作物 - みる会図書館


検索対象: アジア小農業の再発見
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1. アジア小農業の再発見

の関係資料が送付されておらず、案件の妥当性について関係省庁の意見などを聞く仕組みになっ ていない ②の援助案件の選定に際しては、被援助国の実施調査や援助対象地域の実情などを確 認するために、できるだけ事前に現地確認調査をすることが有効であるが、現地確認調査の実 施件数は少なく、ほとんどが国内において資機材の仕様と価格を調査し確定する国内調査にと どまっている。このため、なかには供与した資機材の能力が現地の状況に適応せず、十分な効 果が得られてないものがみられる。 ③の援助案件の中には、被援助国において食糧自給率が向上し、主要作物 ( コメ ) につ いては一〇〇 % の自給率を達成しているにもかかわらず、引き続き同規模の援助を実施してい るものがみられる」 農薬監視行動ネットワーク Z (pesticide Action Network) の田坂興亜 ( 国際基督教大学準教授 ) は、 カンボジアに送られた農薬を次のように分析している。 ダイアジノンは有機リン系殺虫剤で、急性毒性も強いものである。また、魚毒性、鳥毒性も強い ことから、たくさんの人々が田の魚貝類にタンパク質を頼っているカンボジアの水田にこれを持ち 込むことは、非常に危険なことと考えられる。インドネシアでは、ダイアジノンの使用がかえって 虫害を招いたという報告もなされている。 フェニトロチオン ( 商品名スミチオン ) も有機リン系である。急性毒性は高くはないが、スミサイジ

2. アジア小農業の再発見

経験のある農民は少ない。しかし、野菜栽培の経験のあったサマイは、たちまち無農薬野菜の栽培 にも上達した。みんなが投げ出す、雨季たけなわの湿気と温度の両方が高いときも、暑季の乾燥し て温度が高いときも、彼は何とか工夫して乗り切ってきた。 野菜栽培には、表土が飛んだり「流れたり、乾燥したりしないように、水辺に生える草や緑豆の これらが分解し マメ殻などを利用したマルチ ( 草、作物の残渣などで土を被覆する方法 ) が欠かせない。 て肥料になるのに加えて、牛糞と鶏糞も肥料として、ときどき入れている。 サマイの畑には、一年を通してキャベッ、カリフラワー、プロッコリー、白菜、人参、レタス、 、 0 、 0 、 / ノイア、 ネギ、トマト、キュウリなどさまざまな野菜が元気に育っている。また、畑のまわりの グアバ、釈迦頭、ライチーなどの果樹もみずみずしい。野菜は乾季には水やりをしなくてはならな いので、果樹を畑のまわりに植えておくと、水やりの恩恵をこうむることができるからだ。 無農薬野菜は、約二〇世帯でバンコクの消費者や店を対象に共同集荷している。しかし、年間を 通じて生産量を一定に保つのはなかなか難しい。雨季と暑季には、地表からの水蒸気や熱気で、野 菜が蒸れたり腐ったりするので、栽培をあきらめる人も多い。消費者もあることなので、生産量を 一定に保つことができるよう、サマイは最近では野菜栽培グループの他の人たちへの技術協力に、 かなりの時間を割いている。 タマリンド、マンゴーの果樹園にはそれぞれ一種類しか植えてなかったので、サマイはその一部 を全部取り木して苗木にし、移植してモノカルチャーにならないように、その跡にジャックフルー 162

