ノアッサム以前のこと インド中央稲研究所 一九七一年一〇月のある早朝、カルカッタのハウラー駅を前日夜半に出発した特急列車プー イクスプレスはオリッサ州の州都プバネーシュワルに到着した。コンパートの寝台車の冷房も快適 で、車掌に起こされなければ、同行の利光浩三君 ( 当時・鳥取大学大学院 ) も私も乗りすごすところ だった。駅頭に・・ラオさんが出迎えていて、七年ぶりの再会をよろこびあう。車でカタック の町に向かう。プバネーシュワルから北東へ約五〇キロメートルに位置する小さな町である。 この町が私たち農学者によく知られているのは、郊外にあるインド中央稲研究所 (CRRI) の存 在による。この研究所は一九四六年に創設されていて、その後フィリピンに国際稲研究所 (IRRI) ができるまでは、熱帯アジアにおける稲研究の代表的機関の役割を果たしていた。この研究所に私 は七年前の一九六四年の二月から三月にかけて滞在した。 一アッサムへの未完の旅
やっている仕事の中味はあまりそれらしくはない。サンパトンの稲作試験場にかぎらないが、国内 各地に分散する二〇あまりの稲作試験場も、だいたいにおいて稲品種の展示場だと考えれば間違い 、よゝ 0 、 ノンケーン所在の中央試験場あるいはフィリピンの国際稲研究所などで育成あるいは選抜さ れた新品種や、在来の奨励品種群を系統や品種ごとに栽植して、年々の収量比較がおもな仕事だ。 サンパトンの場合には供試される品種の九〇パーセントまでがモチ稲であることが、他の試験場と は異なる点である。こうした仕事を大きな圃場を使って、かなり大まかに行う。七〇人以上もいる 農夫たちの仕事を、現場監督よろしく指図しているのが大学出技術者の日常である。 もっとも、私が帰国する直前。 こ、この試験場に病理と昆虫の「専門家」が新たに着任して、たん なる展示場から組織的にはすこし前進した。ふたりともカセッアート ( 農業 ) 大学新卒のお嬢さん で、日に焼けるのを避けてか、一日中研究室にこもりきりだったことを思いだす。いずれも二〇年 も前の事情で、試験場の組織や内容なども現在では大きく変わっていることであろうと思う。 水田でとれる虫のペースト しかし、雨が降り始めないかぎりは、試験場の仕事もそうだが、サラ博士に約束した私の圃場実 験も計画がたたない。八月中旬になって、とうとう私はポット試験に切りかえることにした。チェ ンマイの園芸店から、手ごろな素焼鉢を六〇個ほど買い求める。そこに水田の土をつめ、水道の水 をはって播種を終える。北タイの代表的モチ稲品種「ニオ・サンパトン」などの生育経過を追跡す る仕事がやっと始まった。この試験の結果などを含めて後日に英文の著作としてまとめているが、
特に稲に関する諸研究はほかの研究分野と違って、日本とインドとフィリピンの国際稲研究所の三 極を頂点として展開しているのが現状だから、インドの研究動向は絶対に見落とすわけにはいかな いところだ。 インド亜大陸の稲作圏 新しい研究論文や近刊の農業統計の類をいただいてホテルに戻る。統計によると、インドの稲作 面積が西北部のパンジャープ州一帯で増加していることがうかがえる。インド屈指のコムギ地帯も すこしずつ変貌しかかっているのだろうか。いずれにしてもインドの全稲作面積は四〇〇〇万ヘク タールを超えて世界一であり、中国とならんでアジアの大稲作国であることはいうまでもないこと だ。しかし、全耕地面積 ( 牧野などを除いて ) に対する稲作面積の比率は二五パーセント前後で、東 南アジア諸国、日本、韓国などにくらべてはるかに低い。また米の生産額も九〇〇〇万トンときわ めて多いが、この国で生産される全穀物生産量に対する比率は、五〇パーセントに達しない。東南 アジア諸国や隣のバングラデシュやスリランカなどが九〇パーセント前後なのにはるかにおよばな い。「稲作圏」という概念を、上のふたつの比率、すなわち全耕地面積に対する稲作面積比、全穀 物生産量に対する米生産比のそれぞれが少なくとも五〇パーセントを超える地域と考えておくと、 インドはその広大な稲作面積と大量の米生産量にもかかわらず、国総体としては稲作圏の範疇に含 まれないことになる。東南アジア諸国、バングラデシュ、スリランカ、日本と韓国、マダガスカル が無条件に稲作圏に含まれて、中国もインドと同じように国総体としてはこれに入らないことにな 148
