美禰子 - みる会図書館


検索対象: 漱石先生ぞな、もし
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1. 漱石先生ぞな、もし

しささか田心い と、話はめでたしめでたしで終るはすであったが、早合点は禁物だぜと、 Ⅳ凶むことに出くわした。 『三四郎』の五章に、日曜日に菊人形を見物に行くため、三四郎が西片町の広田先生宅を 訪ね、一同が連れ立って出かけるところがある。 「『では行くかな。とうとう引張出された』『御苦労様』と野々宮さんが言った。女は一一人 ひと で顔を見合せて、他に知れない様な笑を洩らした。庭を出るとき、女が二人っづいた。 わき 『背が高いのね』と美禰子が後から言った。『のつほ』とよし子が一言答えた。門の側で並 んだ時、『だから、なりたけ草履を穿くの』と弁解をした」 とあって、こっちの予想に反して、よし子はのつほであるが、それとなく美彌子は背の 高くない女であるように描かれている。これはこっちの勝手な思いこみにたいして、はな はだ具合が悪いではないか。 そこで、美禰子も平均以上に身長はあるのである。が、よし子のほうがそれよりも高く、 「アラ、私も高いのに、私以上にという語が裏にあって、「背が高いのねという美禰子 のセリフのあるものと、勝手に解釈していたら、なんとか調子の合うような話がそのあと につづいてでてきた。丹青会を見にゆく章である ( 八章 ) 。そこで二人は野々宮さんにバ ッタリ出会い、美禰子が急に三四郎に何事かをささやく、という場面がある。そしてその 184

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外そうとして、ふと、庭のなかの話し声を耳にした。話しは野々宮と美彌子の間に起りつ つある。 『そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬばかりだ』これは男の声である。 『死んでも、その方が可いと思います』これは女の答である。 ( 中略 ) 三四郎はここで木戸を開けた。庭の真中に立っていた会話の主は二人ともこっちを見た。 うなず 野々宮はただ『ゃあ』と平凡に云って、頭を首肯かせただけである ( 五章 ) 野々宮と呼び捨てにしている場面が全部が全部そうとばかりはいえないが、漱石は、美 禰子をめぐって野々宮宗八が三四郎の胸のうちをかき乱すとき、かならず「さんーや 「君」を取りはらっている。この点はたしかで、三四郎の嫉ける心の動きをそこに示すか のように工夫しているようなのである。 三四郎は美禰子にたいする思慕をつのらせればつのらせるほど、彼女と野々宮さんとの 仲を意識していった。またそのことを美禰子に気取られてしまったということで、一種の 屈辱感を抱かざるをえなくなった。しかも自分と野々宮さんとを比較することで、美彌子 はオレを愚弄しているのではないか。この猜疑心で三四郎は居ても立ってもいられない。 結果は、この野郎メ、と思うとき、心のうちで野々宮と呼び捨てにするほかはない。 バルなのかどうか、分明でないところに『三四郎』 はたして野々宮さんが真に恋のライ 176

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野々宮君。いずれにせよ三四郎の先輩なのだから、これは当然のこと。注目すべきは野々 宮と呼び捨てるとき。 漱石は、それを巧みに区別して使っているような気がわたくしにはする。思いっきに近 く、あまり確信のない話なんであるが : : 。たとえばその一例 「三四郎は矢張り坐っていた。 『どれ僕も失礼しようか』と野々宮さんが腰を上ける。 『あらもう御帰り。随分ね』美禰子がいう。 ( 中略 ) 野々宮さんが庭から出ていった。その影が折戸の外へ隠れると、美彌子は急に思い出し た様に、『そうそう』と云いながら、庭先に脱いであった下駄を穿いて、野々宮の後を追 掛けた。表で何か話している。 プ 三四郎は黙って坐っていた」 ( 四章 ) 表で野々宮と美禰子 美彌子が後を追いかける。三四郎は止めたくとも止めようがない。 レとが何か話している、内容はわからぬが、聞いているのは三四郎である。しかし部屋で坐 スったままど、つしよ、つもない。 書かれていないが、三四郎の心持はおだやかではない。 話 もう一例 かなめがき 第 「先生の家は門を這入ると、左手がすぐ庭で、 ( 中略 ) 三四郎は要目垣の間に見える桟を 175

