ど一 低層】穀物または野菜 飼料または薬草 ( 雨季 ) 高層の木の枝を刈り込み、作物に太陽光線や風が届くようにする。 5 、傾斜地ーー乾燥地 ( 図リ 6 、多雨量の平地 ( 水田中心、図リ 高層】シムル、シロゴチョウなど 中層】桑、釈迦頭など 水田の東側と南側は低い、好日性のマリーゴールドやバジルを植える。 このほかにも、窒素を固定する木を生垣として植える。土壌流失を防ぐため、あぜに沿って植え ることも可能である。 ( 訳責岩崎美佐子、イラスト月原貢三 ) 204
3 、中規模、大規模の乾燥した農場 ( 年間降水 量八〇〇 5 一〇〇〇ミリ。図川 ) 高層】チーク、インドセンダン、シムル、 パルメラ、ユカン、クロヨナなど 中層】釈迦頭、ナツメ、ゾウリンゴなど 低層【スタイロ、セントロ、デスモデイウ ム、クスモドキ、ナタマメなどマメ す 科飼料、雑穀、食用・油用マメ科植 戻 物、薬草など 取 を 源 資 の 4 、アレイクロッピング ( 列状農業、図ⅱ ) 域 て乾燥地 し ( 乾季 ) 枝を張らせた木々の間に作物を植え 章 高層【グリリシディア、ルシナ、セスパニ 第 ウヒニア、カシアな ア、ディコ、バ る。 9 図 2 0 ー
連携がうまくいっていない たことも原因していた。 まカンボジアの食糧事情を向上 布させるのに、が効果があ 薬 るのかどうか、大いに疑問であ 農 と る。カンボジアにかかわらず、 袖 半 生産物の流通がボーダーレスに なっている今日では、コメが増 半産できればカンボジア人の食糧 ー / 足事情がよくなるという単純な構 造にはなっていない。それどこ ろか、コメは収穫があがればあがるほど、市場原理によって品質のいいものから国境を越えて、価 格のいいタイなどへ流れていくのが実状である。 また、カンボジアの主食糧であり主産物であるコメ栽培に、農薬が必要とされているかどうかと いう疑問が残る。というのは、前述のように、カンボジアのコメの作付け面積の九〇 % は在来品種 による雨季作であり、雨季作には害虫による被害はほとんどないからである。 現在、カンボジアで農薬が使われているのはむしろ、野菜、スイカなどの換金作物である。どう
マルチをする 一週間後、苗の状態を見て枯れたものは、新しい苗 を植えなおす。 植える時期をよく注意し、移植をうまくすることで、ア フターケアは軽減できる。 雨季があるところでは、雨季がはじまり、水が土壌中 三〇センチほど浸透した頃が最適である。 第 4 節アグロフォレストリー アグロフォレストリーとは、農業と林業を同じ土地で行 なうものである。多種類の多年樹、二年草、一年草など組 み合わせることが望ましい 現在の多くの農地は植物生産量 ( バイオマス ) ・投入量が 減少し、食物連鎖がなくなっているため、土壌の生産力が 低下している。その原因はモノカルチャー、化学肥料・農 薬を使った作物栽培、機械による耕作、過放牧などによ 7 図 いトに「 196
第 1 章生き方を取り戻すタイ農民 を嘛を一第レャ、第を物第弩 4 ぎなうため、化学肥料の使用が不可欠となってく る。また、単一種栽培をすると病虫害におかされ やすいので、農薬を使わなくてはならなくなり、 同時期に同種類の雑草が生えるため、除草剤も使 第、もわなくてはならなくなる。こうして農民は、農業 第第、を過程のほとんどを仲買人 ( 企業 ) に頼らなくてはな らなくなる。そしてそれらの農業投入材は、トウ モロコシの種のほとんどをアメリカが押さえてい るように、工業先進国に独占的に握られている場 。 ~ 」《・、い合がほとんどである。 を ( 、一貧仲買人 ( 企業 ) は、地域でまとまった生産量をあ ( てげなくてはならない。一戸だけが小規模に、たと えば換金作物である綿を栽培するために、仲買人 の ( 企業 ) が種、化学肥料、農薬など一式を用意し、 畑 集荷した生産物をさらに中央集荷場や加工場に送 一るということは、経済効率から見てありえない ュ したがって、地域でまとまった生産量をあげるた 141
図 2 韓国自然農業における有畜複合経営の一事例 ( 小山 ) 堆肥 60 ~ 70t 草・作物残渣等 0.9t ナシ園 0.825ha 養豚 22 母豚 堆肥 5 t 草等 1 . lt 稲わら 4 t : 水稲 各 0.429ha ナシ生 34.5t 産 材 頭 2 肉 豚 購入飼料 子牛 コメ 2.4 t 自家消費 月山不・ 市 場 牛三頭だから、規模と しては小さな部類に属 する。だが、この図に 見られるように牛と豚 から出る堆肥が水田と ナシ園に入り、水田や ナシ園、あるいは周辺 の上地から草や稲わら などが牛、豚にまわ る。コメは自給にまわ り、市場に出すのは肉 豚とナシだけ、ときに 子牛が売れる程度だ が、それでも循環のお かげで生産費が少なく てすみ、できたものは 安全で品質がよいため 224
