いまでは新自由主義という言い方で世界の の援助と言われるものの多くは、構造調整政策が狙い、 経済政策の潮流となっている世界のすみずみまでの市場経済化を押し進める役割を担っている、と いうことである。いまグロー 、ハリゼーションという言い方で言われている現象だ。 農業輸出産業化の結末 市場経済化が農業と農民にいかなる影響をもたらすかについては、タイ東北部にかっこうの事例 を見いだすことができる。東北タイは、タイで最も貧しい地域といわれている。住民の多くは農業 に従事しているが、ほとんどが借金を抱え、出稼ぎを余儀なくされている。東北タイの小農民を組 織し、農民運動の先頭に立っている農民バムルン・カヨタによると、一家族平均四万から五万バ ノーツは約三円 ) の借金を背負っているということであった。筆者が東北タイのいくつかの村で 聞き取りをしたときにも、同じような額が答えとしてかえってきたから、ほぼまちがいのないとこ ろだろうと思う。これは東北タイの小農民の農業による平均的な年収の二年分に十分相当する額で あると彼はいう。ちなみに、ここでいう小農民とは、平均耕作規模で二〇ライ ( 約三ヘクタール ) 前後 の農民をさしている。 ZtO の活動家でもある東北タイの農業経済研究者によると、ひとつの村で 六〇 % の家族がこの層に当てはまるという。 バムルン・カヨタは筆者のインタビュ ーに答え、その借金は農業の市場経済化がもたらしたもの であることを、いくつもの例を引きながら語っな。そのひとつに契約農業の問題がある。タイの経
だけは立派だが、 実際は農民を土地から追い出す政策にすぎない。タイでは一九五〇年に国土面積 の六二 % を占めていた森林が、一九八八年で二八 % と半分以下になり、その後も急速に減り続けて いる。木材伐採、トウモロコシやキャッサバなど商業的農業の奨励に伴う農業の森林への進出、べ キし、などが主な要因 トナム戦争を背景とする国内共産ゲリラ封じ込めのための軍による森林焼きム、 これに対して政府は八〇年代に入り、森林の回復と保護を掲げて国家林野政策を立案、実施して きた。まず、農民が農地や住まい、共同草地、入り会い林として利用している土地を含む広大な面 積を「保全林」として国有地化した。保全林は森林として保護する保護林と木材や林産物の供給地 として開発する経済林に分けられる。経済林は民間企業に貸し出されて、パルプ原料となるユーカ リが植えられる。保全林で農業を営んだり、住まいを建てて生活している農民は、法的には不法侵 入者として取り扱われることになった。 この林野政策に軍が絡み、強制的な住民追い出しを行なったのがである。その主舞台は貧 農による森林地への進出がもっとも多い東北タイであった。軍隊が出動しての住民強制退去は九一 年から始まり、九二年にはピークを迎えた。東北タイでは保全林のうち一四〇〇万ライ ( 約八七五〇 万ヘクタール ) がの対象地となったが、そこには二五〇〇の村があり二五万世帯が住んでいた。 各地で農民と軍隊との衝突が起こった。 軍は、立ち退かせた住民には代替地を用意していると宣伝していた。しかしその代替地なるもの
森がなくなった跡地に入り、キャッサバやトウモロコシを作付けして生活していた農民を、緑の 回復と保全を名目に追い立て、そこを企業や有力者に払い下げてパルプ原料となるユーカリ植林を 進める政府事業が、八〇年代末から九〇年代にかけて大々的に行なわれたが、これも農業の工業化 の一つとみてよい。さらには工業開発のための道路やダム建設のための農漁民の追い立ても、各地 で頻発した。 一九九二年三月、こうした問題を抱え、孤立した運動をやっていた東北タイの農民グループと z tO 関係者が一堂に集まり、イサーン小農民会議が結成された。