「墓穴の中へオフェリアを埋めろ / あの美しい無垢の体から / 菫の花が咲くように ! 」 この二つの場面をいっしょにとりこんで、 ・骸骨を叩いて見たる菫かな 菫は漱石が好む花でもあった。 てな調子で眺めると、漱石先生、かなりシェイクスピアに張り合っているではないか。 〈付記〉 ちょっと気になることがあって調べてみたのであるが、東大に英文学の講座が設けられ たのは明治二十六年のこと、最初の教授は ? となると、これがいないのである。初代の 講座担当者はアメリカ人ウッドで「外人教師」というのが職名。つぎがラフカディオ・ ーン ( 小泉八雲 ) で、日本に帰化していたから外人教師ではなく「講師」が職名となる。 明治三十六年にハ ーン退職のあと、そこで三人の講師がいちどに委嘱された。イギリス 人口イドと、漱石先生と上田敏で、日本人として初の英文学講座担当なれど、漱石も上田 も講師が職名であった。漱石は一高でも専任講師であったから。二つの専任ポストをひと り占めしたことになる。のちの主任教授と同じことゆえ、大学教授時代と書いても誤りで はないと思われる。上田敏は七歳下であるから助教授ということになろうか。 220
左様、探偵として嬉しくてならないのは、まさしく、ここに銀杏返しの乙女がでてくる ことである。それほど真剣なものではないとしても、青年漱石がはじめて胸をときめかせ た女、その瓜実顔とその髪型が、漱石の脳裡にくつきりと定着したであろうことは疑いの ないところではないか。 『それから』の三千代に同じ銀杏返しを結わせたのも、その想いがあったればこそであろ う。しかも、あとでもう一度ふれるが、漱石先生は三千代を歌麿が描く浮世絵美人のよう に瓜実顔の女に書いている。 と、これでこの項を終えてしまってもいいのであるが、蛇足を加える。それは松山赴任 しささか躊躇せざるをえないということ。なにしろ をこの初恋に破れたためとするには、、 漱石が初恋の未練を振りすててから四国落ちするまでに、四年もの歳月がある。いくら明 治時代の青年とはいえ、そんなにいつまでもグジャグジャしているものであろうか そこで「漱石と嫂の登世との不倫」説がでてくるのであろうが、肝腎の登世は、漱石が 眼科医院で銀杏返しの娘を見初めたころと同じの、明治一一十四年七月に世を去っている。 銀杏返しの乙女に初恋を抱きながら、嫂となにやらあったというのであろうか この話はいささか信じ難い。そして松山行きの背景に女性問題ありとする諸説は、わか りやすいが本当とは思えない。
東の足利氏という古い武門の名跡をいつまでも残したいという心の″やさしさ″″あった かさ″をもっていた。それがこの言葉すなわち小事にこめられている。それが日本の歴史 に流れているよき真髄なのである。 わたくしは近頃若いひとたちと話をしていて、かれらの歴史をみる眼のなかに、 た″あたたかさ″や″人間らしさ″が失われていることを感じるのがしばしばである。奈 良の古びて美しく残る風景や、奈良の大仏をみて若ものは「でもこの時代には天皇家と、 その周囲の権力者だけが栄華な生活を送っていて、奴隷である農民を使役して人口二十万 の奈良の都を作ったんですってね」と突然わたくしをおどろかすようなことをいう。彼ま たは彼女の頭では、二十万もの、当時の大都会に住んでいたもののほとんどが、苦役にあ えぐ農民であったら、はたしていまに残る古びて美しい町を形成できたか、想像できない らしいのである。大仏をめぐる仏教文化の影響に考察は及ばぬのである。 また戦国時代について語り合えば、戦国武将はすべて圧制者であり、人民の生活を破壊 する覇王ということになる。封建時代の民衆は苦しみぬき 、いたるところで百姓一揆が起 きた、という観点で熱心に語る。そういえば、中学の教科書の百姓一揆についての記載の なんと熱心なことよ。 華やかとみえる武将たりとも、好んでこの戦国に生まれたわけではない。「この時代を 292
