そんな話は根拠のない戯れ事にすぎぬと、もつばら弁解につとめている。 回覧されてきた『七草集』を、その年の一月、一高で同年同級で友達となったばかりの 夏目金之助も読み、その読後感をなんと漢文で巻末に書き人れ、さらにその終りに九首の 七言絶句をそえた。もともと漢学の好きな金之助は、英文学の専攻を思いたつにいたって、 しばらくそれらとは絶縁した形になっていたが、その忘れていたものが、子規の漢文、漢 いに火がついた。漱 しわゆる焼けほっく 詩に触発されて出てきたことはいうをまたない。、 石の号はこの批評を漢文で書いたとき初めて用いたのである。しかも子規が使っていたも のを譲り受けた。ときに金之助は一一十三歳。明治一一十一一年五月一一十七日付の子規あての手 紙に金之助は書いている。 さすが 「七草集には流石のそれがしも実名をさらすは恐レビデゲスと少しく通がりて当座の間に したた 合せに漱石となんしたり顔に認めはべり、後にて考うれば漱石とは書かで敵石と書きしょ だうに覚え候。この段お含みのうえ御正しくだされたく、まずはそのため口上左様」 を桜もち↓おろくさん↓子規の恋↓七草集↓金之助↓漱石の号。春秋の筆法をもってすれ 学 漢ば、隅田川の東岸にこそ文豪誕生の胚芽があったと申すべきか。 のちにまた書簡にて「小児の手習」にひとしいからあの漢詩は削除してもらいたい、 第 子規に申しこんでいるが、せつかくの向島を詠んだ作品である。漱石が墨堤や桜もちの情
はじめの頃のあるとき、成績優秀組のひとりが、英作文で、日頃愛読の『スケッチ・プ ソク』から、「リップ・ヴァン・ウインクル」の一節を巧みに焼き直して出したことがあ った。夏目金之助先生はつぎの授業のとき、「これは大変な名文だ」とほめた。秀才坊主 がシメシメとほくそ笑んだ、とたん、 「しかし、さながらアーヴィングの文章を読むようだ」 といってニャリとした。そして、点数はやつばり六十点。この先生は油断ならんぞなも し、とさっそくくだんの秀才坊主は、同級生全員にその旨を報じたという。 この松山中学時代の教え子のひとりに川島義之がいる。かの 2 ・囲事件当時、あわてふ ためいて昭和天皇に叱られた陸軍大臣、大将である。かれの夏目先生の想い出ーー「自分 は平凡な生徒にすぎなかったから、特に目をかけられたという記憶もない。明快な教授ぶ りで、これは普通の先生ではないと感じ入ったことを覚えている。それだけで、自分は陸 士志望で、英語より数学に力を入れていたので、夏目先生より数学の渡部先生 ( 山嵐のモ め んデル ) に可愛がってもらった」 超一級の師ともわからず、こんな程度の人物観察眼であったから、 2 ・で、この反乱 が何を意味するか、青年将校の目的が何たるか、危機状況を見抜ける力量をこの大将はト 第 ントもちあわせていなかった。おかけでやたらに事件を長びかせ、混乱させた。 一言ロ
しうまでもなく文部省から英語研究のた 漱石が明治一二十三年にイギリスに渡ったのは、 ) めに一一年間の留学を命ぜられたからである。しかも留学第一号。当時は官費でいく以上、 留学生は義務として毎年一回、研究報告をしなければならないキマリがあった。ところが 漱石先生は一年目の終りがきても知らん顔、一一年目終了が近づいてもわれ関せす。文部省 の役人はしびれを切らして、ガンガン催促したが、どこ吹く風と受け流し。 漱石にすれば、ひたすら勉強にはけんでいるが、これが研究の成果であると勇んで報告 しオしオし言葉や風俗習慣の違う異国にあって、一年やそこら できるものはまだ何もな、。、、こ、こ、 と思っていた。 でまとまるような研究にロクなものはない、 漱石の言い分のほうが理があるが、そこは建て前を重視するのがお役所というもの。今 も昔も変りはない。官費の浪費は相成らんとの大義名分もあるし、留学生第一号から悪例 をつくるわけにはいかんから、早く研究報告をまとめて送れ、と矢の催促。この無理無体 憂に怒った漱石は、ついに全篇これ白紙の報告書を送った。受けとった杓子定規なお役人ど もは仰天した。まさか五高教授の夏目金之助は正気を失ったのではあるまいか。ただちに 。ドイツ留学中の藤代禎輔へ、夏目を保護して帰国すべし、という電令を発する狼狽ぶりで あった。 第 これが漱石ノイローゼの真相のようなのである。 1 三ロ 103
