インドの統計によると、先の稲作圏の規準を超えるのは、西べンガル、ビハール、アッサム、オ リッサ、アーンドラ・プラデーシュ、タミル・ナードウ、ケーララなどの諸州で、ウッタル・プラ デーシュとマディヤ・プラデーシュの両州も含まれない。ケーララ州を除くと、いずれもがモンス ーン域に含まれるインド東部にかぎられることになる。こう考えてくると、インドはアジア稲作圏 の少なくとも中心地域ではない。インドといえば稲の起源地であり稲作の発祥地とも考えられてき こが、はたしてこの常識的見解に疑問の余地はないのだろうか。国全体が稲作圏ではないことと、 稲作の発祥地であることはもちろん矛盾することではなく、インド東部、たとえばインド人学者の 多くが主張するジェイボールに起源地を考えたとしても理屈の上からは支障はない。しかし、今回 しまの段階では感覚的なところ以上をうまくは説 の長い旅行のなかで接してきたインドの稲作は、ゝ 明できないにしても、インド以東の東南アジアなどの稲作とは一線を画しうるような相違があると 思われる。東南アジアの稲作が、モンスーン・アジアのなかに自然発生的に生み出されてきた農業 作 の趣であるのに対して、インドの稲作は畑作の農法をモンスーン地域一帯でいろいろと借用してい 稲 陸るかに思われる。 大 また中尾佐助さんの文章が思い出されてくる。稲作文化といったものの実態は不在であって、そ 亜 ンれは作物としてミレットを複合するサバンナ農耕文化の低湿地への適応にしかすぎず、稲は低湿地 ィー のミレットとみなされるという明解な説であった ( 『栽培植物と農耕の起源』、岩波書店、一九六六 ) 。 たしかに、インドに関するかぎり、この所説があたるように思われるが、はたして東南アジアと東 る。 149
特に稲に関する諸研究はほかの研究分野と違って、日本とインドとフィリピンの国際稲研究所の三 極を頂点として展開しているのが現状だから、インドの研究動向は絶対に見落とすわけにはいかな いところだ。 インド亜大陸の稲作圏 新しい研究論文や近刊の農業統計の類をいただいてホテルに戻る。統計によると、インドの稲作 面積が西北部のパンジャープ州一帯で増加していることがうかがえる。インド屈指のコムギ地帯も すこしずつ変貌しかかっているのだろうか。いずれにしてもインドの全稲作面積は四〇〇〇万ヘク タールを超えて世界一であり、中国とならんでアジアの大稲作国であることはいうまでもないこと だ。しかし、全耕地面積 ( 牧野などを除いて ) に対する稲作面積の比率は二五パーセント前後で、東 南アジア諸国、日本、韓国などにくらべてはるかに低い。また米の生産額も九〇〇〇万トンときわ めて多いが、この国で生産される全穀物生産量に対する比率は、五〇パーセントに達しない。東南 アジア諸国や隣のバングラデシュやスリランカなどが九〇パーセント前後なのにはるかにおよばな い。「稲作圏」という概念を、上のふたつの比率、すなわち全耕地面積に対する稲作面積比、全穀 物生産量に対する米生産比のそれぞれが少なくとも五〇パーセントを超える地域と考えておくと、 インドはその広大な稲作面積と大量の米生産量にもかかわらず、国総体としては稲作圏の範疇に含 まれないことになる。東南アジア諸国、バングラデシュ、スリランカ、日本と韓国、マダガスカル が無条件に稲作圏に含まれて、中国もインドと同じように国総体としてはこれに入らないことにな 148
