タイ農民 - みる会図書館


検索対象: アジア小農業の再発見
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1. アジア小農業の再発見

第 2 節タイ経済の成長の陰でーー資源の切り売りと農業から工業への資源の移転 森林伐採のメカニズム 一八五五年、イギリスとの間に通商条約を結んだことによって、タイのチークを中心とした商業 伐採が本格化した。イギリスは産業革命の結果大量に作り出される工場製品の市場を求めていたが、 それと同時に大航海時代当時の必需品であったチーク材も求めていた。チークは堅いのに軽く、家 具用にはもとより、船舶材料としてうってつけであったため、イギリスの植民地であったインドと ビルマのチークは、すでにあらかた伐採され尽くされていた。以後、タイは西欧列強諸国と次々に 通商条約を結んだ。 一八九六年、伐採収入の一元化を図るため、王室林野庁が設立され、チークの伐採と搬出はいっ そう活発化した。最初は川に近い地域のチークの大木から伐採され、丸太は象で川岸まで運ばれ、 筏に組んで海まで流されたが、第二次世界大戦後は重機やチェーンソーが導入された。一九五〇年 代のチーク伐採は合法的なものだけで年間四〇万立方メートル、密伐採も入れると一〇〇万立方メー トルにものぼっている。 一九六〇年代に入ると、外国資本導入による輸出型工業化が打ち出され、「国土開発」がはじまっ た。北部のチークや松だけでなく、全土の森林が伐採の対象となった。というのは、人口の大多数 リ 6

2. アジア小農業の再発見

第 3 章越境する志ー一地域に根ざし、地域を超える農民の実践 この年、除草剤耐性の大豆ゃある種の害虫に抵抗 性をもっトウモロコシなどが飼料や農産加工品の 原料として日本に上陸した。 遺伝子組み換え作物をめぐっては、食べものと をるしての安全性や生態系への悪影響を懸念する動き 囲が、国際的にも国内的にも広がっている。日本で を第では、消費者・市民組織が中心になって「遺伝子組 、み換え食品いらないキャンペーン」を組織し、ア 作メリカやヨーロッパの z o ・市民組織が作って 同いる「遺伝子組み換え食品ポイコット国際キャン ペーン」と連動しながら、集会や政府への要請行 動を繰り広げている。 こうした国際、国内の動きは、安全性を全面に の掲げて、消費者の選択の権利を要求する運動とし 牧て展開されているところに特徴がある。だが同時 沢にこの問題は生産者である農民の生存権、つくる 権利とも大きく関わっている。遺伝子組み換え作 0 231

3. アジア小農業の再発見

も実験農場で陸稲を植えた。しかし、種を泥でくるむなど、さまざまな工夫をしても、芽が 出るやいなや鳥やネズミに食べられ、なかなか育たなかった。彳 日、プラスートにそんな苦労はな かったのか聞いてみた。すると、芽が出て鳥が来るころは、毎日畑の近くに潜み、鳥の好きなトウ モロコシや割れ米を蒔いて、鳥の目がイネの苗にいかないように気をつけていたのだという答えが 返ってきた。農作物を見守る愛情という点で、 ZtO は逆立ちしても農民にはかなわない。プラスー 野菜もっくりはじめた。今で トは、農薬が流れ込んでも影響のないように、池を作って魚を飼い、 は健康もすっかり取り戻している。 サマイ・トーンタマラット ( 三十九歳 ) チャイヤプーン県パクディチュンポン郡ワントーン区サプチョンプー村のサマイは、一九七九年 民 イに親戚を頼ってチャイヤプーンに移り住み、トウモロコシと緑豆の栽培をはじめた。利益が出る年 タ すもあったが安定せず、日々の家計 ( 、 こ追われていた。 戻 一九九〇年、サマイは利益の少ないトウモロコシ栽培に見切りをつけ、果樹栽培と野菜栽培に切 取 方り替えた。資本を投資して、五ヘクタールの土地にタマリンド一〇〇本、マンゴー四〇〇本を植え、 生水場の近くの〇・三ヘクタールに、キャベッ、白菜を植えた。しかし、野菜は虫害でほとんど全滅 嶂し、農薬代など、六〇〇〇バーツ以上の大きな損失を出した。 第 一九九一年、と出会ったサマイは、無農薬野菜の栽培をはじめた。タイには、野菜栽培の 161

