当時山下町の外人商館のなかにあった輸入品を扱う有名店。日本の近代化が、まず輸人で あったことがよくわかる。 ( ちなみにトチメンボーとは、明治の俳人・橡面坊のこと ) がんなべ そのほか、芋坂の羽二重団子、上野公園下にあった鳥料理雁鍋、京橋の竹葉亭のうなぎ、 札幌ビール、杏仁水などなどなどが登場する。 もう一つ、ついでに調べたことを付記すると、明治三十年代末の調査によると、東京に は料理店四七六 ( 五九一 (l) 、飲食店四四七〇三万三七一七 ) 、喫茶店一四三 ( 五〇八一 I) 、 酒場四七六 ( 七七四六 ) 軒であったそうな。 ( カッコ内は昭和四十一年の東京の飲食店数 ) 。 合計すると、明治三十九年の五五六五軒にたいして、昭和四十一年は四万二四五七軒で、 これにバ ・キャパレーなど八〇一五を加えると、およそ九倍強である。東京の人口はま さか九倍にもなっていまいし、輸入がとまればたちまち干上ってしまうのも忘れて、経済 プ大国日本の首都は天下泰平なことである。 シ以下、漱石の食いものにふれた句を ・塩辛を壺に探るや春浅し ス ・ところてんの叩かれている清水哉 ・饅頭を食ったと雁に言伝てよ 第 ・埋火や南京茶碗塩煎餅 ラ一口 181
さんや『虞美人草』の藤尾や『坊っちゃん』のマドンナは、ツンとした美貌の大女であっ てもかなり許せる気がする。なんとなく受け身で可憐な感じと、積極的で技巧的な感じと の差で、おのずから体格がきまってくるような感じである。 。明治三十七年から大正五年まで、 それで無駄なことと知りつつ調べた結果をつぎに 文部省の体育課が、二十歳の女学生について調査した体格平均表の摘要はつぎのごとし。 漱石の小説はこの年代のなかにおさまるから、当時の若い女性の平均的姿態と考えていい。 年次 身長 ( センチ ) 体重 ( キログラム ) 胸囲 ( センチ ) 七七・〇 ・明治三十七一四八・五四八・一 七八・八 四十二一四八・五四八・一 七八・八 ・大正二 一四九・七四八・九 七八・八 プ 五 一五〇・六 四九・一 胸囲つまりバストはほとんど変らないのに、背丈が二センチほど伸長し、それだけ体重 ますは レも一キロばかりふえていることがわかる。それとて大仰に書くほどのこともない。 ス『吾輩は猫である』から『明暗』まで、漱石の時代の " 大和撫子。の代表的デッサンは、 話 現在われわれの周囲にいる女性たちのなかから右の条件で探せば、めでたくも簡単に発見 第 できる。そこから三千代やお米のイメージも描くことができよう。 183
「墓穴の中へオフェリアを埋めろ / あの美しい無垢の体から / 菫の花が咲くように ! 」 この二つの場面をいっしょにとりこんで、 ・骸骨を叩いて見たる菫かな 菫は漱石が好む花でもあった。 てな調子で眺めると、漱石先生、かなりシェイクスピアに張り合っているではないか。 〈付記〉 ちょっと気になることがあって調べてみたのであるが、東大に英文学の講座が設けられ たのは明治二十六年のこと、最初の教授は ? となると、これがいないのである。初代の 講座担当者はアメリカ人ウッドで「外人教師」というのが職名。つぎがラフカディオ・ ーン ( 小泉八雲 ) で、日本に帰化していたから外人教師ではなく「講師」が職名となる。 明治三十六年にハ ーン退職のあと、そこで三人の講師がいちどに委嘱された。イギリス 人口イドと、漱石先生と上田敏で、日本人として初の英文学講座担当なれど、漱石も上田 も講師が職名であった。漱石は一高でも専任講師であったから。二つの専任ポストをひと り占めしたことになる。のちの主任教授と同じことゆえ、大学教授時代と書いても誤りで はないと思われる。上田敏は七歳下であるから助教授ということになろうか。 220