おもな海外調査歴と本書との関連 1963 ~ 64 年タイ、ラオス 1964 年インド、パキスタン、セイロン、マレーシア、 ン 1965 年タイ ( Ⅱ「サンパトンの一年から」 ) 、ラオス 1968 ~ 69 年カンポジア、タイ、フィリピン フィリピ 1971 ~ 72 年インド ( Ⅲ「インドは稲作文化圏か」 ) 、セイロン 1974 年ビルマ ( I 「東南アジアのジャポニカの稲ーーー上ビルマ での経験」とⅡ「シャン州とカチン州の短い日々」の一 部 ) 1975 年ネパール、インド ( I 「アッサムへの未完の旅」の一 1978 ~ 79 年インド ( I 「アッサムへの未完の旅」の一部 ) 1979 年 1979 年 1980 年 1981 年 1982 年 1983 年 1983 年 1985 年 1985 年 1985 年 1986 年 ビルマ ( Ⅱ「シャン州とカチン州の短い日々」の一部 ) インドネシア、マレーシア、スリランカ、インド 中国 ( 北京、上海、江南一帯 ) アメリカ合衆国 ( Ⅳ「アメリカの稲ーーーシンデレラ・ク ロップ」 ) 中国 ( I 「雲南・西双版納へ」 ) インドネシア ( Ⅳ「稲を拒みつづける島々」 ) スリランカ ( Ⅲ「セイロン島の稲作ーー大陸と島の交 インドネシア ( スマトラ ) 、マレーシア フランス、イギリス、アメリカ合衆国 ( ハワイ ) ノヾングラデシュ、ビノレマ プルネイ、バングラデシュ
Ⅲインド亜大陸の稲作 はいー第 ンド半島の最南端、コモリン岬である。このカ ポックの小舟はそうした距離も往復するのであ ろうか。インドとスリランカはたしかにきわめ て地理的にちかく、多くの文化要素をインドか ら受容したことはいうまでもない。しかし、一 週間前に見てきた踏耕のことを思うと、あの技 ポ術はどう考えてもインド由来のものではなかっ ゴ た。むしろ生態的にみれば、この島はスマトラ ネ などを含む赤道下の熱帯島嶼域の一環だ。その 船 こ帆生態圏に共通する基層文化として踏耕の存在も 洋 理解しやすいであろう。いいかえれば、この島 ン の稲作は地理的に接近するインド大陸と生態圏 イ を等しくする島嶼域のふたつの側面からの文化 内容を交錯させながら成立している。 こうしたスリランカの例から考えても、過去 何千年にもわたって、アジアというひとつの世 界が人の往来のはげしく、文化の相互交錯の豊 かな、なにかにつけてきわめて動的な空間であ 171
が、あるときに狂わせてしまった歯車の齟齬についての歴史家の解説を私はくわしくは知らないが、 少なくともこの国の農業の衰退については、地理学者のグリッグ (Grigg, D. B. ) の説くところに私 インド、東アジアのそれぞれの は同感することが多い。すなわち「十五世紀の時代、ヨーロッパ、 間に、農業生産力のギャップはなかった。東アジアの土地生産力はたぶんヨーロッパよりも高かっ たし、インドの農業がヨーロッパよりも遅れていたことを想像させるいかなる理由もみつけがたい。 これら地域間の格差は、十九世紀中頃に出始めると考えられる」 (The g 斗ミミ、ミ 3 、き ミミ , 1974 ) 。 長い植民地支配こそがインド農業における歯車の齟齬の引き金になっていることは間違いなさそ うに思われる。もっとも、こうした事態はインドにかぎられないはずだ。アジアとアフリカを通じ ての今日の農業的危機の多くのケースが、かっての植民的支配時代に遠因を求められるとする証拠 が多い。飢餓がきわめて政治的な、それゆえにまたきわめて人為的な所産にほかならないとする歴 史の教訓は、現代に生きる私たちもなお十分に心すべき点であろうと思う。 作 稲 の インドの夜に日本の農業問題を考える 陸 亜インドの農村地帯の夜はいたって暗い。私たちの泊まるゲスト・ハウスの二〇ワットくらいの薄 ン明るい電灯も九時頃には消えてしまうことが多い。それまでにシャワーを浴び、その日の調査記録 イ をいそがしく整理する。食事はおそくにランプの暗い灯の下でとることが多かった。私たちが宿舎 Ⅲ に着いてから、料理人がやおら米や野菜や鶏などを買いに出かけるのだからやむをえなかった。そ 143