3. アジア小農業の再発見

る人たちで構成された小グループが管理する第一一次 ( 枝 ) 用水路、個人が管理する第三次 ( 末端 ) 用 水路を通って、各々の田んぼに入っていく。自分の田んぼへの水量が不足していると、ソムサクは 枝用水路と末端用水路の分岐点あたりにおいてある材木、石などの水のせき止め材をちょっと動か して、自分の田んぼに水がよく入るようにした。しかし、決して全部が自分の田に流れ込むように せず、必ずもれて、他の水田にも流れるように動かした。 水が不足気味の田んぼにちょろちょろ入る水を見て、私が「どうしてもっと水が入るようにしな いの」と愚問を発すると、ソムサクから、「一人で欲張ったりしないんだ」との答えが返ってきた。 すでに、この地域には換金作物であるトウモロコシ栽培が入ってきていて、大多数の農民はトウ モロコシの播種のために共同労働に行ったり、日雇いに出たりしていて忙しく、田んぼの見まわり に出てこられない人たちもいた。見まわりを怠っている人の田んぼには、明らかに水が不足してい て、イネの生育状態はよくない。そのような田の面倒までは積極的に見ないまでも、見まわりので きる人だけが独占しないよう、少しずっせき止め材を動かすルールができていた。 タイでは、これまでに建設された水利のための大型ダムで、当初、見込んだだけの面積に水を供 給できているダムはない。半分、あるいは潅漑計画面積の三分の一も供給できていないダムさえあ る。 その原因は、過伐採によって流域の森林が減り、表土が流れ込んできて湖底が嵩上げされ、ダム の水量が十分でないこと、乾燥化が進んで降水量が減ったことなど複数であるが、利用者による水 134

4. アジア小農業の再発見

連作障害の原因は、土壌中にその作物に有害な病原菌が繁殖することにある。そこで産地では Q ー 剤、剤、臭化メチル、クロールピクリンといった土壌消毒剤を毎年大量に注入する。有用 な微生物を含め、土壌中の生物は皆殺しになる。天敵がいなくなった病原菌は抵抗性をつけてます ます強くなり、それにつれて土壌消毒剤の施用量も増えていく。上中に注入された消毒剤は、一定 時間が過ぎると地表に漏れ出て、周辺一帯を漂う事実はよく知られている。横浜国立大学環境科学 研究センターが一九八五年にこんにやく産地である群馬県子持村で測定したところ、一カ月以上の 長期に渡って畑周辺の住宅地域を含む周辺大気がクロールピクリンによって汚染されていることが わかった。クロールピクリンはかって軍用毒ガスとしても使われたことがある劇物である。 自己決定権の喪失 モノカルチャー化がもたらした第二は、自給の崩壊だ。ここでいう自給とは、きわめて幅広い内 容を含んでいる。食の自給はいうまでもないことだが、さらに生産資材の自給、流通や加工、資金 の自給までさしている。その意味では、農民の主体性あるいは自己決定権の喪失と言い替えること もできる。 食の自給については、もういうまでもないだろう。かって農家は、いまでもタイやインドネシア の多くの農民がそうであるように庭先に何羽かのニワトリを飼い、屋敷まわりの畑を耕して、卵や 野菜をはじめ一家が食べるほとんどの食べものを自給していた。単作化・専作化が進む中で、卵を 114

5. アジア小農業の再発見

取国政府から援助要請が来た時点で、すでに受注企業が決まっている。商社マンの腕はいかにして 要請を出させるかで、そのためには相応のリべートが介在する。リべートを捻出するために、受取 国の国内輸送費を水増しする。当事者による生々しい証言に唖然とした覚えがある。 輸出される不況業種 アフリカ大陸東部のタンザニアへは一九七八年以降毎年必ずが供与されている。多い年は 年間九億五〇〇〇万円、少ない年でも年間四億円で、一九九六年までの累計は一二八億四二〇〇万 円にものぼる。日本政府はタンザニア北部のキリマンジャロ州の農業開発〈の供与に熱心 で、一九七四年から専門家を派遣し、一九七九年には無償で農業開発センターを建設、一九八一年 からは有償で水田開発、一九八七年からは無償で水田開発と、一九八九年まで継続して様々な形態 助の OQ< を供与し続けている。これにが絡む。このように、技術協力、資金協力が複合的に 食実施される OQ< 供与の方式を日本政府は「アン。フレラ方式」と呼び、供与の効果的手法と てして自賛している。 し と多くの住民がコメを主食としていないタンザニア・キリマンジャロ州にどうしてこれほどまで積 極的に稲作を導入しようとしたのか。表向きの理由は換金作物としてコメを生産し、これを輸出し 嶂て外貨を稼ぎ、国家経済に寄与するためとされている。より効果を大きくするために、高収量品種 第 を導入し、大型機械、肥料、農薬を多投入して稲作を進める。しかしながら、農業機械、肥料、農

