とは「発展であり、世の中が豊かになり人々が幸せになる方向だと ( 多くの人が ) 信じて疑わなかっ た」道であった。だがその帰結は、これまで見てきたように、農業を生みだした自然と対立し、自 然の営みそのものを否定する農業技術や農業経営・土地利用方式の突出であった。自然の営みを否 定することは、その自然の一部である人間を否定することにつながる。そのことを私自身は「二重 の環境破壊」という言い方で規定した。農業は自然と人間の安全を脅かす存在となったのである。 それはまた農民が自己決定権を失う過程でもあった。技術も流通も資金も農民の手を離れ、行政・ 技術官僚や企業、農業団体の手に移った。これに政治権力が加わり、農業と農民を管理する巨大な システムが形成された。その手段として使われたのが、公共事業を含む各種農業補助金であったこ とはすでに述べた。いまこの農業補助金は形を変え、援助という名前でアジアの各国にそそぎ込ま れている実態は、前章で明らかにされたとおりである。 第 6 節日本農業の現実 こうした農業近代化の過程を経て、いま日本の農業はどういう現実に立ちいたったか。それを最 後に簡単に見ておこう。その現実は、一言でいって「行き着くところまできた」ということだろう。 人も土地も経営や技術、市場問題などについても、農業をめぐる枠組みがすべて機能不全に陥って いるというのが、いまの日本の農業の姿だ。土の退化についてはすでに述べた。その器である土地 118
第 3 節技術が自然の力を壊した・児 退化する日本の土・ 自給肥料が入らなくなった・ 第 4 節農薬社会の出現・ 殺す技術としての農薬・ まず農民が侵された・皿 消費が消費を生むシステム・ 第 5 節モノカルチャーがもたらしたもの・明 米麦二毛作が壊れた・明 ここでも二重の環境破壊・ 自己決定権の喪失・ 第 6 節日本農業の現実・ 第Ⅱ部もうひとつの農業づくりをめざして ーアジア小農民の可能性ー 第 1 章生き方を取り戻すタイ農民 はじめに・ 100 岩崎美佐子・ 124
戻すわけだ。また堆肥の発酵促進、作物の成長や連作障害防止などにも、経験的に効果が確かめら れている。原生林に降った雨が腐葉土を通り、岩石層を通って、ミネラルいつばいのおいしい水とち して湧き出してくる、そんな自然の営みを人為的に再現したシステムといえるかもしれない いま、水処理技術としても注目されているこの技術は、近代技術とは違う、自然と共生しうる″も うひとつの技術″の発展方向を示しているともいえる。米沢郷はこうした技術を積極的に取り入れ ることで、化学肥料や農薬を無用にしながら、農業労働の厳しさを軽減し、収穫量を増やし、かっ 生産コストを引き下げる、新しい循環型の農業技術の体系をつくりあげてきているのである。「無農 薬・有機農業を農民の過重労働の上に成り立たせるのはまちがいだ」と伊藤はいう。 米沢郷は、この循環の輪やその技術を自分たちの集団内部だけにとどめるのではなく、地域さら にはアジアに開かれたものにしようと考えている。地域の家庭や学校給食などから出る生ゴミを堆 肥や家畜の飼料とし、それを地域で循環するシステムづくりにすでに取りかかっている。一九九七 年八月には韓国大邱市にある緑の平和生協が進めるシステムを取り入れた循環農業づくりに 関わっている韓国・慶北大学微生物学科の研究者や学者が、米沢郷のシステムを視察・研修するた めに訪れた。 2 農民の知的財産をとりもどすーー生命の私有財産化を進める遺伝子組み換え技術に抗して 一九九七年は遺伝子組み換え作物がはじめて日本に入ってきた年として、記憶されるであろう。
のように表現している。 「需要が増加する農産物への生産の増進、需要が減少する農産物の生産の転換、外国産農産物と競 争関係にある農産物の生産の合理化等農業生産の選択的拡大を図る」 ( 第二条一項 ) この農業近代化政策の推進は、二つのことを生みだした。ひとつは、地域の風土や生態系に即し て発展してきた従来の農業の形と切り離された、それとは異質の農業の展開である。風土や生態系 と切り離された農業は、その風土や生態系の反対物に転化せざるを得なくなる。地域の風土や生態 系が本来持っている自然の生産力を利用するのではなく、化学合成物質や機械の生産力に頼ること になるからだ。 っ 失 こうして農業は、自然との共存関係の中でつくられてきた多様性と循環性を失い、自然と人間の を 権安全を脅かす存在になる。 