る。そのとき、片山さんに対する長い借りをやっと返せたと思った。 2 予備調査から カトマンズでアッサムを想う 四年を経過して、一九七五年の同じ一〇月下旬、私は久しぶりにダムダム空港に降り立って、カ ルカッタ独特の空気の匂いをかいだ 今回の調査行は、東京外国語大学アジア・アフリカ一一一一口語文化研究所の飯島茂さんを隊長とするネ パール調査に私と鳥越洋一君 ( 当時・京都大学農学部 ) が京都から加わった。私は飯島さんに頼んで、 ネパールからの帰途にアッサムの予備調査をすることを計画書に加えてもらうことにした。短い日 数でもアッサムの雰囲気をつかむことが論文をまとめる上に必要な段階にきていたのである。 アッサムとメガラヤ両州のほかに、トリプラとナーガランドの両州にも申請を出すことにする。 、ヾールへ入る前にカルカ 前回の経験から、後の二州から返事が届くのには約一か月かかるから、、イノ 索 探ッタで申請だけを済ませておく必要がある、イノ 。、ヾールの調査はちょうど一か月だから、予定どおり 源ゆけば一二月初旬にはアッサムに入れるはずである。 作今回のアッサム調査には、西べンガル州農業試験場のビスワス博士も同行する。彼からはすでに 稲 承諾の手紙を受けとっている。東京大学農学部の松尾孝嶺先生門下であるこの育種学者とは、私が 一〇年前に初めてインドに来て以来の知己である。もっとも、彼もアッサムへは行ったことがない。
栽培が始まった作物だという。そういえば、最初に訪れた折にはヌワラエリヤのちかく、標高二〇 〇〇メ 1 トルの山中で試験的にジャガイモがごくわずか栽培されていたことを思い出す。二〇年を 経過してこの作物が熱帯の低地にまで下りてきたわけだが、コムギの場合にも同じようなことがい える。多くの作物について、温帯作物あるいは熱帯作物という類別が不明瞭になりかかっている。 ャギで「移動式施肥法」 施肥のことを普及員氏にたずねる。こうした集約的農業には肥料が欠かせないはずである。少量 の化学肥料も施用されるが、大部分は家畜の糞尿によるという返事だ。次のような方法だ。ひとっ の作物を収穫した後の裸地の畑に五、六頭のウシまたはヤギを繋留して、一日中ここに糞尿をさせ る。翌日は同じ畑の別の場所に移動して、何日かで畑を一巡させるのだ。一巡し終わったところで 畑を耕して新しく作物を植える。ジャヤさんと相談して、これを「移動式施肥法」 (shifting manuring) とでも、かりに名付けておくことにしようと話す。 実は、この方式をかってタミル・ナードウ州でも見聞したことがある。インドの場合にはもっと 大規模で、数百頭、ときには二〇〇〇頭を超えるヤギをひきつれて村々を回り、これを注文主の畑 に放って、一日分の糞尿を提供する商売が成立していた。ャギはその畑の雑草を食べて脱糞し、そ れで金銭を得るのだから、あまり元手のいらないうまい商売のように思ったことがある。スリラン 力の場合にはこのような大規模な例はないが、いずれにしても、ポーク海峡をへだてたタミル・ナ ードウ州との農業の類似性が各面で見られるようだ。 160
オリサ・ペレニスの生育立地について 曼広竜村の水田に立って、あらためて周囲を見渡してみる。野生稲の生育する範囲は正確には捕 捉しがたいが、数キロメートルさきの瀾滄江近くまで延々と分布がつづいているようだ。インドや 東南アジアでの経験をふりかえってみても、あまり例をみないようなひじように大きな集団自生地 であることは間違いない。地形にも目をやってみる。先述したように瀾滄江に向けてゆるやかに傾 この野生稲は常識的には沼や 斜する段丘の上の水田である。雨季にも深く湛水する地形ではない。 湿地に生育することが多いということになっているが、事実はそれほどに単純ではなさそうだ。マ ウンド状の荒蕪地や畑の縁にも自生しているのが観察される。このことはアッサムの調査の折にも 気がついていたのだが、オリザ・ペレニスの生育地の幅はかなり広いと考えてよいのではあるまい か。