キャッサバ - みる会図書館


検索対象: アジア小農業の再発見
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1. アジア小農業の再発見

第 3 章越境する志ーー - 地域に根ざし、地域を超える農民の実践 〈争点三〉農産物の低価格問題。 ョこれらの争点は、以下の九つの課題としてまと められた。①低米価、②低キャッサバ価格、③政 勾府奨励のカシューナツツ栽培の失敗、④在来品種 和に代わる新蚕種を導人した養蚕の失敗、⑤政府奨 説励の新種肉牛飼育の失敗、⑥小規模養豚農民の協 同組合倒産問題、⑦公共事業、特にダム建設に絡 をむ小規模漁民の追い出し問題、⑧零細農民の土地 農占拠・耕作に絡む問題、⑨アグリビジネスと政府 一による小規模農民のコントロール強化をめざす政 イ府の農業政策への反対ーー 集キャッサバ農民立ち上がる ルイ書て め九三年三月一日、二〇〇〇人のキャッサバ栽培 農民が価格低迷が続くキャッサバの価格支持を要 策求して、ブリラム県ノンカイ郡に集結した。 キャッサバは普通生ィモのまま加工工場に売り渡 257

2. アジア小農業の再発見

され、チップ、製粉、。ヘレットという過程を経てタピオカ製品となって、飼料原料としてヨーロッ 。、、主としてオランダに輸出される。タピオカは政府の奨励政策によって、七〇年代以降タイの代 表的な輸出農産品となったが、八〇年代後半に入りの輸入規制にあって価格は低迷を続けてい た。国際市場の影響をもろに受けて生産者手取り価格がじり貧の道をたどっているタイの代表的な 輸出農作物コメと同じ構造にあるのだ。東北タイはそのキャッサバの大産地であった。 同年四月、四〇〇〇人の小規模養豚農民がマハサラカムに集結、政府との交渉を求めて、バンコ クに向かう幹線道路を占拠して座り込んだ。コメ単作からの脱皮をめざして八〇年代から始まった 小規模な農民の養豚経営は、九〇年代に入り政府の国内流通規制の緩和政策に乗って大量安価に出 回るようになった大手アグリビジネス傘下の豚肉や輸入豚肉に追われて倒産が続出、せつかく作っ た養豚農民の協同組合も次々と解散に追い込まれていた。 同年六月、今度は東北タイのほぼ中央部に位置するロイエットに各地から三〇〇〇人の農民が集 彼らは東北タイ各地からやってきたカシューナツツ生産者で まり、五日間にわたって座り込んだ。 / あった。 カシューナツツは八〇年代後半にキャッサバの転換作物として、政府が奨励して導入したもので ある。イサーン小農民会議が掲げる三つの争点の第一に述べられている「四者推進方式による契約 農業」の典型事例のひとつが、このカシューナツツであった。まず政府が、キャッサバの作付け転 換政策を打ち出し、有利な作物としてカシューナツツを奨励、南タイでよい成績を上げたという品 258

3. アジア小農業の再発見

には先住者がいた。軍は他人の土地に人々を追い込んだのである。タップランの村々も同じ運命に 見舞われた。 ブンタムたちがタップランに住み着いたのは二十七年前であった。土地を求めて移住してきたの だ。強制退去させられた九二年当時、ここには六つの村があり、六四四世帯が住んでいた。ここは 実かっては象や虎もいた森林地帯であった。人々はその土地に政府の奨励作物であるキャッサバとト の 民ウモロコシを植え、低地にはコメをつくって生活してきた。十五年前、この地域が突然保全林に指 る 定された。ある日、森林局の役人がやってきて、村の入り口のあたりに「タップラン国立公園」と え を書かれた白い大きな看板を立てた。 地 強制退去の日、森林局がやってきて家々に火をつけた。森林局は代わりの土地を用意していると オそこには古くから住んでいる村人がおり、空いた土地もなかった。それから五年、 ざいった。ごが、 根 人々はキャッサバの植え付けや刈り取りといった季節労働に一日一〇〇から一二〇バーツ ( 四〇〇円 域 地 から五〇〇円 ) で雇われながら、食うや食わずの状態で土地の権利回復要求を闘ってきた。「元の土地 に戻せ、それができないなら住む家と仕事を与えよ」というのが彼らの要求だ。「政府が聞き入れる 志 る すまで、我々は何度でも官邸前に座り込む」とブンタムは語った。 越 章 合流する農民のたたかい 第 九一年から九二年にかけ、東北タイの各地で多くの。フンタムたちの闘いがあった。東北タイの東 261