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『三四郎』の八章に、三四郎が美禰子の家を訪ねたときの、忘れ難い名場面がある。 「すると奥の方でヴァイオリンの音がした。それがどこからか、風が持って来て捨てて行 った様に、すぐ消えて仕舞った。三四郎は惜い気がする。 ( 中略 ) その時ヴァイオリンが 又鳴った。今度は高い音と低い音が二三度急に続いて響いた。 ( 中略 ) その無作法にただ 鳴らしたところが三四郎の情緒によく合った。不意に天から二三粒落ちて来た、出鱈目の ひょう 雹の様である。 三四郎が半ば感覚を失った眼を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子が何時の間にか立って いる。 ( 中略 ) 美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美彌子を見た。美禰子 はにこ , と ( 夭った。 『人らっしゃい』 ( 以下略 ) 」 下手くそらしいヴァイオリンの音が、天から落ちてきた雹のように、三四郎の心を打っ た。その直後のヒロインのお出ましである。青年がクラクラと参ってしまうのも当然、と 『こころ』の「先生と遺書」にも、それほど効果的ではないが、琴の音がある。「私」で ある先生が、下宿のお嬢さんにだんだんに魅かれていくところで、唐紙の向うでかき鳴ら される琴の音が、チントンシャンと響く。あまり好きでもない琴の音、しかも「お嬢さん 188

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・ストレイ・シープ くちす 『三四郎』を読み終えて、ふと気づくと「ストレイ・シープ」とくり返して口遊さんでい る自分を発見する。だれにもそんな覚えがあるであろう。それほどこの小説ではこの言葉 が印象深く、かっ暗一小的に使われている。小説の主人公のみならず、自分までが「迷える 羊」になったような気にもなる。 とくに最後に近い十一一章の、美禰子を教会にたずねていって、別れを告けようと三四郎 が外で待っている場面は、記憶に残る名文である。 「やがて唱歌の声が聞えた。讃美歌というものだろうと考えた。締切った高い窓のうちの 出来事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美彌子の声もそのうちにある。三 四郎は耳を傾けた。歌は歇んだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。空に美彌子の好 きな雲が出た。 や 170

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・美禰子の身長 とくに必要なことでもないのに、気になるとそれから抜けられなくなって、調べてみる こととした。明治大正のころの女性の体格である。近ごろのように、男勝りの美人の偉丈 夫 ( ? ) をちょいちょい街頭なんかで見かけるようになると、小股の切れ上っただの、コ ツマナンキンだのという一言葉も忘れがちになるが、昔は小粒ながらシャキッとした女性が 大いにもてたものであった。 実は、あるとき、漱石の小説のヒロインについてのイメージを描いてみて、はたして彼 女らはいかなる肢体を形成していたのか、やたらに気になって寝つきが悪くなった。小説 の主題や大筋にはたいして関係ない。まして文学研究とは縁もゆかりもない。けれど、 『それから』の三千代や『こころ』の奥さんや『門』のお米や『虞美人草』のお糸が、大 女であってはちょっぴり気分がよくない。たいして『三四郎』の美彌子や『草枕』の那美 ・河豚汁や死んだ夢みる夜もあり ・ふくれしょ今年の腹の粟餅に 182

7. 漱石先生ぞな、もし

の面白さがある。それをはっきり示さずに、「野々宮」と呼び捨てにすることで三四郎の 一方的な心理の焦りをだす。そんなところに、漱石の見事な小説作法があるように思うの であるが、どうであろう。まるつきりの誤診かな。 しともあざやかに描きだされる。 そして『三四郎』のラストの野々宮さんは、、 「野々宮さんは目録へ記号を付けるために、隠袋へ手を入れて鉛筆を探した。鉛筆がなく って、一枚の活版摺の端書が出てきた。見ると、美禰子の結婚披露の招待状であった。披 露はとうにすんだ。野々宮さんは広田先生と一所にフロックコートで出席した。三四郎は 帰京の当日この招待状を下宿の机の上に見た。時期はすでに過ぎていた。 野々宮さんは、招待状を引き千切って床の上に棄てた」 それにしても一つ疑問は残る。 ここでは决して「野々宮」なんて呼び捨てにはしない。 プ美彌子にはどうして初めから終りまで敬称がついていなかったんであろう。 〈付記〉 スそういえばずっと「女」と書かれてきた『草枕』のヒロインが、画工によって「那美さん」 とはじめてサンづけでよばれるのが十一一章。野武士のような元亭主が現われた場面である。 第 画工はついに那美さんに惚れてしまったの そして終りの十三章は那美さんオン。ハレード。 177