・兵助と代助 「彼は子供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父さんから、しばしば観音様の 繁華を耳にした。仲見世だの、奥山だの、並木だの、駒形だの、いろいろ云って聞かされ る中には、いまの人があまり口にしない名前さえあった。広小路に菜飯とか田楽を食わせ なわのれん どじようや るすみ屋という洒落た家があるとか、駒形の御堂の前の綺麗な縄暖簾をさけた鰌屋はむ / 、い↓わの かしから名代なものだとか、食物の話も大分聞かされたが、すべてのうちで最も敬太郎の 1 」うしゅ・つい 頭を刺戟したものは、長井兵助の居合抜と、脇差をぐく 、。い呑んでみせる豆蔵と、江州伊 ぶきやま あとあし 吹山の麓にいる前足が四つで後足が六つある大蟇の干し固めたのであった」 ざ老女から取材してきたことを教えてくれた。それによると、銀杏返しの髪型は比較的貧 しい家の娘に多かったらしい。 とくに興味深いのはつぎの話 「人妻が銀杏返しを結うことはまずなかった。もし結うとすれば、外見はともかく、心の 内ではもう完全に夫から離れていることの証し、ともいえるんですって : : : 」 三千代の心底、シカと見えたり、ではあるまいか うち おおがま いし 0
捻出したものである。 「国家軍防ノ事ニ至テハ、苟モ一日ヲ緩クスルトキハ、或ハ百年ノ悔ヲ遺サム。朕茲ニ内 廷ノ費ヲ省キ、六年ノ間、毎歳三十万円ヲ下附シ、又文武ノ官僚ニ命シ、特別ノ情状アル 者ヲ除クホ力、同年月間、ソノ俸給十分ノ一ヲ納レ、以テ製艦費ノ補足ニ充テシム」 漱石はまさしく″文武ノ官僚″の一員であるゆえに、俸給の十分の一を削りとられたの である。このため、漱石の留守家族の生活はかなり困窮した。いつほうに、競って製艦費 を献納する富豪があらわれ、これが叙勲の対象になった。そんな時代であった。 あるいは富国強兵といい、 あるいは臥薪嘗胆という明治時代を示す言葉がある。その 華々しさも打ちわってみれば軍備拡大のための増税である。国家予算の歳出総額にたいす る軍事費の比率はべらほうそのもの。漱石のロンドン留学時代の明治三十三年のそれは実 に四五・五。ハーセント、三十四年は三八・四パーセントが軍事費なのである。このための はかりしれない増税への国民の不満。しかし、それも臥薪嘗胆のスローガンにかき消され、 街には殺伐とした尚武の、そして西欧に追いつけ追い越せの威勢のいい掛け声がみちあふ れていた。 司馬遼太郎氏のいう「坂の上の雲」をめざして駈け上っていった明治という時代は、世 界史上でも珍らしいくらい栄光に満ちたとき、という反面、国民にとってはかなり苦難な ちん
向に転換、投入しようとする。そのためにも権威と権力による監視の支配体制を、否応な しに保持せねばならなかった。換言すれば、明冶末とは「富国強兵時代から、自己確立の 自由主義時代をへることなく、一挙に飛びこえて帝国主義時代へと突入」、そのなかで、 国民は世界の一等国として「外発的開化」を大いに謳歌したとき、ということになろうか。 わたくしは漱石の探偵嫌いの根底にこうした明治後期の社会状況があったとみている。 决して個人的な内的状況のみにその因を求めようとは思わない。 この辺が歴史好きたるゆ えんである。それに探偵は嫌いと、 、いながら、漱石先生の小説はなかなかにサスペンスに みち、探偵的なところもある。 そんな理窟話はともかく、いま漱石先生が生きていたらどんな感想をもっことであろう かと思う。今日の漱石研究の学問的な業績、文学的な評論・批評は、当否いりみだれて、 字義どおりいくつもの山脈をなしている。まさしくかれが好むと好まざるとにかかわりな 漱石の臀の穴が三角か四角かにまでむつかしく論評・探索は及んでいる。いまに及ん では漱石の人および文学を語って、新しいことなど発掘できるはずもない。 したがって、わたくしがここに書いたことなど、とうの昔に何人かの人によって論評ず みのことばかりであろう。それをいちいち確認しようかと思ったが、単に歴史好きのシロ 引 4
