カンボジア - みる会図書館


検索対象: アジア小農業の再発見
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1. アジア小農業の再発見

増水する期間、メコン川からの水はプノンペンで十字に交わるトンレサップ川を逆流し、トンレ サップ湖を満たす。そして、増水期が過ぎると湖の水は、今度はトンレサップ川を下り、流域を潤 しながら海へと流れていく。トンレサップ湖では、乾季に一メートル前後の水位は、満水時には九 メートル以上になる。また、乾季に二七〇〇平方キロメートルの湖の表面積は、雨季には一万 六〇〇〇平方キロメートルにもなる。氾濫水は水田に養分を供給し、淡水魚の繁殖を盛んにする。 稲作の九〇 % は雨季の天水稲作で、ごく一部の地域を除き、二期作はやっていない。かって、カ ンボジアはコメの輸出国であった。しかし、現在は前述のように水利システムが破壊されているこ ともあって輸入国になっており、コメの生産性も低い。しかし、水利さえ整えば、乾季の灌漑稲作 をやるまでもなく、人々の腹を満たすだけの十分な収量があがると考えられる。 毎年、雨季がくると人々は苗代をつくりはじめる。雨季もたけなわになり、田に水がたまってく ると、水のたまった田から田植えをする。田には微妙な高低差があり、水のたまり方が違う。隣り 合った田でも田植えの時期が違ってくるので、順々に植えていく。田に水が満ちるとどこからとも なく魚がやってきて、田には生命の息吹があふれる。カンボジアの田のもっとも忙しいときである。 カンポジアへの援助開始 一九七〇年以来、米中ソ三極対立構造のなか、カンボジアは代理戦争の場を強いられ、流血を繰 り返してきた。とくに一九七五年から四年間のポル・ポト政権下では、虐政によってすべての社会

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ン同様、小動物がこれの影響で脊椎異常湾曲症を起こすことが報告されている ( 『科学』一九七六年 ) 。 また、人への影響については、近視、視野狭窄などが報告されている ( 『日系サイエンス』、レポート ) 。 フェンバレレート ( 商品名スミサイジン ) はピレスロイド系で、同様環境に残留する。魚毒性 が強いので、カンボジアで使われた場合、環境、人、益虫などへの大きな影響が懸念される。 第 2 節カンボジアへの農薬援助と ZCO の対応 カンポジアの z C5 0 の動き 紋 波 日本からの援助に対して、いち早く疑問を提示したのは、カンボジアの復興に役割を果た の 助してきた z o であった。 産 増 カンボジア・タイ国境に滞留する少数集団であるシハヌーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派の 糧 食三派連合が国連へのカンボジア正式代表権を与えられ、国土と四〇〇万人 ( 当時 ) の国民を有しなが ら西側諸国から完全に無視されて孤立していたカンボジアに、一九八〇年代前半からたくさんの国 ア 際 ztO ( 民間国際協力団体 ) が常駐し、復興に協力してきた。 ン カ 一九八二年、日本国際ボランティアセンター ( o) はスタッフを、きれいな飲み水を供給しょ 章 うと、いち早くカンボジアに入って活動していたイギリスの Z 0 、オクスフアムに井戸掘りの専 第 門家として派遣した。当時はもちろんカンボジアと日本の間には国交がなく、日本人は彼一人きり

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7 防護具を同時配布し、使用が義務づけられる などである。 カンポジアでは、 ( 包括的害虫防除 ) 、複合経営農業の推進など、カンボジア農業省、 O 、 ZtO などによって農薬を使わないで農業する方法に関してさまざまな試みがなされてきた。 人々が食の安全性を確保するためには、農薬の援助より、現在の不備な水利を正すことと、ポル・ ポト時代に失われたり混じりあったりして適格な管理ができなくなってしまった種もみを収集・保 護・栽培・配布をして、人々が土地の条件に応じた数種類の種もみを常備し、その田の条件やその 年の気候に応じた種もみを選べるようにすることが、まず先決であろう。 また、人々が自分の食を考え直す取り組み、家庭菜園や水田における複合経営農業、アグロフォ レストリーなど、かってあった、またいまでもやっている農業の美点をのばすことができる農業を 保証することに、私たちはカンボジアの人々と共にかかわれたらと思っている。 「注〕 * 1 『 Rice P 「 oduction in Cambodia 』 Cambodia ・ IRRI Rice P 「 oject,Phunon penh, 一 99 一 * 2 『 OQ< の現状と課題』総務庁行政監察局 ( 一九九五年 ) * 3 『ストップ ! 危険な農薬援助ーー・カンボジア社会に、今、何が必要か』国際ボランティアセンター (—•