これまで個別の闘いを余儀なくさ れていた農民グループが横につながったのである。開発による土地や川からの農漁民の追い出し、 物価は上がるのに逆に引き下げられる農産物価格、借金だけが増える契約農業、等々、そこはさな がらアジアの小農民が開発と経済成長の中で直面している諸問題のデパートであった。こうして東 北タイを中心に小農民のエネルギーが爆発した。 イサーン小農民会議はその要求を三つの争点と九つの課題として掲げた。それは次のようなもの であった。 〈争点一〉四者推進方式による契約農業やダム建設など政府の政策に起因する問題。 〈争点一一〉政府と農民間の土地紛争。森林保全地域や公有地、王室所有地で生活し生産活動を営ん でいる農民の土地に対する権利の獲得。 256
と実践がもつ意味はますます重要になってきたと、この仕事に関わる誰もが感じている。 第 6 節政治を動かすー・イサーン小農民のたたかい 座り込む農漁民 実 の 民 ハンコクの首相官邸前の大通りを占拠していた約一万の人々が、三カ月と一週間ぶりに座り込み 農 る を解いたのは、一九九七年五月二日のことであった。農民への土地の権利の保証、ダムや道路建設 え をで立ち退きを迫られている農漁民生活権問題、契約農業における企業の不正問題、農産物価格問題、 地労働災害、都市スラム問題など一二一にのぼる要求を、政府がすべて飲んだためだ。座り込んでい ざたのは、タイ語でサマチャーコンチョン、英語名が「 Fo 「 umofthe poo 「」という組織である。「貧 根 民フォーラム」とでもいえばよいだろう。東北タイの農漁民を中心に、労働者や都市スラムの人々 域 地も参加するネットワーク型の民衆組織だ。 五月二日にすべての要求を政府に飲ませて、全面勝利で終わった座り込みは、年明け早々の一月 志 る す二十五日にはじまったものだった。前年、一九九九年の秋にも同じような座り込みが、やはり首相 越官邸前で行なわれていた。私がその現場を訪れたのは十一月一日だったが、そのとき座り込みはす 章 でに三週間目に入っていた。同じ年の六月、私たちアジア農民交流センターと山形県の置賜百姓交 第 流会が農民交流で日本に招いたワッタナーが、めざとく私を見つけ笑いながら手を振っているのが 255
北タイの小規模農民層であった。イサーンとよばれるタイ東北部は、タイの中でももっとも貧しい 地域だ。乾燥が激しく、いつも水不足に悩まされている。村のまわりを取り囲んでいた豊かな森 は、七〇年代から八〇年代にかけて消滅し、乾季には赤茶けた大地がどこまでも続く。イサーンは 国内外への出稼ぎ労働者やバンコクのスラム住民の一大供給基地でもある。八〇年代から始まるタ 実イ経済の高度成長、それを押し進めた工業化政策は、一方でバンコクを中心に新中間層ともいえる の 民豊かな階層を生みだしたが、同時に成長からはじき出された膨大な階層を生みだした。正確にいえ る ば、経済成長のために自分たちの生存基盤を吸い取られ、切り捨てられていった層である。この周 え を辺化された代表的な階層がイサーンの小農民であった。その層が動き出したのだ。 地 タイの経済成長路線を言い表わす言葉として、よく Z<—O ( ナイク ) という言い方が聞かれる ざ韓国や台湾型の ( 新興工業経済地域 ) を意識しての言葉であり、「新興農業工業国」とでもい 根 う意味である。この言葉が示すように、タイの経済成長は農業の商業化・工業化・輸出産業化をテ 域 、フロイラー ェビ、熱帯果樹といったものから日本 地コとして進められてきた。コメ、キャッサバ、、 志向けの野菜まで、農産物が外貨稼ぎに一番手として位置づけられた。こうして稼いだ外貨で工業発 す展を促す、という仕組みである。農業を商業化・工業化・輸出産業化するためにとられた政策がア 越グリビジネスの育成であり、アグリビジネスと農民との契約農業であった。農産物は生産から加工、 章 流通、販売に至るまですべて資本に統合され、コントロールされる。そのことをより効率的に行な 第 うため、生産方法や流通の古いやり方は否定され、農業に近代化と市場経済化・自由化が押し寄せ * 8 255
