インディカ - みる会図書館


検索対象: アジア稲作文化への旅
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1. アジア稲作文化への旅

複雑な諸形質を含んだ水陸未分化稲 籾倉に案内して、これがチェク、これが珍白と説明してくれる。なるほど、いちばん大量なのは チェクだ。手にとって観察すると、珍白は一見してインディカであるが、チェクはインディカとも ジャポニカともいえないようである。成熟籾は黄白色、桴先 ( 籾の先端部 ) の着色はなく、無芒か まれに短芒がある。玄米は赤色。佐々木さんや高橋さんも手元をのぞきこんで、「インディカです か、ジャポニカですか」とたずねるが、「どちらともいえませんね」と、はなはだ頼りない返事し かできない。 一〇〇粒ばかりのチェクの籾を宿舎でく 私たちは種子類の日本への持ち帰りを許されていない。 わしく調査する。籾の大きさは長幅比が平均して一・七七。インディカとジャポニカの中間値とい ってよいだろう。用意してきたフェノール試薬で検査する。フェノール反応は両者の区分に利用さ れる方法で、フェノール反応プラスはインディカ、マイナスはジャポニカ ( またはジャパニカ ) であ る。 二〇粒の籾を供試した結果は、また私を驚かせた。半数の一〇粒はプラス、残りの半数がマイナ 索 探スに反応した。こうしてみると、チェクは籾型からするとインディカとジャポニカの中間型、フェ へ ノール反応からすると、両者の混淆集団とでもいえることになる。しかも、前述したように陸稲と 源 作水稲の形質が未分化の品種でもある。きわめて複雑な稲といわざるをえない。前にも述べたように、 稲 古い栽培稲ほど未分化の諸形質を雑駁に含んでいる可能性が高いはずだから、チェクはそうした稲 の仲間といえるだろう。こうした稲が広く分布するということは、その地域の稲栽培がひじように

2. アジア稲作文化への旅

長い粒のインディカ ( インド型 ) の二種類がある。インドではいま、ジャポニカはほとんどっ くられていなし〒 ゝ。氏園精舎のもみも当然インディカと思われたが、調べてみるとジャポニカだ った。この精舎を訪ねた釈尊 ( ブッダ ) も平家の人々も、ひょっとすると同じコメの飯を食べ ていたのかもしれない。アジア各地をめぐり、古い煉瓦の中の稲もみを調査した京大東南アジ ア研究センター教授・渡部忠世さんは、稲にも道があることに気がついた。一つはインド最東 部のアッサムからガンジス川北岸を通る道。ここはジャポニカの道で、祇園精舎もこの道筋に ある。もう一つはインドシナ半島をメコン川に沿って北から南へ走る道。二つの道の交わると ころが中国南部の雲南からアッサムにかけての一帯である。中国経由で北九州に伝わったのは 縄文時代晩期。平安時代に東北地方まで広まったというのがこれまでの定説だった。最近、東 北でも弥生時代初期から稲作が行われていたという説が発表されたが、どっちにしても日本は 稲の道のどんじり。アジアで一番あとに稲を受け取った稲作後発国だ。後発国の日本がさらに 後発国の米国からコメの市場開放を迫られている。〈来年夏までに〉と米国の要求は期限っき。 稲の道の終着点と油断していたのがいけなかった。シルクロードならぬライスロードは太平洋 を越えて、米国にまで延びていた。 196