4. アジア小農業の再発見

この一連の行動を通して、私たちは日本の援助構造を奇しくも目の当たりにする機会を持っこと ができた。日本の農薬援助が決定される前から、旧知のカンボジア農業省官僚の事務室には日本の 農薬会社のポスターがところ狭しと貼ってあったこと、日本で農薬援助を考える集会をすれば、農 薬工業界の人たちが必ず出席していたこと、 ZtO の反対姿勢を見て、日本政府が緊急にカンボジ アで開いた、カンボジア政府役人向けの「農薬の安全使用のトレーニング」を実際に企画・実行し たのは農薬工業界であることなど、食糧増産をうたいながら、が日本の論理、日本のニーズ で動いていることが、写し絵のようにあぶりだされていた。 第 3 節食糧増産援助は問題を解決するか 市内に流れる農薬 ZtO をはじめとする市民の要求に応え、最終的にはカンボジアへの援助から農薬は除外 された。しかし決定を待たずに農薬はカンボジアの港に着いてしまっており、日本政府は一九九二 年度に限って、その農薬を農業省の実験農場など、地域と場所を限定して使用することになった。 この決定は、日本政府による回収を要求していた ZtO には不満の残るものであった。規定通りに 使用されるかどうか、モニタリングをした結果は、驚くべきものであった。農薬は、プノンペン市 内、あるいは郊外の市場の店頭に、表示も十分でないまま並べられていた。そして、援助の農薬は

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連携がうまくいっていない たことも原因していた。 まカンボジアの食糧事情を向上 布させるのに、が効果があ 薬 るのかどうか、大いに疑問であ 農 と る。カンボジアにかかわらず、 袖 半 生産物の流通がボーダーレスに なっている今日では、コメが増 半産できればカンボジア人の食糧 ー / 足事情がよくなるという単純な構 造にはなっていない。それどこ ろか、コメは収穫があがればあがるほど、市場原理によって品質のいいものから国境を越えて、価 格のいいタイなどへ流れていくのが実状である。 また、カンボジアの主食糧であり主産物であるコメ栽培に、農薬が必要とされているかどうかと いう疑問が残る。というのは、前述のように、カンボジアのコメの作付け面積の九〇 % は在来品種 による雨季作であり、雨季作には害虫による被害はほとんどないからである。 現在、カンボジアで農薬が使われているのはむしろ、野菜、スイカなどの換金作物である。どう

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基盤が崩され、食糧を十分与えられない中での強制労働と大量虐殺によって、一〇〇万人以上とさ れる老若男女が死んでいった。 一九七九年のポル・ポト政権崩壊以後、カンボジア・タイ国境線上に滞留するポル・ポト派を含 む三派の連合グループが、カンボジアの正式代表者として国連および西側諸国政府によって認めら れ、国土と大多数の国民を有するカンボジア国は、その存在を無視され、十年以上にわたって国際 的な孤立の中に置かれた。 一九九一年十月、パリで調印された「カンボジア包括和平協定」により、長い内戦に終止符が打 たれ、カンボジアは西側諸国から国として認められるところとなった。これを受けて日本政府 紋 波は、一九九二年六月に「カンボジア復興閣僚会議」を東京で開催し、一九七四年以来停止していた 助二国間援助を、他国に先駆けていち早く再開させた。その先鞭ともいうべき援助の一つが、一九九二 増年五月に決定された総額五億円の食糧増産援助であった。一九九二年のカンボジアへの 食には、農業機械、化学肥料と共に、ダイアジノン ( 日本化学 ) 、スミチオン ( 住友化学 ) 、スミサイ ジン ( 住友化学 ) の三種の農薬、合計三万五〇〇〇リットル、一億円相当が含まれていた。 ア ジ ン カ 食糧増産援助 (u 章 カンボジアの農業の現状を考察することなく、機械的に農薬を持ち込もうとした、食糧増 第 、。、ツケージ型の無償援 産援助とは、農薬、化学肥料、車両を含む農業機械の三つをセットにしたノ

