プロローグ 済成長は、自給的性格の強かった農業に換金作物を導入、農業の輸出産業化を進めて外貨を獲得す ることから始まった。そのための方式として採用されたのが契約農業というシステムであった。政 府がある輸出型換金作物を奨励、政府系金融機関である農業・農協銀行がそれにローンをつけ、企 業が農民と契約する。企業は種子や元畜、化学肥料や農薬などの生産資材を一括して農民に提供、 農民は農業・農協銀行からの借金でそれを買う。収穫したものは契約企業が買い上げ、売上げのな かから農民は借金を返す。 彼によると、これをやると必ず儲るというおいしい話が政府、銀行、企業から流され、農業・農 協銀行の融資には政府の補助がついて、相対的に安い金利で農民は借りることができる。東北タイ はこうした新商品作物の実験場になった。日本種の蚕、オーストラリアの肉牛、インドからのカ シューナツツなどが次々導入され、そのいずれもが失敗した。日本種の蚕でシルクを作ったものの、 市場解放で中国、ベトナムから安いシルクが入ってきて養蚕農民は立ち行かなくなった。カシュー ナツツは木ばかり大きくなったが、実をつけなかった。どうやら気候が合わなかったらしい。オー ストラリアからの牛はいくら種をつけても子供を生まず、プラスティック牛という異名をたてまっ られた。 「こうして残ったのは農民の借金だけだった」とバムルン・カヨタは語った。 私たちの物語はここから始まる。まず第—部では、日本の食糧援助を例にアジアで何が起こり、
プロローグ を歩んでいるのが現状ではないか。次にそのことを見ていく。 成長のアジアの中の農業 「成長のアジア」を農業や農民の視点から見ていくと、いったい何が見えてくるのか。まずフィリ ピンを例に考えてみよう。 フィリピンは、「フィリピン二〇〇〇年」という旗印を掲げた中期経済計画のもとで、アジアの 次なる新興工業国化をめざして工業開発を進めてきた。一九九六年十一月には ( アジア太平 洋地域経済閣僚会議 ) マニラ会議を成功させ、大いに意気も上がった。そのもとでいま何が起こってい るのか。 ztO のひとっ・フィリピン農民研究所の所長オミ・ロヤンドャンは次のように語っな。 「新興工業国をめざす過程の一環として、フィリピン政府は一九九三年から九八年にかけての 農業計画をつくりあげた。それは商品性があり高価格の輸出用作物を重点的に発展させようと いうものだ。政府の食糧生産計画はこうした考え方のもとに組み立てられている。それは、国 民の食糧用としてコメとトウモロコシが作付けされている五〇〇万ヘクタールの農地のうち食 糧用に残すのはわずか一九〇万ヘクタールに減らし、残りの三一〇万ヘクタールは換金作物と 畜産用に使うというものだ。コメの生産性は″緑の革命″にもかかわらず減少している。政府 の食糧配給計画は次第に輸入への依存度を高めているのが現状だ」 「コメとトウモロコシ作付面積の制限と他作物への転換奨励は農民に大きな衝撃を与えた。農
その行動は土の中に適当な間隙を作ることで、水はけ・水持ちのよい団粒化した土を作り上げる。 つまり、植物、微生物、小動物は土の中で互いに共生と拮抗の関係をとりむすび、複雑にからみあ いながら循環の小宇宙を形づくっているのである。その中核に位置するのが土壌微生物だ。だが、 自給肥料に替わって化学肥料が多投されるようになった土 化学肥料では微生物の餌にはならない では、微生物層がきわめて貧しくなる。それはそのまま土の生物的・物理的・化学的多様性の貧し さにつながる。 生物的多様性とは、微生物どうしの足の引っ張り合いが盛んに行なわれていることでもある。 わゆる拮抗関係である。その結果、一定の病原菌やムシの大量発生で起こる病虫害が抑えられる。 