良がこの分場での研究目標のひとつであるという。イン ディカの稲といえばその細長い粒型が特徴であることは 衆知のところだが、この米はきわめて小粒で、短粒のジ ャポニカよりもさらに小さく、一見して区別が可能であ る。サンバはこの米粒の形と味がかえって好まれて、市 の場での価格がふつうの米よりも高い。このために農民は の自家飯米用とするよりも出荷してしまうことが多く、一 Ä名をホテル・ライスなどといわれるゆえんである。 サ 試験場に保存される約三〇品種は草丈や籾の色などに いろいろの差異はあるが、基本的には感光性程度の高い おくて 晩生が大部分だ。赤米の種類や匂い米の種類も含まれて いる。先にサンバはインディカの稲の一種と述べたが、 その遺伝的な形質などにはまだ未調査の部分の多い稲だ。 米粒の形の類似性から、サンバの成立を野生稲の一種、オリザ・オフィシナリス ( 00 き。 c ~ きを に求める見解が昔から存在していた。オフィシナリスはスマトラやポルネオ島にいまも分布の多い 野生稲だが、現代の多くの研究はこれと栽培稲との間には遺伝的関連がないとしている。 かって調査に回った南インド、特にタミル・ナードウ州にもサンバは広く分布していた。サンヾ という名称もタミル語に発しているはずで、この両地の古い稲作の交流を物語るといえよう。そう にお 158
Ⅲインド亜大陸の稲作 ーポイルド・ライスの工程と由来 、、ーレ州にかけ・て 西べンガル州からヒノ ーポイルド・ライスの加工場が道路沿いに増えてきた。 この特異な精米の工程は東南アジアには分布がないので、書物の上での知識はあっても実際に見る のは初めてである。この米のことをすこし説明しておこう。ふつうの米の場合だと収穫した籾をい もみず 1 ポイルド・ライスの場合には籾を乾す ったん乾燥してから籾摺りをして玄米とするわけだが、パ 前に、籾を蒸す工程を経由させる。蒸し終わってから乾 燥して籾摺りが行われる。蒸すのにもいくつかの方法が 蚓あるが、一般には二、三日間、籾を水に浸漬しておいて から一〇〇度前後の蒸気を三〇分くらいふきつけるのが ふつうだ。いま、私たちが見学している工場では、一か 工所の釜ロで火をたいて、パイプを通じて蒸気を宙吊りの の ス鉄製容器のなかの籾に送りこむ方式をとっている。これ イ 。 ) ~ 「ラは割合と規模の大きい加工場の例だ。自家用にパーポイ ドルド・ライスを作る場合にはこんな装置は使わない。平 底の鍋状の容器のなかに十分に水に浸け終わった籾を入 れて下から加熱する。厚い布を籾の上にかぶせ、またと きどきは水を補給してやる。二〇分も加熱した後で、取 り出した籾をコンクリートの上にひろげて乾燥すること 135
あ - とがき 初めて熱帯アジアの土を踏んだのが一九六三年、いまから二四年も前のことになる。以来、調査 や会議のために諸外国に出かけた回数は、今回初めて正確にかぞえてみたところ、長短をまじえて 三〇回あまりになる。近年になって中国や欧米への出張が加わったが、その大部分は東南アジアと インド亜大陸にかぎられていた。 これらの海外調査の大部分は、アジア稲作の起源と伝播を追うことを主目的としていた。あれこ れと残した課題はあるにしても、この仕事の一応のとりまとめは『稲の道』 ( 日本放送出版協会、一 九七七 ) や『アジア稲作の系譜』 ( 法政大学出版局、一九八一一 l) として、すでに刊行してきた。したが って、本書ではそのことにはほとんど正面からは触れないでいる。 本書は、こうした調査行の過程で私が感得し、あるいは考えたアジアの稲作文化周辺のいくつか の問題を、紀行文風のスケッチに託して叙述してみたものである。調査の日々の足跡、その途中に おける多くの挫折と些少の「発見」なども加えて、きわめて個人的な記録が主体である。その意味 で、アジアの稲作に対面しての私の「心象風景」とでもいった部分が多い内容である。もつばらア ジアと述べたが、例外的にⅣ章の一部にアメリカの稲作のことに触れた ( 「アメリカの稲ーーシンデ レラ・クロップ」 ) 。しかし、ここにおいても、私の思考の焦点が実は太平洋を越えてアジアに向け られていることを、お読みいただければわかるであろう。 218