一段と実感がこもる。 ( 読者よ、頼むから自分の女房どのの名とかえて読んだりしないでくれ給え ) わが漱石先生も、鏡子夫人が悪妻で、大いに苦しんだことになっている。さて、どんな ものか。その孫であるわが女房どののふだんの教えと薫陶よろしきをえたから言うのじゃ なしか、どっちもどっち、という気がわたくしにはする。それに、病気でないときの漱石 はよき亭主であったようであるし、夫人も「妻として母としてよく尽している。 なるほど『吾輩は猫である』など全篇これ実業家蔑視とならんで、女性蔑視につらぬか れてはいるが、よくよく読むと、漱石の夫婦愛がよく出ている作品はこれがいちばんのよ うで、皮肉のウラに深い思いやりがある。 それに夫人は、わたくしも晩年の彼女と何回か話をしたことがあるが、娘時代から自由 に生きてきた名残りをそのまま残して、親分肌の、太ッ腹の、実に気さくな人であった。 ししオいことをスケスケと、つこ・、、 しオカ悪意はこれつほちも感じられなかった。 主田 5 、つこス マ明治の時代の女の忍従とはおよそ無縁、夫と堂々とやり合ったが、漱石がまたそれを許す い時代離れをした公明正大さをもっていたことは『漱石の想ひ出』を読むとよくわかる。 ホそして鏡子夫人からみれば、ロンドンから帰国後の漱石の精神不安定には、ことごとに 悩まされた。一時は常人にあらざるものと思いこんでもいたし、漱石の行住坐臥はそれに 第 値いするものでもあった。夫人は「漱石が病気であるなら、なおさら、私のほかには支え 135
・靴と下駄 偉い弟子たちが心をあわせてもちあけつづけたものであるから、聖人君子みたいになっ てしまったが、漱石先生にだってやんちゃな青年時代はあった。その大学予備門 ( 高等学 校 ) 時代、生徒はみんな下駄をはいてガタガタ教室に出入りしていた。ところがある日、 訓令が校長から下された。 「本日より靴のほか下足のままで登校を禁ず」 ( しいか下駄の類はまかりならんというわけ。にもかかわらず、なに構うものかと漱 石は前どおり足駄で登校しつづけた。と、数日後、音も高らかに歩いていた廊下の角で、 校長の杉浦重剛にばったり出くわしてしまった。さすがに漱石も仰天し、とっさに足駄を ぬぐと懐に入れ、韋駄天走りに逃けざるをえなかった。 それから三十年たって、作家となった漱石は、なっかしの校長に対面したとき、そのと 128
・なんでも六十占 小説を離れて実話に戻ると、松山中学の先生時代の漱石は、その明快な教えぶりで、腕 白盛りの「なもし」どもを驚嘆させ、心から敬服させたらしい。 しかし一方で、「なも しどもには敬遠された面もあったという。試験の点の辛さである。だれでも六十点前後、 漱石からすれば、 ) 優等生も落第生も十点と開きがない。 しわゆる点取虫をいましめ、真に 学問を楽しむ人物をつくりたかったからであるらしいが、生徒には落第もないかわりに、 優等もなく、張合いもなかった。 しかも先生は試験のときは、監督もそっちのけで「外の廊下に椅子をもちだして、日向 ほっこをしつつ、書物に読みふけっていた」という。 の勇名を惜しんで品川沖から堂々乗りださせてみたものか。あるいは知らなかったのか。 そのどちらにせよ、アズマカンといえば明治の日本人にはきわめてなっかしく、胸を張っ て自慢したい艦名であった。そこで若宮氏は、大いに国威を発揚させたのであろう。 松山時代に、漱石先生もこの歌を耳にタコができるほど聞かされたことは察せられる。
・池田菊苗博士 縁は異なもの味なもの、という言葉どおりに、数年前にひょんな体験をした。旧制浦高 時代の先輩に頼まれ、ご子息の月下氷人をわが夫婦が相勤めたとき、花嫁さんのご親類筋 に「味の素」で有名な池田菊苗氏がいる、という思いもかけない話を聞かされたのである。 花嫁の父なる人からは「まさか漱石のお孫さんが、池田菊苗につながるわが娘のお仲人を して戴けるとは : : : 」と心から感謝された。まさかまさかで、「池田菊苗って聞いたこと あるけど、誰だったかしら ? 」と、あとで当の″漱石のお孫さん″がつぶやいたとは、花 嫁の父もよもやご存知あるまいが : 明治三十四年から五年のロンドン留学時代、漱石先生はどんどん英国が嫌いになり、英 文学がいやになり、スランプに落ちこんでいった。そこへドイツから池田がロンドンへ移 ってきた。天の助けであったといえる。大学は化学専攻であるし、もともとは漱石と親し