っ 失こうした生物的多様性に加えて物理的・化学的多様性の喪失によってもたらされる土の不健康さは、 権そのままその土で育っ作物の不健康さにつながる。土壌学者の岩田進午は化学肥料の多投がもたら 己す影響を次のように解説している。 「一般に、窒素などを多肥すると、植物の生育は盛んになりますが、植物の表面細胞組織や体 民 農 内代謝のほうに好ましくない影響があらわれます。根などの表面細胞が軟弱になり、病原菌の て し 侵入が容易になります。作物体内のアミノ酸や糖の濃度が高まり、葉や根から分泌するそれら の物質の量も増えます。根のまわりや葉などに生育する病原菌が増殖しやすい条件が生じるの 章 です。これらの諸条件が総合されて、作物は病気にかかりやすくなるのです。子どもにあまり 第 ぜいたくさせると肥満児になりやすいのと同じです」
事業であり、農薬の空中散布事業である。防除基準には作物ごとに農薬名、使用方法、使用期間 使用回数と防除方法 ( 病害虫名、防除時期、防除方法、注意事項など ) が示されている。除草剤について も、作物別に薬剤名が列記してある。この防除基準に取り上げられる薬剤は、その都道府県に適し たものであるという判断に基づいている。さらに、この防除基準をもとに、都道府県内の地方ごと に病害虫防除所、農業改良普及所、農協などが集まってより詳細な防除暦が作成される。防除暦は 被害の予防に万全を期すということを考えるあまり、常に農薬の過剰散布をもたらすという性格を 内包している。まかなくてもすむ農薬をまくように仕向けてしまうのである。 農薬メーカーはこの防除基準と防除暦に自社の製品を採用させようと必死になる。ここで採用さ っ 失れないと、 いくら農薬取締法による登録をとっても実需に結びつかないからだ。防除基準作成の鍵 ーソンに食 権を握っているのは、各都道府県農林部の専門技術員である。農薬メーカーはそのキー 定 己い込もうと懸命に接触を図る。県の専門技術員や監督官庁である農林水産省植物防疫課の担当者は、 は農薬メーカーや関係団体に再就職することが多い。もうひとつの当事者である農協は、系列農薬会 3 社を持ち、農薬や化学肥料の売り上げが収益の大きな位置を占めている。官庁と民間組織、それに し 企業が一体となっての農薬消費増大構造がこうしてできあがったのである。それはまさに、見田が いう〈消費のための消費〉をつくりあげる商品経済のシステムにほかならない 嶂発生予察事業はこのシステムのもうひとつの柱である。植物防疫法に基づいて各県にある病害虫 第 防除所は病気や虫の発生状況や発生予察を流している。情報を流すときは、その病原菌や害虫に対 107
ている人たちがいた。長い乾季には水が不足しているので、池を掘って水源とし、それを中心に農 業を展開する。池を掘ると、少しではあっても乾季にも水が残る。掘った土を積み上げて作った土 手や、周辺の土は湿気をおびているので、そこに、果樹、野菜や香辛料などを栽培し、できるだけ 自給して出費を減らすよう、さまざまな種類の草木を植える。池のまわりに木を植えれば、水の蒸 池では魚を飼うと、より多様性が生まれる。 発を防ぐことにもなる。広くした土手では豚や鶏を飼い、 換金作物を一種類だけ植えていれば、その作物が病虫害にやられたり、価格が下がったりすると いうリスクが大きい。また、収入が一年に一度しか見込めない。しかし、多種類の果物、野菜、香 辛料、野草、魚、鶏などを栽培し飼育すれば、値の悪いものは売らずに、自家消費したり、あるい 売れるものを売ればよかった。つまり、農民の方が はまわりの人たちにあげたりして、値力しし 売るものを選ぶことができた。そのため、収入が毎月のようにあることから、生活設計はたてやす いものとなる。 を含む ztO は、このような篤農家が試みている方法や昔の慣習を残している村を丹念に さがし出し、すでに近代農業に巻き込まれてしまった農民たちに見せることからプロジェクトをは じめた。それによって、複合経営農業は少しずつ広がっていった。複合経営の農園は、多種類の動 植物の組み合わせであるため、近代農業の農園と違って自分で畑のデザインをしなくてはならない。 そのため、複合経営の農園では、それぞれの農民によって土地利用の形も栽培品目もまったく違い 146
