森がなくなった跡地に入り、キャッサバやトウモロコシを作付けして生活していた農民を、緑の 回復と保全を名目に追い立て、そこを企業や有力者に払い下げてパルプ原料となるユーカリ植林を 進める政府事業が、八〇年代末から九〇年代にかけて大々的に行なわれたが、これも農業の工業化 の一つとみてよい。さらには工業開発のための道路やダム建設のための農漁民の追い立ても、各地 で頻発した。 一九九二年三月、こうした問題を抱え、孤立した運動をやっていた東北タイの農民グループと z tO 関係者が一堂に集まり、イサーン小農民会議が結成された。これまで個別の闘いを余儀なくさ れていた農民グループが横につながったのである。開発による土地や川からの農漁民の追い出し、 物価は上がるのに逆に引き下げられる農産物価格、借金だけが増える契約農業、等々、そこはさな がらアジアの小農民が開発と経済成長の中で直面している諸問題のデパートであった。こうして東 北タイを中心に小農民のエネルギーが爆発した。 イサーン小農民会議はその要求を三つの争点と九つの課題として掲げた。それは次のようなもの であった。 〈争点一〉四者推進方式による契約農業やダム建設など政府の政策に起因する問題。 〈争点一一〉政府と農民間の土地紛争。森林保全地域や公有地、王室所有地で生活し生産活動を営ん でいる農民の土地に対する権利の獲得。 256
北タイの小規模農民層であった。イサーンとよばれるタイ東北部は、タイの中でももっとも貧しい 地域だ。乾燥が激しく、いつも水不足に悩まされている。村のまわりを取り囲んでいた豊かな森 は、七〇年代から八〇年代にかけて消滅し、乾季には赤茶けた大地がどこまでも続く。イサーンは 国内外への出稼ぎ労働者やバンコクのスラム住民の一大供給基地でもある。八〇年代から始まるタ 実イ経済の高度成長、それを押し進めた工業化政策は、一方でバンコクを中心に新中間層ともいえる の 民豊かな階層を生みだしたが、同時に成長からはじき出された膨大な階層を生みだした。正確にいえ る ば、経済成長のために自分たちの生存基盤を吸い取られ、切り捨てられていった層である。この周 え を辺化された代表的な階層がイサーンの小農民であった。その層が動き出したのだ。 地 タイの経済成長路線を言い表わす言葉として、よく Z<—O ( ナイク ) という言い方が聞かれる ざ韓国や台湾型の ( 新興工業経済地域 ) を意識しての言葉であり、「新興農業工業国」とでもい 根 う意味である。この言葉が示すように、タイの経済成長は農業の商業化・工業化・輸出産業化をテ 域 、フロイラー ェビ、熱帯果樹といったものから日本 地コとして進められてきた。コメ、キャッサバ、、 志向けの野菜まで、農産物が外貨稼ぎに一番手として位置づけられた。こうして稼いだ外貨で工業発 す展を促す、という仕組みである。農業を商業化・工業化・輸出産業化するためにとられた政策がア 越グリビジネスの育成であり、アグリビジネスと農民との契約農業であった。農産物は生産から加工、 章 流通、販売に至るまですべて資本に統合され、コントロールされる。そのことをより効率的に行な 第 うため、生産方法や流通の古いやり方は否定され、農業に近代化と市場経済化・自由化が押し寄せ * 8 255