6. アジア小農業の再発見

・コオー ) 型品種 導入された品種はタイ米穀局がの援助を受けて開発した・ ( コー とよばれるもので、系の性質をすべて備えていた。一九七一年に村の中心部に農業・協同 組合省によってパイロット田が設けられ、主だった農家に新品種が配られた。そして七三、七四年 頃から作付けが本格化していった。農家の新品種の取入れ方は、何種類かの品種の組み合わせでは なく、同一品種のみを作付け、二、三年たっと病害虫に弱くなるので他の品種に切り替えるという ものであった。品種のモノカルチャー化が進んだのである。 土地利用の面では次のような変化がみられた。新品種はまず乾期作として導入された。七〇年代 後半になり、雨期に野菜やマッシュルームなどの商品作物が入った。こうして多毛作化が進むかに 見えたが、バンコクの商人との契約栽培で入れられた野菜は買いたたきにあったり連作によるいや 地現象が出たりして八〇年代に入ると急速に衰えた。そのうち高収量品種の雨期への作付けが可能 になり、水稲二期作が普及していった。 新品種導入と土地利用形態の変化は農家を猛烈に忙しくした。在来品種の場合、田植の収穫も雨 の都合に合わせてきわめて融通がきいた。村うちの労働交換の「借り」と「返し」を繰り返しなが らゆっくりと作業をこなすことができたのである。ところが商品性を問われる高収量品種は刈り取 り適期が厳密に規定され、みんながいっせいに亡しくなるため伝統的な労働交換は成り立たなくな り、雇用労働力にとって代わられた。かっては「寝て暮らした」田植から刈り取りまでの期間も、

7. アジア小農業の再発見

には先住者がいた。軍は他人の土地に人々を追い込んだのである。タップランの村々も同じ運命に 見舞われた。 ブンタムたちがタップランに住み着いたのは二十七年前であった。土地を求めて移住してきたの だ。強制退去させられた九二年当時、ここには六つの村があり、六四四世帯が住んでいた。ここは 実かっては象や虎もいた森林地帯であった。人々はその土地に政府の奨励作物であるキャッサバとト の 民ウモロコシを植え、低地にはコメをつくって生活してきた。十五年前、この地域が突然保全林に指 る 定された。ある日、森林局の役人がやってきて、村の入り口のあたりに「タップラン国立公園」と え を書かれた白い大きな看板を立てた。 地 強制退去の日、森林局がやってきて家々に火をつけた。森林局は代わりの土地を用意していると オそこには古くから住んでいる村人がおり、空いた土地もなかった。それから五年、 ざいった。ごが、 根 人々はキャッサバの植え付けや刈り取りといった季節労働に一日一〇〇から一二〇バーツ ( 四〇〇円 域 地 から五〇〇円 ) で雇われながら、食うや食わずの状態で土地の権利回復要求を闘ってきた。「元の土地 に戻せ、それができないなら住む家と仕事を与えよ」というのが彼らの要求だ。「政府が聞き入れる 志 る すまで、我々は何度でも官邸前に座り込む」とブンタムは語った。 越 章 合流する農民のたたかい 第 九一年から九二年にかけ、東北タイの各地で多くの。フンタムたちの闘いがあった。東北タイの東 261

8. アジア小農業の再発見

て、農業を基礎とする循環型地域社会が生まれる。 話はこれだけに終わらない。農業を地域に取り戻すということは、ひとり農業だけの問題に終わ らず、地域社会のあらゆる分野に影響を及ぼす。 農業という分野だけを見ても、ことは同じだ。農家の考え方、生産の仕方、自治体の農業政策、 実農協の生産対策や農産物販売事業などすべてが変わらなくてはならない。農家の考え方や生産の仕 の 民方、自治体の農業政策、農協の事業、これらはすべて大都市への農産物供給ということを前提につ る くられているからである。 え 超 を さらに影響は広がる。レインボープランでは地域の有機物資源でつくられた作物は、地域の流通 域 地業者を通じて地域の家庭に届くと同時に、学校給食や公立病院の病院給食などにも届けられること し になっている。 ざ にそこで、例えば学校給食を考えてみよう。学校給食にそうした地一兀の農産物を入れようとすれば、 地教育委員会、教師、栄養士、調理士など多くの人や機関の検討と了解がいる。父母ももちろん当事 志者だ。そこでは当然レインボープランとは何か、といったことが話題になるだろう。地域の農業の る す実態や子供達の食べ物、そこから出るゴミといったことに話は及ぶはずだ。こうして農業問題と教 越育問題、環境問題が給食という具体的な現場で、あるいは子供のいる家庭で、地域の問題として一 章 体となって語られる。病院給食でも同じことが起こるはずだ。地域農業と地域医療、あるいは地域 第 の福祉問題がレインボープランを介してドッキングするのである。 215

