らいたい」というものであった。 かって、アメリカに駐在していた諸戸氏は、この問い合わせを受け、急遽、二〇年前の記憶をたどっ ていくことになった。 ーファンド修正 一九八〇年代、アメリカでは、包括的環境対策・補償・責任法 ( 八〇年 ) 、スー および再授権法 ( 八六年 ) の二つの法律が制定された。これを総称して「スー ーファンド法」と呼 んでいるが、同法の施行により、汚染された土地が見つかれば、環境保護庁が汚染調査を行ない、有 害物質を投棄した汚染責任者を特定していくこととなった。また、一般には、すぐに汚染責任者が特 定されないため、一旦、政府が、石油税などを基にして創設された信託基金 ( スーパ ーファンド ) の 資金を使い、土地の浄化を進めることとした。近隣住民の健康・安全・衛生に悪影響を及ばす危険性 があるため、こうした措置をとることにしたわけだ。 っ なお、その際の支出分は、事後的に、有害物質の不適切な処分に関わった関係者全員 ( 潜在的な責 亠ま 任当事者 ) に請求される。ここで言、つ「関係者」とは、現在、問題の施設や土地を所有する者、管理 'Äする者にとどまらない。有害物質が処分された当時の所有者や管理者、有害物質の発生者、有害物質 レ ヤの輸送業者、さらにはそうした関係者の株主、関係者に融資した金融機関までが含まれる のスー ーファンド法はアメリカの法律であって、日本企業には関係ないと思われていた当時、伊藤 企 忠商事は、突然、関係者の一人となる可能性を突きつけられたわけだ。まさに、青天の霹靂であった。 章 これに一切関与していないことを立証できなければ、莫大な金額を請求されることになる。スー 第 ファンド法は、過去に遡及して責任を負わせるだけでなく、資金的に余裕のある会社があれば、そこ 225
基づいて結ぶ関係であること、契約を結ぶ相手側は自己利益を図るための手段と見なされること、よっ て各当事者は相手の利益など考慮せず、己の利益だけを考え行動すること。契約関係では、そうする ことが、結果的に、双方の利益にかなうとされるのである。 「契約」から「信認」へ 市場経済の恩恵を受けながら日々生活している私たちは、一見、このような契約関係の上に現代の 経済社会が成り立っているように思いがちである。ところがよく考えてみると、日常の生活は根底的 な部分で信認関係に大きく依存しているのである。 たとえば、日本企業の経営者に「御社でもっとも大切な財産は何ですか」と尋ねれば、まず間違い なく「それはお客様よりいただいている信頼です」という答えが返ってくる。それが事実だとすれば、 まさに日本のビジネス社会は信認の上に成り立っているということになる。 では、重要な位置を占めると思われる「信認関係」とはどのようなものか。右に述べた「契約関係 , と対比させながら、その特徴を整理してみよう。ます信認においては、その関係に入ってくる人々は、 基本的に三者 ( 三つのグル 1 プなど ) となる。後に詳しく触れるが、それは「託す者ー ( 委託者・信 認者 ) 、「託される者」 ( 受託者・受認者 ) 、そしてその両者間の約東を通じて「利益を受ける者ー ( 受 益者 ) の三者関係ということになる。もっとも、委託者が自らを受益者に指定すれば、契約の場合と 同様、二者関係となるが、これはむしろ信認関係の特殊ケースと見るべきであろう。 さて、契約では、双方が自己の利益を図ることを目的として約東を結ぶと述べたが、信認では、受
恐喝グループもいる。不動産会社は、これらをきちんと見分けながら対応していかなければならない。 しかし、これには大変なストレス、心労が伴う。そのため、多くの会社では、悪質グループに対し、 だんだんと毅然とした態度がとれなくなってしまう。 こうした特質を持っ業界にありながら、三菱地所は「反社会的勢力との完全な関係遮断ーを目的と した渉外監理室を設けたのである。それは、大変な取り組みとなることが予想されたはずだ。またそ れだけに、同室長は、企業倫理に対し高い関心を持ち、しかも非常に強い使命感と決意をもって、こ の仕事に臨んでおられた。 