成煉瓦といってよいだろう」と述べているものである。なお、この製法については次章 ( 「サンパト ンの一年から」 ) にも詳しく述べているので、そちらも参照していただきたい。筆者が研究の対象と しわゆる した東南アジアの古い煉瓦の大部分はこれである。ビルマの場合も例外ではない。③は、ゝ 焼成煉瓦である。東南アジアでもインドでも現在はこの種類がふえている。①や⑦と同じように成 かま 形してしばらく天日で乾したものを土製の窯のなかに積み上げて、石炭または薪を燃料として焼く。 ビルマでもと③のような窯が珍しくないことを多くの観光客でも承知であろう。 荻原氏がたまたま見たのは、①の日乾し煉瓦そのものか、あるいは③の前段階としての天日乾 燥中の煉瓦であったかはわからない。そのことを別にしても「凡そ東南アジアの煉瓦は日干し煉瓦 である」とは認識不足もはなはだしいところであろう。 「シュウエジゴン・。ハゴダ」の名を冠するパゴダについて 荻原氏が私たちの間違えとして指摘する第二の問題は以下のごとくである。 次は・一五〇の「 Pinya の Shwezigon Pagoda 」とある箇所である。我が国を例にとれば、 飛鳥の平安神宮と説明するようなものである。このパゴダはビルマ全土に有名なパゴダで P 一 nya ピンヤはバガン Pagan とあるべきである。 ハガン ( 正確にはバガン近郊、ニャウング所在 ) のシュウエジゴン・パゴダが、ビルマの仏教寺院 しかし、 を代表する一一世紀の建造物であることは荻原氏のわざわざの指摘をまつまでもあるまい この名称を冠したパゴダは、ひとりバガンにのみ存在するのではないことはご存知ないらしい。手
比較にならない情勢のきびしさである。 治安の平静化を待って、ゆっくりと調査の日程を組み直すことのできない個人的理由もあった。 この年の四月から、私は農学部から東南アジア研究センターへ配置換えになることに内諾を与えて いた。農学部における後始末を残して私はインドに来ている。また東南アジア研究センターのほう では、所長を併任することになる予定だ。そのほうの準備にも心せわしい日々が待ち受けている。 所長の任務についたならば、当分は長期の現地調査などの機会もないであろう。たとえ七日間でも、 いまの私には貴重な機会である。 この短い日程の間に、ぜひともメガラヤの焼畑地帯を見ておきたい。先回の折にマンナさんから もすすめられていたし、興味ある栽培稲品種がまだ残っていることも聞いている。 焼畑の跡地に立って 早朝にジープに分乗してホテルを出発する。チョードリ ー博士が案内のため同行してくれる。ジ ープは山腹を縫うようにしてしだいにメガラヤ丘陵の稜線をたどり始める。眼下の丘陵は一面の広 探大な草原のようにみえ、所どころに畑の土肌と、小さな林が点々と眺められる。どこにも焼畑らし 源い風景はない。眺望のよいところで車を下りて四囲を眺めても、やはり焼畑らしいところはない。 作これはどうしたことであろう。 稲 私たちの疑念を当然というような顔で、チョードリ 1 さんが説明した内容は次のようであった。 メガラヤ丘陵の焼畑は、アッサムの丘陵や山岳地帯がそうであるように、きわめて長い歴史をも