9. アジア小農業の再発見

井も例外ではなかった。空中散布は朝早く行なわれる。まだ農薬が霧のように立ちこめている中を、 子どもたちが黄色いランドセルを背負って学校に急ぐ。同じ年頃の子どもを持っ彼は、集落の人た ちと語らって、集落の田んぼを減農薬田にして、空中散布を食い止めようということになった。 一九八六年のことである。最初実験田からはじまった減農薬コメづくりは、首都圏の生協との産直 が成功したこともあって次第に広がり、五〇ヘクタールの一カ所に固まった減農薬水田ができるま でになった。 これをさらに広げようとしたとき、隘路にぶつかった。減農薬栽培を成功させるには田んぼの上 。ところが肝心のそのための有機物が手に入らないのだ。「田畑に有機物を投入 づくりが欠かせない したくともほとんどの農家に堆肥がない。牛、豚のすでに大半は飼育を海外で行なっており、肉だ け、あるいは乳製品だけが日本に輸出される、という構造がすすんでいて、肝心の畜糞は海外に落 とされたまま」と菅野が記すような事態が進行していたのである。こうして彼は町の生ゴミに行き 着く。市民の台所から出る生ゴミを中心に地域から出る有機質資源を、堆肥センターをつくって堆 肥化し、それを地域の農地に入れて、化学肥料や農薬を極力抑えた作物をつくり、それを再び市民 の台所に返す。そんな有機物の地域循環構想が生まれた。 「おもしろいですね。有機物が豊富なはずの農村でそれが不足し、町ではあふれだして油をかけ て燃やしている。それを結びつけようと考えたんです」 菅野やその仲間は、この構想をもって地域のさまざまな組織、人を訪ね説得する。その経過は新 210

10. アジア小農業の再発見

猟採集民であることは、あまり知られていない。私たちは、狩猟採集社会にあまり関心を払わない し、軽侮しながら「未開」とも呼んできた。学校では、人類は他の動物とは違って狩猟採集社会か ら農耕社会へ、そして工業化社会へと発展してきた歴史を持っていると学んできた。 工業化社会に住む私たちは、工業化社会では技術が高度に進んだと信じている。しかし、工業化 社会では分業が進み、人は労働者としてその一端を担っているだけである。個人を見れば、その進 んだとされる技術の一つさえ満足に駆使することができない。そればかりか、生きることの基本で ある、衣食住、とくに工業製品では代用することができない食を人にゆだねていることで、自立し た生活を営むことができなくなっている。工業化社会に組み込まれると農民ですら、わずか数種、 あるいは一種類の作物の栽培に特化して、食糧生産から遠ざかる。 それに比べ、農業社会では食糧や他の必需品の多くを自ら作り出す。また、狩猟採集社会では、 必需品のほとんどを自然界から集めてくる。狩猟採集社会において一年を通じて食糧が欠けないよ うにするには、季節を踏まえた食糧計画を含む食糧知識、探索・選別能力、捕獲技術などが必要で あり、それは知恵の伝達と経験の積み重ねがあってはじめて可能となるものである。 私自身、狩猟採集社会では食糧の供給が不安定なので、農業社会になって人類はさぞかし安定的 に食糧を得られるようになったのであろうと、漠然と思っていた。それが、豊かな自然さえあれば、 狩猟採集社会はとても豊かで安定的であることを知ったのは、そう古いことではない。また、マレー シア、サラワク州の熱帯林を、森の民ブナン人に案内してもらったとき、狩猟採集が研ぎ澄まされ 128