定 決 己 もうひとつは、農民の主体性、自己決定権の喪失である。伝統的に培われてきた農法、農業技術 ・目 はは否定され、上から技術官僚が主導する「近代化技術」が注入される。その技術を使うための基盤、 ・刀・ルい 農 例えばトラクターが走れる広い圃場や農道、水管理を容易にするための灌漑施設といったものは、 て し 政府の補助金や融資、途上国の場合は外国からの援助によってつくられる。農業機械や化学肥料、 農薬といった近代化技術のための資材は、大企業、輸入商社の手によって農村に持ち込まれてくる。 章 かくして、行政官僚・技術官僚、農業関連企業 ( 圃場整備や農道建設を行なう土木建設業から化学肥料や農 第 薬メーカー、石油化学、運輸・流通業、商社など膨大な企業群が関係する ) 、それら企業に利便をはかって見返
エピローーグ 「 Z O ってなに ? 」と聞かれれば、私の働いている日本国際ボランティアセンター ( > ) の 仲間たちなら、 「つなぎ屋じゃないの」 と答えるだろう。この本を書いた仲間たちも、同じ答えをするだろうと思う。 「つなぎ屋ってなに ? 」 地域と地域、知恵と知恵、技術と技術、人と人とをつないでいく。つなぐことが仕事だから、「農 業技術者」とか、「栄養士」などという専門性は必要じゃない。持っていて役立っこともあるかもし れないが、 ときには、地域に根ざしていない「専門知識」が顔を出してしまい、じゃまになったり する。 なにとなにをつなぐのか、誰と誰とをつなげば効果的なのか、それに関してはしつかり押さえな エピローグ″つなぐ〃とい一つこと 「あとがきーにかえて 岩崎美佐子 265
ニッポンの OO< の始まりとその特徴 一九五四年十月六日に、それより四年前にイギリスとイギリス連邦六カ国によってアジア新興独 立国への技術協力の枠組みとしてスタートしていたコロンボ・プランに日本が加盟した。日本政府 は、この日を日本の OQ< 始まりの日として、十月六日を「国際協力の日」とし、毎年、この前後 に日本各地で様々なイベントが展開される。もっとも、これは技術協力への参加が決定づけられた 期日に過ぎず、 OQ< として大規模な資金供与が始まるのはそれから四年後の一九五八年である。 総額一八〇億円の円借款はインドに対して貸し付けられ、貸し付け条件は世界銀行のそれに準じ、 日本企業のみが受注できるというタイド ( ヒモつき ) が条件で、貸し付け機関は一九五二年に日本輸 出銀行から改称した日本輸出入銀行だった。 一九六一年には貸し付け条件の緩やかな円借款を日本輸出入銀行から切り離し、海外経済協力基 金が設立され、円借款供与が本格化していく。さらに翌一九六二年には国際協力事業団 (——0<) の前身・海外技術協力事業団 (0+0<) も設立され、技術協力やそれに伴う機材供与な ども以前にも増して実施されるようになっていった。 日本の初期の OQ< の特徴は、返済を伴う借款であっても日本企業しか受注できないタイドで供 与されていた点で、日本の経済力が増すにしたがって、日本企業の海外進出を助けるための OQ< との批判を受けるようになっていく。
別名 ) の伝統を活かした織物と草木染めで、男以上の収入をあげ、堂々たる自立を果たしているから 女たちはプレバンという名前のグループを作っている。「美しい布」という意味である。メンバー は二四〇人。この地域で織物の活動が始まったのは、いまから十年前の一九八七年である。コンケ 実ンに拠点をおく Z ch O 、「東北タイ農村女性地位向上のための手工芸センター」の指導がきっかけ の 民だった。同センターの代表であるソムョットは、「この仕事を始めたのは、村人とくに女性が出稼ぎ る をしなくても、村にいて生活できる経済的基盤をつくりたかったからだ」といっている。ソムョッ え をトはまだ三十代の若い ZtO 指導者である。南タイの豊かな農家に生まれ、バンコクの有名大学を 域 地卒業して、そのまま社会運動に飛び込んだ。イサーン ( 東北タイ ) の農村に入り、渦巻く矛盾に出 ざ会って、はじめは何をしたらよいのか、途方にくれた。しかし村で、高床式の家の床下におかれた 根 織り機を見たとき、彼は「これだ」と思った。 域 地 「農民は生きていくためのいろいろな技術を持っている。織りと染めは、祖母から母、娘へと 受け継がれてきた大切な技術だ。またそれは、蚕を飼い、繭をとるという農業生産活動と結び ついて、村人の暮らしを支えてきた。イサーンのさまざまな風習にも、自分たちが織った布が 必ず使われる。それは生きる技術であると同時に農民の文化そのものなのだ」 そうした技術も、押し寄せる経済成長の嵐の中で、次第に人々の暮らしから消え去ろうと していた。自分で時間をかけて織るより、大量生産の安い化繊を買い、その間出稼ぎに出たほうが 第 3 章越境する志ーーー ヾ一」 0 255
