謡はおびただしいのだ。音楽文化研究家、長田暁一氏は「まず童謡 があり、流行歌は後からついていった」と指摘する 長野県生まれの中山は小学校を卒業し代用教員を務めてオルガン を弾いた。島村抱月の書生となり、東京音楽学校卒業後も浅草の小 学校で音楽講師として働いている。この時期に中山の " 核。が形成 されたわけだ。 「子供達の歌」の出版にあたって、海野、中山ら同人四人はこう宣 言する 「子供の歌は、どこまでも子供達の心持から離れたくない。真に日 本に育つべき音楽があるならば、先ず、子供達の歌から育てたい その意気込みどおり、「背くらべーには子供の日常語が自然に使 われた。哀愁を帯びた曲がもてはやされた当時としては珍しい三拍 子のリズムが新鮮に響いたことだろう 海野は七人きようだいの長兄だが、弟の欣也氏は後年、新聞社の インタビューに「あの歌はみんな私たち兄弟姉妹のことを歌った生
平成十年十一月、文部省から改定案が公表された直後の十一一月、 市議会は教科書への継続採用を求める議決を行った。翌年一月、実 行委員会を結成し、住民らが署名活動を行ったり、文部省、教科書 会社に陳情を繰り返した。全国で集まった署名は十万七千人分とい うから、人気ぶりが推し量れよう 同じような危機感は「箱根八里」 ( 作詞・鳥居忱 ) にうたわれた 神奈川県箱根町でも高まった。やはり十一年夏から秋にかけて文部 省などへ要望書を出したり、署名運動を展開した。 こうした運動の結果、「荒城の月ーは中学校教科書ではそのまま 残されることになる半面、小学校の一社ではずされた。「籀根八里」 は小学校の一社で鑑賞教材として曲名のみの記載にとどまったもの の、大きな後退は避けられた。 むしろ従来、山田耕筰の編曲を載せていた「荒城の月」が部分的 に滝の原曲に戻された。 ところで、この二曲は明治三十四年の「中学唱歌」に初めて掲載 まこと
変なタブー 自己規制と外圧で作られる 「赤い靴」。野口雨情、本居長世コンビで大正十 ( 一九二一 ) 年に 発表された童謡は根強い人気を保っている。ところが、教科書に扱 われることがない。その理由を教科書編集者が明かす 「いい曲なんですが、『異人さんにつれられて』の歌詞は、外国人 が女の子をさらうという意味に受け取られ、外国人への差別的ニュ アンスがある。だから載せにくい 確かにいまは外国人のことを異人とはいわない「船に乗って連 らち れられる」は、どこかの国の拉致事件を連想させる。しかし待って まし、。 そんな恐ろしい目にあった女の子の曲なのだろうか 野口は札幌の新聞記者時代に作詞のヒントを得た。隣で暮らす夫 【作詞】 あさはらろくろう 明治年、長野県池田町生 まれ。早稲田大学英文科卒。 卒業後、実業之日本社に入 社し、「少女の友」を編集 このころ鏡村のペンネーム で童謡「てるてる坊主」を 作詞。その後、小説に専念 し、川端康成・尾崎士郎ら と十三人倶楽部を結成。代 表作に「混血児ジョオヂ』 「女群行進』などがある 昭和年加月日没。 126
変えられた歌詞 「春の小川」など詩情損なう勝手な改定 これまで教科書が遠ざけた珠玉のような童謡・唱歌を紹介してき たが、現在、載っているからといって、創作当時の姿であるとは限 かじゃ らない。「村の鍛冶屋ーで触れたように文部省主導で歌詞が変えら れたり、削除された曲がある その目的は第一に「子供が歌いにくいといった先入観による文 語体の追放だ。しかし改作で本来の詩情が損なわれてしまったケー スがある 「春の小川」。高野辰之、岡野貞一コンビによる唱歌の定番だが、 大正元 ( 一九一一 l) 年、「尋常小学唱歌 ( 四 ) 」に掲載されたもとの 歌詞は一一度も変えられた。昭和十六年、学制改革で小学校が国民学 【作詞】 たかのたっゆき 明治 9 年、長野県豊田村生 まれ。長野師範卒。歳で 文部省国語教科書編纂委員 となり、歳から文部省小 学唱歌教科書編纂委員を務 めた。「春が来た」「春の小 川」「ふるさと」「朧月夜」 などの文部省唱歌の作詞家 として知られ、校歌の作詞 も全国百校以上に及ぶとい われる。昭和年 1 月日 4 114