・『三四郎』の食いもの 」説こもきまって風俗描写がある。明治四十一年 書くまでもないことであるが、どんなハ = = ( に発表の『三四郎』を題材に、今日のグルメ・プームに関連して、当時の食いものを調べ たことがあった。小説の本質とは関係ないことであるが、これが意外と面白かった。 三四郎は九州から汽車で上京してくる間じゅう、しきりに弁当を食べる。副食物の一つ に鮎の煮浸しがあったのがわかる。「空になった弁当の折ーを窓からほうり投ける。向か い側に坐った男は豊橋駅で「窓から首を出して、水蜜桃を買」い、タネと皮を窓から投け 窓があってなきが如き新幹線と違って、昔 すてる。浜松駅でまた「弁当ーを食べる : ・ の旅にはさまざまな変化と喜びがあった。 そして東京 田舎出の青年が、日露戦争後の、めざましい経済発展にともなう都会 生活を、どんなふうに味わっていたものか。西洋料理をごちそうになったとき、「野々宮 君の話では本郷で一番旨い家だそうだ。けれども三四郎にはただ西洋料理の味がするだけ ではあるまいか。妻問いに女を名前で呼ぶのは、万葉のむかしからの日本の伝統である。 178
手拭いを三角に折って頭のてつべんにのせて、汗をたらたら、「秋葉路や、花橘に茶の 香り : : : のお粗末。なかなか名調子であったのに、ちょうど時間となりましたまでいかな いうちに、沈んだことがある。聴衆の大人たちに助けられ、湯から引き揚けられたとき、 奇妙にゆらゆら富士の高嶺の白雪が揺れてみえた。おきまりのペンキ絵が、富士と三保の 松原と白い帆であったのであろう。 そしてまた床屋では、と想い出をさらに一席やりたいが略すとして、なんで " 床屋。と いうのかを調べてみた。ちょんまけ時代、多くの江戸町人は街の髪結にいって整髪しても とこみせ らった。それも多くは床店であった。床店とは他人の家の庇を借りて開店した所をいう。 床店の髪結から髪結床となり、床屋という呼び名が起ったという。 わたくしの子供のころはもう完全に床屋で、それが理髪店に変ったのは戦後の : : : なん 床屋好きの漱石先生に戻るとするーーーと、左 博てぶっていたらいつまでたっても終らない。 様、『夢十夜』の第八夜は、全篇これ床屋である。ただし、この床屋は心のやすらぎを感 とじさせる場ではない。、 月道具となる鏡が、窓の外を通る人びと、それものべつになんとな 汽く異状を連続的に映しだす。パナマ帽をかぶった男、その連れの女、ラッパを吹きながら ニニロ 通る豆腐屋、最後に、帳場格子のうちに坐って、立て膝で、一生懸命に十円札を数えてい 第 る女を、鏡は映した。札はせいぜい百枚ぐらいなのに、女はいつまでもいつまでも数え、 243
「やい観音、観公、尻食らい観音、よせツ、馬鹿、手前みたようなものにもう頼むもんか。 : こっちは目が悪いのに、杖にすがって毎日こうしてくるんでえ、まぬけめ工、手前は なんだな、百日の間よくもおれの賽銭をただどりしやアがったな。騙り、詐欺、盗ツ人、 観音の馬鹿ツ」 ( 景清 ) 「何を言ってやんでえ、おオ、丸太ン棒に違えねえじやアねえか、丸太ン棒みてえな野郎 だから丸太ン棒てえんだ、呆助、ちんけえとう、株かじり、芋ッ掘りめツ」 ( 大工調べ ) 「二本差しが恐けりや、焼豆腐は食えねえよ。気の利いた鰻をあつらえて見やがれ、四本 も五本も差してら、手前なんぞ、そんな鰻を食ったことがねえだろ」 ( たがや ) ついでに両女史が落語から採集した「バカ」という罵り言葉のオンパレードを、あくま でのちのちの参考として書き写してお く。いまは懐しくも楽しい言葉の死骸といえようか ただし、東京下町の悪ガキ時代に使った記憶のあるものだけにした。 「あほう」「あんほんたん」「うどの大木」「馬の骨」「お ( っ ) たんちん」「糞垂れ」「 ( こ ん ) 畜生」「すっとこどっこい」「ばこすり ( 野郎 ) 」「唐変木」「どじー「とんちき」「頓珍 漢 ( 野郎 ) 」「どんつく ( め ) 」「頓馬」「抜け作」「のつべら棒」「のつほ」「のろま」「罰当 ひょうろくだま ほ・つす . け・ り」「表六玉」「ひょっとこ ( 野郎 ) 」「呆助」「ほんくら」「ほんつく」「へま」「べら棒」 「丸太ん棒」「モモンガー」。 ( 『笑いの世界旅行』 )