I 稲作起源への探索 アルナーチャル・ アフフデーシュ′ ′′ジョ丿レ、一ト . (. イラマプトラゞ アッサム . ・・一髣 ( . ・ 2 ) ーティ . しっー ・ン 0 シロン ! ~ メガラヤ 。チェラブンジ・マ、 ′くンク・ラテ・ぐ / ユ 川ダ、 , カトデラ 》ミ、ノラム ガ ネ / ー ) レ ビノレマノ レ カルカッタ べンガル湾 その前年に、タイの稲を調査する機会があ ったとはいえ、当時の私は熱帯の稲や稲作に ついて、ほとんど素人の域を出ていなかった といってよい。この研究所でインディカの稲、 そして野生稲について基礎的な勉強をした。 この種の具体的な知識を日本で得ることはほ とんど不可能だったからである。実物に接し、 一つひとつを納得することがもっとも確かな 図 略方法である事情は、現在でも同じである。特 地に研究所の野生稲のコレクションについての 勉強や、近郊における野生稲自生地の観察な どは、日本では望みえないことであった。 現在でも、日本には野生稲の専門家といえ る研究者はごく少ない。研究材料となる野生 稲の収集を外国で行う必要があることや、そ れを日本で育てていく苦労も多い。そして、 野生稲の研究などは役に立たないという、学 界や農業の現場を通じての雰囲気もある。こ
れだけ栽培稲の生理や形態などについての詳細な研究が進んでいる日本で、野生稲の研究は不毛の 分野であるかに思われる。栽培稲の起源の問題などについて日本の農学者の発言が少ないことと、 野生稲についての基本的認識の欠如といった傾向とは無関係ではありえない。 最近になって、遺伝子収集の必要性がにわかに問題化して、野生稲のこともクローズ・アップさ れてきた。ハイプリッド・ライスのセンセーショナルな登場に触発されてのことである。日本の学 問的研究には、 いかにも泥縄的としかいえない部分があるという感慨を新たにする。 アッサム調査についての援助を依頼 話が横道にそれたが、今回の私のカタック訪問は研究のためではない。三か月間を予定している インド各地の調査につ・いての援助依頼、なかんずく困難が予想されるアッサム諸州への入域につい ての情報収集が主目的だ。この件については研究所の旧友たちと何回も手紙を交換してきた。私の アッサム調査への思い入れについては、彼らも十分に承知してくれているはずである。 ・・ラオさん ( いちいち・と書くのは、この研究所にラオさんが四名もいるからである ) が、 ゲスト・ハウスに案内してくれて、しばらく休憩をすすめてくれる。なっかしいゲスト・ハウスで ある。初訪の折に毎朝、ここの食堂で食べたチャパティーの味を思い出す。当時、私はインドにつ いてほとんど予備知識もなしに飛びこんできて、日常の些細なことにも驚き、とまどい ときに現 5 怖し、まさにカルチャー ショックを受けた。、 ケスト・ハウスの毎日の食卓にならぶ、″みじめ〃 と形容しても決して誇張でない食事の質素さも驚きだったのである。七年たって、それもずいぶん
滞在する予定だが、後日のアッサム入域の交渉などの仕事が待っていた。現在でもそうだと思うが、 この地域での長期の調査にはアッサム諸州からの許可とは別に中央政府内務省のパミッションが必 要である。この取得がきわめて難しいことは承知していたが、ナーガランド州やミゾラム州を除く と、なんとかうまくゆきそうな返事をえられる。私たちがカルカッタに帰り着く頃にカルカッタ領 事館あてに正式の返事を届けるという約束がえられた。この交渉には大使館の小坂さんの世話にな ったのだが、小坂さんからの情報によると、パキスタンとの間にどうやら戦争が避けられそうもな こと、いまはパンジャープ地方でのトラブルにとどまっているが、やがて東パキスタン ( 現在の ハングラデシュ ) との国境にも波及しそうな気配だという。不吉な予感が頭を走るが、いまから心 配しても仕立ないと思うことにする。 翌日はインド農業研究所 (IARI) へ出向く。プサ・インステイチュート (pusa lnstitute) として 、、ール州のプサに所 の名の方が通っているインド最大の農業研究機関である。一九二〇年代までヒノ 在したこの研究所は、地震によって建物が倒壊した後にニューデリーに移転してきたが、今日もな 作お旧称を受けついでいるわけだ。構内に職員の宿舎群を初めとして小学校、病院、消防署、警察署 の までを擁する広大なキャンパスには、図書館を中心に各種の農業分野の研究棟が並んでいる。研究 陸 亜のみでなく、大学院大学としての機能も果たしている。旧知のマハバトラ博士やシディク博士と、 ン相互の研究情報を交換し合うが、特におたがいのひそかな関心がアッサムの稲にあることがわかっ て苦笑し合う。欧米などにくらべると、インド ( アジア全般について ) からの情報量はごくかぎられ Ⅲ ているから、かなり意識的に注意していないと、新しい研究の進展ぶりなどを見落としがちになる。 147