3. アジア稲作文化への旅

になる。 なぜ、こうした特殊な過程をとるかについては、 ) しろいろの理由があげられている。中尾佐助さ んは自然に脱粒してしまいやすいインディカの稲の場合に、それを防ぐために未熟刈りしたことか ら、この籾の処理方法が発想されたと述べている ( 「農業起源論」森下・吉良編『自然・生態学的研究』、 中央公論社、一九六七 ) 。しかし、今日では農民たちの答えるところはだいたい次のふたつの理由で ある。ひとつは精米時に砕け米ができないこと。ふたつには貯蔵中の虫害防止である。前者は細長 いインディカの籾ではたしかに有効であるし、後者はすでに籾のなかに入っている害虫の卵や幼虫 を殺す上に理にかなっている。もっとも、まったく別の解釈もあって、下層のカーストの手に触れ てきた籾が蒸気で加熱されて清められることに意味があるという説であるが、これはややうがちす ぎの考えのようにも思われる。 ーポイルド・ライスとアジアの食文化 インドでは籾の総生産量の半分ちかくがパーポイルド・ライスとして加工されているという。こ の米の製造や消費がもっとも盛んなのは南部のタミル・ナードウ、ケーララの諸州、それと西べン ガルとビハールだ。戦前、ヨ 1 ロッパなどにここから輸出された米の大半もパーポイルド・ライ スで、ヨーロッパではこの米のコンスタンシー (constancy) 、すなわち炊いたさいに米の形がくず れない性質が評価されたという。インド以外でもバングラデシュとスリランカではパーポイルド・ ライスの製造がきわめて普遍的だが、東南アジアに入ると急に減少する。ビルマもヨーロッパ向け 136

4. アジア稲作文化への旅

の資料についてほとんど例外がなかったのである。北方由来のビルマ族は間違いなく、ジャポニカ の稲を伴ってきたことになるのだろう。ラオスやタイの場合と同じである。しかし、同じ時代にパ ガン周辺ではインディカの稲がすこし栽培されていたらしい点で特異である。北タイなどではこの 種類はまったく存在しなかったことが明らかになっている。 上ビルマのほうが、北タイなどにくらべて古くからインド稲作の影響を受けていたと考えられる のではないか。べンガル湾を西進すればアキャプから上ビルマはほば同じ緯度の上に位置している。 古くここにインディカの稲を伝えた西からの道があったのか、あるいはデルタから北上してバガン に達したのであろうか。もっとも、ここまでバガンの煉瓦と書いてきたが、これだけ莫大な煉瓦が この町だけで作られたとは考えにくい。 上ビルマ各地、特にチャウセやミンプー地方で製造された 煉瓦が往時のバガンに運搬されたと考えたほうが理解しやすいように思われる。 バガンの最後の日をポパ山まで走る。この地帯には珍しい一五〇〇メートルくらいの単独峰であ る。山頂の岩の上に、名前を失念したが有名な寺があって善男善女の信仰が厚いという。日曜日の せいかおおぜいの参拝者だ。眼下にはイラワジ川が流れ、西はアラカンの山脈へとつづく峰々、東 や南はいまは収穫の終わった水田と、ほとんど水の涸れた川筋からなるパノラマのような風景が眺 望できる。北はまた険峻な山脈が雲のなかに見えがくれしている。背後に広大な水田平野、食糧基 地をかかえ、北と西に山岳をひかえて、水運によって各地を支配したのがバガン王朝の支配構造の 地政学であったと思われる。しかし、この構造もやがて蒙古軍の圧倒的な軍事力の前にもろくも崩 壊する日がくる。一三世紀のことだ。

5. アジア稲作文化への旅

I 稲作起源への探索 アルナーチャル・ アフフデーシュ′ ′′ジョ丿レ、一ト . (. イラマプトラゞ アッサム . ・・一髣 ( . ・ 2 ) ーティ . しっー ・ン 0 シロン ! ~ メガラヤ 。チェラブンジ・マ、 ′くンク・ラテ・ぐ / ユ 川ダ、 , カトデラ 》ミ、ノラム ガ ネ / ー ) レ ビノレマノ レ カルカッタ べンガル湾 その前年に、タイの稲を調査する機会があ ったとはいえ、当時の私は熱帯の稲や稲作に ついて、ほとんど素人の域を出ていなかった といってよい。この研究所でインディカの稲、 そして野生稲について基礎的な勉強をした。 この種の具体的な知識を日本で得ることはほ とんど不可能だったからである。実物に接し、 一つひとつを納得することがもっとも確かな 図 略方法である事情は、現在でも同じである。特 地に研究所の野生稲のコレクションについての 勉強や、近郊における野生稲自生地の観察な どは、日本では望みえないことであった。 現在でも、日本には野生稲の専門家といえ る研究者はごく少ない。研究材料となる野生 稲の収集を外国で行う必要があることや、そ れを日本で育てていく苦労も多い。そして、 野生稲の研究などは役に立たないという、学 界や農業の現場を通じての雰囲気もある。こ

