Ⅳ稲作 - みる会図書館


検索対象: アジア稲作文化への旅
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1. アジア稲作文化への旅

おもな海外調査歴と本書との関連 1963 ~ 64 年タイ、ラオス 1964 年インド、パキスタン、セイロン、マレーシア、 ン 1965 年タイ ( Ⅱ「サンパトンの一年から」 ) 、ラオス 1968 ~ 69 年カンポジア、タイ、フィリピン フィリピ 1971 ~ 72 年インド ( Ⅲ「インドは稲作文化圏か」 ) 、セイロン 1974 年ビルマ ( I 「東南アジアのジャポニカの稲ーーー上ビルマ での経験」とⅡ「シャン州とカチン州の短い日々」の一 部 ) 1975 年ネパール、インド ( I 「アッサムへの未完の旅」の一 1978 ~ 79 年インド ( I 「アッサムへの未完の旅」の一部 ) 1979 年 1979 年 1980 年 1981 年 1982 年 1983 年 1983 年 1985 年 1985 年 1985 年 1986 年 ビルマ ( Ⅱ「シャン州とカチン州の短い日々」の一部 ) インドネシア、マレーシア、スリランカ、インド 中国 ( 北京、上海、江南一帯 ) アメリカ合衆国 ( Ⅳ「アメリカの稲ーーーシンデレラ・ク ロップ」 ) 中国 ( I 「雲南・西双版納へ」 ) インドネシア ( Ⅳ「稲を拒みつづける島々」 ) スリランカ ( Ⅲ「セイロン島の稲作ーー大陸と島の交 インドネシア ( スマトラ ) 、マレーシア フランス、イギリス、アメリカ合衆国 ( ハワイ ) ノヾングラデシュ、ビノレマ プルネイ、バングラデシュ

2. アジア稲作文化への旅

Ⅳ稲作の新たな受容と拒否

3. アジア稲作文化への旅

あ - とがき 初めて熱帯アジアの土を踏んだのが一九六三年、いまから二四年も前のことになる。以来、調査 や会議のために諸外国に出かけた回数は、今回初めて正確にかぞえてみたところ、長短をまじえて 三〇回あまりになる。近年になって中国や欧米への出張が加わったが、その大部分は東南アジアと インド亜大陸にかぎられていた。 これらの海外調査の大部分は、アジア稲作の起源と伝播を追うことを主目的としていた。あれこ れと残した課題はあるにしても、この仕事の一応のとりまとめは『稲の道』 ( 日本放送出版協会、一 九七七 ) や『アジア稲作の系譜』 ( 法政大学出版局、一九八一一 l) として、すでに刊行してきた。したが って、本書ではそのことにはほとんど正面からは触れないでいる。 本書は、こうした調査行の過程で私が感得し、あるいは考えたアジアの稲作文化周辺のいくつか の問題を、紀行文風のスケッチに託して叙述してみたものである。調査の日々の足跡、その途中に おける多くの挫折と些少の「発見」なども加えて、きわめて個人的な記録が主体である。その意味 で、アジアの稲作に対面しての私の「心象風景」とでもいった部分が多い内容である。もつばらア ジアと述べたが、例外的にⅣ章の一部にアメリカの稲作のことに触れた ( 「アメリカの稲ーーシンデ レラ・クロップ」 ) 。しかし、ここにおいても、私の思考の焦点が実は太平洋を越えてアジアに向け られていることを、お読みいただければわかるであろう。 218

4. アジア稲作文化への旅

Ⅳ稲作の新たな受容と拒否 エリーさんはついて来て離陸するまで見送っておられたが、もういちど会う日があるのだろうか。 メナドから先は、また「稲のある世界」に戻ることになる。 217