一九九七年の事件後、地所に業務監理委員会 ( 現委員会 ) が立ち上げられ、一二月には「三 菱地所行動憲章」が制定された。翌年一月、福澤社長は、当面、同社が力を入れて取り組むべき課題 として、三つを掲げた。それは、第一に反社会的勢力との関係遮断、第二に透明で公正な発注、第三 に節度ある営業活動であった。 社長からの課題提示を受け、社内では、それらを達成するためのルールや仕組みが検討されていっ た。第一課題については『渉外ガイドライン』が策定され、第二課題に関しては『発注委員会規程』 『発注行動指針』『発注にかかわるコンプライアンス・チェックリスト』などが開発された。また第三 課題についても「三菱地所行動指針ーの中に基本姿勢が示され、担当部署が細則を設けていった。 このように、同社は三つの課題を中心に取り組みを進めた。その結果、二〇〇〇年には既に一定の 成果を収めるまでとなった。そこで、二〇〇一年に社長に就任した高木茂氏は「これら三つの課題に 限定せず、範囲をさらに広げて企業倫理に取り組まなければならないーと考え、翌年四月、従来から 216
動、内部監査の実施、監査結果や内部通報を受けての是正措置、問題の外部への公表とシステム全体 の見直し、といった一連の流れが組織の中に存在し、それが機能しているかを見るものである したがって、仮にある組織が何らかの問題や不手際を発見し、これを主体的に公表した場合、・ は、この組織の内部統制活動を機能していると判断する。特に発見された問題が対外的 に大きな影響を及ほす場合、組織は、被害者の救済、事態の収拾、事実関係の究明、影響を受ける人々 への説明をできるだけ正確かっ迅速に行なわなければならない仮にこれらのプロセスが支障なく動 いていれば、評価機関は、この組織に一定の評価を与える必要がある・は、まず評 価機関にこうしたアプローチを採用するよう呼びかけるのである 三井物産のデータ捏造問題をどう考えるか 二〇〇四年一一月、三井物産は、社内の不正行為を内部監査で発見しこれを公にした。不正行為と スは、物産関係者が、東京都など首都圏のディーゼル車規制に絡み、虚偽の試験データを捏造し、排ガ プスの粒子状物質減少装置 (QZ„=) の適合指定を受けたというものだ。性能試験データの改ざんその ものは二〇〇二年二月から行なわれており、この不正には物産子会社ピュアースの幹部をはじめ、複 っ数の社員が関与していた。この点に関して一言えば、三井物産グループの不正は厳しく批判されなけれ 市ばならない。 ただ、プロセス重視という立場に立って三井物産を見る時、私は同社に一定の評価を与えてもよい と考えているなぜかそれは社内の仕組みがそれなりに動いていたと判断されるからである。何を 191
本末転倒も甚だしい。とは、そもそも、自らの事業活動に係わる多様なステークホルダーとの 間に健全な関係を築き、またそれを維持発展させていくことである。顧客との関係、従業員との関係、 地域社会との関係、債権者や株主との関係を考えないで、事業経営を行なう企業など存在しないはず だ。また病院においても、大学においても、自らの活動に係わってくるステークホルダーとの関係を 軽視する組織は、社会の中で存続することはできないはずだ。この意味で、とは、経営そのも のに係わる間題なのである それゆえ、における議論や作業の行方など、企業にとっては、どうでもよいことなのである それゆえ「もし規格化が進めば、取り組むしかない」などと語る経営者がいるとすれば、その企業は、 結果的に、とんでもない「落とし穴」にはまってしまうことになる。 事実かどうかは確認できていないが、ある組合関係者の情報によると、彼らが勤める事業所で、 S014001 の認証を取得するため、会社側の指示に従い、敷地内に残っていた廃棄物を、勤務時 間後、不適切な形で処分したという。これを行なわなければ、環境認証はとれなかったため、また処 理コストを低く抑えたかったため、体裁づくり的な対応をとったという。もしこれが事実だとすれば、 いったい何のための環境認証かわからない。たとえ審査登録機関が環境に優しい会社だと認定したと ころで、化けの皮は直ぐに剥がれよう。そこで働く社員は、認証取得が欺瞞以外の何物でもないこと て え を自分の目でしつかりと見ているからだ。このことを全員が墓場まで持っていってくれればよいが、 代 引現実はそんなに甘くない。事実、私のところには、そうした情報が届いているわけだからだ。 結 もしの分野においても、そんな「体裁づくり」が起こるとすれば、これこそ愚の骨頂である 285
