長い長い引用となったが、どうだろうか、銀杏返しがなんとも巧みに使われているでは これでわかるように、銀杏返しの姿は、代助にはじめて見せた姿であるとともに、三千 代にとって二人の出逢いを忘れないように、胸底にしまっておきたい姿でもあった。しか も、代助にほめられた。代助の心に刻まれた自分のイメージを、このとき三千代は認識し た。以後「決して銀杏返しには結わなかった」のは、ほかのものにまでそのイメージを与 えたくはなく、代助びとりのなかのものにしておきたかったから。一種のナルシスム。そ の上「二人は今もこの事をよく記憶していた」とは何たることよ、おだやかな話ではない。 しかも、三千代は「この間百合の花を持って来て下さった時も」わざわざ銀杏返しに結 って、代助に見せにきている。代助には、その時にもう三千代の気持がわかったのに、そ らしいというのは、漱石がそのことに知らん顔をし ちのときは、よう一一一口わなかったらしい 女ているからである。ここにいう「この間」とは、五月下旬、三千代が昼寝していた代助を 返訪ねてきたときのこと。代助が眼をさまさないので、彼女は表へ出て神楽坂で買物をすま 銀せて、また戻ってくる。漱石はその時の三千代をこう描写する。 : セルの単衣の下に襦袢を重 「三千代の顔はこの前逢った時よりはむしろ蒼白かった。 テープル 第 ねて、手に大きな白い百合の花を三本ばかり提けていた。その百合をいきなり洋卓の上に 三 - ロ ひとえ
投ける様に置いて、その横にある椅子へ腰をおろした。そうして、結ったばかりの銀杏返 を、構わず、椅子の背に押しつけて、『ああ苦しかった』と云いながら、代助の方を見て 笑った」 ( 十章 ) 三千代が鈴蘭をつけた鉢の水をがぶが そしてこのあと、代助が水をくみにいった間に、 ぶと飲む、という印象深い場面がくるのである。百合や鈴蘭に読者の視線を集めておいて、 もう一つの大事な契機となる髪型を、「結ったばかりの銀杏返を、構わず、椅子の背に押 しつけてーとただの一行で書きすごして知らん顔。ここにも漱石の小説作法のあざやかさ がある。 こう眺めてくると、三千代という女性がその表面的なさびしげな姿とは裏腹に、ただも のではないような気がしてくる。きまって銀杏返しに結った姿を代助にみせるのは、決し とっておきのイメージ再現で、男に惚れさせる、そんな術を て気まぐれなんかではない。 心得た、とはいわないまでも、代助との間を菅沼三千代へ戻す、すなわちはるか昔からや り直したいという願い を、彼女のほうが胸の底の底にびそめていたのじゃあるまいか 退路を断たれた代助は、ついに三千代に愛の告白をするが、そのときの三千代の毅然た ることよ。 「その顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えていた。涙さえ大抵は乾いた。頬の色はもと 196
さて、『それから』という物語の核心は、つぎのような会話で進展してい 「あの時分の事を考えると」と半分云って已めた。 「覚えていますか」 「覚えていますわー 「あなたは派手な半襟を掛けて、銀杏返しに結っていましたね きたて 「だって、東京へ来立だったんですもの。じき已めてしまったわ 「この間百合の花を持って来て下さった時も、銀杏返しじゃなかったですか 「あら、気が付いて。あれは、あの時ぎりなのよ 「あの時はあんな髷に結いたくなったんですか 「ええ、気紛れにちょいと結ってみたかったの」 「僕はあの髷を見て、昔を思い出した」 「そう」と三千代は恥すかしそうに肯った。 三千代が清水町にいた頃、代助と心安く口を聞くようになってからの事だが、始めて国 から出て来た当時の髪の風を代助から賞められた事があった。その時三千代は笑っていた が、それを聞いた後でも、決して銀杏返しには結わなかった。二人は今もこの事をよく記 憶していた。 ( 以下略 ) や
