どのような因果関係でそうなるのか。まず一大経済圏が形成され、域内での資本移動が完全に自由 化されれば、企業は不効率な工場を閉鎖し、これを別の地域へと移転することになる。工場閉鎖で被 害を受けるのは、言うまでもなく現場で働く労働者たちだ。また、その地域社会も失業者が増えるこ とで疲弊することになる。このため、欧州統合には労働組合が激しく抵抗、反対した。 もっとも、失業対策や地域振興は、本来、政府のやるべき仕事と考えられてきた。需要が少なく景 気が悪ければ、ケインズ理論に従って総需要を拡大すればよかった。橋を架けろ、トンネルを掘れ、 道路を敷け、飛行場を造れ、港を浚渫せよ。国が建設国債を発行し資金を調達し、これらの大規模プ ロジェクトを実施すれば、政府部門の支出が増え、総需要が膨らむ。結果、景気も良くなり、失業問 題は緩和される。これが従来のシナリオだ。しかし、ケインズ政策はほとんどの国で行き詰まってい た。相次ぐ財政出動で各国の財政は莫大な借金を抱え、緊縮を迫られていた。このため、失業問題の 解決を財政だけに期待することは非現実的となっていたのである。 加えて、九七年には、アムステルダム条約 ( 安定成長協定 ) が結ばれ、加盟国は、新通貨ュー ロの導入条件として「中央地方政府と社会保障会計を合わせた財政赤字を名目国内総生産の三 % 以 下」に抑えなければならなくなった。つまり、ユーロ導入を急ぐ国は、また導入を既に果たした国は、 安易な財政出動が制度上ほとんど許されなくなった。欧州統合にあたっては、加盟国の健全な財政運 営が重要な前提となるため、このような協定が結ばれたわけだ。 確かに「ドイツやフランスなど主要加盟国が安定成長協定を遵守していないーとの批判もあるが、 それでも、中央政府や地方自治体は、基本的に、失業対策や地域振興のために財政を悪化させること
第 4 章企業と株主を巡る法制度は一変した 得ており、書き換えの必要はないと考えます。しかしながら、同時に、少なくとも、持続可能な 社会の構築に貢献しようとする企業側の自主的な取り組みを、結果的であれ、阻んでしまうよう な規定、あるいは萎縮させてしまうような規定は、避けるべき、と感じています。 これらの論点および前提を踏まえ、ここに代案を提案するとすれば、結局のところ、上述した ように、第三条の一に、先の但し書きを付け加えることであろう、と考えます。これは、研究者 としての意見であると同時に、多くの企業経営者も支持する立場だと感じております。ご検討戴 ければ幸甚です。 以上 141
基づいて結ぶ関係であること、契約を結ぶ相手側は自己利益を図るための手段と見なされること、よっ て各当事者は相手の利益など考慮せず、己の利益だけを考え行動すること。契約関係では、そうする ことが、結果的に、双方の利益にかなうとされるのである。 「契約」から「信認」へ 市場経済の恩恵を受けながら日々生活している私たちは、一見、このような契約関係の上に現代の 経済社会が成り立っているように思いがちである。ところがよく考えてみると、日常の生活は根底的 な部分で信認関係に大きく依存しているのである。 たとえば、日本企業の経営者に「御社でもっとも大切な財産は何ですか」と尋ねれば、まず間違い なく「それはお客様よりいただいている信頼です」という答えが返ってくる。それが事実だとすれば、 まさに日本のビジネス社会は信認の上に成り立っているということになる。 では、重要な位置を占めると思われる「信認関係」とはどのようなものか。右に述べた「契約関係 , と対比させながら、その特徴を整理してみよう。ます信認においては、その関係に入ってくる人々は、 基本的に三者 ( 三つのグル 1 プなど ) となる。後に詳しく触れるが、それは「託す者ー ( 委託者・信 認者 ) 、「託される者」 ( 受託者・受認者 ) 、そしてその両者間の約東を通じて「利益を受ける者ー ( 受 益者 ) の三者関係ということになる。もっとも、委託者が自らを受益者に指定すれば、契約の場合と 同様、二者関係となるが、これはむしろ信認関係の特殊ケースと見るべきであろう。 さて、契約では、双方が自己の利益を図ることを目的として約東を結ぶと述べたが、信認では、受