小山の調査によると、自然農業一五農家の一ヘクタール当たり所得は七八七二万ウオンであるの に対し、韓国の全国平均は韓国政府農林水産部「農家経済調査」によると七四二万ウオンである。 畜産部門の存在が十倍の高い所得を支えているのだが、作物部門だけ抜き出しても自然農業の農家 は約五倍の高所得を上げている。労働一時間当たりの所得は自然農業が一万六四〇〇ウオンに対し 実全国平均は六八〇〇ウオンにすぎない。また経営費一ウオン当たりの所得も自然農業が三万七四〇〇 の 民ウオンに対し、全国平均は二万一六〇〇ウオンとなっている。いかに自然農業の生産性が高いかが る わかる え を農家総所得の比較も興味深い。自然農業一五農家の総所得は三六七〇万ウオンである。これらの 地農家は総所得の九四 % を農業から得ている。これに対して全国の農家の総所得は平均で一八九八万 ウオンだ。韓国も兼業化が激しく、全国平均の農業所得率は五〇 % しかない。自然農業農家は兼業 根 所得を得ている農家のほぼ二倍の所得を農業だけで上げていることになる。ちなみに韓国政府の労 域 地働統計によれば、韓国でもっとも高い給与を得ているのは従業員五〇〇人以上の金融業の男子従業 志員で、二九九五万ウオンであった。自然農業の場合は一家で稼いだ所得だが、それでも韓国でもっ る すとも高い給与所得者に匹敵する所得を上げ得ているのである。 越 ではこの高い生産性と高所得はどのような形であげられているのか。図 2 は全羅南道で水稲・ナ 章 シ・養豚・牛の複合経営を自然農業で営む朴魯珍 ( パク・ノジン ) さんの循環の仕組みを小山が分析 第 したものである。朴さんの経営は水田〇・四ヘクタール、ナシ園〇・八ヘクタール、母豚二二頭、 22 ろ
とは「発展であり、世の中が豊かになり人々が幸せになる方向だと ( 多くの人が ) 信じて疑わなかっ た」道であった。だがその帰結は、これまで見てきたように、農業を生みだした自然と対立し、自 然の営みそのものを否定する農業技術や農業経営・土地利用方式の突出であった。自然の営みを否 定することは、その自然の一部である人間を否定することにつながる。そのことを私自身は「二重 の環境破壊」という言い方で規定した。農業は自然と人間の安全を脅かす存在となったのである。 それはまた農民が自己決定権を失う過程でもあった。技術も流通も資金も農民の手を離れ、行政・ 技術官僚や企業、農業団体の手に移った。これに政治権力が加わり、農業と農民を管理する巨大な システムが形成された。その手段として使われたのが、公共事業を含む各種農業補助金であったこ とはすでに述べた。いまこの農業補助金は形を変え、援助という名前でアジアの各国にそそぎ込ま れている実態は、前章で明らかにされたとおりである。 第 6 節日本農業の現実 こうした農業近代化の過程を経て、いま日本の農業はどういう現実に立ちいたったか。それを最 後に簡単に見ておこう。その現実は、一言でいって「行き着くところまできた」ということだろう。 人も土地も経営や技術、市場問題などについても、農業をめぐる枠組みがすべて機能不全に陥って いるというのが、いまの日本の農業の姿だ。土の退化についてはすでに述べた。その器である土地 118
ン全体が農地改革対象地であるという認定も獲得した。しかし実際に土地の権利を得るためには、 これがいまなおネグロスの現状なのだ。 何段階もの手続きを経なければならない 開発の嵐の中で こうした土地問題という古くからの問題に加え、今ネグロスは新しい問題にも直面している。開 リゼーションの嵐だ。一九九二年に大統領に就任したラモスは、 しわゆるグローバ 発と市場経済化、、 フィリビンを経済成長の軌道に乗せるための「フィリピン二〇〇〇年ズフィリピン中期総合開発計画 ) を打ち出し、外資を積極的に導入する政策を進めてきた。事実、の病人と言われていた フィリピンは九四年頃から成長の軌道に乗り、それなりの経済成長を遂げ、アジア経済危機に巻き 込まれた。その影響は、村々をも襲っている。 自由貿易の進展とそれに伴う産業構造の転換政策によってネグロスの基幹産業である砂糖産業を 襲う経営危機、さまざまの分野での開発の進展、輸出指向型の商業的農業の奨励、出稼ぎ先での失 業等々だ。一九九七年七月、ネグロスにある従業員三〇〇〇人というアジア有数の製糖工場ビクト リアスが人員整理に乗り出した。閉鎖に追い込まれた中規模の工場も出てきた。多国籍企業ネッス ルが有機コーヒーの契約栽培の相手先を求めてネグロスの山間地域を歩いている。原発建設計画ま で出てきた。 こうした状況が進めば進むほど、民衆農業創造の仕事の遂行は困難さが増すが、同時にその理念 252