Ⅲインド亜大陸の稲作 ノヾンジャーフ・ ニューテ・リー 0 シンキム カトマンズト > 0 ゴーラクプル べナレス バトナーガンジ ノ←ガルプル川・ 0 プダガャー ビノ、一丿レドウルガプル ラーンチー西べンカフレ カルカッタ ウッタル・プラデーシュ ラクナウ アークラ 0 0 ファイザバード カーンプル 0 ン インド もっとも、現在では入関の手続きもポーターのマ ナーもずいぶんと近代化されていることを、カル カッタの名誉のために付言しておかねばならない だろう。それにくらべると、今回はインド滞在歴 の長い利光浩三君と一緒のこともあって、格段に ク 気楽だ。 カワ ュ シ サキ 屮プ図長期の海外調査への小さな心得のこと オ略 七年前 ( 一九六四年 ) のインド旅行は、前述の 東「アッサムへの未完の旅」の項にも触れたように、 ン 主としてカタック所在の中央稲研究所で、熱帯稲 0 イ の勉強をすることが目的だったが、今回は一二月 の末までの約七〇日間にインド各地を旅行し、残 りの二週間でスリランカを回る予定だ。調査目的 はこの二つの国で稲籾を含んだ古い煉瓦を採集す ることと野生稲の分布の確認と採集である。この ために、野生稲の日本における数少ない専門家で ある片山忠夫 ( 鹿児島大学農学部 ) 、秋浜友也 ( 現 129
Ⅲインド亜大陸の稲作 のずと目に入る。大皿に一杯の飯 ( どうみても二合をこえる ) 、二種類くらいのカレーと青いトウガ ラシだけで比較的粗食といってよい。右手の指先を使ってこれだけの量をあっという間にたいらげ る。クマ 1 ルはインド人としては平均よりもかなり小柄な体つきだが、とにかく米だけは大量に食 べる。注意してみると、子どもたちの食べる米の量もこれとあまり変わりがなく、ほとんど副食ら しいものをとらない。 ついでに食事の話をつづけるが、偶然に知りあったカルカッタの大実業家と、ニューデリーの国 会議員氏にいちどずつ晩餐の招待にあずかったことがある。客人である私のために特別のメニュー が用意されたとは思えないが、たいへんなご馳走であった。ステーキこそないものの、どこでこう した素材を集めてきたのかといぶかしく思 わざるをえない豊富な料理であった。イン 使ドには痩せた政治家、痩せた高級官僚、痩 手せた富裕な商人 ( それぞれの夫人を含めて ) はいない、と皮肉つほくいわれることがあ 少るが、肥満とはゆかなくともひとなみ以上 の恰幅のよさが、前述の両家の家族たちも 皆そうであったが、ひとつのステータス・ シンポルなのかと思われる。インドの食糧 問題とは、ひとりインドにかぎらずおしな 141
畑作の空間に入りこんだ稲 その後何回かのインドの旅行の間にも、稲とミレット類が混播される作付け様式がかなり頻繁に みられることに気づく。このことは、 かなり辺鄙な地帯を回っても、東南アジアでは目につくこと が少なく、インドと東南アジア大陸部での稲作における特徴的な相違のひとつであるかに思われる。 このように稲と畑作物とを混作する例は、ひとりインドだけではなく、その後の短いバングラデシ ュの旅行で、ダッカ周辺の水田地帯に、水稲とゴマなどが同時に混播される例のあることも知った。 プラマプトラ川の支流から水田に水があふれ出る前にゴマは収穫されることになる。このほかにも ハングラデシュでは水稲と畑作物とをいろいろに組み合わせた作付け様式が多いことを、東南アジ ア研究センターからバングラデシュ農科大学に留学中の安藤和雄君が報告してきている。 それによると、水稲 ( とくにアマン稲 ) と組み合わせて水田に混播される作物としては、ジュ 1 ト、アワ、プリア ( インドビエ、 E き・ c ミ 7 ミミ c き ) 、モロコシなどがある。