昭和十一一 ( 一九三七 ) 年に始まった日中戦争から太平洋戦争にか けての時代、童謡運動は去り、子供の歌をめぐる環境は軍国歌謡な どに押されて、明るい輝きを失ったといわれる。だが厳しい時代に しもおさかんいち あっても、下總皖一 ( 一八九八ー一九六一一年 ) は「野菊」をはじめ 「たなばたさま」「ほたる」など豊かなメロディーを残した。 代表曲「野菊 , は昭和十七年発行、国民学校初等科三年生用の 「初等科音楽・一」に発表された。 太平洋戦争開戦前夜の十六年三月、それまでの小学校は国民学校 に改められた。音階を表すドレミフアソラシという外国語は使用禁 止となり、代わって日本語のハニホへトイロが強制された。やがて 戦時下に国民を励ました清楚さ 筰曲】 しもおさかんいち 明治田年、埼玉県生まれ。 東京音楽学校卒。師範学校 教員を務めた後、ベルリン に留学、高等音楽院でヒン 一、ア、、、ツトに作曲を師事。作 品は歌曲、器楽曲、合唱曲、 管弦楽曲の全分野にわた 和楽器を洋楽に使用し た作品や合唱曲「春の雪」 などがある。昭和年 7 月 8 日殳。
八一一ー一九三六年 ) である。 社会には護憲・普通選挙運動が高まり、文学界では白樺派が気を 吐いていた。「赤い鳥」は童謡運動の出発点となる。鈴木が注目し たのが西条八十 ( 一八九一一ー一九七〇年 ) の才能で、自ら足を運ん で作詩を依頼した。 詩を志す西条の生活はそのころ決して楽ではなく、翻訳の仕事の ために東京・上野の不忍池近くのアパートを借りていた。西条は 「現代童謡講話」で詩作の舞台裏を語っている それは娘を抱いて上野の公園を歩いているときだった。ふと浮か んだのが十三、十四歳のころ連れていかれた教会のクリスマスの光 景だ 「その祭日の夜には、堂内の電燈がのこらず華やかにともるのであ った。ところが妙なことにその中でただ一つ、天井の一番てつべん の窪処にある電燈のみが点いていなかった。・ : 自分だけがふと歌う べき唄を忘れた小鳥を見るような淋しい気持ちがしたのであった」 【作曲】 なりたためぞう 明治年、秋田県森吉町生 まれ。東京音楽学校卒。在 学中の歳の時、「浜辺の 歌」を作曲。「赤い鳥」を 通じて童謡運動に参加。 「かなりや」など多くの童 謡を作曲。著書に「童謡の 起源」などがある。昭和 年月四日没。
手がけるマルチ人間だった。 しかし病弱で学生時代、療養のため夏は東京からしばしば御宿を 訪れた。現在はマンションや民宿が並ぶが、当時は静かな漁村で、 弧状の海岸には大きな砂丘がうねっていた。 自然の中で着想した加藤は大正十一一 ( 一九二一一 l) 年、雑誌「少女 倶楽部」三月号に絵とともに「月の沙漠ーの詩を発表した。甘美な 詩にひかれて作曲したのが佐々木すぐる ( 一八九一一ー一九六六年 ) である 東京音楽学校を卒業し、苦労しながら童謡作曲家を目指した佐々 木は音楽教員養成のために各地で講習会を開いていた。ガリ版刷り の教材に利用したのが自作の曲だ。「月の沙漠」はまず教員らの心 をつかむ。 発表から約半年後、関東大震災が日本を襲った。死者行方不明者 約十四万人と未曾有の被害をもたらしたが、「月の沙漠」は荒廃し た社会を勇気づけた。やがてレコードで全国にあまねく知れ渡るよ 2 【作曲】 ささきすぐる 明治年、兵庫県阿弥陀村 生まれ。東京音楽学校甲師 科卒。浜松師範在職中に 「青い鳥」を作曲。大正 年「青い鳥楽譜」を発刊し て自作を発表。童謡を中心 に数千に上る作品を残し た。主な作品に「月の沙漠」 「お山の杉の子」「赤ちゃん のお耳」などがある。昭和 年 1 月日殳。