され、チップ、製粉、。ヘレットという過程を経てタピオカ製品となって、飼料原料としてヨーロッ 。、、主としてオランダに輸出される。タピオカは政府の奨励政策によって、七〇年代以降タイの代 表的な輸出農産品となったが、八〇年代後半に入りの輸入規制にあって価格は低迷を続けてい た。国際市場の影響をもろに受けて生産者手取り価格がじり貧の道をたどっているタイの代表的な 輸出農作物コメと同じ構造にあるのだ。東北タイはそのキャッサバの大産地であった。 同年四月、四〇〇〇人の小規模養豚農民がマハサラカムに集結、政府との交渉を求めて、バンコ クに向かう幹線道路を占拠して座り込んだ。コメ単作からの脱皮をめざして八〇年代から始まった 小規模な農民の養豚経営は、九〇年代に入り政府の国内流通規制の緩和政策に乗って大量安価に出 回るようになった大手アグリビジネス傘下の豚肉や輸入豚肉に追われて倒産が続出、せつかく作っ た養豚農民の協同組合も次々と解散に追い込まれていた。 同年六月、今度は東北タイのほぼ中央部に位置するロイエットに各地から三〇〇〇人の農民が集 彼らは東北タイ各地からやってきたカシューナツツ生産者で まり、五日間にわたって座り込んだ。 / あった。 カシューナツツは八〇年代後半にキャッサバの転換作物として、政府が奨励して導入したもので ある。イサーン小農民会議が掲げる三つの争点の第一に述べられている「四者推進方式による契約 農業」の典型事例のひとつが、このカシューナツツであった。まず政府が、キャッサバの作付け転 換政策を打ち出し、有利な作物としてカシューナツツを奨励、南タイでよい成績を上げたという品 258
第 3 章いかにして農民は自己決定権を失ったか 図 6 わが国の食料供給に必要な作付面積の推移 ( 試算 ) ヘク 1 , 800 1 , 600 1 , 400 1 , 200 1 , 000 800 600 400 200 0 ・一畜産 ( 飼料換算 ) その他 作物 大豆 トウモロコシ ・一小麦 国内作付け 延べ面積 海外の 作付け 面積 1960 ' 65 ' 70 ' 75 ' 80 ' 85 ' 90 ' 94 年度 「平成 8 年度農業白書」より 図 7-1 総人口と農家人口の比較 図 7-2 農業と他産業との就業人口の比較 男性 女性 男性 女性 上 4 9 4 9 4 9 9 4 9 4 9 ン「 / ( 0 ( 0 広 ) 【 0 4 っ 0 っ ) ( こ ( こ -1- 5 0 5 0 5 0 一 0 0 5 0 5 0 一 0 7 7 6 6 5 5 4 4 3 3 2 2 1 4 9 4 9 4 9 4 9 4 9 4 9 7 6 6 5 5 4 4 3 3 2 2 1 0 5 0 5 0 5 0 5 0 5 0 5 7 6 6 5 5 4 4 3 3 2 2 1 家ロロ 農人从 農業 製造業ーー 建設業ー・ 卸・小売業等 25 20 15 10 5 0 0 5 10 15 20 25 0 5 10 15 15 10 5 0 資料 : 農林水産省「農業センサス」、総務庁「国税調査」 注 : 総人口、農家人口、産業別の総就業人口のそれぞれを 100 % とする割合である。 1 19