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かって美彌子と一所に秋の空を見た事もあった。所は広田先生の二階であった。田端の ストレイシープストレイシープ / 川の縁に坐った事もあった。その時も一人ではなかった。迷羊。迷羊。雲が羊 の形をしている」 ストレイシープ このほか、五章の「迷へる子ーー、解って ? 」という美禰子の問いにはじまって、六章で は s ( 「 aysheep という横文字がやたらにでてきて、そして全篇最後の一行が「三四郎は何 ストレイシープストレイシープ とも答なかった。ただロの内で迷羊、迷羊と繰返した」である。漱石先生はいろ いろと使いわけながら、この語の象徴的な意味を深めている。 ところで、ふつうの英語には S ( 「 ay , heep といういい方はないそうな。本当であろうか 漱石が「聖書」を読んで思いついて造った語ではないか、とされているとのこと。岩波文 庫の注でも「マタイ伝一八章に、百匹の羊のうちの一匹が迷えば、飼い主は九九匹を残し プてもその一匹を捜し求めるという、キリストの語る喩え話がある」として、確信なさそう に、それとなく出典を示している。そこで「聖書」の英語訳をみると、 begoneast 「 ay ( 迷 レわば ) 、 goneast 「 ay ( 往きて迷える ) とあって、なるほど " ストレイ・シープ。はない。 ス石の造語と結論されるのも無理はない。 話 ところが、シロウト探偵たるわたくしには一つとっておきの話があるのである。いまは 第 亡い福原麟太郎氏から懇切に、この迷羊にかんして貴重な話をジカにうかがった、という 171

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少しあとで、 「女の語気は全く無邪気である。三四郎は忽然として、後を云う勇気がなくなった。無一一 = ロ のまま二三歩動き出した。女は縋る様に付いて来た。 『あなたを愚弄したんじや無いのよ』 三四郎は乂立ち留った。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見下した。 『それで宜いです』 『何故悪いの ? 』 『だから可いです』 女は顔を背けた。一一人共戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子に互の肩が触れた」 なるほど、三四郎は背の高い男である。彼が上から見下してもあながち不自然ではない。 プ美禰子だって万更チビでないのは、互いの肩が触れ合ったことでわかる、せいぜい十セン チの差か、とホッと胸をなでおろしたところ、つぎのように漱石が書いているのを見つけ レて、またまた面喰らった。 ス「『ああ眠った。好い心持に寝た。面白い夢を見てね』 先生は女の夢だと云っている。それを話すのかと思ったら、湯に行かないかと云い出し 第 た。一一人は手拭を提けて出掛けた。 一三ロ 185

10. 漱石先生ぞな、もし

なのである。その音を耳にすると「心臓が破裂しそうな心持になり、「居ても立っても 居られなくなる」らしい。「音」は、お師匠さんの二絃琴であっても、美禰子のヴァイオ 丿ンであっても、風呂で聞く三味線でも、お嬢さんの下手な琴であってもいい。要は人の 心をそっとゆさぶり、ロマンチックにし、感応させる霊力があるもの。しかし実はそれは 「そら音」にすぎないと、漱石はこの短篇でいいたかったのではあるまいか 岩波の漱石全集で小宮豊隆が解説していうように、『琴のそら音』は「恋愛の神秘・心 ・ : 事実はそんな事があるのでもなんでもなく、 霊の感応の可能が否定されている。 一時 そのこ そういう事がありそうな気がしたのは、単なる琴のそら音に過ぎなかった」、 とを書いた短篇といえようか。 リアリズムでいえば、心霊の神秘なんかない。恋なんてものもすべてアバタもエクボな んである。しかし、困ったことに、霊異な誘惑に敗けて「心臓が破裂しそう」になり、 「居ても立っても居られなくなる」のが恋愛の神秘というやつである。それが「琴のそら 音」っまり幻覚・幻視・幻聴であろうと、人はそれによって心を動かされる。漱石はすべ て琴のそら音と観じつつ、その不可思議にとり組んでその後も悪戦苦闘するのである。作 家というものは何たる業をみずから背負うものか。