そして、第一の要求事項として「プロセス評価を重視すべし」と説明した。ただし、これは「結果を 軽視してよい」ということではない。第二の要求事項は「結果を軽視しないこと。であると既に述べ たが、その意味するところは「表面化した事件や不祥事の原因は何か、その分析結果を受け、企業は どう変わろうとしているか、長い目で見てこの企業はより良い結果を出し得るか、を確認せよ」とい うことだ。その限りにおいて、評価機関は結果を重視しなければならないのである ただ、顕在化した結果、たとえば、表に出てきた不祥事をどう解釈するかは、そう簡単ではない。 これに関し、評価機関は相手企業を少なくとも三つに分けて対応する必要があろう。 第一は、起こってしまったことが故意であり、悪質であれば、また組織ぐるみの不正であれば、評 価機関はこれを厳しく断罪しなければならない。そもそも、こうした企業を評価の対象とすること自 体、誤っている。この種の企業は、初めから誠実に経営をやろうなどとは考えていない。だから論外 となる。 ここ数年、新興市場に新しい企業が次々と上場されているが、なかには法令違反など気にもとめな 、とんでもない会社がある。ライブドアは、その典型であった。残りの企業には問題がないと祈り たいが、現実はやはり「玉石混淆の状態にある」と言わざるを得ない。それゆえ、評価機関が評価対 かなり注意して評価を行なう必要があろう。 象を新興市場にまで広げる場合には、 第二は、たとえ組織ぐるみの不正を働いたとしても、あるいはある部署の担当者が悪意を持って不 正を働いたとしても、その後、経営陣が刷新され、新たな取り組みを開始するのであれば、評価機関 は、慎重にしかも長い目で、この会社をモニターする必要がある。それは、こうした会社は、まった 204
「契約 - とは、約東を結ぶことで自分の利益をあげることができると考えた二人 ( あるいは複数人 ) が、各自の自由な意思に従い約東を結ぶことである。契約においては、双方の当事者は、それぞれ相 手の利益など一切考慮せす、ただ自分の利益だけを考えて行動する。そのため、できるだけ自己に有 利となるよう各自が主張し続け、結果的に契約内容は詳細なものとなる なお、契約においては、契約を破る自由も与えられる。確かに、一方の当事者が約東を履行しなけ れば、履行しなかった側は相手側に対し損害賠償責任を負う。ただ、たとえ損害を賠償したとしても、 履行しないほうが自己の利益になると考えられる時には、一方の当事者は契約さえ破ることができ る。 ここで重要な前提は、双方の当事者は基本的に自由かっ対等な関係になければならないということ だ。もし両当事者間に交渉力や情報力に大きな格差があれば、契約は成り立たず、それでも契約を行 る あなおうとするならば、両当事者間の格差を正すための措置が講じられなければならない。たとえば、 係消費者契約法は「断定的な判断を与えてはならない、「事実を告げなければならない。「相手を脅して 売り込んではならない」などの条件を売り手側に課してくるが、それは、ほとんどの場合、売り手側 会と比べて買い手側には情報が少なく、売り手側が有利となる契約は公正かっ健全なものであり得ない と考えるからである。 業 企 このように契約関係においては、様々な形で格差を是正するための法的措置がとられるが、これは 章 あくまでも例外的な措置とされている。基本は、あくまでも当事者間の自由な約東にある。 第 以上を踏まえ、契約の特徴を再整理すれば、それは、同程度の情報量を持った個人が自由な意思に