4. アジア小農業の再発見

、 0 、 0 、 ノ / イヤ、 中層【バナナ 低層】日向ネピアグラス、トウモロコシ など 半日陰タロイモ、パイナップルなど 日陰ウコン、ショウガなど 2 、半潅漑の小規模農場 ( 図 9 ) 高層】シロゴチョウ、シムルなど 、 0 、 0 、 中層】バナナ ノ / イヤ、桑、レモン、ドラ ムスティック、キャッサバ、ヒマな 低層】日向トマト、ヘちま、オクラな ど一 半日陰タロイモ、パイナップル、ト ウガラシ、ほうれん草、キュウリな Ä」 日陰 ー。フ、薬草など 8 図 200

5. アジア小農業の再発見

第 5 節農民になるー自立のための農業創造・ネグロス民衆の実践・ 土地なき百五十年・ 飢える子どもたち・ 農業で生きてゆけるのか・ 動き出す循環の地域づくり・ 地主が私兵をくりだす・ 開発の嵐の中で・ 第 6 節政治を動かすーイサーン小農民のたたかい・ 座り込む農漁民・ 開発と農漁民・ キャッサバ農民立ち上がる・ 土地の権利を求めて・ 合流する農民のたたかい・ エピローグ〃つなぐということ ーあとがきにかえてー 257 2 お 岩崎美佐子・ 265

6. アジア小農業の再発見

第 1 章生き方を取り戻すタイ農民 を占める農業部門に輸出用換金作物を導入するこ る とと並び、木材など天然資源を輸出することは外 て っ貨を獲得するための貴重な手段であったからであ ま 第しる て 、つ林野庁から五年から十年の長期伐採権を与えら れた伐採業者は、おもだった大木を次々と伐採し し 出 た。また、伐採道路を利用して、地元の業者や伐 む 採職人たちによる密伐採も横行した。 す森林には、同じく伐採道路を利用して、灯明に わ使う樹脂や果物を集めに集まってきた農民たちも 見 し / 帯 地森林が荒れ、森の幸を集めることが不可能にな 山ると、彼らは仲買人に勧められるままに、トウモ ゴロコシ、キャッサバ、サトウキビ、緑豆などの換 金作物を栽培しはじめた。植えつけ前に整地しょ 東 うと、彼らは荒れた森に火を放ったので、森林の イ タ 消滅はさらに進んだ。 157

7. アジア小農業の再発見

第 3 節換金作物化に特化して市場に巻き込まれる過程 換金作物栽培 十九世紀後半、マレーシア、カンボジアなどタイをとりまく国々は西欧諸国によって植民地化さ れ、ゴムなどのプランテーションがはじまっていた。これらプランテーションの労働者のための食 糧需要を背景に、タイでは輸出用のコメ栽培がはじまった。それまでほとんど無人であったチャオ プラヤー川の河口のデルタ湿原には、農業用運河が網の目のように掘られ、急速に水田化が進めら れた。 また南部では、二十世紀初頭に、マレーシアからゴムを持ち込んできた中国系の人々によって、 ゴムの栽培が細々ではあるがはじまった。 これら一九六〇年代以前の換金作物栽培が、一部の人々が一部の地域でかかわっていたものであ るのに対し、それ以降にはじまったキャッサバ、トウモロコシなどの換金作物栽培は、面積におい ては全国規模であり、巻き込んだ人口においても、ほとんど全農民をあげてのものであった。植え つける種子の選択、化学肥料や農薬の選択、大型トラクターによる耕起、生産物の価格の決定と買 い取り、加工など、農業のすべての段階において、農村の外部者である特定の仲買人 ( 企業 ) が決定 権を持った換金作物栽培である。農民は自らの知恵で創意工夫することは許されず、決められた通 1 ろ 8

