇〇〇万円 ) をもって、二〇〇四年一一月に創設され た。その後、麗澤大学が追加の寄付を行ない、軌道に乗ったところである。これまでに、消費者団体 構 金による寄付、一般消費者による寄付、学生による寄付などが続いているが、事業者からの善意と寄付 援は、残念ながら、ほとんどないとい、つ状况だ。 者同基金の管理は「 za«o 法人企業社会責任フォーラム」 ( 阿部博人代表理事 ) が行なっているが、 消費者支援基金の収支は、同 zæo のそれと明確に分けられている。たとえば、支出に関する重要事 章 項などは、すべて基金独自の「運営委員会」 ( 委員長は一橋大学大学院法学研究科の松本恒雄教授 ) 第 が決定することになっている。基金が健全に運営されていることを明確にするため、資金の出入りは、
けなければならず、これでは、コンプライアンスは進まない。そうした問題意識から、刑法、民事訴 訟法、刑事訴訟法が現代化され、民法も二〇〇五年四月の改正で全面的に現代化された。この流れに 沿う形で、商法も、ここに来て現代化されることとなったわけだ。簡単に言えば、まず何が書いてあ るかを理解できるよう、カタカナ表記をすべてひらがな表記に改めることとしたのである 第二は、解釈の明確化という観点から必要に応じ規定を整備すること。度重なる商法の改正で、ま た相次ぐ制度改革で、商法の諸規定に不明確あるいは不整合と言える箇所が目立ち始めてきた。たと えば、先に触れた大和銀行を巡る大阪高裁の和解がその一例である。従来の大和銀行の株主は、大和 銀行が「りそなホールディングス」という持株会社の傘下に入ったため、自動的に同持株会社の株主 となった。「この時、大和銀行の元役員らに対する代表訴訟を提起できるのは、かっての株主となる 変のか、それとも持株会社そのものとなるのか」。こうした疑問が出てきたわけだ。 原告適格を巡る問題にとどまらず、「会計監査人の責任はどう規定するのか」「彼らは株主代表訴訟 度 の対象とならないのか、「旧商法一一六六条第一項に掲げられた違法配当、利益供与、金銭貸付、利益 相反などに関する取締役の責任をどう規定するのか」「従来の監査役 ( 会 ) 設置会社では、無過失責 主任という考え方を採用しているが、二〇〇二年の商法改正で認められた委員会等設置会社においては 基本的に過失責任という考え方に移行している」「責任に関する両者の相違はそのままでよいのか」 業 企 「委員会等設置会社では、内部統制システムの構築義務が明記されているが、監査役 ( 会 ) 設置会社 章 では明示されていないーなどといった問題点が指摘されてきた。これらの点を整理すること、これが 9 第 第二の狙いとなったわけだ。
みを展開しその記録を残せば、つまり、包括的・体系的なエビデンスを用意することができれば、こ れをもって善管注意義務違反の訴えを退けることができるのである。換言すれば、企業は、コンプラ ィアンス活動をもって役員を守ることができるわけだ。しかも、これが経営陣と会社を守るもっとも 確実かっ現実的な保険となる。この点をここで特に強調しておきたい。 会社法制の現代化 実質的に機能する内部統制システムを構築する必要について触れたが、商法そのものも、これを推 進する方向へと改正が繰り返されてきた。特に、今回の商法改正 ( 二〇〇六年五月施行の会社法 ) に あたっては、その意図が明瞭に現れている。これを理解するため、まず二〇〇五年二月に法制審議会 が提出した『会社法制の現代化に関する要綱』という答申を見ていきたい。 この『要綱』は、商法を現代化することを、また会社関係法令を「会社法」として再編することを 主な狙いとして作成されたが、その柱は次の三つに集約される。 第一は、カタカナ文語体で表記された箇所をひらがな口語体に改めること。ここ数年、多くの企業 が、管理職や一般従業員などに対し、コンプライアンスの必要性を訴えている。しかし、コンプライ アンスに取り組むためには、まず法律そのものが何を求めているかを理解しなければならない。何を やるのかがわからない状態で、コンプライアンスの必要性を訴えたところで、それは、どの商品を買 うのかがよくわからない人に「商品を買ってこいーと言っているようなものである。 そもそも、法律が法曹界の専門家だけにしかわからない文書であれば、いちいち専門家に説明を受 128