本書の狙い 第 7 章と第 8 章から読むことを勧めたい。そこで紹介される企業事例は、いずれもこの分野のベスト・ プラクティスである ( 当然、このほかにも多数あることを否定するものではない ) 。もっとも、これ ら事例は、企業関係者のみならず、多くの消費者、市民にも読んでもらいたい。市民が企業側の努力 を正しく評価し、間接的にでもそうした企業を応援することが「市民の社会的責任ー (Citizens ・ Social Responsibility) と感じているからである なお、本書は「企業倫理、コンプライアンス、の体制をどのように構築すべきか、について ほとんど何も触れていないインテグリティの高い組織を創る上で、体制構築は不可欠だ。この種の 情報に関心があれば、『コンプライアンスの知識』 ( 高巌著、日経文庫 ) 、『 ECS2000 ガイダンス・ ドキュメント』 ( 麗澤大学企業倫理研究センタ 1 著、 http ://r ・ bec. reitaku-u. ac.jp/ で入手可能 ) などの 著書あるいはドキュメントの活用を勧めたい。特に後者については無料でダウンロードできる。積極 的な利用を期待する。
第 2 章の結びにおいて「不正や無責任に関するお互い様関係は簡単に壊れていくーと述べたが、耐 震強度偽装事件では、まるで絵に描いたかのように、お互い様関係は一気に壊れていった。二〇〇六 年一月の段階では、いったい誰が本当のことを言っているかはわからないが、はっきりしていること は、ドミノ倒しのように各自が互いを批判し始めたことだ。 この事件は、公益通報者が勇気をもって問題指摘したことで表面化した。同通報者によれば、検査 機関は腰が重くなかなか確認に動かなかったという。かなり強くその必要性を訴え、漸く検査機関が 動いたという。また検査機関のみならず、施工業者などその他の関係者にも耐震強度に偽装があるこ とを通告したという その後、批判は偽装を行なった建築士本人に向けられたが、今度は、この建築士が「他の関係者か ら圧力を受けて偽装を行なった」と語り始めた。検査機関について、問題の建築士は「検査が甘いの で、そこに依頼した」と暴露した。もし甘い検査しか行なっていなかったとすれば、同検査機関に責 任がなかったとは言えないはずだ。建築していく過程で、鉄骨が少な過ぎることに気づかなかったと すれば、施工業者もそしりは免れない。多くの関係者は「そんなことがわからないはずはないーと言っ ている。また物件を販売した建築主が迅速な情報開示を怠ったとすれば、これも同様に責められるべ きであろう。さらに行政の監督責任も問われるはずだ。 余談だが、 耐震強度偽装事件を教訓として、重要説明事項のあり方を検討するならば、耐震強度の ような数値そのものに加え、施工や材料などの条件についても消費者は問いただす必要があろう。「駅 に近くて広い物件をできるだけ安くーを謳い文句に、建築主が施工業者に仕事を出せば、施工業者は 222
全体知のみが分別知にその処を得させ、分別知を生かすことになる。にもかかわらず、近代にあって は、全体知の意義は忘れ去られ、分別知のみが独立し、現実を動かすようになっていったというので ある たとえば、男というものを、女との関係において説明する必要はない。男はそれ自身で男としての 根拠を持っている。女というものも、男との関係において説明する必要はない。なぜなら、女はそれ 自身で存在根拠を持っているからだ。各人のあり方は、社会との関係において説明する必要なし。各 人はそれ自身で、自らのあり方を決める根拠を持っているからだ。権利というものも、義務との関係 において説明する必要はない。