が元気になり、織物だけでなく、村でいろんな活動をはじめている」 女たちの活動はすべて、自分たちが稼ぎ出した金を元に自主財源でやっている。材料の綿糸は共 同購人する。生糸は自分たちで蚕を飼うか、七つの村の養蚕農家から買うことにしている。作った 布は手工芸センターを通して販売する。売り上げの三 % を各グループごとに基金として積み立てる。 実スクソンプン村のグループはこの基金が二万バーツを超えた。グループのメンバーは、ここから の 民二〇〇〇バーツを限度としてお金を借りることができる。家族が病気になったときとか、子どもの る 教育費とか、緊急にお金が必要になったときに用立てられる。金利は月一 % 。返された利子分はす え をべて基金に組み込まれる。 域 地 「これができる前は、お金が入り用になると村の有力者に借りにいったり高利のお金を借りた し りしなければならなかった。いまはグループの基金からなんの気兼ねもなく借りることができ ざ 根 る」 域 地 ここではこの基金のほか、メンバーがひとり一カ月一〇バーツずつを積み立てる貯蓄も行なって いる。これがすでに総額で一万バーツになった。貯金ができるなど、かっては考えられなかったこ る すとだと女たちはいう。どの村のグループでも力を人れているのが、子どもたちの給食だ。スクソン 越。フン村には小学校があり、七〇人の子どもたちがいる。九年前、ひとりの小学校の先生が、お昼ご 章 飯を食べられない子どもたちに給食を出したいと呼びかけ、自分でも資金をさがし、村人もなにが 第 しかを出して簡単な給食をはじめた。それは資金が続かず、三年でつぶれてしまった。中断してい 241
のにアグロフォレストリー 、無農薬野菜栽培、養豚、養鶏など、研修やスタディーツアーで学んで きたことを次々と実践し、つねに新しい試みにも意欲的に取り組んできた。収入も着実に上げている。 一九九〇年、ウタイはチェンライ県で等高線農業を営む農民、インカムの農場などを訪問する、 のスタディーツアーに参加した。感動したウタイは、帰宅するとただちに四・六ヘクタール ある自分の農地全部に等高線状にマメ科植物の種を蒔き、一度にバナナを一三〇〇本も植えてしまっ た。そして、バナナが根づくとその葉陰に、マンゴー、リュウガン、ジャックフルーツ、タマリン ドなどの果樹五〇〇本、有用樹三〇〇本を植えた。 ウタイの農地はなだらかな小山である。ちょっと前までは森林だったこのあたりは、メコン川の 支流チー川の水源地になっている。ウタイを含めた農民たちが、急な傾斜地をトラクターで耕して トウモロコシを作ってきたので、わき水は年々細くなってきた。林野庁は数年前から、農民たちを 追い出して、ユーカリやアカシアの植林を進めており、ウタイたちの農地に迫ろうとしていた。 このあたりでは、トウモロコシを植えるために山を焼くと、まず好日性の野生のバナナが生えて くる。バナナは鳥たちに食糧を提供すると同時に、葉陰をつくって土の乾燥を抑制し、実を食べに 集まってきた鳥の糞に混じっている種の発芽条件をよくする。こうして、バナナの葉陰から樹種と 個体数が増えていき、森林が形づくられていくが、ウタイはその自然の摂理を観察し、栽培用パナ ナで試してみたのだ。 アグロフォレストリ ーや複合経営農業は、最初の一、二年は新しい草木を植えたり、水やりした 156
地域の資源が流出した結果、農村に残されるのは壊れた共同体社会と疲弊した自然である。そこ で、すでに資源の流出が進み、そのことによって困難を強いられている人たちの経験を、大きな開 発計画のある地域や、外から工業製品が大量に入りはじめている地域の人々が知ることは、自分た ちの地域を自分たちで開発していくために大切な情報である。 情報の提供と並んで、地域のリーダーの育成と、リーダーを中心にした農民組織作りの支援もま 一人が自分の農地だけで木を植えて た、大切な活動である。一人が変わっても社会は変わらない。 も、みんなが植えなければ環境は回復しない。一人が地味を奪うューカリの単一植林に反対しても、 連帯して社会的な力を持たなければ植林は進み、土壌の疲弊が進む。みんなが連帯し、問題を一緒 に考え、行動してはじめて社会を動かす力となる。 