靴が鳴る 爽快に ( 行進曲の拍子にて ) て一て なーを ん一な ん一な とり つ一が つ一が っーが っーが つ つ み み ないで んでは の お か か う は は は 39 みーち つ一む い い を た わー わー れた れた ねて お は を一 に うた おどーれ みそーら みそー ら ーぇ さ ゆ けーば せーば ば ば に に く く く く さぎ に なっ なっ な な な な て て る る る る
靴が鳴る 一お手つないで野道を行けば かわあ みんな可愛い小鳥になって 唄をうたえば靴が鳴る 晴れたみ空に靴が鳴る ニ花をつんではお頭にさせば みんな可愛いうさぎになって はねて踊れば靴が鳴る 晴れたみ空に靴が鳴る てて 作詞清水かつら 作曲弘田龍太郎
作者を探していたのだ。一人は酒を酌み交わしながら、日本の文化 や詩歌を語り合った。 別府氏によれば、「靴が鳴る」には現在歌われない一一番が一一つも ある。昭和十一一年、日本蓄音器商会から発行された「日本童謡全集ー ではこんな二番が 「草のそよ風足なみかるくみんな可愛い蝶ちょになって丘 を越えれば靴が鳴る晴れたみ空に靴が鳴る」 やはり同年ごろ発売されたニットー・レコ 1 ド 「草にそよそよ小風が吹けばみんな可愛い蝶ちょになって 丘を越えれば靴が鳴る晴れたみ空に靴が鵈る」 子供にはどこまでもサービス精神旺盛な人だった。かつらが終生 愛した和光市白子や東京都板橋区成増には曲碑が立ち、毎年コンサ ートが開催される。没後半世紀、色あせることのない子供への慈し みに、人は魅せられる
( 「かつらの童謡と思い出」 ) と書いている かつらの場合、子供の幸せを願う気持ちは、自らの生い立ちや生 活環境と切っても切り離せない 武家出身の両親のもと東京・深川に生まれ、厳しくしつけられた。 父親は注射器のピストンを作る仕事を始めたが、うまくいかない おまけに母親は一一男をわずか一一歳で死なせたことなどから精神的に まいってしまい、家を出てしまう。かつらはまだ四歳。 十二歳の時、父親は再婚した。後妻との間に六人の弟が誕生する が、年齢が離れており、かつらは兄というより、仕事に追われた父 に代わる存在だった。京華商業学校を卒業後、中西屋書店 ( 丸善の 洋書専門店 ) に就職する ここがかつらの才を引き出す舞台となる。中西屋は子供雑誌に目 をつけ「小学新報社」を設立、大正五 ( 一九一六 ) 年「少女号」を 創刊した。編集部に回ったかつらは原稿不足を補うため自ら童話な どを書いた。そして八年、「少女号」九月号に弘田龍太郎の曲とと 2
靴が鳴る 清水かつらの生い立ちを投影 「靴が鳴る」は大正八 ( 一九一九 ) 年と八十年以上前に作られたに もかかわらず、いささかも古さを感じさせない 世は第一次世界大戦景気にわき、中流家庭が増えたとはいえ、子 供の靴はそう普及していないそんな時代、靴に着目した作詞家、 清水かつら ( 一八九八 ー一九五一年 ) のセンスは冴えていた。 かつらは生涯に約三百編の童謡を残した。「靴が鳴る」をはじめ 「叱られて」「雀の学校。「みどりのそよ風」。親しみやすい曲ぞろい だ創作姿勢について、弟の元新聞記者、清水五郎氏は「子どもを よく観察し、子どもの心の中に入って、ともに喜び悲しみ、のびの びとした気持ちを汲み取って子どもたちの幸せを願うことだった 筰詞】 しみすかつら 明治田年、東京生まれ。京 華商卒。青年会館英語学校 卒。卒業後、雑誌「少女号」 「小学画報」の編集に従事。 編集主任・鹿島鳴秋のすす めで童謡を作り始め、大正 8 年ころから「少女号」を 中心に作品を発表。「靴が 鳴る」「あした」「叱られて」 「雀の学校」などは弘田龍 太郎によって作曲され流行 した。昭和生・ 7 月 4 日殳。