権利は、権利として存在しており、義務の存在を前提にするものでは ない、などと考えられるよ、つになっていった。 難波田氏は、これを近代特有の合理主義と見なし、ここから、現代の諸問題が派生してきたと観る のである。ただし、それは「崩壊へのシナリオ」だけを説く警鐘の理論ではなかった。純粋な経済学 者の立場からすれば、賛同できないかもしれないが、人間の悟性的分別知でもって、現実の社会をつ くりあげようとしても、また経済社会を設計しようとしても、それが全体知に沿うものでなければ、 歴史そのものが分別知で組み立てた社会を自己修正していく、というのだ。 同氏は、これを論証すべく、アダム・スミスの道徳哲学が形成されていく過程を説明し、その上で、 現実の歴史がかかる形成プロセスを逆に遡っていくと説いたのである。まず形成過程の説明から見て おこ、つ 162
企業は社会に対し信認義務を負う さて議論がここに至れば、私の言わんとするところは、見えてくるはずだ。それは「企業そのもの が社会に対して信認義務を負う」ということである。とりわけ、日本社会のように「企業性善説」と いう考え方が暗黙のうちに受け入れられてきた社会では、その傾向が顕著と言わざるを得ない。なぜ ます一般に消費者と企業の間には、圧倒的な情報格差がある。それは、患者と医者の関係、あるい は患者と病院の関係に非常によく似ている。患者は医療上の知識が乏しいため、医者を全面的に信頼 し、その医者に自らの身体・生命を委ねる。また患者は診察を受ける病院の医療技術を信頼し、そこ に自らの生命を委ねる。いちいち医者の能力や措置を、また病院の医療技術を疑っていては、適切な 治療を受けることができない。一方が他方を信頼しなければ成り立たないこの関係は、実は、消費者 と企業、あるいは社会と企業の間においても見られるものなのである。 こうした指摘をするのは、既述のように、企業経営者に「御社にとってもっとも大切な財産は何で すか」と尋ねれば、ほとんどの経営者がまず間違いなく「それはお客様やお取引先よりいただいてい る信用・信頼です」と答えるからだ。もし「信用や信頼をもっとも大切な財産」と本音のところで考 えているとすれば、それはとりもなおさす、自分自身の会社の経営が「信認関係」の上に成り立って いることを認めていることになる 確かに、こうした経営者の言葉に対して「それは決まり文句のようなものであって、本音の発言で はない」と一言う人もいる。そこで、今、ある消費者がスー 1 に牛乳を買いに行く場面を考えてみた
集団志向的な発想が問題なのか 欧米企業に見られる不正は「社員が会社に対して行なうものが多いーと言われる。横領や背任など が中心となるためである。これに対し、日本企業を巡る不正は「社員が会社のために行なうものが多 と指摘される。しかも、日本の場合、「組織が明示的・計画的に行なうのではなく、社員が暗黙 の合意に基づき、これを行なう」と言われる。組織から明確な指示が出ていないため、不正が発覚し た時、会社側は「組織ぐるみでないーと主張し、不正に係わった本人だけに責任を負わせ、解雇など の措置をとる。 すべての企業がそうだとは言わないが、これまで多くの日本企業がそうした対応をとってきた。も ちろん、その際、解雇された社員も「自分の独断でやった」と説明する。そこまでして会社を守る理 由はどこにあるのか。それは、解雇された後でも、会社が面倒をみてくれるからだ。たとえば、世の 中の関心が薄れた頃、そうした会社は、解雇したはすの社員を関係会社などで再雇用する。これは、 言わば「組織ぐるみ」だったことを認めるような行為である。こんなことをするくらいなら、最初か ら解雇しないほうがよい。体裁だけを整え、その場をしのぐというやり方は、もはや、許容されない このことに、日本の経営者は早く気づかなければならない。 さて、暗黙の合意に基づいて不正が起こるという点を取り上げ、多くの論者が「日本企業で不祥事 が起こるのは日本人が集団志向的な発想をするからだ」と言う。それなら「日本人の発想を、集団志 向から個人志向に変えればよいーということになるが、それは果たして可能なのか。あるいは、本当 に集団志向が不祥事の根本原因なのか