8. アジア小農業の再発見

しいことずくめなので、この方法はたちまちのうちにまわりの農民たちにも広がった。今ではこ のあたりは緑一色となり、数年前とは見違えるようだ。林野庁も追い出す口実がなくなったどころ か、農民たちが植林を進めるのを支援するようになっている。 プラスート・ソンバットライ ( 四十九歳 ) チャイヤプーン県パクディチュンポン郡ワントーン区ヒンダート村のプラスートは、自分の農地 の一角に残している森に一日中いても飽きない、森の大好きな農民である。四ヘクタールの農地の うち、約〇・五ヘクタールは森林のまま残して、残りの土地にはトウモロコシと綿を栽培をしていた。 > 0 にプラスートを紹介したのは、近隣の農民である。当時、 > 0 は山岳地帯でのプロジェ クト地を絞り込むため、チャイヤプーンあたりの農民を数人連れて、アグロフォレストリーで有名 なヴィブン村長を訪問した。キャッサバ栽培で多額の借金を作ったヴィブンは、五年ほど前に借金 返済のために農地のほとんどを売り、一・五ヘクタールだけを残して、そこになんと四〇〇種類以 上の木を植えた人である。たった数年で出現した、天然林のように豊かな森に驚きながら、農民た ちは「僕たちの村にも似たような農業をやっている、おかしなやつがいるよ」、「そうだ、あいつも森 が好きなやつだよなあ」と教えてくれた。その「おかしなやっ」がプラスートであった。 かってプラスートは、十年ほどバンコクで働いたこともあった。都会の暮らしが好きになれず、 田舎で農業をはじめたものの、と出会った一九八九年頃、プラスートは綿栽培に使う農薬に 158

9. アジア小農業の再発見

スラムでの zchO の活動は、識字教育、電気、水道の施設など最低限のニーズを満たすものから、 工業化に伴う立ち退き問題への対応など、質的な転換をとげつつあった。これまで、虫けらのよう に追い払われる理不尽な仕打ちに対して、あまり声をあげてこなかったスラムの人々が力をつけ、 正当な権利を主張するのを支援することは、もとより意味がないわけではない。しかし、立ち退き による代替地や補償の交渉は、私たちが疑問符を冠してきた大量生産・大量消費社会へとつながっ ているようにも見えた。 私は農村にかかわりたいと思った。農村には、どこまでも続く乾燥した大地が広がっている。 キャッサバなどの換金作物はひび割れた土の中からどうやって水を吸い上げているのか、葉はかさ かさに乾いてほとんど枯れかかっている。その奥にある村々には、電気も水道ないが、たくさんの 人々が住んでいる。固い土を夫婦二人だけで掘りかえして立派な池をつくり、乾季でもさまざまな 野菜や果樹を植えている人がいる。村のために寺を開放して、コメ銀行や共同購入店活動をしてい るお坊さんがいる。「お米はネズミに食べられないのですか」とたずねると、お坊さんは、「こんな にたくさんあるんだもの、ネズミにもあげたっていいじゃないか」と、笑っていた。 環境の劣化によって生活が困難になっているなかでも、自然とともに生きようとしている人々。 彼らとともに自然を豊かにし、「人が自然の一員である生活」をもっと豊かにすることはできない か。そう考え、私は少しずつ農村に近づいていった。 現在、ほとんどの国々は大量生産、大量消費を基盤にした、地球規模の経済システムに組み込ま 126

10. アジア小農業の再発見

森がなくなった跡地に入り、キャッサバやトウモロコシを作付けして生活していた農民を、緑の 回復と保全を名目に追い立て、そこを企業や有力者に払い下げてパルプ原料となるユーカリ植林を 進める政府事業が、八〇年代末から九〇年代にかけて大々的に行なわれたが、これも農業の工業化 の一つとみてよい。さらには工業開発のための道路やダム建設のための農漁民の追い立ても、各地 で頻発した。 一九九二年三月、こうした問題を抱え、孤立した運動をやっていた東北タイの農民グループと z tO 関係者が一堂に集まり、イサーン小農民会議が結成された。これまで個別の闘いを余儀なくさ れていた農民グループが横につながったのである。開発による土地や川からの農漁民の追い出し、 物価は上がるのに逆に引き下げられる農産物価格、借金だけが増える契約農業、等々、そこはさな がらアジアの小農民が開発と経済成長の中で直面している諸問題のデパートであった。こうして東 北タイを中心に小農民のエネルギーが爆発した。 イサーン小農民会議はその要求を三つの争点と九つの課題として掲げた。それは次のようなもの であった。 〈争点一〉四者推進方式による契約農業やダム建設など政府の政策に起因する問題。 〈争点一一〉政府と農民間の土地紛争。森林保全地域や公有地、王室所有地で生活し生産活動を営ん でいる農民の土地に対する権利の獲得。 256