6. アジア稲作文化への旅

良がこの分場での研究目標のひとつであるという。イン ディカの稲といえばその細長い粒型が特徴であることは 衆知のところだが、この米はきわめて小粒で、短粒のジ ャポニカよりもさらに小さく、一見して区別が可能であ る。サンバはこの米粒の形と味がかえって好まれて、市 の場での価格がふつうの米よりも高い。このために農民は の自家飯米用とするよりも出荷してしまうことが多く、一 Ä名をホテル・ライスなどといわれるゆえんである。 サ 試験場に保存される約三〇品種は草丈や籾の色などに いろいろの差異はあるが、基本的には感光性程度の高い おくて 晩生が大部分だ。赤米の種類や匂い米の種類も含まれて いる。先にサンバはインディカの稲の一種と述べたが、 その遺伝的な形質などにはまだ未調査の部分の多い稲だ。 米粒の形の類似性から、サンバの成立を野生稲の一種、オリザ・オフィシナリス ( 00 き。 c ~ きを に求める見解が昔から存在していた。オフィシナリスはスマトラやポルネオ島にいまも分布の多い 野生稲だが、現代の多くの研究はこれと栽培稲との間には遺伝的関連がないとしている。 かって調査に回った南インド、特にタミル・ナードウ州にもサンバは広く分布していた。サンヾ という名称もタミル語に発しているはずで、この両地の古い稲作の交流を物語るといえよう。そう にお 158

7. アジア稲作文化への旅

米」の生産のゆえである。この銘柄米の名声はカリフォルニアの日系人による喧伝に始まって、 までは全米におよんでいる。サンフランシスコやロサンゼルスに遊ぶ日本人観光客などが「アメリ 力の米は日本の米と同じように ( ときに、それ以上に ) うまかった」というのは、この「国宝米」を 食べての印象である。今日では、この州の大半の稲作農家が、これに類似した米を、類似した名称 で生産することが多いという。 鯨岡さんによると、この農場の大半で「国宝米」、それとモチ稲の品種を栽培しているという。 モチ米の用途は、南西部諸州産のインディカと混合して飯用とされたり、ケーキの原料になるよう である。「国宝米」もモチ米も需要に応じきれないとの話だ。 帰途は道を別にとってサン・ノゼの町を経てサンフランシスコに戻り、夜遅くに中国人街にちか い寿司屋のカウンターに座る。客は白人が七割くらい、残りが東洋系の顔とみえる。この店の寿司 米もまた「国宝米」であることを、いなせな日本人の板前さんが、得意げに教えてくれた。この国 の白人の間でも米の需要はわずかずつながら年々に増えているという。一方で、日本の家庭でのそ れは減少の一途をたどりつつある。稲と米をめぐる諸般の変容が、やがて思いもかけぬ姿となって と思われた。 われわれの前に迫ってくるのかも知れない、 米市場開放要求と「稲作不要論」 前にも書いたが、ここまでの原稿は一九八五年の夏にハワイの旅先で書き終えていた。いま ( 一 九八六年一〇月の末 ) 、その草稿を読みかえしているわけだが、この秋はひとしきり米をめぐる論議 194

8. アジア稲作文化への旅

作面積は最初に訪ねた頃には五〇万ヘクタール足らずだったのが、現在は七〇万ヘクタールと急激 に増加してついに米の自給にも成功している。セナデーラさんの業績はこうしたことにも大きく関 与しているのだ。この国の大統領賞は、わが国の文化勲章にも匹敵する最高の名誉だ。彼が京都大 学農学部の私の研究室に立ち寄ってからもう八年がたっている。勲章のせいでもあるまいが、すっ かり貫祿がついている。遅い昼食を宿舎でご馳走になって、また走り出す。 周囲に大小さまざまな溜池が見え始めてきて、いよいよドライ・ゾーンの水田地帯に深く入って きたことがわかる。すでに外は薄暗くなっているので調査は後日に回す。おそくにアヌラーダブラ の農業省のサーキット・バンガローに着く。今夜の宿舎である。 アヌラーダブラは一九七一年の折に、煉瓦の採集のために拠点とした町だが、帰りにもういちど 寄ることにして早朝にジャフナに向けて出発する。ここから北へは今回が初めての行程である。道 は北部ドライ・ゾーンの中央を縦貫するが、ウェット・ゾーンにくらべると人家もまばらだし対向 する車も数えるほどに少ない。途中の町で農業試験分場に立ち寄る。私が前から「サンバ」という 作稲に興味をもっているのをジャヤさんが覚えていて、それの品種保存を見せようというのだ。 の 陸 大「サンバ」の品種保存 ンサンバはいちじるしく丸くて小さな米粒をつけるインディカの稲の一種である。スリランカでは ノー 本来はウェット・ゾーンか、せいぜいドライ・ゾーンとの境界あたりに栽培されることが多かった 7 Ⅲ のだが、近年はドライ・ゾーンにまで普及がおよんでいるらしく、この地帯向けのサンバの品種改