第 1 章生き方を取り戻すタイ農民 を嘛を一第レャ、第を物第弩 4 ぎなうため、化学肥料の使用が不可欠となってく る。また、単一種栽培をすると病虫害におかされ やすいので、農薬を使わなくてはならなくなり、 同時期に同種類の雑草が生えるため、除草剤も使 第、もわなくてはならなくなる。こうして農民は、農業 第第、を過程のほとんどを仲買人 ( 企業 ) に頼らなくてはな らなくなる。そしてそれらの農業投入材は、トウ モロコシの種のほとんどをアメリカが押さえてい るように、工業先進国に独占的に握られている場 。 ~ 」《・、い合がほとんどである。 を ( 、一貧仲買人 ( 企業 ) は、地域でまとまった生産量をあ ( てげなくてはならない。一戸だけが小規模に、たと えば換金作物である綿を栽培するために、仲買人 の ( 企業 ) が種、化学肥料、農薬など一式を用意し、 畑 集荷した生産物をさらに中央集荷場や加工場に送 一るということは、経済効率から見てありえない ュ したがって、地域でまとまった生産量をあげるた 141
いう原則が改めて確認された。 野心的なこの試みは、ネグロスと日本とのときには激しい議論の応酬、現地調査、試行錯誤を繰 り返しながらの実施計画づくりなどをへて、一九九五年から本格的に動き出す。ネグロスのさまざ まの分野の民衆組織と ZtO 、それに日本のを構成団体とする幻委員会がつくられ、 ハイロット地域を選んで地域づくりがはじまった。現在計画は三つのパイロット地区で行なわれて いる。漁村での養魚池と塩田を軸とする地域づくり、スラム住民組織による都市生ゴミの堆肥化と 農村への供給事業、元サトウキビ農園を自主耕作している農業労働者による自給を基礎とした複合 農業づくり、だ。 地主が私兵をくりだす ーの多くは市場で魚や野菜を売った スラム住民組織は O < ( カオサ ) という。そのメンバ り、行商したりしている。失業している若者も多い。彼等は市場やホテル、食堂などから生ゴミを 集め、それに稲わらと製糖工場から出るマッドプレスとよばれる絞り粕を加えて発酵させ、有機肥 料をつくる。できた有機肥料は農民組織を通して販売する。堆肥製造のプラントは、フィリピン大 学農業機械開発センターに設計と製作を委託した。 この生ゴミ堆肥化事業は二つの意味を持っている。一つは、特定の人ではなくスラム住民の多く がかかわることができる長続きする事業であり、新しい仕事がつくりだせるものであるということ。 250
道路、合併して大型化した農協、外食産業を含む大型食品産業の出現等々であった。この仕組みを 支えるため、配合飼料原料となる輸入穀物優遇政策や大規模畜産経営育成のための助成事業、大消 費地向け野菜産地育成のための野菜指定産地制度などの農業政策が打ち出された。 こうして、収穫した農産物の選別・規格からはじまり、加工、輸送、販売にいたる一連の過程は、 農民の手の届かないものとなっていった。逆に、流通や輸送の都合が生産の場に押しつけられ、まっ すぐなキュウリ、段ボールに五本きちんと入る工業製品のようなダイコンが要求されるようになっ た。そうした自然に反する生産現場への要求は、農業生産をますます環境破壊的な方向に押しやっ た。経済的な面でも、農業の地位は次第に低くなっていった。農林水産省の調査によると、日本で 最終消費される飲食費のうち、農水産業に帰属する割合は、一九七〇年に三五 % あったもの が、一九九三年には二三 % にまで下がっている。