され、チップ、製粉、。ヘレットという過程を経てタピオカ製品となって、飼料原料としてヨーロッ 。、、主としてオランダに輸出される。タピオカは政府の奨励政策によって、七〇年代以降タイの代 表的な輸出農産品となったが、八〇年代後半に入りの輸入規制にあって価格は低迷を続けてい た。国際市場の影響をもろに受けて生産者手取り価格がじり貧の道をたどっているタイの代表的な 輸出農作物コメと同じ構造にあるのだ。東北タイはそのキャッサバの大産地であった。 同年四月、四〇〇〇人の小規模養豚農民がマハサラカムに集結、政府との交渉を求めて、バンコ クに向かう幹線道路を占拠して座り込んだ。コメ単作からの脱皮をめざして八〇年代から始まった 小規模な農民の養豚経営は、九〇年代に入り政府の国内流通規制の緩和政策に乗って大量安価に出 回るようになった大手アグリビジネス傘下の豚肉や輸入豚肉に追われて倒産が続出、せつかく作っ た養豚農民の協同組合も次々と解散に追い込まれていた。 同年六月、今度は東北タイのほぼ中央部に位置するロイエットに各地から三〇〇〇人の農民が集 彼らは東北タイ各地からやってきたカシューナツツ生産者で まり、五日間にわたって座り込んだ。 / あった。 カシューナツツは八〇年代後半にキャッサバの転換作物として、政府が奨励して導入したもので ある。イサーン小農民会議が掲げる三つの争点の第一に述べられている「四者推進方式による契約 農業」の典型事例のひとつが、このカシューナツツであった。まず政府が、キャッサバの作付け転 換政策を打ち出し、有利な作物としてカシューナツツを奨励、南タイでよい成績を上げたという品 258
第 3 節換金作物化に特化して市場に巻き込まれる過程 換金作物栽培 十九世紀後半、マレーシア、カンボジアなどタイをとりまく国々は西欧諸国によって植民地化さ れ、ゴムなどのプランテーションがはじまっていた。これらプランテーションの労働者のための食 糧需要を背景に、タイでは輸出用のコメ栽培がはじまった。それまでほとんど無人であったチャオ プラヤー川の河口のデルタ湿原には、農業用運河が網の目のように掘られ、急速に水田化が進めら れた。 また南部では、二十世紀初頭に、マレーシアからゴムを持ち込んできた中国系の人々によって、 ゴムの栽培が細々ではあるがはじまった。 これら一九六〇年代以前の換金作物栽培が、一部の人々が一部の地域でかかわっていたものであ るのに対し、それ以降にはじまったキャッサバ、トウモロコシなどの換金作物栽培は、面積におい ては全国規模であり、巻き込んだ人口においても、ほとんど全農民をあげてのものであった。植え つける種子の選択、化学肥料や農薬の選択、大型トラクターによる耕起、生産物の価格の決定と買 い取り、加工など、農業のすべての段階において、農村の外部者である特定の仲買人 ( 企業 ) が決定 権を持った換金作物栽培である。農民は自らの知恵で創意工夫することは許されず、決められた通 1 ろ 8
