ーーー焼畑 - みる会図書館


検索対象: アジア稲作文化への旅
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1. アジア稲作文化への旅

目次 —稲作起源への探索 : 一アッサムへの未完の旅・ : 7 アッサム以前のこと : 2 予備調査から : 3 メガラヤの丘陵にてーーー焼畑の末路 : ・ 一一東南アジアのジャポニカの稲ー。ー上ビルマでの経験 : 7 ビルマへの入国ーー・ーひととの出会い 2 バガンへの道 : 3 マンダレーにてーーーマウン・マウン・ティンさんの思い出 : イ批判に応えてーーー学際的研究の方法 : ・ 三雲南・西双版納へ : ノ雲南への「思慕」・ 2 西双版納に立っ : 3 野生稲と「水陸未分化稲」・ 4

2. アジア稲作文化への旅

っているが、この地帯の特徴は世界有数の多雨地帯であることだ。そのために長年月の焼畑によっ て土壤は激烈な浸蝕をうけた。現在では森林再生の可能性のない草原となってしまっている。いま、 私たちが立っている草原も、かっての焼畑の跡なのである 注意されて足元の土を見る。驚いたことに表土の厚さは一センチか、せいぜい二センチくらいし かない。その下は岩石である。各所に岩が露出しかかっているところもある。その薄い土の上に小 さなアランアラン ( ィネ科の雑草 ) がびっしりと生えている。しかし、この丘陵がかっては森林で あった証拠に、焼畑には適さなかったであろう谷筋の急傾斜地などには、シャクナゲの大木をまじ えた大きな樹木が繁っている。ここらあたりまで照葉樹林がひろがっていたのだろうか。私たちが 眺めているのは、かっての広大な焼畑地帯の跡、いいかえれば焼畑の末路を見渡していることにな るのであろうか。 焼畑による生態環境の破壊についてはアジア各地で ( アフリカなどもそうだが ) 問題にされるとこ ろである。過度な焼畑の継続、雨による土壤浸蝕が森林生態をすっかり回復不能な状態にさせてし まう。メガラヤの草原は、そうした指摘どおりの結末と思われる。 いままで私が見てきた焼畑のなかには、焼畑民の技術あるいは知恵を示すような例もいくつかあ った。焼畑予定地の樹木を皆伐せずに、しかも残した木を枯れさせないように火をつけることも見 てきた。一度焼畑をした後は長期間にわたって放置して、植生の回復を待っことなども広く行われ ているところだ。長い歴史のあるメガラヤの焼畑民が、先祖伝来の焼畑の知恵を放棄しなければな らなかった理由があったに違いない。その時点がそんなに古い時代でなかったように思われる。も

3. アジア稲作文化への旅

てふたりがこざっぱりとした服に着替えて出てきた。この焼畑のなかの小屋にも意外とたくさんの 生活用具類が揃っているらしいことを面白いと思った。 わずかな見聞から結論めいたことを述べるのも無謀だが、このシンハラ人たちの焼畑は、農耕展 開のプロセスにおいてアッサムや雲南などで見てきた焼畑のそれとは異なるように思われた。アジ アの多くの焼畑が水田耕作の前段階として位置づけられているのに対して、ここのヘーナはすこし 事情が違う。おそらくは雑穀を主体とした畑作民たちが、あらたに水田稲作を受容する一方で、か っての主作物であった雑穀類の栽培を焼畑の形式を選択して継続しているかに思われるのである。 雑穀を耕地で栽培するには可耕地の面積が少なすぎるのだ。いいかえれば、ここでは水田と焼畑が 併行して補完する関係にあると解釈してはどうであろうか。北部ドライ・ゾーンに生活するシンハ ラ人の本来の系譜を畑作農耕民とする前提に立ってのひとつの仮定である。帰途に、普及所長さん にこんなことを話してみたが、にわかには賛否のいずれの意見もないようであった。 作アバハヤギリ遺跡でみた煉瓦 の かって多くの煉瓦を採集して歩いた所だ。その アヌラーダブラとその周辺は、前述したように、 陸 亜折に世話になった考古局支所のウドウワラさんを事務所に訪ねるが、五年前からコロンボに勤務が ン変わっているという。後任所長のウイラマガマゲ博士が市内のアバハヤギリ遺跡に案内してくれる。 ュネスコの財政援助によって再発掘中である。前二世紀から後八世紀にかけてのセイロン最古の都 城趾には、各時代の建築物の遺構がまだ十分に調査されずに残されているのだそうだ。寺院趾の地 165