4. アジア小農業の再発見

る人たちで構成された小グループが管理する第一一次 ( 枝 ) 用水路、個人が管理する第三次 ( 末端 ) 用 水路を通って、各々の田んぼに入っていく。自分の田んぼへの水量が不足していると、ソムサクは 枝用水路と末端用水路の分岐点あたりにおいてある材木、石などの水のせき止め材をちょっと動か して、自分の田んぼに水がよく入るようにした。しかし、決して全部が自分の田に流れ込むように せず、必ずもれて、他の水田にも流れるように動かした。 水が不足気味の田んぼにちょろちょろ入る水を見て、私が「どうしてもっと水が入るようにしな いの」と愚問を発すると、ソムサクから、「一人で欲張ったりしないんだ」との答えが返ってきた。 すでに、この地域には換金作物であるトウモロコシ栽培が入ってきていて、大多数の農民はトウ モロコシの播種のために共同労働に行ったり、日雇いに出たりしていて忙しく、田んぼの見まわり に出てこられない人たちもいた。見まわりを怠っている人の田んぼには、明らかに水が不足してい て、イネの生育状態はよくない。そのような田の面倒までは積極的に見ないまでも、見まわりので きる人だけが独占しないよう、少しずっせき止め材を動かすルールができていた。 タイでは、これまでに建設された水利のための大型ダムで、当初、見込んだだけの面積に水を供 給できているダムはない。半分、あるいは潅漑計画面積の三分の一も供給できていないダムさえあ る。 その原因は、過伐採によって流域の森林が減り、表土が流れ込んできて湖底が嵩上げされ、ダム の水量が十分でないこと、乾燥化が進んで降水量が減ったことなど複数であるが、利用者による水 134

5. アジア小農業の再発見

ていることの一つのあかしである。 第 3 節農民の力をとりもどす 多面性と循環ーー米沢郷牧場の思想と実践 現代農民の弱さを痛感 伊藤幸吉という農民に会ったのは一九七〇年代の終わりの頃ではなかったかと思う。その物事の 捉え方の幅広さとねばり強い実行力に驚嘆した記憶がある。一九六〇年代から七〇年代にかけて、 まだ二十歳代だった彼は政府の畜産拡大政策にのって肉牛肥育経営に乗りだし、大規模化をひたす ら追いかけていた。まわりには同じような仲間がたくさんいた。一九七〇年代前半、第一次のオイ ルショック、国際穀物危機が重なり、飼料価格が高騰、大規模化した日本の畜産経営は軒並み危機 に陥った。山形県高畠町で農協から借金しながら大規模化を追求してきた彼や仲間の経営もたちま ち行き詰まり、倒産に追い込まれた。農協からは土地を売って借金を返済せよという矢の催促だった。 彼のその後の軌跡は、すべてこの体験から出発する。モノカルチャー化した大規模経営のもろさ、 飼料をはじめとする生産資材や資金など経営存続に必要なほとんどを農協という他者に頼ることの 弱さ、自分でつくったものであるにもかかわらず販売や価格決定に関しまったく何の権限も選択権 226

6. アジア小農業の再発見

基盤が崩され、食糧を十分与えられない中での強制労働と大量虐殺によって、一〇〇万人以上とさ れる老若男女が死んでいった。 一九七九年のポル・ポト政権崩壊以後、カンボジア・タイ国境線上に滞留するポル・ポト派を含 む三派の連合グループが、カンボジアの正式代表者として国連および西側諸国政府によって認めら れ、国土と大多数の国民を有するカンボジア国は、その存在を無視され、十年以上にわたって国際 的な孤立の中に置かれた。 一九九一年十月、パリで調印された「カンボジア包括和平協定」により、長い内戦に終止符が打 たれ、カンボジアは西側諸国から国として認められるところとなった。これを受けて日本政府 紋 波は、一九九二年六月に「カンボジア復興閣僚会議」を東京で開催し、一九七四年以来停止していた 助二国間援助を、他国に先駆けていち早く再開させた。その先鞭ともいうべき援助の一つが、一九九二 増年五月に決定された総額五億円の食糧増産援助であった。一九九二年のカンボジアへの 食には、農業機械、化学肥料と共に、ダイアジノン ( 日本化学 ) 、スミチオン ( 住友化学 ) 、スミサイ ジン ( 住友化学 ) の三種の農薬、合計三万五〇〇〇リットル、一億円相当が含まれていた。 ア ジ ン カ 食糧増産援助 (u 章 カンボジアの農業の現状を考察することなく、機械的に農薬を持ち込もうとした、食糧増 第 、。、ツケージ型の無償援 産援助とは、農薬、化学肥料、車両を含む農業機械の三つをセットにしたノ