よき想い出である。老来とみに記憶が脳漿からこほれ落ちているいま、福原さんがいくら か照れくさそうに「別にプライオリティを主張するわけじゃないが」と、 しいながら語って くれたことを、あわててつぎに書き記すことにしたい。かならずしも正確ならざるを、あ らかじめお詫びしながら : 「なるほど、聖書にでもある句だろうと私もはじめは思っていましたよーと福原さんは語 りはじめた。「美禰子は、われはわが咎を知る、などと小説の終りのほうで聖書の文句を 口にするし、教会へもよくいっている女性ですからね。それで聖書を調べたが、そのとお りの言葉ではでてこない。 そこでいろいろと当ってみましたら、私が調べたかぎりでは、 この句はイギリスのフィールディングという十八世紀の小説家と、プラウニングという十 九世紀の詩人の作品に、用例がありましたね。フィールディングを漱石が読んでいたのは たしかですから、これだと決めてしまってもいいのですが、せつかくのプラウニングも落 としたくはない。 というのもね、面白いことに、三四郎の友人の与次郎が英文科の懇親会でしきりに弁じ ・フアプラをプ ながら、ときどき『ダーター フアプラ』とい、つでしよう。このダーター ラウニングの詩のなかにその後に発見したもんですからね。『立像と胸像』の最後の行、 ひと一」と そこではデ・テ・フアプラとなっていました。他人事にあらす、という意味のラテン語だ 172
いに知らぬまま夜行列車にのり合わせ、ドラマを展開している。すなわち甲野と宗近、孤 堂と小夜子の父娘。彼らは午後八時発の夜汽車の隣り合わせの車輛にのり合わせる。沼津 で夜明けを迎え、甲野と宗近は食堂車で、孤堂父娘は駅弁を買って、それぞれ朝食をすま せ、午前九時に新橋駅へ。第七章の末尾はこうである。 ステーション 「四個の小世界は、停車場に突き当って、しばらく、ばらばらとなる ついでに調べてみた。東海道本線の急行に食堂車が連結されるようになったのは明治三 十五年である。料理をうけもったのは木挽町の精養軒で、肉類一品十五銭、野菜類一品十 リットル ) 十 二銭と格安をモットーにした。当時の値段を調べてみると、ジョッキー ( % 銭、トンカッ十銭、アイスクリーム十五銭とあるから、食堂車としては格安であったかも しれない。 ン車 ) の客にかぎられていた。 また食堂車を利用できるのは一等と二等 ( いまのグリー もう一つ ( 探偵は慾張りであるな ) 、汽車の客車にトイレができたのは明治二十二年。そ れまでは大きな駅につくたびに、客はわれさきにとホームや駅舎の便所にとびこんだ。お ところが鉄 かけで超満員。なかには不心得者がいて窓からやらかしたものもいたらしい。 道官員にみつかって裁判所へ送られ罰金刑をうけた記録がある。 増沢政吉 申渡し 236
文部省の役人が躍起となっているころ、当の漱石は、スコットランドに遊び、ロンドン にいた岡倉由三郎にこんな手紙をだしている。 「目下病気をかこつけに致し、過去のことなぞいっさい忘れ、気楽にのんきに致しおり候。 小生は十一月七日の船にて帰国のはずゆえ、宿の主人は二三週間とまれと親切に申しくれ 候えども、左様にもまいら兼ね候。あてもなきにべんべんのらくらしておるは、はなはだ 愚の至りなれば、まずよい加減に切りあけて帰るべくと存じ候。 : : : 」 まことにのんきな病人であったようである。そして気楽な旅を終えてロンドンへ戻った とき、虚子からの子規の死を知らせる悲しい手紙がとどいたのである。帰心はもはやとめ るべくもない。 ママ
・銀杏返し 昭和十一一年に大ヒットした流行歌「すみだ川を、カラオケなんかで無理強いされると、 わたくしは歌うことがある。昨今は「何ですかその歌は ? 」と若い人にびつくりされるが、 その昔は東海林太郎の代表歌の一つであったのである。 じゅす 「銀杏返しに黒繻子かけて 泣いて別れたすみだ川 それで銀杏返しを調べたことがある。もともと銀杏髷というのが江戸時代末期からあり、 一兀来が島田髷の系統に属した女性の髪型の一種であった、とものの本にある。「その変形 として嘉永ごろより根下り銀杏や、芸妓の略装などに結った銀杏崩し、さらに幕末から明 治・大正にかけて町家の娘衆の間で好まれた銀杏返しなどがある」と風俗事典などには書 かれていた。真ん中でわけて左右にふつくらとした髪型とでもいっておこうか。 192