支持を勝ち取ろうとした金融機関があったであろうかいずれも横並びで、金融庁からの指示待ちと いう態度をとったではないか。「でつながっているため、単独で行動がとれないーと自己弁護 する関係者もいたが、それでも利用者重視の立場は迅速に打ち出せたはずだ。 地方金融機関のなかには「地域と共に ! といったスローガンを店舗のシャッターに書き込んでい るところがある。毎日、午後三時にシャッタ 1 を降ろす時、そのスローガンが顔を出すわけだ。これ を見て、地域の利用者は皮肉つほく語る。「あのスローガンを出来るだけ早く見せるのが地域貢献と 思っているのだろう」と。利用者のほうを見て経営するということは、たとえば営業時間に関しても 他の金融機関と競争することだ。ただこれについても、横並び体質から抜けきれす、金融庁から指示 、というのが実情ではないか。最近では、についてまで、金融庁が指示を たかあるまで動かない 変出そうとしている。呆れ返るばかりであるが、これらは、もとを正せば、各金融機関がコンプライア はンスの本来の意味を理解していないために起こっている現象である。 制ちなみに、金融庁は「コンプライアンス体制ーという表現は用いずに、「コンプライアンス態勢」 巡という言葉を使用している。「体制」という言葉が静態的なものであるのに対し、「態勢ーは動態的な 主ものであるため、こちらを用いるということだ。私も金融庁の解釈を支持したい。それは、動きのあ とるもの、つまり、リスクを把握し、それをコントロ 1 ルし、チェックし、不十分な点があれば、シス 企 テムそのものを是正していく、というダイナミックな活動として理解されなければならない。たた、 章 本書における用語法としては「態勢ーという意味を支持しながらも、「コンプライアンス体制ーとい 第 う表現を用いることにする。なかには「形は要らないー「動きさえあればよいーなどと暴論を吐き、 123
断される そう言えば、金融監督庁 ( 現在の金融庁 ) が「金融検査マニュアル」に関する通達を出したのは一 九九九年七月だった。あれから随分と年月が経ったものだ。当時、金融検査が始まるということで、 大手銀行から信用金庫までいろいろな金融機関の担当者と意見交換したことを覚えている。検査マ ニュアルの発効で、金融行政は大きく変わった。各行は、何はともあれ、ます「コンプライアンス態 勢を敷く必要に迫られたからだ。信用リスク、市場リスク、システム・リスクなどの様々なリスク に対応するための大前提として「コンプライアンス態勢の確立」が位置づけられたからである。 現在、「コンプライアンス」という言葉を、金融関係者が聞くと、それは「金融庁検査への対応」 と狭く解釈されがちであるが、本来の意味は、そんなものではなかった。 「監督官庁のほうばかりを見るな」「監督官庁に頼るな」「市場や利用者を見て経営せよ」「基本の法 令だけを残すから、それを自分で理解せよ , 「自らの理解を前提として、自らの責任において経営判 断せよ」というものであった。事実、九八年六月に大蔵省 ( 現在の財務省 ) は金融関連通達約四〇〇 しずれも個々の金融機関が自己責任において経営判断を行なう 本を原則廃止した。これらの措置は、、 ことを促すものであった。その意味で、コンプライアンスとは、市場志向の経営、自己責任に基づく 経営を促すものと位置づけられるのである。 ところが残念なことに、多くの日本の金融機関は、これにうまく対応できなかった。「逆に金融庁 がこれまで以上に経営に口を挟むようになった」と愚痴をもらす関係者がいるか、ただ、冷静になっ て考えてもらいたい。偽造カードで被害者が出た時、真っ先に利用者保護の立場を打ち出し、市場の 122
字宙がこうした法則に従うがゆえに、物理世界は、神が退いても、それ自身で秩序を形成する。ス ミスはこのように理解した。しかも、自然現象に関するこの理解を、彼はそのまま社会現象に応用し、 社会が自然に秩序を形成する根拠・法則を導き出そうとした。 いわく、自然の物理世界には、それ自身の法則が存在し、これが秩序形成の根拠となる。とすれば、 人間社会にもそれに相応するものがあるはすだ。人間社会を構成する単位のいずれもが保有する「カ」 があるはすだ。こうした確信をもって、彼は倫理学の立場から個々人が保有する「カ」を解明していっ た。そして、その力を、各人が他人の立場に自らを置き換え、自らの行為の妥当性を評価する能力に 求めた。スミスは、これを「同感」と呼び、想像上の地位の転換を可能とする人間特性と捉えたので ある ( 道徳情操論 ) 。 各人は、この内在的な力を用いて、自らの行為が相手にとって脅威と感じられるか、あるいは相手 より感謝されるか、を判定することができる。もし脅威と感ずれば、かかる行為を慎み、感謝される と判断されれば、かかる行為を率先して行なう。スミスは、脅威と感じられることを抑制する働きを 「正義の徳」、感謝されることを行なう働きを「慈恵の徳ーと呼び、これらの徳が各自において機能す るがゆえに、社会は結果的に秩序を形成する、また社会の厚生が高まると考えた。 さてしかし「慈恵の徳」については、たとえ各人がこれに従って行動しなくとも、社会の秩序が乱 されることはない。 ところが「正義の徳」については事情が異なる。「正義」を各人の徳や自主性に 。この時、社会の厚生は著しく 任せておけば、身勝手な行動が横行し、社会は混乱するかもしれない 低下する。