4. アジア稲作文化への旅

比較にならない情勢のきびしさである。 治安の平静化を待って、ゆっくりと調査の日程を組み直すことのできない個人的理由もあった。 この年の四月から、私は農学部から東南アジア研究センターへ配置換えになることに内諾を与えて いた。農学部における後始末を残して私はインドに来ている。また東南アジア研究センターのほう では、所長を併任することになる予定だ。そのほうの準備にも心せわしい日々が待ち受けている。 所長の任務についたならば、当分は長期の現地調査などの機会もないであろう。たとえ七日間でも、 いまの私には貴重な機会である。 この短い日程の間に、ぜひともメガラヤの焼畑地帯を見ておきたい。先回の折にマンナさんから もすすめられていたし、興味ある栽培稲品種がまだ残っていることも聞いている。 焼畑の跡地に立って 早朝にジープに分乗してホテルを出発する。チョードリ ー博士が案内のため同行してくれる。ジ ープは山腹を縫うようにしてしだいにメガラヤ丘陵の稜線をたどり始める。眼下の丘陵は一面の広 探大な草原のようにみえ、所どころに畑の土肌と、小さな林が点々と眺められる。どこにも焼畑らし 源い風景はない。眺望のよいところで車を下りて四囲を眺めても、やはり焼畑らしいところはない。 作これはどうしたことであろう。 稲 私たちの疑念を当然というような顔で、チョードリ 1 さんが説明した内容は次のようであった。 メガラヤ丘陵の焼畑は、アッサムの丘陵や山岳地帯がそうであるように、きわめて長い歴史をも

5. アジア稲作文化への旅

いように注意する。これはすこし熟練を要する作業らしい。火入れは二度行った。 今年は五五アールぐらいの焼畑をしている。昔はシコクビエと陸稲が主作物だったが、近年はト すじまき ウモロコシやトウガラシの栽培が増えてきている。一〇月にトウモロコシを条播して、二〇 5 三〇 うねま センチほどに育ってからその畝間にシコクビエ、トウガラシ、カラシナを混播した。トウモロコシ は一二月に収穫し終わったが、シコクビエをこれから収穫する予定だ。そのあとにはゴマを播く。 そのほかには小面積ずつアワ、モロコシ、カボチャ、リョクトウ、それとやや凹みになっている場 所に陸稲も栽培した。雨が順調だったので、今年は生育がよく収量も多い。このうち、トウモロコ シとトウガラシは販売用に回すが、米を売るほどに水田を作っていないからへーナからの収入はた いへん貴重だ。 伝統的なヘーナから常畑へ 焼畑では一年間作物を栽培したら、その場所は一五年から二〇年は放置しておいたものだが、最 近は二年つづけて作物を栽培することが多くなった。この畑でも二年間はつづけて栽培をする予定 のようだ。このちかくの村の例だが、今年で三年つづけて栽培している畑もあると普及所長さんが つけ加える。人口の増加、それに伴う焼畑適地の減少が原因だ。こうなるとスリランカのヘ 1 ナは、 いまや伝統的な焼畑から常畑への移行の段階にあるといえるのであろう。 三時間ちかくも畑を一緒に回ったり話を聞いたりして、ふたりの若い夫婦の仕事、もしくは午睡 の邪魔をしてしまった。記念に写真をというと、奥さんは子どもとともに小屋のなかに入り、やが 164