かなりや Andante 」 = 80 ーたをわ すれた か なりやは かかか よよよ し ) しし ) ままま てけち し、るつ ~ ににで まぶち やこむ ののの ろどぎ し一な うせや いえいえそれは な りませぬ いえいえそれも な りませぬ いえいえそれは 第 : ーーーーーーーー A11egretto よ = 120 4. うーたをわすれた かわいそう ぞうげの ふーねにぎんのか かなりやは うかべれば つきよ うみ の に ・ア 2 加 わすれ た を おもいだ す っーた
かなりや かなりや 一唄を忘れた金糸雀は 後の山に棄てましよか いえいえそれはなりませぬ 一一唄を忘れた金糸雀は 背戸の小薮に埋けましよか ( 埋め ) いえいえそれもなりませぬ 三唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましよか しえいえそれはかわいそう 四唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす 作詞西条八十 作曲成田為三
一一人をつなぐ「赤い鳥童謡集」に掲載された童謡を毎年コンサー トで披露するアマチュアグループがある。その名も「赤い鳥」混声 合唱団。会長は鈴木の長女、すずさん ( 横浜市 ) だ 服飾デザイナ 1 のすずさんは童謡の世界と縁が薄かったが、「父 の残した仕事を知らないのでは困る」と足跡をたどるようになった。 十四年前、横浜市内で催された鈴木三重吉展をきっかけに知り合 った指揮者、高橋勝司氏らとともに立ち上げたのである 平成五年、初コンサートで挑戦したのは無論「かなりや」など すずさんは「かなりやは成田先生の感性と西条先生の詩がびったり 合って、とても清新な曲です」と自ら合唱の輪に加わっている 童謡を絶えさせるなとの思いを秘めて。 全出を 4 「かなりや」の碑除幕式であい さっする西条八十 ( 昭和年 ) ぎわけ・ 4 ド
思えば、そのころの私自身こそ「唄を忘れたかなりや」だった と振り返る西条。東京・牛込の裕福な家に生まれたが、兄の放蕩で 遺産は処分され、天ぶら屋や株の仲買人をやって生活を支えた。そ して「忘れた唄」を思い出させてくれたのが鈴木だったのだろう。 成田為三 ( 一八九三ー一九四五年 ) の曲が付いた「かなりや」は 子供の歌のイメージをがらりと変え、もてはやされた。また詩人と して西条も脚光を浴びるようになる。早稲田大学教授を務めたり、 戦後は日本音楽著作権協会会長、芸術院会員と活躍ぶりは多彩だ。 童謡以外に「青い山脈」「王将」「支那の夜ー「東京行進曲 - と残し た歌もおびただしい。 昭和三十五年、西条の因縁の地・不忍池のほとりに「かなりや」 の碑が建てられた。弟子の詩人、サトウハチローらが「西条八十会」 を結成し奔走した。この種の碑には歌詞の一番から刻まれるのが普 通だが、「かなりや」の場合、「忘れた唄をおもいだすーの四番だ。 西条自身の選択に、鈴木への変わらぬ感謝の気持ちがうかがえよう
八一一ー一九三六年 ) である。 社会には護憲・普通選挙運動が高まり、文学界では白樺派が気を 吐いていた。「赤い鳥」は童謡運動の出発点となる。鈴木が注目し たのが西条八十 ( 一八九一一ー一九七〇年 ) の才能で、自ら足を運ん で作詩を依頼した。 詩を志す西条の生活はそのころ決して楽ではなく、翻訳の仕事の ために東京・上野の不忍池近くのアパートを借りていた。西条は 「現代童謡講話」で詩作の舞台裏を語っている それは娘を抱いて上野の公園を歩いているときだった。ふと浮か んだのが十三、十四歳のころ連れていかれた教会のクリスマスの光 景だ 「その祭日の夜には、堂内の電燈がのこらず華やかにともるのであ った。ところが妙なことにその中でただ一つ、天井の一番てつべん の窪処にある電燈のみが点いていなかった。・ : 自分だけがふと歌う べき唄を忘れた小鳥を見るような淋しい気持ちがしたのであった」 【作曲】 なりたためぞう 明治年、秋田県森吉町生 まれ。東京音楽学校卒。在 学中の歳の時、「浜辺の 歌」を作曲。「赤い鳥」を 通じて童謡運動に参加。 「かなりや」など多くの童 謡を作曲。著書に「童謡の 起源」などがある。昭和 年月四日没。