被害額が数万円であれば、結局、泣き寝入りということになる。あえて訴訟を起こせば、訴訟費用や 弁護士費用がかさみ、たとえ勝訴したとしても、持ち出す金額のほうが多くなってしまうからだ。ま たその間の心労や精神的負担まで考えれば、日常生活に支障をきたすわけだから、結局、被害者は、 これを個人的な教訓として受けとめ、沈黙を守ることになる 仮に被害者が「悔しいが、今回は良い社会勉強になった」「もう一一度と同じ過ちは犯さないーなど と考え、日常の生活に戻るとしよう。被害者個人にとっては、これでよいかもしれないが、社会全体 として見れば、個々人の反省だけでは何の解決にもならない。 たとえば、被害者個人の反省は、悪質な事業者からすれば、大変有り難い助けとなる。被害者の誰 一人として批判の声をあげないわけだから、この事業者は「たとえ同じようなことを繰り返しても、 大した非難は起こらない . と考えるようになる。つまり、被害者が我慢してくれるわけだから、事業 者は「これほど楽な商売はないーと考え、他のカモを探し続ける。その結果、どうなるか。被害は全 想国津々浦々まで広がっていく。仮に被害者一人ひとりの損害額は小さくとも、無数の消費者を欺くこ 金とができれば、この事業者の懐には、莫大な利益が残ることになる。これが「少額多数被害」という 援問題である。 者こうした事業者から不当な利益を取り戻す仕組みとして、日本には、たとえば「選定当事者制度」 がある。これは、被害者自らが訴訟の当事者とならす、授権によって「選定当事者ーを定め、その者 章 に訴訟追行を任せるという制度だ。しかし、これは、被害者一人ひとりからの授権が要件となるため、 第 また同じような被害を受けている者がいても、彼らが選定当事者の存在を事前に知ることは容易でな
る機会さえ失ってしまうかもしれない。そもそも、そんな患者は、医者のほうからお断りである。そ れゆえ、素人は素人らしく、治療をプロに任せるのが最良の選択肢となる。 プロを信頼しなければ、最良のサービスを受けられないというのは、弁護士事務所を訪ねるクライ アントについても同様だ。いちいち、弁護士の助言や行動を疑っていれば、弁護士はそのクライアン トのことを第一に考え行動しなくなる。プロは信頼されるからこそ、その信頼に応えようとするから 言うまでもなく、ファンド・マネジャーも財産管理のプロであるから、素人は、投資先や投資額な どに関し、いちいち口をはさまない。プロを信用し、プロに運用を任せることが、結局、素人にとっ て、もっとも合理的な選択肢となる。株主についても同じ論理である。素人は素人らしく経営の細か なところにまでロを出さず、経営の手腕に長けた者に経営を託すこと。これが結果的に自分の利益と る あなるわけだ。 係 こうした共通の特徴が見られるため、これまで触れた「信託義務」は、そのままプロフェッショナ 関 ル全般に適用される義務と見なされるのである。ここでは、拡大解釈されたこの義務を「信認義務 と呼びたい。 社 レ」 業 企 皆がプロフェッショナルである 章 ところで、「信認義務」というものをさらによく考えてみると、それは、右にあげたような医者、 第 弁護士、経営者などのプロフェッショナルだけに限定されない、もっともっと広い概念であることに
従業員の安全や会社の信用、さらには社会に与えるマイナスの影響、これらを考えて開始した活動 であるが、それが結果的に経済的にもペイする形となっている。ただ、私は、交通安全励行活動を通 じフード会社四社が得た一番のメリットは、そこで働く人たちがより高い遵法意識を持ち、また社会 に対する思いやりを強めたことにあると感じている。誠実な会社とは、こうしたことを一つひとっ積 み重ねていくことで、できあがっていくのではなかろうか 牛肉は安心して食べられるか もう一つのチャレンジは、本格的トレーサビリティ・システムを確立するという国際的な挑戦であ る。これを最後に紹介するのは、日本ハム・グル 1 プの社運をかけるほどの壮大な取り組みだからで ある 既述のように、とは、社会が抱えている問題を把握し、企業の立場から解決していくことだ。 