6. アジア稲作文化への旅

演説を済ませたペンツさんは、こともなげに「ヨウ ( 有 ) 」と答える。これがイエスの意味であることは私に るもわかる。 ら 一軒の農家に案内されて、くわしくこの品種のことを し を 質問することにする。以下は稲を水田七・五ムーと焼畑 穀一〇ムーに栽培しているというピジュさん ( 五〇歳 ) の 冷 ニ語と、またそ = 一口た。例によって、日本語ー中国語ーハ 工の逆に戻ってくるもどかしいやりとりをまとめると、次 でのようになる。 村 焼畑の代表的品種はチェク、チェニマ、チェビア ン である。いずれも赤米である。「チェ」はハニ語で米あ るいは稲のことである。これらの品種は先祖から受けっ いできた品種だ。 図このうち、特にチェク、漢名では「冷山穀」というが、これが代表的な品種で、焼畑だけで なく水田にも栽培される兼用種である。 数年前まではチェクは水田にもっとも広く栽培される品種だったが、一九七九年から政府の いいつけで、水田には「珍白七二号」という品種がしだいに作られるようになってきた。収量はチ ェクにまさるが味が悪いので、いまでもチェクは水田の一部に栽培がつづいている。

7. アジア稲作文化への旅

あるというので出かける。土鍋を重ね、下から加熱して 蒸溜酒を造っているらしいが、くわしいプロセスはわか らない。酒の醸造のことを勉強してこなかったことが悔 ちゃまれる。試飲してみると、舌にピリッとした味がある 人が、アルコール濃度はさほど高くないようだ。 ) 一 ~ , 族次の朝、焼畑一帯を回るが、すでにトウモ 0 「シは収 ラ穫が終わっている。この村には合計すると二ヘクタール ン くらいの水田が四〇年ほど前から造成されているが、ち ワ ようど焼畑も水田も稲の収穫のシーズンに入っている。 ここで面白い事実に遭遇する。水田と焼畑で栽培してい る品種がどうも同じジャパニカの稲であるらしい。スチ ャトさんに確かめると、まったく同じ品種であるという。 農民たちも、種籾用の壺は昔からふたっしかないという。 ひとつはウルチ稲、ひとつはモチ稲を入れておくと答える。 しいかえれば、ここでは「水稲」と 「陸稲」の区別が意識されていないし、実際問題として、その区別が不要であるらしい。後に、私 がしばしば「水陸未分化稲」と呼ぶことになる稲との最初の邂逅であった。 この種類の稲との出合いは後日に、東南アジアの各地だけでなくインドや雲南でも度たび経験す ることになり、それが、やがて私の栽培稲起源についての考え方の成立に重要な影響を与えること 1 7 1

8. アジア稲作文化への旅

Ⅲインド亜大陸の稲作 アヌラーダブラのヘーナ ( 焼畑 ) ジャヤさんが所用で一足先にペラデニヤの研究所に戻ったあと、アヌラーダブラの普及所長の案 内でちかくのヘーナへと出かける。自動車を下りてから二キロメートルほど森林のなかを進んだと ころに畑があった。木の幹や枝を積み重ねた柵が周囲をかこんでいる。三〇歳代と思われるシンハ ラ人の夫婦が二歳の子どもとともに簡素な小屋がけの家に住んでいて、いろいろと質問に答えてく れる。昨年の一一月から今月三月 ) いつばいまでは、 もつばらこの小屋で生活をし、水田は父親と弟にまかせ 物〉近て用があればこちらから出向くのだという。 プ この農民の話と普及所長さんの補足したところを総合 ダ 一してみると、ここでの焼畑の概要は次のようになる。八 ヌ月に数軒が共同して木を切り倒すことから始まった。誰 がどこをへーナに利用するかは村民の協議に基づいてい 風て、勝手に決めることはしない。切り倒した木や枝を積 み重ねてまず周囲に柵を作る。柵は高く頑丈なほど望ま 畑 焼 しい。ゾウとイノシシの害が大きいからだ。九月末、雨 一が降り出す前に火を入れた。しかし、焼畑予定地のなか へ の全部の木を切り倒すことはしない。残しておく木は、 また二、三年して再生しやすいように完全に焼ききらな 163