トレーニング、セミナー、スタディーツアーなどへ参加することによって、農民たちは生態系を 民 イ傷めない農業の考え方や技術を学ぶだけではなく、リーダーとしても育っていく。各種活動に参加 タ すした農民たちは、トレーニングなどで学んだことを自分の農地で実践するかたわら、村の中で関心 戻 をもつ人々に、学んだことを普及する。自分たちが学んだことを他の人に向かって説明し、伝えよ 取 方うとすることは、伝える側の理解を深める。そして、共通の問題やそれに対する意見を交換するこ き 生とによって、トレーニングで一緒に学んだ人たちゃ、彼らから学ぶ人たちとの間に、連帯感を深め 章 第 の活動地では、村にできた小さなグループが村を越えてつながり、村を越えた集合組織体 149
する農薬名も付記することになっている。この予察と防除暦に基づいて、集落あるいはそれよりや や大きい地区単位で一斉防除を行なうというのが、日本における近代防除体系だ。近年は高齢化で ホースを抱えての地上防除が厳しくなり、東日本を中心に空中散布が広がっている。一九九六年度 は水田面積の一一六 ・六 % でヘリコプターによる農薬散布が実施された。一位は茨城県で、空散割合 は七〇 % に及んでいる。 病気や虫が発生するかもしれない ( 逆にいえば発生しないかもしれない ) 段階で、予防的に農薬を空か らまくのが空散である。日本の集落の多くは水田と人家が混在している。通常、空散は朝早く行な われる。子どもたちが学校へ急ぐ時間である。その上をへリコプターが舞い、大量の農薬を降らせ る。 この空散は、農林水産省の次官通達である「農林水産航空事業促進要綱」に基づく行政指導によっ て進められている。官を頂点とする農薬大量消費構造の象徴がここにある。図 4 は経済協力開発機 構の資料をもとに作成した各国の単位面積当たり農薬使用状況である。先進諸国の中で 日本がダントツであることがわかる。アジアモンスーンの一角に位置し、湿って暑い夏をもっため 雑草が繁茂し、病害虫の発生も旺盛であるという条件を加味しても、この使用量は多すぎる。この ことは明らかに、農業内部の必要ではなく、農薬の大量消費で利益を得る仕組みが、構造として日 本の内部に組み込まれてしまっていることを示している。ここでは農民は、主体性を持った農業経 営者ではなく、いわれるままに農薬を散布する消費者としてしか登場しない 108
ことに田植え前の泥田の中でのこの状態は、じつに悲参である。爪にからみついた稲わらや 雑草を三分置きに取り外すのが厄介なだけではない。回転するたびにからみついた雑草がピチャ ピチャと泥田を叩いて、そのハネが運転者の顔めがけて飛んでくる。 耕うん機で起こす田んぼにはレンゲ草を生やしては、すよ 、。名わらも拾って外へ運び出す。 あぜ草も焼く。父と母がやっていたころは、草履の切れ端でも拾って田んぼに入れていた農業 が、私と女房で耕うん機を使うようになって、逆になった。 田んぼの中にあるレンゲ草や稲わらを拾ってまわって、田んぼの外へ運び出さなければなら ない。神経質な百姓は、田の面に一本の稲わらが落ちていても運びだす。単にハネが顔にかか っ 失 るだけではない。爪軸にからみつかせたまま使っていると、べアリングが破損する。機械を大 を 権 事に使う者ほど、田畑の有機素材を外へ運びださなければならなくなった」 定 己機械の導入は確実に土の豊かさを壊していった。まず、一家に必ず一頭はいた牛が、ご用済みと なっていなくなった。牛は農作業の重要な戦力であると同時に、堆きゅう肥製造機として土の豊か 民 農さを保つのに欠かせない存在であった。こうして家畜と田畑をつなぐ有機的循環の輪がとぎれた。 し それに加え、山下が実際に田んぼで経験したように、機械にとって草や稲わらといった有機物は、 邪魔者として排除されたのである。コンバインによる収穫は、わらの田んぼへの還元を困難にし、 暲除草剤の出現は土をかき回し、雑草を土中に埋め込む除草作業を不要にした。 第 さらに、機械化は土を耕す深さを浅くした。岩田はそのメカニズムを、「水田の作土深の浅化は