しても援助をしたいなら、そういう作物の残留農薬を調べ、毒性の強い農薬を規制し、食の安全性 を高めるような支援ができないものであろうか 食の安全性に向けて カンボジアでは、一九九一年の和平を契機に西側諸国政府が援助を再開する前からたくさんの Z tO が深くかかわってきたので、幸い農薬援助の停止に向けてすばやく的確に行動できた。しかし、 危険な毒物である農薬が、その国の農業事情、農薬に関する法整備などの調査もいいかげんなまま、 毎年世界の五〇カ国以上に供与されている。 波農薬を送るときは、その国の人々の生活、カンボジアのように水田がコメだけではなく様々な食 助料の生産の場であるかどうかなど、よく調査すると同時に、最低限の条件を整えてから送って欲し 産 増いものである。その条件とは、 糧 食 適正な農薬関連法規が制定されている 2 法規を執行する体制が整っている ア ジ ボ 3 安全使用が保証される ン カ 4 廃棄を含む適正管理がなされる 章 5 農薬低減のための研究をしている 第 6 急性毒性に対する応急処置ができる
やく構想がまとまり、市民や行政に向けて働きかけをはじめようという時期にあたっていた。彼は、 農業と地域がいかにかけ離れてしまったか、それを取り戻すことはいまどれだけ意味があることな ~ のか、を有機物の循環の視点から熱心に語った。私がこの構想にかかわるようになった ( といっても、 もつばら菅野の話の聞き役としてだが ) 発端である。ではそれはどんな事業なのか。彼自身の言葉で説明 しょ一つ。 「昔はどの農家でも堆肥塚を中心に循環の輪がくるくると回っていた。田畑の実りを台所にあ げ、生ごみは堆肥塚にもっていく。農家の手によって堆肥塚には畜糞や尿、わら、草など周囲 にあるほとんどすべての有機質資源が無駄にされることなくあつめられた。 切り返しが幾度か行なわれ、発酵がすすみ、やがて立派な堆肥ができあがる。今度はそれを 田、畑に運び、新しい作物の活力源として活かされる。 しかし今、そのような循環は、ほとんど見られなくなった。堆肥にかわって化学合成肥料が、 田畑の主人公となっている。野菜くずは役にたたないものとしてゴミ収集車によって運ばれ、 油をかけて燃やされる。循環の輪は断ち切られてしまって久しい レインボープランは、その循環の輪をもう一度、地域レベル、自治体レベルで回そうという 試みである」
際には大変な量の土が流されているのである。表土が流されると、土の保水力がなくなったり、 が浅くなったりするので、使える水が減っていく。 水が流れる速度は、森林があるかないかなど人間の営みや人間と自然との関係によって大きく異 なる。たった一日で流れ去ってしまうか、一カ月かけて流れるか、一年かかるか、資源になるかな らないか、つきあい方次第である。日本では水田が水を長くとどめてきた。水田がなくなったらど うするのか、農業が水と土を守ってきたことを知らなくてはならない 栽培する作物を選ぶとき、水、労働日数、売り上げ、利益など総合的に考える必要がある。例え ばサトウキビ、コメ、小麦、雑穀、豆などを比較すると、サトウキビが一番水を必要とし、豆が一 番水を必要としないことがわかる。それを比較した上で、もし水が豊富で土地が狭く、労働力がな いならサトウキビを植えるが、水が限られていて、労働力があって土地もあれば、豆の栽培の方が よい。インドでは、住民の水組合 (panipanchayat) がこうした選択の結果、サトウキビを植えない協 定を結んで農業をしている例がある。 第 2 節土 土と農業 いま微生物農法がはやっているが、水と土をよくしなければ根本的な問題解決にはならない。もっ 172
である「自然保護農民委員会」 ( 後に正式に登記して、「自然保護農民協会」と改めた ) を結成するにいたっ た。各グループリーダーの中から選ばれた運営委員は、組織の運営や会計、またみんなの生活の一 助とするためにはじめた共同貯蓄グループの運営や会計を担った。慣れない運営や会計は、他の村 を訪問したり、すでに経験のある他地域の農民をトレーニングの先生として招いて学習するなど、 農業を学ぶのと同じ方法で学んでいった。 やがて、グループの仲間の間で、そして村を越えて、農民たちは農作業の工夫や、生活のあらゆ る問題などをお互いに話し合うようになった。 「自然保護農民協会」の代表をつとめているウイチットは、 「もともと、今の仲間たちはみんな、顔は知っているけれど、挨拶するくらいの関係でしかな かった。でも、知り合えて一緒に活動する中で、農業について、農村の将来について、こんな に深く熱心に話し合えるなんて本当に思ってもみなかった」 と語っている。また、リーダーの一人であるプラスートは、 「自分がやりたいこと、漠然とした方向はわかっていたのだけれど、はっきりとはしていなかっ た。みんなは次から次へと新しい換金作物を導入するだけで、環境のこと、身体のことなんか 考えてもいないと思っていた。私は、孤独だった。誰も相談する人がいないと思っていた。こ んなに仲間がいたなんて、夢みたい」 と話してくれた。 150