7. アジア小農業の再発見

第 1 節環境に根ざした農業と暮らし・ 5 耕作と狩猟採集・ 生活の中の熱帯林・ 水をめぐる共同意識・ 第 2 節タイ経済の成長の陰でー資源の切り売りと農業から工業への資源の移転・ 森林伐採のメカニズム・ 第 3 節換金作物化に特化して市場に巻き込まれる過程・ 換金作物栽培・ 近代農業の推進・ 第 4 節篤農家に学ぶ ztO ・ 平野に根づく複合経営農業と対応の急がれる山岳地帯・ 山岳地域へー—>O の方法・ 第 5 節ォルタナテイプな農業の試み・ ハン・プンクワンさん・ サティアン・トーンチャイさん・ ウタイ・プタキヤオさん・ プラスート・ソンバットライさん・ サマイ・トーンタマラットさん・ い 4 151 158 137 145 い 6

8. アジア小農業の再発見

農業は自然相手の部分が多い仕事だから、工業とは本質的にちがう。それを工業化せよといっ たところでだれもついてこないし、また工業化とは国際化・自由化を本質的に含んでいる。そ ういうものを勧めたところで農民から反対を食らうばかりだろう。戦後、農民は農業の『近代 化』をスローガンに動き出している。その言葉をいただこう、しかし『民主化』は都合が悪い から隠してしまえ」 農業における開発独裁 ここで思い出すのは、東アジア・東南アジアの開発と成長を考えるときのキーワードの一つであ っ 失る「開発独裁」という概念と、その存在である。渡辺利夫はそれを「権威主義的開発体制」とよび、 権「経済開発に至上の価値をおく『開発主義』ともいうべきイデオロギーを『体化』したシステム」と 己規定している。それは渡辺によれば、「開発を急速かつ効率的に推進すべく、その責を負う官僚テ ・目 はクノクラートに権力と威信を集中させる」システムであり、「開発のための物的・人的資源の動員」 農は「一部の官僚テクノクラートがその中枢を占める中央集権的な行政制度によって行われ、開発に し 関する意思決定への国民大衆の広範な参加は、さしあたり排除される」、という特徴をもっている。 それは国家の役割を著しく高める。ヨーロッパで生まれた資本主義が個の確立を基礎に発展して 暲きたのとは対照的である。明治期の「殖産興業」「富国強兵」から始まり一九六〇年代からの高度 第 経済成長政策に至る日本の歩みは、この「権威主義的開発体制」の原型を提供した。七〇年代に入

9. アジア小農業の再発見

いう原則が改めて確認された。 野心的なこの試みは、ネグロスと日本とのときには激しい議論の応酬、現地調査、試行錯誤を繰 り返しながらの実施計画づくりなどをへて、一九九五年から本格的に動き出す。ネグロスのさまざ まの分野の民衆組織と ZtO 、それに日本のを構成団体とする幻委員会がつくられ、 ハイロット地域を選んで地域づくりがはじまった。現在計画は三つのパイロット地区で行なわれて いる。漁村での養魚池と塩田を軸とする地域づくり、スラム住民組織による都市生ゴミの堆肥化と 農村への供給事業、元サトウキビ農園を自主耕作している農業労働者による自給を基礎とした複合 農業づくり、だ。 地主が私兵をくりだす ーの多くは市場で魚や野菜を売った スラム住民組織は O < ( カオサ ) という。そのメンバ り、行商したりしている。失業している若者も多い。彼等は市場やホテル、食堂などから生ゴミを 集め、それに稲わらと製糖工場から出るマッドプレスとよばれる絞り粕を加えて発酵させ、有機肥 料をつくる。できた有機肥料は農民組織を通して販売する。堆肥製造のプラントは、フィリピン大 学農業機械開発センターに設計と製作を委託した。 この生ゴミ堆肥化事業は二つの意味を持っている。一つは、特定の人ではなくスラム住民の多く がかかわることができる長続きする事業であり、新しい仕事がつくりだせるものであるということ。 250

10. アジア小農業の再発見

プロローグ ト物 論点とも重なるが、それぞれの地域の風土に合 カわせて農民が伝統的に培っていた知恵や経験 は、ここではまったく無用のものと見なされ た。農民は頭を使わなくてもお上に言われると おりやればよい、ということになったのであ る。高収量品種を導入し、食糧増産を達成する ためには、農民の内発性や自主性は、むしろ邪 な魔者だったのだ。日本において、農業近代化技 ロ術が技術から農民の主体性を奪いとり、虫がい 次ようがいまいが農業改良普及所の防除暦通りに 牛農薬を撒く農民をつくりだした、という宇根の 指摘と重なり合う部分である。 第四、第五の論点については、アジア経済論 の研究者、渡辺利夫 ( 東京工業大学教授 ) の次の 。ような指摘があを。渡辺は村落内 ( の商品経済 いの侵入によって相互扶助的な共同体慣行が崩 れ、最貧農民が大きな規模で排出されていく状 * 0