よって判断される。は年間一兆円近い資金をわずか三〇〇名あまりのスタッフで動かして いる政府系金融機関である。金融機関である以上、返済の見込みがない貸し付けを行なうことなど 許されるものではない。しかし現実にはタンザニアだけではなく、円借款の返済が滞っている例が 余りにも多い は主に私たちの郵便貯金や年金などを原資とする財政投融資を財源に運営されている。 一方、債務救済無償資金協力は私たちの税金を原資とする一般会計から供与される。日本の債務救 済無償資金協力がそのまま円借款の債務返済に使われるという単純な構図ではないが、円借款の返 済が滞っているところに債務救済される傾向が強く、多くは円借款返済に使われていると推察され てん る。政府系金融機関が作った不良債権を一般会計から補填する。受取国政府を迂回するために、全 くわかりにくくなってしまっているが、住専の債務救済と変わりない手法が O Q < においては恒常 助的に行なわれている。 食不況業種の海外転移を助けるが、受取国の住民の意向をほとんど無視して行なわれている てことは一一一一口うまでもない。受取国政府の要請によって供与する要請主義という日本の OQ< の建て前 とのもと、受取国政府の要請があったからと、日本政府は受取国政府に責任を転嫁しがちだが、十分 不な社会環境影響評価も行なわれずに供与される OQ< は供与する側にこそ責任がある。受取国の地 嶂域社会に受け入れられず、もっと極端な場合、受取国の地域社会を崩壊させるような供与は、 援助がさらなる援助を必要とする援助の悪循環を生み出していく。その上、借款の焦げ付きを私た
であった。 それを手はじめに、当時のヘン・サムリン政府と地道な折衝を続け、一九八六年にプノン。ヘンに、 やはり日本人としては唯一の事務所を開設して、食糧輸送のためのトラック修理、保健プロジェク トなどを開始した。はまた、復興協力のかたわら、カンボジアの一日も早い国際認知と和平 を願って、カンボジアで活動する国際 Z O の連絡協議体、 O O O (Coope 「 ationcommitteefo 「 cambodia) の一メンバーとして、カンボジアの窮状を訴える本、『 ZtO が見たカンプチア』の日本語版を出版 するなど、関係各方面に働きかける努力もしていた。 一九九〇年代初頭、 0 0 0 には農業、植林、家畜衛生、給水、地域医療、教育、社会福祉など、 分野別の勉強会があった。定期的に開かれる勉強会には、 Z ch O スタッフのみならず、 Z (United Nation Development p 「 og 「 amme= 国連開発計画 ) 、 O (F00d and Ag 「 icultu 「 e 0 「 ganization 0f the United Na ・ ま n Ⅱ国連食糧農業機関 ) などの国連機関や—— ( 一冐「ミ一。 na 一 Rice Rese 「 ch 一 n を ( 冐Ⅱ国際稲研究所 ) などの 国際機関のスタッフ、カンボジア農業省など各省庁の若手役人などが集まって、カンボジアの将来 のために共に学び、熱い議論を交わしていた。 「日本政府による農薬援助」のニュースはまず、この OOO にもたらされた。人々は、どのように 対処すべきか勉強会と作戦会議を重ねた結果、 000 ではこの農薬援助はなんとしても止めたいと いう結論を導きだした。農薬援助に反対する理由は、 雨季米には病虫害の被害がほとんどみられない
料の増投が必要になる。こうしての品種改良ほ施肥を可能にする品種作りとして始められ モンスーンの高温多湿下での肥料の増投はさまざまな困難を招き寄せる。過繁茂、倒伏、雑草、 病害中の多発などだ。特に栄養成長期の伸び過ぎは生殖成長に結び付かず、十分な結実を妨げ、秋 落ちの原因ともなる。秋落ちとは、稲の茎や葉は繁っているのにそれが収量に結びつかず、逆に収 量が落ちる現象をいう。いずれも、かって日本の西南暖地の稲作が直面した問題である。 ひばい これらの問題を解決するのは、綿密な肥培管理しかない。栄養成長と生殖成長という二つの成長 期のバランスをとる肥料の与え方の工夫、田植、除草、病害虫の防除、生育段階にそった水管理な どだ。