5. アジア稲作文化への旅

一〇時、ハーグロープさんがシェラトン・ホテルまで迎えにこられる。オークス博士が連絡して ーグロ くれた稲作を主体にするハーグロープ農園の経営者である。さし出された名刺をみると、 ープさんはア 1 カンソー郡選出の州上院議員でもある。私たちはそのアーカンソー郡、スタットガ ートの町へ向かう。リトル・ロックから南東へ約五〇マイルほどのところにある小さな町だが、こ ーグロープさんはリトル・ロックで事務所兼用のアパ の州の稲作の中心地として知られている。 ートに住んで、週末にだけ自分の家に戻るのだそうだが、農場の経営は息子にすっかりまかせきり とい , っことだ。 農場のことを述べる前に、アメリカの稲作の現状にざっとふれておこう。その当時、すなわち一 九八〇 5 八一年度の全作付面積は約三三六万エーカー、年ごとの変動はあるにしても、年々稲作面 積は増大しつづけている。全米での生産量は八〇〇万トンを超える。ちなみに同年の日本の栽培面 積は、エーカーに換算すると約五八二万エーカーである。アメリカにおける稲作はこのアーカンソ 否 ー州以外では、カリフォルニア、ルイジアナ、ミシシッピ、ミズーリおよびテキサスなどの諸州で 拒 と行われているが、七〇年代以降はアーカンソー州での栽培増加がきわめて顕著で、現在では一三〇 綬万エーカーを超えてアメリカ全稲作面積の三分の一以上を占める。第二位はルイジアナ州の六一万 エーカーだが、アーカンソー州では、その二倍以上も栽培されていることになる。そのア 1 カンソ の 州でも水田のひろがるのはミシシッピ川にちかい南西部の諸郡、わけてもスタットガートを中心 作 稲 とした地域だ。 Ⅳ 自動車はハーグロープさんの水田へと向かう。水田はミシシッピ川とその支流であるアーカンソ 179

6. アジア稲作文化への旅

Ⅳ稲作の新たな受容と拒否 : 一アメリカの稲ーーーシンデレラ・クロップ : ノオヘア空港からハーグロープ農園まで : 2 大草原にきたシンデレラ・クロップ : 3 カリフォルニアにて : 二稲を拒みつづける島々 : ・ 米は食うが稲は作らない : 2 「鼓腹撃壌」の世界 : あ - とがき 208 197 197 173 174 174

7. アジア稲作文化への旅

の年から数えたものである。もっとも、マダガスカルからの貨物船の入港を一六九四年、最初の栽 培者の栄誉をトーマス・スミスに与える研究者もいるし、また、さらに古く一六四七年にバー ア州で稲の栽培が試みられたという異説もある。 ここに稲と述べてきた種類は、アジア栽培稲 ( オリザ・サティバ ) である。アジア栽培稲はインド から六世紀頃にはすでにマダガスカル島に伝わっていたとされるから、北アメリカに漂着した種類 は、このインド出自の稲の後裔と考えられる。ちなみに、アメリカ人がワイルド・ライスと呼ぶ種 ーマーケットでふつうの米よりも高価に売られている。五大湖付近のアメリカ 類があって、スー ・インディアンの古くからの食料であったわけだが、植物学的には稲の仲間ではない。わが国にも 自生するマコモの一種である。 また、アメリカ大陸にはアフリカ栽培稲の存在も知られている。この稲はナイジェリアの起源で、 アフリカから奴隷船とともに持ちこまれたとされている。今日その後代がエルサルバドルやパナマ 否など中米諸国にわずかに残存するといわれているが、北アメリカには痕跡を残していない。アメリ カ合衆国における稲作史の対象は、もつばらアジア栽培稲にかぎられることになる。 容 受いずれにしても、アメリカにおける稲作の経験もほば三〇〇年にちかい。建国からの日の浅いこ の国にとっては、三〇〇年とは歴史としてふりかえるに優に十分な年数なのであろうが、アジアの 冫いかにも新しい過去の出来事である。この国では稲の受容年代や各州 作稲作史のそれにくらべれま、 稲 への伝播の年代の考証に、一〇年たらずの年数の違いが議論される。縄文晩期か弥生初期かなどと Ⅳ いう考古学者の論議に日頃から接しているわれわれには、稲作史がまさに近世史であるアメリカの 189