ぎよくろうせき ねり 美術品だ。ことに青味を帯びた煉上け方は、玉と蝋石の雑種の様で、甚だ見て心持ちがい 、 0 のみならす青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れた様につやつや して、思わず手を出して撫でて見たくなる」 ふと思うのであるが、漱石の全作品から匂いに関する部分をぬきたしたとしても、この 羊羹の描写の行数に達しまい。 しいところだぜ、と異論をとなえる人の声が聞こえ しいきると、おいおい、早合点も、 てくるような気がする。左様、『それから』の白百合の匂いである。この花は最初は三千 代によって三本ばかり、つぎには代助によって沢山花屋から買ってこられる。そして匂い は、十章の、 「さっき三千代がさけてはいって来た百合の花が、依然としてテープルの上に載っている。 ち甘たるい強い香が一一人の間に立ちつつあった」 女であり、十四章の、 返「彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が瓣に着く程近く寄って、強い香を眼の眩うまで 銀嗅いだ」 である。しかも、この両回とも、匂いが部屋にこもるように、漱石はわざわざ鬱陶しく 第 雨を降らせている。 ニ - ロ はなび・り
ともそこに発するものと考えられる。 明治四十年四月、朝日新聞に人社を記念して行った講演「文芸の哲学的基礎」のなかで、 1 漱石は、工業化のシンポルである煙突の煙について、こう語っている。 「私は今日此処へ参りがけに砲兵工廠の高い煙突から黒烟がむやみにむくむく立ち騰るの をみて、一種の感を得ました。考えると煤烟などは俗なものであります。世の中に何が汚 そうして、あの黒いものはみんな ないと云って石炭たきほどきたないものは滅多にない。 金がとりたいとりたいと云って煙突が吐く呼吸だと思うとなおいやです。その上あの烟は 肺病によくない」 この感想を漱石は『それから』 ( 明治四十二年執筆 ) のなかで活かしている。主人公長井 代助は、仕事に失敗して東京へ帰ってきた旧知の平岡の妻三千代に窮状を訴えられて、金 策の結果、嫂から借りた二百円を手に急いで平岡の家へ向かった。 「坂を上って伝通院の横へ出ると、細く高い烟突が、寺と寺の間から、汚ない烟を、雲の 多い空に吐いていた。代助はそれを見て、貧弱な工業が、生存のために無理に吐く呼吸を ・つち 見苦しいものと思った。そうしてその近くに住む平岡と、この烟突とを暗々の裏に連想せ ずにはいられなかった」 ( 八章 ) 生きるために、義理をかく、人情をかく、恥をかかねばならない現代社会。代助が三千
戦前の昭和の娘も銀杏返しを好んで結った。流行歌「すみだ川」の主人公は、一番の歌 はたち 詞のつぎのセリフで「私は十七、あなたは二十」というから、下町の小娘であったことが わかる。 この銀杏返しの髪型を『それから』で漱石が実に巧みに使っている。ポンヤリと読んで いるとわからないが、 百合の花の色と香りとともに、三千代と代助が " 昔。に戻るために、 漱石はうまく仕掛けて銀杏返しを書いている。百合のほうは、藤谷美和子出演の最近の映 画「それから」なんかで、大袈裟に扱われていたから知る人も多いが、三千代の髪型がい かに微妙に代助の恋心をそそったか、知る人ぞ知る、かもしれない。 言オしことがあるからと、友人平岡の妻 『それから』のクライマックスは、六月下旬、舌しこ ) 三千代を代助が自宅によび寄せた十四章。牛込神楽坂にある代助の自宅で「雨のために、 ち雨の持ち来す音のために世間から切り離され」「孤立のまま、白百合の香の中に封じこめ 女られた」二人が、「五年の昔を心置きなく語り始め」るときである。昔語りをたがいに語 返るにつれて、それぞれいまの自分のことが遠のいて、だんだん昔が戻ってきて「二人の距 銀離はまた元のように近くなった」。その「元」とは、代助が大学生で、三千代がまだ十八 歳の菅沼三千代であったとき、彼女がまだ平岡と結婚していなかったとき、つまり二人が 3 第 いうまてもない。 一緒になるチャンスがあったとき、であるのは、 を - ロ