方向での資金や技術を援助する、慈善活動は一九七〇年代から行なわれていたが、新しい ZchO の 活動はそれとも一線を画していた。 ZtO の方法は、地域に住む人々が自らの手で植林したり、生態系を破壊しない農業を推進する ことによって、自分たちの生活の依拠している環境を維持し、その地域での暮らしを永続的にする ことを、側面から支援するものであった。 近代農業の普及は、工業生産物を使用することを前提とした技術や考え方を、農民に移転するも のであるのに対して、 ZtO の方法は、その地域がはぐくんできた知恵や技術を今に生かし、彼ら の積み重ねてきたものの延長上に、生態系や土壌を豊かにする農業を構築しようとするものでもあっ ZtO は、生態系をいためない農林業をすでにやっている人たちをできるだけ多く見つけだし、 その人たちがお互いの経験を交流できるよう、そして、まだそのような農林業を見たり経験したり したことのない人々が、できるだけ多く、自分の目で見て、実践して、まわりに広めていけるよう、 ネットワークしていくことからはじめた。 換金作物の単一栽培へと社会が傾斜する中で、少数ではあるが、売ることのみを目的とした農業 ではなく、自然の摂理を生かす形の農業をやってきた人もいた。 天水田地域では、池を中心に農業、林業、畜産、水産業などを組み合わせた、複合的な農業をし 144
第 4 節農薬社会の出現 殺す技術としての農薬 化学肥料によって軟弱で病気にかかりやすくなった作物を無難に育て上げるためには、農薬が欠 かせなくなる。こうして化学肥料と農薬はセットで用いられることになった。いわゆる化学化であ る。これは栽培についての考え方の百八十度の転換であった。土をつくり、病害虫に抵抗力をもっ 健康な作物を育てるという考え方は片すみに押しやられ、病害虫にやられそうになったら農薬をま けばよい、という思想が農業技術の中心にいすわった。 農薬の施用は、対象とする病原菌や害虫、雑草を殺すばかりでなく、小動物や微生物、昆虫をも 殺してしまう。土壌生態系を壊し、物質循環を狂わせ、土の退化をいっそう推し進めるのである。 それでも、病原菌や病害虫が絶滅するのであれば、まだ話はわかる。だが現実には、農薬をいく らまいても病原菌・病害虫はいっこうに減らないばかりではなく、逆に農薬使用量が増加の一途を たどるという経過をたどったのである。その背後には、薬剤抵抗性害虫・病原菌の出現、あるいは 潜在性害虫化といわれる現象がある。図 2 は地球規模で見た農薬抵抗性を持っ雑草・害虫・病気の 数をみたものである。農薬が世界的に使われるようになった一九六〇年代以降、急速に増えている ことがわかる。ちなみに農薬抵抗性とは、「ある殺虫剤の施用により、ある昆虫の個体群がその殺虫 100
りを受ける政治家の三者が一体となっての農民管理システムが形成され、農民は自立した生産者の 立場から、単なる受益者、消費者としての存在にころげおちる。 第 3 節技術が自然の力を壊した 退化する日本の土 まさに近代農業の病根ともいえるこの二つの結末は、どのような経過のなかで生みだされたのか。 原因と結果が複雑にいりまじるその仕組みを解きほぐしてみる。ひとつの経路として指摘できるの は、農業技術の側面である。労働生産性の向上、つまり効率化をめざして導入された機械化・装置 化と化学化の問題だ。 山下惣一青年の家に最大出力五・六馬力の耕運機が入ったのは一九五九年であった。戦後十数年、 父母がこっこっと貯めてきた貯金がみんな消えた。彼はそのときの模様を、「耕うん機一台に、それ ほどの高い代償を支払ったわけだが、初めて自分の耕うん機のハンドルを握ったときの胸のときめ きはいまだに忘れられない。まさに新しい農業が、いまはじまる、という実感に胸がときめいた。 秋の日に機体が輝いて、まぶしかった」と述懐している。 日本における稲作の機械化はまず耕起・耕運作業の分野から始まる。歩行型小型耕運機の導入が 始まるのが一九五五年前後。それがトラクター段階に移行するのが一九七〇年前半である。少し遅 * 5