* 印は文庫 徹底抗戦、一億玉砕論渦巻くなか、国家の分 耶王断天皇と鈴木貫太郎半藤一利断を阻止する宰相鈴木と、平和を希求される 天皇との肝胆相照らす関係を描く感動の物語 陸海軍の統率者と補佐役の組み合せ十三例の コンビの研売九半藤一利功罪を分析し、組織における真のリーダー像 を探り、これからの経営者の条件を洗い出す 昭和史のなかの指揮官と参謀 宰相、名優、文豪、財界人らが住み暮らした 垂見健吾写真 ロ日 家の息遣い、マッカーサーの部屋があったホ 史の家 半藤一利文 テルや東京駅等公的建物を通して昭和を読む 日米両海車が決死の覚悟で記録した写真でた * 太平洋戦争 どる「太平洋海戦史」「日本海軍名艦総集」 日本軍艦戦記半藤一利編 「大海戦名将録」など、太平洋戦争史入門 文藝春秋の本
装幀・坂田政則 扉カット・半藤一利
漱石先生ぞな、 もし 半藤一利 0 ◇ 0 文藝春秋
漱石先生ぞな、 もし 半藤一利 リサイクル資料 ( 再活用図書 ) 除籍済 文藝春秋
〈著者略歴〉 一九三〇年東京生れ。一九 五三年東京大学文学部卒業。 同年 ( 株 ) 文藝春秋入社。 以来『週刊文春』『文藝春 秋』各編集長、出版局長、 専務取締役等を歴任。現在 同社顧問。 著書に、『聖断』『原爆の落 ちた日』『日本のいちばん 長い日』『コンビの研究』 『昭和史の家』 ( 以上、文藝 春秋 ) 、『山本五十六の無 念』 ( 恒文社 ) 、『大相撲こ てんごてん』 ( べースポー ル・マガジン社 ) 、『昭和史 の転回点』 ( 図書出版社 ) 、 『山県有朋』『歴史探偵昭 和史をゆく』研究 所 ) 等多数。 漱石先生ぞな、もし 一九九二年九月一一十五日第一刷 定価はカバ ーに表一小してあります 8 はんど - っ ー」 2 っ /. 0 著者半藤一利 0 CO 発行者新井信 株式 発行所 文藝春秋 ′会社 〒一〇一一東京都千代田区紀尾井町三ー一一三 電話〇三 ( 三一一六五 ) 一二一 本文印刷理想社 付物印刷凸版印刷◎ 製本加藤製本 万一落丁乱丁の場合はお取替えいたします
湯も水も飲ますに、ポリポリとかみくだいては、生唾のカで食道へ送って、昼食のかわり にした」こともあるような生活を、漱石はロンドン留学で強いられた。 ちなみに、明治十七年に二十三歳の森外はベルリンに留学した。このときの留学費は 年額千円。明治十七年の千円と三十四年の千八百円とでは、どのくらい値打ちが違うもの か。玄米一石の標準価格でくらべてみると、 明治十七年四円 ~ 五円 明治三十四年九円 ~ 十一円 三十四年のほうがおよそ二倍強になっている ( 長谷川泉氏による ) 。陸軍省からの留学生 の森外が、文部省からの留学生より恵まれていたことがわかる。というより、十年代と 三十年代の明治時代の、社会状況の差がそのまま反映されていた。 もう一つ例をあけると、留学中の漱石は休職扱いで、その間、留守宅の鏡子夫人は実家 憂の中根家で暮らしていたが、文部省から支給される休職費は月額一一十五円。ただし、建艦 費として二円五十銭が差引かれ、実際には一一十二円五十銭であった。 ここにいう建艦費とは、世界列強に伍していくために弱体な海軍力を増強しようと、明 治二十五年から強制的にとりたてられた一種の税金である。ときの伊藤博文内閣が、海軍 第 拡張予算をくんだが議会で承認をえられず、それならばと明冶天皇に勅語を奏請、強引に - 三ロ
第 5 話ホームドラマの主人 厨の方で根深切る音 専念にこんろ煽ぐは女の童 黄なもの溶けて鍋に珠ちる じと鳴りて羊の肉の煙る門 ダンテに似たる屑買が来る まさに『吾輩は猫である』一一章の世界がそのままに詠まれている。しかも十句のうち、 食いものに少しでも関連しているのが半分の五句。脇句の「胃弱の腹に三椀の餅」とは、 いくら何でも多すぎるぞな、もし。漱石先生はかなりのグルメ、それも級の、と判定し たくなってくる。 ・相撲取の屈托顔や午の雨漱石 どうであろうか、漱石が大の相撲好きであったとは、あまり知られていないことなので はないか。 ひる ・相撲を楽しむ 153