9. アジア稲作文化への旅

通訳されてゆく。ぎくしやくというのは、中国語のなかに雲南南部の方言が入るらしく、これを日 本語なりハニ語に訳すのがスムースにはいかない。 こんなことで半日が終わるのではないかと心配 になってくる。全員がいい加減うんざりしたところで、やっと「村入り」のセレモニーが終わる。 焼畑にも水田にも栽培される稲 稲作の状況を聞くことにする。この村 ( 戸数八二戸、人口五〇〇名 ) の主産物は米とチャで、稲は 畑と水田に栽培されている。畑が五〇〇ム 1 、水田が同じく五〇〇ムーあるが、近年は開田に力を いれてきて、水田のうち三〇〇ムーは開放後に整備したものだという。ちなみに、一ムーは六・六 アールである。 いろいろと聞きたいことはあるが、私のおもな関心は、古い在来の栽培品種の性質を知ることだ。 最初に「水陸未分化稲」のことを尋ねることにしよう。この稲のことについては、前のアッサムの 記事 ( 「アッサムへの未完の旅」 ) のなかでも触れたが、栽培稲のごく古い形質を備えている種類だと 思われる。稲が今日のように水稲的形質と陸稲的形質を截然と区別するのはもっと新しいことなの 索 探である。こういう品種は、いままでの調査の範囲ではアッサムの農業試験場のコレクションのなか 源に「水陸稲」としてたくさん含まれていたし、メガラヤでは広く栽培もされていた。ラオスやタイ たね 作のある村でも多くの農家の持っ種子壺はひとつにかぎられていて、このなかの籾が水田にも焼畑に 稲 も播かれていた。このような例は東南アジア各地の辺境部に行けばいまでも必ず見ることができる。 ) ゴゝこ、先ほど長し 私の「焼畑にも水田にも栽培されるような稲の品種はありませんか」としうし冫

10. アジア稲作文化への旅

っと詳しいことを知りたい。 水陸兼用種の普遍的分布 農業試験場に立ち寄ってみる。現在も栽培されている在来品種のなかにいろいろと珍しい種類が ある。たとえば、モチ種とウルチ種との中間品種というのがいくつかある。特殊な調理上の用途が あって、いまも栽培されているという。かって東南アジア、中国および日本の品種を使って、胚乳 でんぶんのアミロースとアミロペクチンの比率をくらべたことがある。私の学位論文のなかの一部 となった実験であった。そのなかにはモチとウルチの中間という材料は含まれていなかった。珍し いので何粒かの玄米をいただくことにする。また、現地語でコノロル (khonorolu) といわれる品種 群は水陸兼用種のことだ。焼畑にも水田にも共通して栽培される種類で、この地帯に広く栽培され ている。三年前にアッサム農科大学の試験農場を訪ねた折に、この品種群のコレクションに接して いる。アッサム地方一帯にこうした品種がたくさん分布していることに私は特に注目した。ラオス や北タイでもこの種の品種が栽培されていることを承知していたが、これほどに普遍的ではない。 索 後に、しばしば私はこれを「水陸未分化稲」と呼んで、栽培稲の起源にまつわってその重要性を 源指摘することになった。そのことの契機が二度のアッサム調査にあるといえる。 作メガラヤ丘陵の畑作では、今日では陸稲よりもジャガイモのほうが広く栽培されている。その栽 稲 培の方法も興味深かった。上に述べたかっての焼畑農耕の残像あるいはその末期的変形とでも形容 すべき姿を、そのプロセスのなかに見出せるのである。このことについては、別の拙稿に次のよう