こうした混作例は インドとの国境にかけて多く、とくに「プリアとアマン稲の混播はガンジス川、ジャムナ ( プラマ 作プトラ ) 川沿いにきわめて一般的」であるという。べンガル地方一帯には収穫期を異にするアマン の 稲とアウス稲を混播 ( インドではウドウと呼ばれている ) することがきわめて普遍的であることも知 陸 亜られていて、このことも十分に注目に価するのだが、それよりも古くに水稲と畑作物との混播の伝 ン統的農法がこの地帯に存在するのではないか、というのが安藤君の推察である。 このような諸例の存在に私が関心を寄せるのは、ここでは立地が水田であれ畑であれ、古くは稲 Ⅲ がおしなべて畑作物なみに取り扱われてきたことの痕跡を残しているかに思われる点である。この 139
と豊かになっている印象であった。 出勤時間のくるのをまって、所長のパドマナマン博士への拶挨をすますことにする。パドマナマ ン博士とは初対面である。前回に世話になったリチャーリア所長はすでに退任している。博士には 今回の調査についてデリーの農業省へのロ添えを頼むつもりであった。インドの調査にあたっては、 中央政府からの一枚の通達の有無がその成否を決定づける場合のあることを私は経験的に知ってい る。博士は私の依頼を了承してくれた上で「私も四日後にニューデリーの農業省へ出向く用事があ るので、一緒にインド農業研究会議 (ICAR) のパル博士に会いましよう。二人でよく依頼してみ れば、万事ご希望のことが実現するでしよう」とつけ加えられる。パル博士については、私も名前 だけを知っているが、全インドの農業研究機関などを統轄する大ポスである。また、西べンガル州 政府の農務次官あての紹介状もいただく。私たちのアッサム諸州への入域について側面からの援助 を依頼した文面である。 カタックへ来た目的はひとっ済んだ。今回のインド調査を一緒にする秋浜友也 ( 当時・農林省農 業技術研究所 ) 、片山忠夫 ( 鹿児島大学農学部 ) 、黒田俊郎 ( 当時・鳥取大学農学部 ) の三氏は、数日後 索 探にカルカッタに到着する予定である。それまでにデリ 1 でのパル博士との交渉を残すだけだ。なん こ準備は進みそうに思われる。 源とか順調冫 起 作 稲 アッサムの稲に関する調査報告を聞く 所長室を辞去して、サンパスさんの室にいく。この著名な遺伝学者は、稲の起源をめぐっていく
ことは、インド亜大陸における稲作の本質的な性格の一 端を暗示しているものと思われる。 しいかえれば、古く に畑作の空間であったインドに入りこんできた稲は、中 尾佐助さんがいわれるように、雑穀の一種として受けと 一められ、湿地のミレットとして受け入れられたと思われ る。おそらく稲を処女地の作物として受容した東南アジ アのデルタなどとは、基本的に異なる稲に対する対応が あったのであろう。 インド人の食事にみた貧富の差 私たちはビハール州を北上し、 ーガルプルの町に着 いて、ここでガンジス川の本流に対面する。一〇年ぶり という大洪水にみまわれたガンジス川の流域の水田には、 わずかに流失をまぬがれた泥だらけの稲が点々と残っているだけだ。車の故障と道の決壊が重なっ て、この周辺に二、三日の滞在を余儀なくされたのだが、カルカッタを出てから初めてゆっくりと 午睡と洗濯をする。運転手のクマールも、慣れない行程に疲れた表情だが、食欲だけはいぜんとし て旺盛らしい。カルカッタを出発したその日以来、私は彼の健啖ぶりに瞠目してきた。夜は別々だ が、朝と昼は道路沿いの食堂などで食事を一緒することが多いから、彼の注文する料理の中味がお ガンジス川 ( ビハール州・バガルプル ) 140