・そでふりあふも・ 松山中学時代の夏目金之助先生の、先生ぶりの話は、いまはっとに知れ渡っていること であろう。先日、そのことに関連して、見知らぬ人から送ってもらった「松林虎次の話」 はまことに面白かった。この虎次は『坊っちゃん』のバッタ騒動の張本人だそうである。 漱石先生が松山中学にきたのは明治二十八年四月、若葉のころ。新調の紺サージの背広 をリュウと着込み、赤革の靴をキュッと鳴らして、虎次たち四年級の教室に現われた、と ある。そして英語のリーダーを読みはじめたとたん、生徒たちは度肝をぬかれた。その発 音たるや、前任者英人ジョンソンのそれとそっくりではないか。日本人離れしている。 さて一読の上、訳してみよと先生は虎次に当てた。頭を掻き掻きくだんの悪童がほそほ ′、ちばし そと訳しはじめたら、とたんに先生が喙をいれた。 「その言葉にそんな訳はないぞ 虎次は反論した、「それでも字引にあったぞなもし」 「何の字引だ」
漱石性来のロマンチシズムをおしだした初期短篇は、世に隠れもなき夏目金之助でい しく。だれにもいえぬ送籍の自責の念を鎮めようと書く が、世を忍ぶ仮の姿の部分は号で、 小説であるから、送籍にひっかけて号として、子規から譲りうけた昔の漱石をひつばりだ : と、勝手に想像を進めてくる すことにしよう。それほど気に入っている名ではないが : と、意外と徴兵拒否にかんする漱石の心の傷は深かった、という気になってくる。 ・反戦的な戦争観 漱石先生が本気で徴兵を拒否したのかどうかはともかく、戦争が嫌いであったことはな んとなく確かのような気がする。『吾輩は猫である』六章の「大和魂はそれ天狗の類か」 という批判、『趣味の遺伝』の「戦争は狂神のせい」、軍人は「犬に食われに戦地へ行く といった表現、『三四郎』一章の「亡びるね」という広田先生の言葉、さらに最晩年の 『点頭録』のつぎの一節。 「自分は常にあの弾丸とあの硝薬とあの毒瓦斯とそれからあの肉団と鮮血とが、我々人類 の未来の運命に、どの位の貢献をしているのだろうかと考える。そうして或る時は気の毒 ママ
十四年といえば漱石の長男純一はまだ五歳、徴兵忌避の理解があろうはずはないし、そも そもまだ小学校にも人ってはいない。 長女の義母はときに十三歳。これは義母の談話とも 付合するし、漱石は長女の話として語ったものに相違ない。 それともう一つ、漱石は「北海道に転籍」と言わず、「送籍」といったのではないか、 という疑問が残る。インタービュアがとろいと肝腎のところがおろそかになる。あるいは、 漱石の早ロの東京弁が越後生まれの記者には正確に聞きとれなかったのか 〈付記②〉 もう一つ指摘しておきたいのは漱石の号で、なぜか漱石は『吾輩は猫である』を書く段 になって、明治一一十二年、正岡子規から譲りうけたまま、すっとしまっておいてカビの生 えかかったこの雅号を引っはりだした。 人 主 ほとんど同じ時に書き、前後して発表した『倫敦塔』 ( 「帝国文学」明治三十八年一月号 ) の マは、漱石ではなくきちんと夏目金之助と署名されている。『カーライル博物館』も然り。 ムシロウト探偵としては、これもきわめて面白いことと思うのである。 ホ以下は、証拠を提一小できぬ仮説も、 しいところであるが、送籍と関係あるとみたいのであ る。世の中や人間をだまくらかす、お茶らかす、そしてみずからは猫をあやつって韜晦し 第 ている、それが『吾輩は猫である』という小説のそもそもの書きようである。 1 -0 163
度やっている。席序下算の便とは、席順を上から勘定しないで下から計算するほうが早わ かりだ、という意味である。 「大連で是公に逢って、この落第の話がでた時、是公は、やあ、あの時貴様も落第したの おれ たのも かな。そいつは頼母しいやと大いに嬉しがるから、落第たって、落第の質が違わあ。己の は名誉の負傷だと答えておいた」 漱石がこう負け惜しみをいうのも、折悪しく試験のときに腹膜炎をやったため、という 理由がつくから。じゃあ追試験を受けようかとしても、これまでの成績が芳しくないから、 教務課の信用がまったくなかった。てんで取りあってもらえなかったのである。 漱石の漱石らしいところはこのあとにある。この落第を期として、自分の内部革命を根 こそぎやって、自己の建て直しをしたところに。若き日の夏目金之助は心境を一変させて、 主学問に親しむ道をひらいていった。 マ「人間と云うものは考え直すと妙なもので、真面目になって勉強すれば、今まで少しも分 はっきり : こんな風に落第を機としていろんな改革をし ムらなかったものも瞭然と分る様になる。 ホて勉強したのであるが、僕の一身にとってこの落第は非常な薬になった様に思われる。も しその時落第せず、ただ誤魔化してばかり通ってきたら、今頃はどんな者になっていたか 第 知れないと思う」 ( 『落第』 ) 三 - ロ 1 引