第 3 章越境する志 ー地域に根ざし、地域を超える農民の実践 一九九七年七月十九日、「アジア百姓フォーラム」と銘うった小さな集まりが東京都内であった。 主催はアジア農民交流センター。農民が呼びかけ、主に農民を構成員とする小さな ZtO だ。フォー ラムのテーマは「いま、アジアの農村で何が起こっているかーーー″成長のアジア″のもうひとつの顔 」というものであった。アジアからは、東北タイの小農民運動のリーダーとして活動しているバ ムルン・カヨタ夫妻、韓国で自然農業を実践する地域営農組合のリーダー金文洙 ( キム・ムンス ) さ んを招き、各地から参加した数十人の農民を含む百人余りの参加者が熱心な討論を繰り広げた。工 業化と開発のなかで農業や農村、農民の暮らしや生産に何が起こったかを、日本、韓国、タイのそ これからの方向をさぐった。それからしばらくしてアジアを舞台とする経済 れぞれから出し合い 危機が勃発することになる。 そこで明らかにされた方向は、農民の手から離れてしまった自己決定権を取り戻す農法や地域の 大野和興 206
端のラオス国境、ウボン・ラチャタニではメコン川に合流するムン川に造られたダムで水没する零 細漁民の闘いが始まっていた。 そうした動きが合流したとき、かってない農民運動の渦がイサーンの地に巻き起こったのだ。イ サーン小農民会議には五万人の農民が結集し、九三年十月には約二万の農民の大デモを生んだ。さ らに九四年二月、あるものは歩き、あるものはトラックに分乗して、バンコクへの長い行進が始まっ た。鍋釜を背負い、路上で生活しながらの、文字通り長征であった。九五年一月には約一万人が同 じようにバンコクへ向け行進、当時のチュアン首相を交渉に引き出した。 しかし、その同じ年、イサーン小農民会議は従来通りの先鋭的な民衆運動を続けるか、政府との 協調を含むより穏健な話し合い路線に転換するかという路線論争が起こり、方針転換が図られる。 この動きについて、「政府からの資金供与を受けてより農協的な運動を指向する人々が主流になっ た」とタイ在住のジャーナリスト岡本和之は述べている。リーダー層の多くに政府の懐柔策が入っ たという人もいる。その後を受け継いで、対政府要求を掲げて大勢の人々を結集する運動を繰り広 げているのが冒頭紹介した「貧民フォーラム」だ。一九九七年七月の「アジア農民フォーラム」に 参加したバムルン・カヨタはイサーン小農民会議の初代書記長、そして貧民フォーラムのリーダー として、一貫して農民の闘いの先頭に立ってきた。 貧民フォーラムが掲げる一一一一項目の要求の多くは、土地問題や価格問題など権利や政策に関わ る問題だが、新しい動きもある。単に政府に「ああしろ」というだけでなく、どういう営農を自分 262
仕組みを、各地でつくりあげなければならないということであった。そのための実践例も数多く出 された。アジア農民交流センターの役目は、そうした農民の実践、知恵、工夫、運動を伝え合う手 助けをすることではないか、といったことも話し合われた。 では、そうした農民の実践にはどのようなものがあるのか。本章ではその幾つかを紹介しながら 実アジア小農民が切り開くべきこれからを考えてみたい。本書第Ⅱ部第 1 章、 2 章に続く実践報告で の 民ある。 る え 超 を 第 1 節地域をとりもどすーー農業を基礎に循環型地域社会をめざす山形県長井市の実践 地 し 循環の輪をもう一度 ざ 根 もはや″行き着くところまできた〃日本の農業 ( 第—部第 3 章参照 ) の現実の中から、いま各地で農 域 地民自身によるさまざまな試みがはじまっている。その一つが、これから紹介する山形県長井市にお ける実践である。「台所と農業をつなぐながい計画」、通称レインボープランと呼ばれている ( 図 1 ) 。 志 す私自身は、「農業を基礎とする循環型地域社会づくり」という言い方を使っている。 越 いまこの実践は、市民の総意に支えられる形で市行政の中心的事業となっているが、もとは地域 章 で農業を営む数人の農民の発案と行動からはじまったものである。その推進者、菅野芳秀から、私 第 が構想を聞かされたのは一九九〇年二月、タイの農村を訪ねる旅の道すがらであった。それはよう 207