事情に慣れるにはすこし時間を要するようである。 西部開拓の道筋を辿った稲の伝播 その後、ジョージタウンに発したアメリカの稲栽培は、かなり足ばやに四囲の諸州に浸透するこ とになる。ノース・カロライナ州やフロリダ州には間もなく伝わるが、前述したように一七一八年 にルイジアナ州に入った稲は、急激にここで面積を拡大して南北戦争前後のアメリカ稲作の中心地 を形成する。いったんここで足踏みをした稲は、一九世紀後半 ( 一八八五年 ) には隣のテキサス州 に伝わる。チャールストン上陸後、二〇〇年を経過していることになる。次いで、今世紀の直前に アーカンソーに導入される経緯については前述したとおりである。 そして、今世紀に入っての一九〇九年、もつばら南東部および南部諸州の作物であった稲が西漸 してカリフォルニア州に導入された。インドに発してマダガスカルを経て、チャールストンから西 進したアジアの稲が、太平洋をへだてて再びアジアと対面することになる。サクラメント川とサン ・ウォーキン川の流域で、最初に稲を植えたのは日系移民たちであったとされる。彼らとともに太 かいこう 平洋を渡ってきた日本の稲が、西回りで達した稲とここで邂逅することになる。 ジョージタウンからサクラメントまで、地図の上で直線距離をはかると約四〇〇〇キロメートル である。そしてサクラメントに稲が達するのに二〇〇年を超える年数を要した。日本に上陸した稲 のことを考えてみよう。北九州に渡来した稲が、かりに日本海沿いに北上したとすると津軽半島ま で一五〇〇キロメートルの距離がある。この間の年数は意外と短かったと考えるのが考古学者など 190
ジャフナ周辺での調査を終えて、翌日はフェリーでジャフナ潟を渡り、西海岸沿いにマンナルの 町へと向かう。この間の約五〇キロメートルの道程の大半は鬱蒼としたジャングルだ。つがいの野 生のクジャクがエンジンの音に驚いたように林の中に消えて行っただけでまったく人と会うことも 力し マンナルは美しい砂浜がつづく漁港の町だそうだ。地引き網にかかる魚を今晩はジャヤさん が料理してくれる約束である。 2 ヘーナと踏耕のこと ドライ・ゾーンの農村風景と農業体系 四日間、ドライ・ゾーンの農村を回って、いくつかの村で稲を調査し、また農民たちと話をする ために農家に立ち寄ってきた。インドで同じことをしたとすると、ただちに老若おおぜいの人びと に取り囲まれるのが常だが、この島ではあまりそのことが起こらない。海岸寄りの農家ではパルミ 作ラヤシの酒をすすめられることが多かった。いわゆるトディー ( 椰子酒 ) だが、穀類から作る酒よ の りも栄養価が高いというのが自慢だったが真偽のほどはわからない。 陸 大 この地帯の村のたたずまいや農業のやり方にひとつの類型のあることがわかり始めてくる。村の 亜 ン規模はあまり大きくはないようで、平均すると四〇戸を下回るようだ。そんな村の典型例が次のよ イ うに描写できるだろう。家屋は果樹、ココヤシ、香辛料、野菜などを栽植する園地で囲まれている。 Ⅲ そんな家屋がかたまってひとつの集落をつくっているが、道路沿いに四、五軒は散在する場合もあ 161
イ批判に応えてーーー学際的研究の方法 学際的研究と専門の学問 稲作の伝播経路にまつわるような課題は、すぐれて学際的な研究領域といわざるをえない。した がって狭い農学の分野からだけでは処理しきれない部分がきわめて多い。前著『稲の道』に述べた ところの研究過程でも、私は他分野の研究者の助力によるところが多かった。わけても、学際的な 地域研究を標榜する京都大学東南アジア研究センターの、後に私も農学部からそこに移って同僚と なった友人たちの、それぞれの専門的知識に負うことが大きかった。 『稲の道』を上梓してからも、多くの専門分野を異にする学者からご批判をいただいた。