新しい発見が尽きないようだ。 もっと注目してよいことがあった。粒形などの変異がかなり目立っことだ。この野生稲は長い紅 色の芒を持っことが特徴的だが、まったく無芒の籾を着けた穂が混ざっている。また粒の形にもや や円形の種類、狭長の種類とがある。くわしく計測する余裕のないのが残念だが、野生稲集団のな 索 こうした種々の変異の存在することは、この一帯が栽培稲の起源地に近いことを示す大切な の 源条件なのである。夕暮が迫ってきて、立ち去りがたい気持を残して帰途についた。民族委員会の責 作任者に再度の曼広竜村の水田調査を依頼してみたが、これも許可が出なかった。日々に欲求不満が 稲 つのるような夜がしばらくつづくことになる。
の資料についてほとんど例外がなかったのである。北方由来のビルマ族は間違いなく、ジャポニカ の稲を伴ってきたことになるのだろう。ラオスやタイの場合と同じである。しかし、同じ時代にパ ガン周辺ではインディカの稲がすこし栽培されていたらしい点で特異である。北タイなどではこの 種類はまったく存在しなかったことが明らかになっている。 上ビルマのほうが、北タイなどにくらべて古くからインド稲作の影響を受けていたと考えられる のではないか。べンガル湾を西進すればアキャプから上ビルマはほば同じ緯度の上に位置している。 古くここにインディカの稲を伝えた西からの道があったのか、あるいはデルタから北上してバガン に達したのであろうか。もっとも、ここまでバガンの煉瓦と書いてきたが、これだけ莫大な煉瓦が この町だけで作られたとは考えにくい。 上ビルマ各地、特にチャウセやミンプー地方で製造された 煉瓦が往時のバガンに運搬されたと考えたほうが理解しやすいように思われる。 バガンの最後の日をポパ山まで走る。この地帯には珍しい一五〇〇メートルくらいの単独峰であ る。山頂の岩の上に、名前を失念したが有名な寺があって善男善女の信仰が厚いという。日曜日の せいかおおぜいの参拝者だ。眼下にはイラワジ川が流れ、西はアラカンの山脈へとつづく峰々、東 や南はいまは収穫の終わった水田と、ほとんど水の涸れた川筋からなるパノラマのような風景が眺 望できる。北はまた険峻な山脈が雲のなかに見えがくれしている。背後に広大な水田平野、食糧基 地をかかえ、北と西に山岳をひかえて、水運によって各地を支配したのがバガン王朝の支配構造の 地政学であったと思われる。しかし、この構造もやがて蒙古軍の圧倒的な軍事力の前にもろくも崩 壊する日がくる。一三世紀のことだ。
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がかしましい。その契機となったのは、アメリカ産の米を市場から締め出している日本政府の政策 を不公正だとして、市場開放要求をアメリカ政府に提訴した全米精米業者協会 (RMA) の動きだ。 わが国の「米聖域論」も揺さぶられ始めて、米が日米間の摩擦の原因に新たに加わったようだ。 この章の冒頭の部分で述べたが、農務省の貿易政策担当官のチャイルドさんが「日本はアメリカ の米を買ってもらわねば困る」といっていたのは実に五年前のことだ。どのような結末になるかは、 いろいろと政略的なかけひきが関与して、残念ながら、多くの前例どおりきわめて政治的に処理さ れるのであろう。したがって私などにはその結着の予測もかなわないが、いずれにしても根の深い 話だと、いまにしてあらためて思わざるをえない。 これに呼応するかのようにして、国内の一部の財界人や評論家と称する人たちから、いまに始ま ったことではないが、再び「稲作不要論」とでもいった浅薄な論議がまた出揃ってきた。これに対 する私の考えは、前章 ( 「インドは稲作文化圏か」 ) でも述べたので、ここでは触れないでおく。しか 否し、これらの人たちに、稲や米のことと、日本の将来についてもっと真剣に勉強してほしいと思う ことだけをくりかえして述べておきたい。 