は代人料金一一百七十円を上納することでセーフになる項もある。強大無比の軍隊をまだ要 しない時代であったから、ある意味では徴兵猶予の道をさがすのは通常よく行われている ことであった。なるほど、明冶一一十二年の改正で原則として免役の制度が廃されてはいる が、なお兵役から免れる手段をとることが国家への反逆となるわけではなかったのである。 それは世間のほんやりした約東事でもあった。 けれども、それはあくまで平時の話。多くの若者の血が流される戦争ともなれば別であ る。それは、兵役をうまく避けた漱石がまったく予期しない事件であったかもしれない。 明治一一十七年夏から翌八年春までの日清戦争下にあって、誠実の人漱石が強い自責の念に かられ、精神の平衡を欠き変調をきたしたとすることは、それほど強引な推理ではないよ うにわたくしも思う。若き漱石が神経をおびやかされたであろうことは、松山へ落ちてい 人 ったのちに間もなく、四月十一日に日清戦争が終るが、漱石の神経の苛立ちがおさまって 主 「いることでもわかる。『坊っちゃん』のモデルの先生たちが一様に、同僚夏目金之助の正 ラ ム常さを証言しているのである。 さらに余計なことながら、漱石がふたたび神経の変調をきたすのはロンドン留学中から。 砡いささか我田引水の説となるかもしれないが、日露両国の関係が悪化の一途をたどり、山 第 雨まさに至らんとするの時。明治三十五年一月の日英同盟はきたるべき対ロシア戦にそな 159
とたんに凡俗な発想ながら″猫にト」 / 韵。という言葉が浮かんだのは、われながら情無い わが手にあるのは間違いなく、世界にただ一冊の『坊っちゃん』であり、大きくいえば、 漱石の想像力・創作力を知る鍵ともなり、虚構と事実の間を論ずるに好個の題材であり、 しかも当時の文化史の側面を雄弁に語る珍重すべきもの。と思えるのだが、わたくしはお よそ漱石論や漱石文学論とは縁なき衆生。せいぜい無駄ばなしを得意とするシロウト探偵 で、この一書をタネに大段平をふるうわけにはいかぬのが無念である。 しかし、本文を読み、欄外を拾いながら、酷暑の中で一陣の涼風と、大いに楽しんだ。 書中で、当時の松山中学の両先生が存分に健筆をふるっている。詮索あり、究明あり、想 い出あり、考証あり。『坊っちゃん』全篇の各エピソード。 か、何等かのタネに立脚しない ものはないの観あり、すこぶる愉快であった。バッタ事件から職員会議の事実譚、送別会 での剣舞や詩吟を、横地・弘中両先生は情熱をこめて微に入り細に入って、書きに書き人 れている。 夏目金之助先生は一一人の眼にどう映ったか。弘中坊っちゃんは述懐する。 「漱石ハ非常ニ感ジノ善イ男デアッタ。本文ニハ無イガ、子規ガ漱石ノ下宿ニ来テ煩ッテ 居タトキナド、親切ニ看護シテ友情掬ス可キ者ガアッタ。松山ニ居タ頃ハ文学博士ニナル 野心ガ勃々トシテ居タ。朝日新聞ニ入ッタ時ハ、文士ノ盛リ短キヲ思ヒ諫止スペク訪問シ
■主な参考文献 ( 本文中に明記した一部は除いた ) 荒正人『漱石研究年表』 ( 集英社 ) 青柳淳郎編『明治九十九年』 ( オリオン社 ) 大久保純一郎『漱石とその思想』 ( 荒竹出版 ) 虚碧白雲居士『漱石拾遺』 ( 畳乱青堂 ) 小林孚俊『坊っちゃん談話』 ( 私家版 ) 駒尺喜美『漱石という人』 ( 思想の科学社 ) 佐々木英昭『夏目漱石と女性』 ( 新典社 ) 佐々木みよ子 『笑いの世界旅行』 ( 平凡社 ) 森岡ハインツ 柴田宵曲『漱石覚え書』 ( 日本古書通信社 ) 渋沢秀雄『大いなる明治』 ( 弥生叢書 ) 週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和風俗史 ( 全四巻 ) 』 ( 朝日新聞社 ) 高木健夫『新聞小説史』 ( 国書刊行会 ) 高木蒼梧『望岳窓漫筆』 ( 東京文献センター ) 竹長吉正『日本近代戦争文学史』 ( 笠間書院 ) 竹盛天雄『漱石・文学の端緒』 ( 筑摩書房 ) 出口保夫『ロンドンの夏目漱石』 ( 河出書房 ) 蓮見重彦『夏目漱石論』 ( 青土社 ) 平川祐弘『夏目漱石・非西洋の苦闘』 ( 新潮社 ) 引 6