第 3 節換金作物化に特化して市場に巻き込まれる過程 換金作物栽培 十九世紀後半、マレーシア、カンボジアなどタイをとりまく国々は西欧諸国によって植民地化さ れ、ゴムなどのプランテーションがはじまっていた。これらプランテーションの労働者のための食 糧需要を背景に、タイでは輸出用のコメ栽培がはじまった。それまでほとんど無人であったチャオ プラヤー川の河口のデルタ湿原には、農業用運河が網の目のように掘られ、急速に水田化が進めら れた。 また南部では、二十世紀初頭に、マレーシアからゴムを持ち込んできた中国系の人々によって、 ゴムの栽培が細々ではあるがはじまった。 これら一九六〇年代以前の換金作物栽培が、一部の人々が一部の地域でかかわっていたものであ るのに対し、それ以降にはじまったキャッサバ、トウモロコシなどの換金作物栽培は、面積におい ては全国規模であり、巻き込んだ人口においても、ほとんど全農民をあげてのものであった。植え つける種子の選択、化学肥料や農薬の選択、大型トラクターによる耕起、生産物の価格の決定と買 い取り、加工など、農業のすべての段階において、農村の外部者である特定の仲買人 ( 企業 ) が決定 権を持った換金作物栽培である。農民は自らの知恵で創意工夫することは許されず、決められた通 1 ろ 8
るかどうか、農業機械・装備や化学肥料、農薬を調達できるかどうか、そのために金融機関と接触 できるかどうか、といった農民間の力量の差によって大きな格差が開いていった、という社会的不 公正の問題。第五に金融機関が農民に資金を融通することで、化学肥料や農薬、農業機械、石油な などなどだ。 どの市場を農村に拡大することができたということ 第一、第二の論点については、作物学者である田中明 ( 北海道大学教授 ) の次のような指摘がある。 「農家でー 8 が作られだすと、問題が起こってきました。いままで余り見られなかったバ イラス病が急速に増え、ウンカ、ヨコバエのたぐいも増えたのです。 ( 中略 ) 一九六八年には— ー 5 というのが普及されるようになりました。六九年にはーが出ました。これはウン 力、ヨコバエのたぐいに強いということで出たわけですが、間もなく虫の方が—ーを加害 する能力を獲得して、七三年にはひどい虫のアタックが起こったわけです。そこで、七三年に は—が出て、これはウンカ、ヨコバエ、ズイムシ、バイラス、白枯れ病などに強いと、 うことで奨励品種になりましたが、七六年にはインドネシアでトビイロウンカの新しい系統が できて、ー % がひどい被害を受けたわけです。新しい品種を作ると、病害虫にも新しい系 統ができてアタックするというシーソーゲームが続きました」 第三の論点は、が高収量品種を普及するに当たって、そのそもそもから内包していた問 題である。いわゆるパッケージ・プログラムだ。政府は新品種導入に伴って施肥や除草、防除、水 管理といった一連の栽培技術を一体のものとしてセットで奨励し普及したのである。これは第一の * 9
第 3 章越境する志ー一地域に根ざし、地域を超える農民の実践 この年、除草剤耐性の大豆ゃある種の害虫に抵抗 性をもっトウモロコシなどが飼料や農産加工品の 原料として日本に上陸した。 遺伝子組み換え作物をめぐっては、食べものと をるしての安全性や生態系への悪影響を懸念する動き 囲が、国際的にも国内的にも広がっている。日本で を第では、消費者・市民組織が中心になって「遺伝子組 、み換え食品いらないキャンペーン」を組織し、ア 作メリカやヨーロッパの z o ・市民組織が作って 同いる「遺伝子組み換え食品ポイコット国際キャン ペーン」と連動しながら、集会や政府への要請行 動を繰り広げている。 こうした国際、国内の動きは、安全性を全面に の掲げて、消費者の選択の権利を要求する運動とし 牧て展開されているところに特徴がある。だが同時 沢にこの問題は生産者である農民の生存権、つくる 権利とも大きく関わっている。遺伝子組み換え作 0 231