容 受 たまたま、一昨日 ( 一九八六年一〇月一一六日 ) の毎日新聞 ( 大阪版 ) の「余録」欄に次のような記 事が出ている。すこし長くなるがそのままに引用して、本項の締めくくりとしよう。 の 〈祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり〉で『平家物語』ははじまる。祇園精舎は古代イン 作 稲 ドにあった寺院だが、現在、建物はすべてなくなり、基壇の部分の煉瓦だけが残っている。そ Ⅳ の煉瓦の中から稲もみが出てきた。稲には日本で栽培されているジャポニカ ( 日本型 ) と、細 195
れが終われば暗闇のべッドの上で、明日の旅程を考えたりもするが、ときには日本の農業の行く末 にあれこれと思いをはせることもあった。この年の前年 ( 一九七〇年 ) には減反政策が打ち出され て、ここ数年来の経済合理性を優先する農政の主張が稲作にも具体的におよんでいた。私は日本の 稲作のあり方のすべてをよしとは思わない。一貫性を欠く国家の農業政策、営利主義にはしる農業 冫いらた 団体、主体性のない農民の対応が、戦後の稲作をおかしな方向に進ませてしまったことこ、 ちを感じつづけてきた。しかし、それにはるかに増して、経済合理性を錦の御旗のようにして政策 論を声高に語る著名な財界人や学者たちの一部に心から不信感を持ってきた。同僚の農業経済学者 に「国際感覚」のないことを嗤われもしたが、この気持に変わりようはない。私には難しい理屈は わからないにしても、植民地農業政策の論理こそが、宗主国にとってもっとも経済合理性を貫くゆ えんのものであったことくらいはわかる。経済合理性の主張のはてに日本の農業が「植民地」風に 変わり、それによっていつの日にか今日のインドのように飢餓を迎える日がくる可能性の高いこと を「識者」たちはどう考えているのだろうか。夜半になっても目が冴えてしまうことがあった。 東経八〇度を越える 話を本題に戻そう。国境のラクサウルの町で、イノ 、。、ールに入る黒田君を見送ったあとは、私たちは 再びガンジス川の南岸に出てパトナーをめざすことになる。この二、三日来の行程のなかで、私は 大きな収穫をえた。ビハール州北部の、イ 、パールのタライにつづく扇状地形の各地の遺跡で、前述し たように、まぎれもなくジャポニカの稲が古くに栽培されていた確証をえたことだ。チャンパラン わら 144
ビルマの行く末に思いをはせる コマンダ この日、ポパ山に登る前に、私たちはポパ陸軍駐屯部隊の守備隊長の官舎で昼食のご馳走になっ ている。隊長氏とはバガンのホテルのバーで知り合いになって、今回の招待となったわけだ。食事 の席に青年士官三名も同席する。いずれも二〇歳台前半と思われる凜然とした若者で、日本でいえ ば陸軍士官学校を卒業したての青年将校とみえた。 わが国の自衛隊のことや日米安保条約のことなどに予想以上の知識をもっている。そして、祖国 ビルマのおかれた政治情勢や軍事情勢にはきはきとした発言をする。なかでも、アジアの強国であ る中国とインド、新興近代国家をめざすタイと国境を接するこの国の将来について熱つばく多弁で ある。マンダレー王朝の崩壊から長い植民地時代、第二次大戦、独立戦争と、この国が辿ってきた 数世紀にわたる暗い道程が、彼らの発言の背後に重みを加えていると思えてくる。 帰途、ジープの背にゆられながら、昼食をともにした若者たちの発言を反芻していた。ビルマは どこに向かおうとしているのかとしきりに思う。この国の貧しさ、「鎖国」政策、少数民族の反乱、 社会主義、軍事政権などなど、脈絡もなく言葉が頭のなかに浮かび、消える。 探数えてみると、アジア諸国への調査行も今回で一〇回目くらいになる。私の研究の場合などには、 源その国の政治や経済にはほとんど無関心で済む。ときには無関心をよそおうことが、仕事を進める 作上に利点とはなりこそすれマイナスになることはない。そうした海外調査の「処世の術」さえも自 稲 然と身についたように思う。ところが、ビルマは例外なのだろうか。この一か月間 ( そして、さら に後の二回のビルマ行の場合もそうなのだが ) 、なぜかしきりとこの国の将来のことなどに思いをはせ