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第 1 節カンボジア農業と食糧援助・ 天水田の稲作・ カンボジアへの援助開始・ 食糧増産援助 ( 2 ) ・ 第 2 節カンボジアへの農薬援助と Z 0 の対応・ カンボジアの Z O の動き・ 日本の Z O の動き・ 第 3 節食糧増産援助は問題を解決するか・ 市中に流れる農薬・ 食の安全性に向けて・ 第 2 章利権としての食糧援助 ーニッポン型食糧援助の構造を検証するー 第 1 節アメリカの食糧援助・ 学校給食の思い出・ アメリカ合州国の食糧援助の始まり・ マーシャルプランからポイント・フォーへ・ 食糧援助 4 8 0 の意図するもの・ 49 神田浩史・

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第 1 節カンボジアの農業と食糧援助 天水田の稲作 カンボジアの首都プノンペンからのびた三号線の近く、カンダール州カンダールストウーン郡の 十月、穂の出そろった青々とした田を前景に、果樹に囲まれた家並みがのどかに続いている。村は メコン川支流に沿っていて、水が豊富で稲作に適している。この村にもかって内戦の嵐が吹き荒れ た。しかし、平和が戻ったいま、村人はコメつくりに精出し、お寺のまわりには村の共有林も再生 した。 カンボジアの人口約一〇〇〇万人の八一 % は農村部に住んでいる。また、農民人口のほとんどは、 北西部のシエムレアップから南東部のスパイリエンを結ぶ対角線上、つまり、メコン川とその支流 であるトンレサップ川 、バサック川、そしてトンレサップ湖の流域に住んでいる。おもな農産物は 第 1 章カンボジアー食糧増産援助の波紋 岩崎美佐子

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2 末端使用者の農薬の安全使用が期待できない 3 農薬に関する法整備がなされていない 4 ェビ、カニ、魚など、総合的な食料生産の場への悪影響が懸念される などであった。 O O O は各国の Z O に彼らの国での協力を要請し、日本の Z O 、市民に対して も、具体的な協力要請を行なった。 日本の ZOO の動き カンボジアからの要請を受け、日本では h>O をはじめ、 ( 熱帯林行動ネットワーク ) 、 紋 波日本消費者連盟、 ( アジア太平洋資料センター ) 、 OQ< 調査研究会など、開発協力、環境問 題、消費者運動、の検証などの分野で活動する ztO が連携して広く一般市民に呼びかけ、 増農薬援助を問うシンポジウムの開催、シンポジウム決議を持って外務省への申し入れ、カンボジア 糧 での現地調査のための専門家派遣など、矢継ぎ早に行動を起こした。 これらの動きのなか、援助用の農薬を乗せた船は早々と出航し、カンボジアの港に着いた。しか ア し日本政府は、 ztO をはじめとする市民の、カンボジアの現状を踏まえた一連の行動を無視する ン カことができず、農薬は港で長く荷揚げを凍結されることになった。そして最終的には、カンボジア 嶂の、食糧増産援助から農薬は除外するという決定がなされた。現在も、農薬援助は停止され 第 たままである。

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であった。 それを手はじめに、当時のヘン・サムリン政府と地道な折衝を続け、一九八六年にプノン。ヘンに、 やはり日本人としては唯一の事務所を開設して、食糧輸送のためのトラック修理、保健プロジェク トなどを開始した。はまた、復興協力のかたわら、カンボジアの一日も早い国際認知と和平 を願って、カンボジアで活動する国際 Z O の連絡協議体、 O O O (Coope 「 ationcommitteefo 「 cambodia) の一メンバーとして、カンボジアの窮状を訴える本、『 ZtO が見たカンプチア』の日本語版を出版 するなど、関係各方面に働きかける努力もしていた。 一九九〇年代初頭、 0 0 0 には農業、植林、家畜衛生、給水、地域医療、教育、社会福祉など、 分野別の勉強会があった。定期的に開かれる勉強会には、 Z ch O スタッフのみならず、 Z (United Nation Development p 「 og 「 amme= 国連開発計画 ) 、 O (F00d and Ag 「 icultu 「 e 0 「 ganization 0f the United Na ・ ま n Ⅱ国連食糧農業機関 ) などの国連機関や—— ( 一冐「ミ一。 na 一 Rice Rese 「 ch 一 n を ( 冐Ⅱ国際稲研究所 ) などの 国際機関のスタッフ、カンボジア農業省など各省庁の若手役人などが集まって、カンボジアの将来 のために共に学び、熱い議論を交わしていた。 「日本政府による農薬援助」のニュースはまず、この OOO にもたらされた。人々は、どのように 対処すべきか勉強会と作戦会議を重ねた結果、 000 ではこの農薬援助はなんとしても止めたいと いう結論を導きだした。農薬援助に反対する理由は、 雨季米には病虫害の被害がほとんどみられない