先に、トヨタ自動車が社会不安の解消を先取りする形で、ハイプリッド・エンジンの開発に乗り出し、 へ見事な成功を収めた、という話をした。 新もう一度、思い起こしてもらいたい。当初、ハイプリッド関連投資を行なうにあたり、トヨタは、 ら 多くの犠牲を覚悟で、これを断行・継続した。当然、社内にも反対意見はあったはずだ。しかし、省 機 危 エネ化や地球温暖化効果ガス削減という環境問題への対応は焦眉の急となっていた。皆が何もしなけ 章 れば、問題を解決することはできない。誰かが手を打たなければならない。状況をこのように捉え、 第 またそれが社会的使命の一つと考え、トヨタは果敢に挑戦したわけだ。 257
すると「 < 社さんは非常に厳しい。相手の担当者を接待しようものなら、『そんな余裕があるのなら、 より高い品質で、一円でも安く納めて欲しい』と言われた」というのである。さらにその社担当者 が付け加えた。「ただどちらの会社さんで、私たちは儲けさせてもらったかと言いますと、実は、 社さんではなく、 < 社さんだったんですよ」と告白してくれた。 社の商品は故障が多く、結局、市場で売れなくなっていった。これに対し、 < 社の商品は市場か ら高い評価を得、桁違いの数で売れていった。その結果、「非常に大きな利益を < 社との取引で得た」 というのである。しかも「 < 社の要求に応える努力を続けたことで、私たちの会社の技術力も間違い なく磨かれた」と語った。 幸いなことに、この納入業者社は、社と社、双方の会社と取引をしていたので、倒産や売上 の激しい落ち込みはなかったが、仮に社のみを納入先としていれば、社と同じ運命をたどったか もしれない。ただ一般の中小納入業者であれば、競合関係にある複数の大手納入先に対し、同じよう な製品を納めることはできないはずだ。それゆえ、中小納入業者が自らの経営を盤石なものとしたけ れば、まず納入先の品定めをしなければならない そもそも、自分の利益を優先し、会社の利益を軽視する社員が多数いる納入先など、相手にすべき ではない。そんな会社と付き合えば、競争力の喪失のみならず、不正行為の協力まで要請されよう。 もしその要求に黙従し不正が発覚すれば、納入先は責任を中小納入業者だけに押しつけ、さっさと取 引を停止するだけだ。 どのような状況になろうとも、常に自己責任ということを忘れてはならない。市場で評価を得たけ
九〇年代に入ると、景気が悪化そこで、企業倫理に対する意識が高まったかというと、決してそ うではなかった。今度は「この不況下で倫理など言ってる暇はない」との声が大きくなった。結局、 好況であろうが不況であろうが、要は「倫理など経営とはまったく関係ないーということであった。 その結果ではなかろうか。二一世紀に入ると、九〇年代にやっていた「信認に対する裏切り行為」が 次々と表面化してきたのである 不況が続くなかで、企業は何としてでも利益をあげなければならないと考え、本来、手をつけるべ きでないところに手をつけてしまった。「手をつけるべきでないところ」とは、消費者や社会からの 信頼や信用ということだ。まさかそんなことはしないであろうと思っていたにもかかわらず、ある自 動車会社は、数十年間、販売した車の欠陥を隠し続けていた。リコール隠しというやつだ。ある電機 会社も商品の出力表示を偽って、消費者を誤認させていた。食品についても、産地偽装はやりたい放 題だった。表示を信じて購入していた消費者であったが、蓋を開けてみれば、多くの食品会社や小売 業者に騙されていた。 一言で言えば、信頼してくれる消費者や社会は、信じて疑わないわけだから、悪意を持った事業者 には、格好のカモだったわけである。この意味で、企業性善説が不祥事の温床になったと一一一一口えるので ある 第二に、消費者や社会が企業を信頼している裏返しと言ってもよいかもしれないが、信用する者が 「裏切られた」と感じた時には、彼らの発する批判は、契約関係から出てくるものとは比較にならな いほど激しいものとなる。これは先に触れた通りだ。