9. アジア稲作文化への旅

いずれにしても、日本とのこうした点における類似生は興味深いところだ。『稲の道』のなかにも 書いたが、わが国のお赤飯もかっては赤米を使っていたのであろう。後に着色のためにアズキを入 れ、あるいはモロコシの赤い実を加えるようになったものと思われる。 この朝は、もうひとっ珍しいものを発見した。圃場を見学して歩いているうちに、大きな池のな かに野生稲の群落を見つけたことだ。案内の先生が腰まで水につかりながらその株を採集してくれ る。長い地下茎の発達した、まぎれのないオリザ・ペレニスである。出穂はしているが、まだ熟し ていないらしい。ミッチーナーは北緯一一五度のさらに北に位置するから、アッサムで観察したペレ ニスの自生地などとともに、 ) しままで報告されているかぎりではかなり北方における生息地のひと つである。この野生稲がさらに北に向かってどこまで分布しているかという点も興味深い問題だと 思う。 農業高校からさらに北へ走って、カチン州立の実験農場に着く。私たちのミッチーナーにおける 行動半径の限界らしく、ここからは北へは進めない。カチン州で栽培されている稲品種のコレクシ ョンを見せてもらう。陸稲が大半で、その大部分は一見してジャパニカの赤米である。水稲の品種 はすべてインディカと見うける。ここでの説明によると陸稲の三分の二はモチ稲で、山に住むカチ ン族を含めて少数民族たちもモチ米を常食とすることが多いという。 前項において、私は広義におけるタイ族の分布圏がモチ米を常食とするひとつの食文化圏と重な っていたのではないかと書いたが、カチン族はもちろんタイ族の仲間ではない。あまり簡単に結論 を出してはいけないようであるが、ここのところは次のように解釈されるのではないだろうか。す 124

10. アジア稲作文化への旅

になる。そのあたりの経緯の一部を、前著 ( 『稲の道』一六ページ ) に次のように述べた。度たびの 引用で煩わしいが、かなり大切なところなのである。 稲の起源などという非常に古い時代にまでさかのばって考えてみると、今日、わたしたちが 陸稲あるいは水稲といっているものの間にみられる性質の差も、はっきりしたものであったと は考えにくい ・ : 水稲的性格や陸稲的性格を未分化のままに持った栽培稲が、古く成立の初 期段階で存在していたと考えるのが妥当であると思う。こうしたカオス的な混沌とした未分化 の稲集団のなかから、やがて今日的な水稲と陸稲が別個の生態型として次第に分化してきたと 考える : モチ稲にジャポニカが含まれること 同じ頃、北タイの一帯から集め終わったモチ稲品種のなかに、おかしな一群が存在していること にも気がついていた。籾型、草型、フェノール反応からして、どう考えてもジャポニカとしか同定 文できない品種が、北タイのモチ稲のなかに少なからず混在することである。これらは例外なく古く す からの在来種で、その七〇パーセントあまりが、いわゆる赤米である。この種類の分布はラムプー 着 執 ンとラムパーンの両チャンワットを除いて、各地のやや水がかりの悪い立地に栽培が多いようだ。 チ平坦部の水田には、「ニオ・サンパトン」という奨励品種に代表されるインディカ型のモチ品種が モ 圧倒的に多い。 ) しわゆる「外米」の形をした米である。 戦後のいっとき、多くの日本人はこの「外米」の味や匂いに辟易したことがあった。それに伴っ