岡昇平氏『小説家夏目漱石』 ( 筑摩書房 ) の一刀両断がものすごかった。 ( 「ユリの美学」 ) 「一体江藤さんは、なんでも強引に自分の仮説に都合よく解釈する癖があっていけません。 江藤さんは優秀な批評家ですが、なにぶん若くてせつかちですから間違えるのです」 しかし、ここはそんな高尚な ( ? ) 論をたてる場ではないのはもちろんで、むしろ中年 の漱石先生が惚れたらしい鰹節屋のおかみの話をするほうが、すっと話に空想の翼がはえ 0 て面白くなる。明治四十一一年三月十四日付の漱石の日記 「今日も曇。きのう鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着ていた。派出に 見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をしている方が感じがよい」 つづいて四月二日と三日 「散歩の時、鰹節屋の御神さんの後ろ姿を久し振に見る」 きっと 房「鈴木順次日く『夏目は鰹節屋に惚れる位だから吃度長生をする』と。長生をしなくって 山 石も惚れたものは惚れたのである」 の 日 この神さんが銀杏返しにでも髪を結っていると、話はもっとうまくでき上るのだが、年 る あ齢からいっても無理な話か。 四月十一日付の鈴木三重吉宛ての書簡に、漱石は書いている。 第 「今日散歩の帰りに鰹節屋を見たら、亭主と覚しきもの妙な顔をして小生を眺め居候。果 ニ二ロ 0 277
さて、『それから』という物語の核心は、つぎのような会話で進展してい 「あの時分の事を考えると」と半分云って已めた。 「覚えていますか」 「覚えていますわー 「あなたは派手な半襟を掛けて、銀杏返しに結っていましたね きたて 「だって、東京へ来立だったんですもの。じき已めてしまったわ 「この間百合の花を持って来て下さった時も、銀杏返しじゃなかったですか 「あら、気が付いて。あれは、あの時ぎりなのよ 「あの時はあんな髷に結いたくなったんですか 「ええ、気紛れにちょいと結ってみたかったの」 「僕はあの髷を見て、昔を思い出した」 「そう」と三千代は恥すかしそうに肯った。 三千代が清水町にいた頃、代助と心安く口を聞くようになってからの事だが、始めて国 から出て来た当時の髪の風を代助から賞められた事があった。その時三千代は笑っていた が、それを聞いた後でも、決して銀杏返しには結わなかった。二人は今もこの事をよく記 憶していた。 ( 以下略 ) や
・実業家ぎらい 金もうけのためには、義理・人情をかき、恥をかく、とよくいわれている「三角法な るものがある。だれが最初にいいだしたのか、つまびらかにしないが、漱石先生の『吾輩 は猫である』のなかで見出したときには、大袈裟でなく仰天した。これが本邦初公開とは 断じないが、ずいぶんと早い紹介であったことに間違いはない。 苦沙弥と旧友鈴木藤十郎という実業家との会話のなかにでてくる。 「僕は実業家は学校時代から大嫌だ。金さえ取れれば何でもする、昔で云えば素町人だか らな」 「まさかーーーそうばかりも云えんがね、少しは下品なところもあるのさ、とにかく金と心 ところがその金という奴が曲者で ( 中略 ) 金 中する覚悟でなければ遣り通せないから を作るにも三角術を使わなくちゃいけないと云うのさー・ー義理をかく、人情をかく 織田信長や豊臣秀吉や加藤清正の面々が、こん ともに聞いたんではおよそ理解できない。 な喋りをしていたのだろうか、まさか、としばし首をかしげざるをえないのである。 すちょうにん 118