して然らば甚だ気の毒の感を起し候。その顔に何だか憐れ有之候。定めて女房に惚れてい ることと存じ、これからは御神さんを余り見ぬことに取極め申候」 歌麿の浮世絵美人を観賞するような気持で、漱石は門弟たちにも冗談まじりに「あの女 ぞ、ご懇意願いたいもんだ」ぐらいのことをいってい は浮世絵風の美人で、なかなかいい たのかもしれな、。 し鰹節屋の亭主こそいい面の皮といったところか この話には、森田草平が、先生の惚れた女を一目見ようと、山房訪問のたびに鰹節屋を 何度も何度ものぞいたが、くだんの歌麿的美形をとうとう一度も拝めなかった、だから、 「これは先生のデタラメ話だ」と、のちのちまで言い張っていた、というオチまでついて もう一つ、これはいささか牽強付会の説となるかもしれないが、わたくしはひそかに 『それから』の三千代は、この鰹節屋のおかみさんのイメージを漱石先生が拝借したので はなかろうかと思っている。この小説の執筆はこの年の五月三十一日から。四月十一日付 の三重吉宛の書簡にあるように「これからはお神さんを余り見ぬことに」したかわりに、 作品に登場させたものにちがいない。そして三千代は「一寸見ると何所となく淋しい感じ の起る所が、古版の浮世絵に似ている」と描いている。 漱石先生はなかなかに茶目なところがある。 278
・美禰子の身長 とくに必要なことでもないのに、気になるとそれから抜けられなくなって、調べてみる こととした。明治大正のころの女性の体格である。近ごろのように、男勝りの美人の偉丈 夫 ( ? ) をちょいちょい街頭なんかで見かけるようになると、小股の切れ上っただの、コ ツマナンキンだのという一言葉も忘れがちになるが、昔は小粒ながらシャキッとした女性が 大いにもてたものであった。 実は、あるとき、漱石の小説のヒロインについてのイメージを描いてみて、はたして彼 女らはいかなる肢体を形成していたのか、やたらに気になって寝つきが悪くなった。小説 の主題や大筋にはたいして関係ない。まして文学研究とは縁もゆかりもない。けれど、 『それから』の三千代や『こころ』の奥さんや『門』のお米や『虞美人草』のお糸が、大 女であってはちょっぴり気分がよくない。たいして『三四郎』の美彌子や『草枕』の那美 ・河豚汁や死んだ夢みる夜もあり ・ふくれしょ今年の腹の粟餅に 182
・兵助と代助 「彼は子供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父さんから、しばしば観音様の 繁華を耳にした。仲見世だの、奥山だの、並木だの、駒形だの、いろいろ云って聞かされ る中には、いまの人があまり口にしない名前さえあった。広小路に菜飯とか田楽を食わせ なわのれん どじようや るすみ屋という洒落た家があるとか、駒形の御堂の前の綺麗な縄暖簾をさけた鰌屋はむ / 、い↓わの かしから名代なものだとか、食物の話も大分聞かされたが、すべてのうちで最も敬太郎の 1 」うしゅ・つい 頭を刺戟したものは、長井兵助の居合抜と、脇差をぐく 、。い呑んでみせる豆蔵と、江州伊 ぶきやま あとあし 吹山の麓にいる前足が四つで後足が六つある大蟇の干し固めたのであった」 ざ老女から取材してきたことを教えてくれた。それによると、銀杏返しの髪型は比較的貧 しい家の娘に多かったらしい。 とくに興味深いのはつぎの話 「人妻が銀杏返しを結うことはまずなかった。もし結うとすれば、外見はともかく、心の 内ではもう完全に夫から離れていることの証し、ともいえるんですって : : : 」 三千代の心底、シカと見えたり、ではあるまいか うち おおがま いし 0
さんや『虞美人草』の藤尾や『坊っちゃん』のマドンナは、ツンとした美貌の大女であっ てもかなり許せる気がする。なんとなく受け身で可憐な感じと、積極的で技巧的な感じと の差で、おのずから体格がきまってくるような感じである。 。明治三十七年から大正五年まで、 それで無駄なことと知りつつ調べた結果をつぎに 文部省の体育課が、二十歳の女学生について調査した体格平均表の摘要はつぎのごとし。 漱石の小説はこの年代のなかにおさまるから、当時の若い女性の平均的姿態と考えていい。 年次 身長 ( センチ ) 体重 ( キログラム ) 胸囲 ( センチ ) 七七・〇 ・明治三十七一四八・五四八・一 七八・八 四十二一四八・五四八・一 七八・八 ・大正二 一四九・七四八・九 七八・八 プ 五 一五〇・六 四九・一 胸囲つまりバストはほとんど変らないのに、背丈が二センチほど伸長し、それだけ体重 ますは レも一キロばかりふえていることがわかる。それとて大仰に書くほどのこともない。 ス『吾輩は猫である』から『明暗』まで、漱石の時代の " 大和撫子。の代表的デッサンは、 話 現在われわれの周囲にいる女性たちのなかから右の条件で探せば、めでたくも簡単に発見 第 できる。そこから三千代やお米のイメージも描くことができよう。 183