たとえ ば、中国農業史に対する認識不足を細かく指摘していただいた天野元之助先生や、インド史関係の 記載についての誤りを教えていただいた岩本裕先生 ( 創価大学教授 ) らのご教示など、心から有難 く思われたとともに、冷汗三斗の感もした。専門外のことに触れて筆をすすめる場合に、慎重の上 にもなお慎重を期すべきことをあらためて自戒した。しかし、こうした専門の道の碩学に、日頃か 索 しんしゃ 探ら親炙して直接間接に教えを受けられるということが、学際的研究を志した者にとってはなにより 源の武器であることも事実である。その意味において、私は京都にいたことを感謝せざるをえない。 作京都大学およびその周辺に、そうした一流の専門分野の学者がおおぜいおられるという「地の利」 稲 が、研究を進める上にかえがたい力になった。 もっとも、「専門家」と称する人からもまったく的はずれとしか思えない批判をうけたことがあ
見される一〇世紀前のインディカの稲はどこから由来したものだろうか。インドからの伝播とも考 えられるが、途中のビルマの事情が不明である。 また、タイなどの古い稲の種類がジャポニカだとすると、ビルマ、特に上ビルマの煉瓦のなかの 籾との比較がぜひともほしい。タイと同じように、ビルマにも北方からの民族移動が行われている。 上ビルマにはバガンの諸遺跡を含めて、たくさんの煉瓦建造物が分布していて、私の調査方法がこ こでも有効なはずである。いずれにしても、ビルマの古い稲についてのディテールを把握しないか ぎりは、東南アジア大陸部における「稲の道」についての最終的な結論を下す決断が私にはっきか ねていた。 手さぐりの調査準備 教育省あてに、初めは三か月間の調査を申請していたが、何回目かの書状からはせめて二か月で もよいと書いた。ビルマ全土でなくて、せめて上ビルマに集中して調査しようとすれば最小限二か 月でよいだろう。今回はそれで我漫しようという気持とともに、返事のこないことに焦りも出始め 索 探ていた。 へ ビルマからの返信は東京の外務省を経由して、一九七四年の五月初旬にやっと到着した。発信は 源 作教育大臣名である。「閣議の決定に基いて、貴下および協力者一名が本年一〇月一日より一か月間、 稲 ビルマ社会主義共和国において科学的調査を実施することを承認する」と重々しい文面であるが、 タイプの印字はかすれたように薄かった。
しかし、これまで行ってきた海外の調査にあたって、私はできるだけ各国の農業大学と共同して 研究をしたいという希望を示してきた。こうした態度は調査の進捗の上に、必ずしも最善の方策で はなかったし、またそれが実現できなかった場合もある。それにもかかわらず、共同研究の実施に よって、アジア各国の大学の研究水準をすこしでも高めることに役立ちたいとする願望を、大学人 のひとりとして私には捨てきれない。成否は別にして、この姿勢をくずさないできたつもりである し、またこれからも、そうしたいと思っている。ネギ博士とは次回にアッサム州内の共同調査を実 施することを約して、大学を辞した。 3 メガラヤの丘陵にてーー焼畑の末路 政情不安のなかでのアッサム再訪 前回のアッサム訪問から三年余がたった。一九七九年の正月二日の夕方、私は再びシロンの町の ハインウッド・ホテルに旅装をといていた。木立の間を吹き抜けてくる風は涼しさを通りこして寒 索 探 室の大きな暖炉にポーイが火をつけてゆく。私は南インドを中心とする一か月余の調査を終え の 源てアッサムに来ているのだが、同行が三人いる。前回につづいてビスワスさん、片山忠夫と田中耕 作司のお二人も一緒である。片山さんとは、前述したように、七年前にアッサムの入域実現を目前に 稲 して印パ戦争によって計画が頓座した経緯がある。 三年前のを予備調査とすると、今度こそは時間をかけてじっくりと本調査に入るべきだが、今回