農民の手取り分はさらに減り、一〇 % 台になって しまう。代わって増えたのが関連流通業、飲食店、食品工業などの取り分だ。これもまた自己決定 権の喪失の一つのあらわれといえる。 近代化の中で農業がきわめて金のかかるものになり、それが農民の主体性を次第に奪っていった という側面にも触れておかなければならない農林統計をもとに計算してみると、一九六〇年から 九〇年までの三十年間で、農業所得は五・二倍にしかなっていないのに、農業経営費は一三・七倍 ・八倍、エネルギー費の一七・八倍、農機 になっている。中でも増え方が目立つのは農薬費の二三 三倍などだ。生産資材の自給喪失は、こうした数字となってあ 具費の一八・七倍、飼料費の一一・ 1 16
めに、仲買人 ( 企業 ) は一戸の栽培面積を多くするだけではなく、地域一帯で単一作物を栽培するこ とを推進する。 このように、地域の知恵に学ぶことをせず、都市の机上や試験場で構築した論理や技術を持ち込 むことが農業の近代化であり、増収量Ⅱ増収入を図る唯一の方法と信じられ、推進されてきた。そ の結果はどうだったのだろうか。確かに一時的には増収をもたらすかもしれない。しかし、単一栽 培、連作などによる土壌の疲弊、土壌のむき出しによる表土流失や乾燥化などにより、高収量が見 込めるのはほんの数年でしかない。しかも生産物の価格は、農民が化学肥料・農薬、労賃など農業 に投入した資金の多少にかかわらず国際市場価格に左右され、別のところで決定される。また、価 格のよかったものは誰もがつくるということが国を越えて起こり、豊作が市場での低価格を呼ぶな ど、農民の収入向上にはつながってこない このように、これまで自立的に農業をしていた農民は、農業のあらゆる側面で工業部門からの農 業投入材に頼らざるをえなくなり、自立性を失っていくことになる。しかも、森林破壊および土壌 破壊が農業の持続性を失わせ、地域の人々の生活の存続そのものを脅かしはじめている。 第 4 節篤農家に学ぶ ZCO いまから十八年前、タイに住みはじめてまもない私は、中部ラットブリー県の友人宅に遊びに行 142
況を、インドネシア・ジャワでの事例をもとに考察しながら、「緑の革命や、これに伴って生じた自 作農民の商業主義的行動様式と農業機械化は、そうした傾向を助長した。一一十世紀アジアにおける 『エンクロージャー・ムープメント』の出現であるといっていいかもしれない」と述べている。エン クロージャーとはイギリス農業革命における土地囲い込み運動をさしている。エンクロージャーは 独立自営農を誕生させると同時に、膨大な層の農民を最下層労働者として都市に排出することで産 業革命を準備した。農村から都市へ労働力という資源を移転し、経済成長の基礎となる安い労働力 をつくりあげた、という意味において、緑の革命はまさにアジアにおける農業革命であったという ことができる。 だが、大きく違っているところがある。革命は、それを担う主体があってはじめて遂行される。 緑の革命に農法変革の意義を認めた金沢の研究が、さらにその変革の担い手を求めてアンアにおけ る「新しい農民層形成、へと踏み込んでいったのは、そうした理由からであろう。金沢は「およそ 農業革命とよばれうるものは、一つには生産力を高める農業技術の体系的変革と革新、つまり農法 体系としての革新であると同時に、二つにはその農法に対応する農民と農村の新しい姿がつくり出 * に されることを含意している」と述べている。その言葉の通り、イギリスにおける農業革命は独立自 営農民を生んだ。 だが緑の革命はいまだ金沢がいう「新しい農民の姿」を形成し得ないでいる。形成し得ないまま、 工業化とそれに伴う経済成長、市場経済化の嵐に、農民が丸ごと投げ込まれ、総体として衰退の道