横田憲一郎 ( よこたけんいちろう ) 昭和 21 年、神戸市生まれ。 44 年、京 都大学法学部卒業後、産経新聞社入社。 社会部記者として経済事件、自治体 経営、地域文化、教育問題などの取 材にあたる。大阪本社社会部長、東京 本社編集局次長兼文化部長、大阪本社 編集局次長を歴任し、平成 11 年より 論説副委員長。現在の主な取材分野は 司法改革、地方分権。 教科書から消えた唱歌・童謡 二〇〇二年四月三十日初版第一刷発行 第二刷発行 二〇〇二年五月十日 著者 / 横田憲一郎 発行者 / 小原常雄 発行 / ( 株 ) 産経新聞ニュースサービス 発売 / ( 株 ) 扶桑社 東京都港区海岸一ー一五ー一 ( 〒一〇五ー八〇七〇 ) 電話〇三 ( 五四〇三 ) 八八八三 ( 編集 ) 〇三 ( 五四〇三 ) 八八五九 ( 販売 ) http://www.fusosha.co.jp/ 印刷・製本 / 日本プリンテクス株式会社 日本音楽著作権協会 ( 出 ) 許諾第 0203445 ー 202 号 ◎ 2002 Kenichiro Yokota ISBN 4 ・ 594 ・ 03470 ・ 5 Printed in Japan 1 に表示してあります。 定価はカバ 落丁・乱丁は扶桑社販売部宛にお送り下さい 送料は小社負担にてお取り替えいたします。
ピアノを学び、首席で卒業した。本格的に作曲活動に入るのは大正 九 ( 一九二〇 ) 年、同校助教授を辞してからだ。同年九月、雑誌 「金の船」に「十五夜お月さん」を発表した。 野口雨情 ( 一八八一一ー一九四五年 ) の詩は、母を失い妹や世話を してくれる婆やとも離れて一人、月を見上げる子供の寂しい姿を描 写する本居は古謡「うさぎうさぎ」の旋律を取り入れ、ゆったり と歌い上げた。 本居は自信作を八歳の長女・みどりさんに歌わせることにした。 同年十一月、東京・有楽座でオーケストラをバックに歌唱するけな げな姿は大喝采を浴びた。この成功で野口とともに童謡作家として の地位が確立された。 本居の曲の魅力は、長短両音階の巧みな流れにやさしく、どこか もの悲しげな日本情緒が漂うところにある。そのやさしさは一男三 女のわが子を見つめる父親のまなざしかもしれない。そして三人の 娘は作品普及の最大の功労者でもあった。 かっさい 筰詞】 のぐち - つじよ - っ 明治朽年、茨城県中郷村生 まれ。東京専門学校英文科 中退。中学から詩作を始め、 年三木露風らと早稲田新 社を結成。大正 8 年から童 謡を書き始める。北原白秋、 西条八十らと近代童謡の基 礎を固め、以後も童謡、地 方民謡の創作に活躍した。 代表作に「十五夜お月さん」 「波浮の港」「青い眼の人形」 などがある。昭和年 1 月 7 日殳。 1 第 マ /
な野菊がよく咲く。冬の夕方、赤城山から吹き出す空っ風が肌を刺 した。 同町の下總皖一資料室の中島睦雄さんは「よく遊んだふるさとの 情景を歌った」と見る。「遠い山から吹いてくるこ寒い風」に、激 しくなる戦争や暗い時代を迎える不安を、また野菊には、懸命に生 き抜こうとするけなげさを読み取ることもできる。疎開など自分の 苦しい体験と重ねて「野菊」に限りない愛着をもつ人が多い 下總は大正九 ( 一九二〇 ) 年、東京音楽学校を首席で卒業し、岩 手、秋田などの師範学校で教えたのち、ドイツでヒンデミットに学 んでいる。管弦楽、室内楽、合唱曲など生涯に三千曲以上残したエ リートである その下總も留学時代、挫折し帰国を決意した。思いとどまらせた のが、ヒンデミットの「日本には西洋の油絵と違った墨絵がある 作曲のヒントになると思う」の一言だった。翻意した下總の関心は 以後、日本の伝統にも広がり、洋楽と邦楽の橋渡し役を自覚させる