さらに、こうした肥培管理を可能にする条件がいる。灌漑設備が整備されていることである。 これは従来の無、あるいは小肥・無管理の粗放型稲作から集約型稲作への転換であり、かってイギ リスの農業革命が機械の論理で進められ、従来の農法を一変したのに対し、アジアにおける緑の革 命は肥料の論理で従来の農法に変革を迫ったものだ、というのが金沢の指摘である。 綿密なフィールドワークと考察に支えられた金沢の主張には教えられるところが多いし、きわめ て説得的である。緑の革命がモンスーン下におけるアジア農業発展のひとつの道筋を示したもので グ あることはまちがいないところである。 ロそこで次に問題になるのは、こうした意味を持っ緑の革命を当事者の農民はどう受け止め、それ プ は農民の暮らしにいかなる社会的、経済的影響をもたらしたか、ということだ。農法の変革、しか
家計を支える女性たち 織物による女性自立の活動は、そうした状況のなかで生まれた。この活動を農村の女性に広める 目的で、一九八七年に手工芸センターが設立され、同センターの呼びかけで、村々に次々と織物の 女性グループが作られていった。 実七カ村にある織物グループのなかでももっとも大きいのはファー村のグループだ。ここで織物の の 民活動が始まったのは一九八九年である。三七人のメンバーでグループがつくられ、いまでは約八五 え人の女性が織物に取り組んでいる。この村の世帯数はおよそ九〇戸だから、加入率は九四 % に達す をる。村で最大の組織といっていいだろう。 域 地年齢層も幅が広い。まだ学校に通っている十三歳の少女から六十歳の高齢者までいる。グループ ざ設立に当たって、メンバーは一人当たり二〇バーツずつを出資した。グループが活動をするうえで にの基本財源である。同時に手工芸センターから六〇〇〇バーツを借りた。メンバーはここから織物 地に必要な木綿糸などの材料を買う資金を借り入れる。木の皮や草、花、土、虫などさまざまな自然 志の素材を使って糸を染め、織る。センターからの借入金の利子は月一 % である。日本の基準でみれ る すば高利だが、 タイでは低金利の貸付金だ。元本はセンターに返し、利子分はグループで積み立てて 越さまざまの活動資金とする。 章 村を歩くと、高床式の家の土間におかれた機織り機で布を織る女性の姿が目に付いた。昔の日本 第 と同じように、イサーンでもかっては機織りは女性が必ず身につけなければならない技術であった。 237
別名 ) の伝統を活かした織物と草木染めで、男以上の収入をあげ、堂々たる自立を果たしているから 女たちはプレバンという名前のグループを作っている。「美しい布」という意味である。メンバー は二四〇人。この地域で織物の活動が始まったのは、いまから十年前の一九八七年である。コンケ 実ンに拠点をおく Z ch O 、「東北タイ農村女性地位向上のための手工芸センター」の指導がきっかけ の 民だった。同センターの代表であるソムョットは、「この仕事を始めたのは、村人とくに女性が出稼ぎ る をしなくても、村にいて生活できる経済的基盤をつくりたかったからだ」といっている。ソムョッ え をトはまだ三十代の若い ZtO 指導者である。南タイの豊かな農家に生まれ、バンコクの有名大学を 域 地卒業して、そのまま社会運動に飛び込んだ。イサーン ( 東北タイ ) の農村に入り、渦巻く矛盾に出 ざ会って、はじめは何をしたらよいのか、途方にくれた。しかし村で、高床式の家の床下におかれた 根 織り機を見たとき、彼は「これだ」と思った。 域 地 「農民は生きていくためのいろいろな技術を持っている。織りと染めは、祖母から母、娘へと 受け継がれてきた大切な技術だ。またそれは、蚕を飼い、繭をとるという農業生産活動と結び ついて、村人の暮らしを支えてきた。イサーンのさまざまな風習にも、自分たちが織った布が 必ず使われる。それは生きる技術であると同時に農民の文化そのものなのだ」 そうした技術も、押し寄せる経済成長の嵐の中で、次第に人々の暮らしから消え去ろうと していた。自分で時間をかけて織るより、大量生産の安い化繊を買い、その間出稼ぎに出たほうが 第 3 章越境する志ーーー ヾ一」 0 255