もそのことを許さない事情があった。 ひとつの理由はアッサム地方の治安状態である。日本の新聞には報じられなかったようだが、こ の頃、アッサム周辺の諸州でインド政府側と少数民族との軋轢がしばしば起こっていたのである。 たとえば一月七日付の現地紙が伝える内容の要旨は次のようである。「ナーガの叛乱者、アッサム 州の村を襲撃して五〇人を殺す。 一月五日未明、約二〇〇名のナーガ族がアッサム州内の五つ の村を襲い、少なくとも五〇人が死亡、おおぜいの村民が負傷した。 : この背景には、一九七三 年にアッサム州とナーガランド州との間の〈平和〉維持について締結されていた合意書を、去る一 月三日にアッサム州政府側が一方的に再確認する声明を出したことに対する反感があったものと思 われる。なお、ナーガランド州政府は襲撃者全員を逮捕する意思を表明している」。これだけでは 騒動の背景がよくわからないが、その根はかなり深いらしい このような少数民族の反抗は、ひとりナ 1 ガ族だけでなく、アッサム地域で同時多発的に行われ ていた。同じ新聞の一月八日付の記事は「トリプラ州では昨年暮れから火器を持っ反抗者のグルー プが州政府の政策に度たびの抗議を行い、べンガル人の支配に反対する声明を発し、実力行動をも 辞さないとしている」と伝えている。 今回、私たちがカルカッタに所在する各州のオフィスで入域申請を行ったさいに、 いずれの州も デリーの内務省の認可が得られないからと断った内情がよく理解できる。私たちはメガラヤ州につ いては北東山岳地域総合研究機関の、アッサム州についてはアッサム農科大学の保証書を得て、や っとシロンまで入ってきていた。しかも全行程がわずか一週間という制限っきである。三年前とは
ハンダン ( 旧称はマカッサル ) へと飛ぶ。空港にこ 司君とジャカルタからスラウェシ島のウジュン・ れも同僚の人類学者である前田成文さんと、この地のハサヌディン大学経済学部のマリカールさん が出迎えてくれる。前田さんはこの島の農村で、もう何か月かにわたって定着調査中である。同夜 は町の料理屋で、ハサヌディン大学の別の二名の先生を加えて歓迎会を開いてくれる。久しぶりに キャッサバを油であげたサラバやパンノミが食卓にならぶ。特に魚の料理を所望する。前回の経験 でこの島の魚料理のうまさを忘れられないからである。東南アジア大陸部やインド亜大陸の農村で の調査回数の多かった私は、魚のない、あるいはまずい日々の食事に内心不満の日も多かったが、 インドネシア、特に小さな島々ではその渇をいやしてくれるに十分なものがある。 マリカールさんと、明後日からのマルク諸島調査の日程のつめをする。この京都大学の大学院で 博士課程を終えた経済学者は日本語も上手だが、アンポンの生まれで土地勘のあることが何よりも む蛍い。よい同行者をえたと思う。 マルク諸島とはインドネシアでの呼び名で、モルッカ諸島のことだ。インドネシアの北東部、ス ラウェシ島とニューギニア島 ( ィリアン・ジャヤ ) の間に点在する大小さまざまな多数の島の総称で 、、レマヘラ、テルナテ、オビ、セラム、アンポン、プルなどである ある。代表的な島はモロタイノノ 。ハルマヘラ島の北半分などを除 が、行政的にはマルク州として統轄され、アンポンに州都がある くと、大部分の島は南半球に位置するが、北緯三度から南緯五度までの赤道直下の島々である。ち なみに、このへんはジャカルタとは二時間の時差がある東部時間なので、ちょうど日本と同じにな る。私たちは飛行機の便も考えて、アンポンに立寄ってからテルナテに滞在する予定だ。テルナテ 200