8. アジア稲作文化への旅

Ⅳ稲作の新たな受容と拒否 コウダ農場の「国宝米」 概略の経営内容を紹介しよう。全耕地面積は三〇〇〇ヘクタール、前述のハーグロープ家よりも 一段と広大な経営規模である。うち水田が二五〇〇ヘクタ 1 ル、畑作は五〇〇ヘクタールという。 ーグロープ農園と異なって、施肥、播種、除草剤散布などの作業が飛行機によって処理されてい る。精米から貯蔵、出荷までが農場独自に行われているので、雇用労働者の数も二五名と多い 水田の一部を鯨岡さんに連れられて回る。出穂前の稲 が美しく育っている。美しいというのは、病虫害がほと んど発生していないことである。年間雨量が約二五〇ミ 庫リと極端に少なく、稲作期間を好天、高温、寡湿の条件 の下で経過するためだ。灌漑水さえあれば、稲は湿潤の土 米地よりもカリフォルニアやオーストラリアの半乾燥地帯 でより高い収量をあげうることは、統計の上でもすでに 、 : 第 ' 場知られている。モンス 1 ン・アジアに出発した稲は、新 , ) 「、ーダたなところをえて、「近代化」の道を拓こうとしている コかに思われる。二一世紀の頃に、稲作地帯の分布が世界 地図の上でどのように変化するかを刮目しておいてよい であろう。 しわゆる「国宝 コウダ農場の名を高めているのは、ゝ 193

9. アジア稲作文化への旅

村フックスル アジア稲作文化への旅乙 渡部忠世 稲 文 化 の 旅 ◎稲作文化の基層の理解のために◎ 急激に変貎を遂げるアジアにあって、稲作にまつわる諸般の事情も例 外でない。 二〇年前、あるいは一〇年前にみられた現象で、今日失わ れつつあるもの、すっかり失われてしまった部分も少なくない。本書 は、アジア稲作の起源と伝播を追い、四半世紀にわたってアジア各地 を踏査してきた著者が、その調査行の過程で感得し、あるいは考えた アジア稲作文化の周辺を、将来にむけて書き綴った野帖。 ブツ一 稲作以前 祖霊の世界 アジア。 ( 稲の道渡部忠世 中国民話の旅から伊藤清司 ーー・雲貴高原の稲作伝承 果物と日本人小林章 ~ ら 14C ー 7 304 4 「 ( 4 508 日本放送出版協会刊 523 渡部忠世 シンポル・マークⅡ 耳飾り小玉 ( 縄文時代土製 ) ブックス 523 I S B N 4-14-0 01 5 2 3 -3 C 1 5 61 P 7 75 E 定価 773 円 ( 本体 750 円 )

10. アジア稲作文化への旅

しいつも日本の稲あるいは米、あるいは今日 アメリカの稲作地帯にいても、私の脳裏のどこかこ の農業事情のことが沈澱のようにひっかかっている。米が過剰であるといわれてから久しいが、米 は不要だ、稲は栽培するなというような風潮が潜在的にある日本から太平洋を渡ってアメリカにき て、その稲が、ダイズとともに「シンデレラ作物」だということは、文明がまさに逆転したような とよあしはらみずほのくに 驚愕なのだ。日本は豊葦原の瑞穂国であり、稲に加えてダイズ ( さらにつけ加えるならばカイコ ) と が、この国の農耕文化を支えつづけて二〇〇〇年ちかくに及ぶ。片一方のアメリカは牧畜やコムギ とトウモロコシに依存した農耕の上に、建国と富国の礎をおいてきたはずではないか。文明の逆転 と書いたのは、そんな私の咄嗟の感慨から出た言葉だ。 ーグロープ農園にしろライスランド・ いかにアーカンソーの稲作が近年盛況であるにしても、 フーヅ社にしろ、ややはしゃぎすぎではないかと思われたが、そのはしゃぎぶりが農業博物館の展 示や説明にもそのまま拡大増幅しているというのが私の印象であった。展示は、稲が一九世紀末、 かいびやく 否ルイジアナ州からこの州に移された時代の「開闢神話」から始まり、その「功績者」である農民た ちの苦闘の歴史が語られる。そして、時代を追って今日にいたるまでの、品種の変遷や農機具の発 容 綬達、近年のめざましい栽培面積と生産の拡大などが、数々の写真やパネルで説明されている。ウィ ークデーの午後であるにもかかわらず、おおぜいの子どもたちをまじえて、来館者のにぎわいも私 乍には意外に思われた。 稲 Ⅳ 187