科学院の訪問を「遠いから」と断った中国側の事情に、おそらくはハイプリッド・ライスの問題が からんでいたものと思われる。 衆知のように、、 ノイプリッド・ライスの作出には野生稲が大きく関与している。そして、雲南省 農業科学院はその研究のひとつのセンターなのである。こう理解することによって、その後に私た ちが西双版納の調査の折に経験した中国側の滑稽とさえ思える野生稲に対する神経のとがらせ方が 納得できる。昆明における中国側の対応は、西双版納におけるそうした事態の前兆だったはずだが、 私たちの誰もが、まだそのことの深刻さを予想しないでいた。西双版納における中国側の神経過敏 の対応のあれこれについては、前掲の調査報告書のなかで、高橋徹さんが詳細に報じているところ だ ( 「雲南の赤い米」『雲南の照葉樹のもとで』第九章 ) 。 遺伝子資源に対する考え方 いずれにしても、中国側は私の野生稲への関心を誤解してしまったものと思われる。私はいささ かも野生稲や栽培稲の採集そのものを目的としていない。まして育種学者でもないから、 ハイプリ ッド・ライスに対する特殊な関心もない。しかし、野生稲の分布を調査しようとする私が、中国側 の警戒の的になることもいたしかたのないような国際的状況が一面にはあるのである。 かって、アッサムの調査を行ったときのことを思い出す。カルカッタ在のアッサム・オフィスが 調査許可の権限をにぎっていたのだが、学問の種類によっては調査の許可がひじように出にくい分 野があることを知った。ジャ 1 ナリストにつづいて難しいのは社会科学の研究者、ついでは人類学
てのドライ・ゾーンと、南西部一帯のウェット・ゾーンを成立させている。ふたつのゾーンの間に みられる農業景観の差はかなり対照的である。ドライ・ゾ 1 ンの農耕が古くからの溜池灌漑による 稲作と焼畑を主体としているのに対して、ウェット・ゾーンではチャ、ゴム、ココヤシなどのプラ ンテーションとともに、低湿田の水稲栽培と野菜作が発展する形をとる。さらに高低に富んだ地形 も関与して、この小さな島を生態的にきわめて興味深い対象とさせている。四回もこの島を訪れて なお私は飽きることがない。 ジャヤワルデナさんとの再会 もっとも記憶に新しい八三年二月の旅行のことを主体に述べてみよう。過去三回の調査の折に行 きそびれていた北部ドライ・ゾーンを回り、ジャフナまで足を延ばす計画だ。時間があれば、この 国の伝統的なヘーナ ( 焼畑 ) についても見聞しておきたいと考えた。 ハンコクからの便が予定より丸一日遅れてコロンポ国際空港に着く。同僚の高谷好一教授とスリ 作ランカ農業省中央研究所のジャヤワルデナさんが出迎えてくれる。もっとも高谷さんはここでの調 の 査をすでに終えて、私が乗ってきた飛行機でバンコクに戻るから、ほんの四、五分、立話をする暇 陸 この京都大学探検部出身の野外調査のエキスパートとは、何回も同じプロジェクトに参 亜しかない。 ン加しながらも、不思議なことに一緒に現地を歩いたことがほとんどない。ひとつには年齢の差もあ って、私には高谷さんの組むハード・スケジュールがやや重く感じることもあるし、調査しようと Ⅲ する対象もすこしずつ違う、イノ 。、。、ールでもタイでも、だいたい今回のようなことが多かった。また、 153
か誇ってもよいのではないかと思う。たとえば、秋浜さんと片山さんの野生稲の綿密な調査は、イ ンドにおける野生稲分布に関するおそらく世界でもっとも広汎で正確な記録として残った。私の仕 事のうちでは、ガンジス北岸の段丘地帯に分布するきわめて古い遺跡群の煉瓦のなかに、明らかに ジャポニカと判定できる種類を数多く発見したことである。このことは、アジアにおける栽培稲の 成立や伝播の経路についてのその後の研究に、きわめて有効な示唆を提供したものだ。 サンチ・ニケタン、「哲学の町」 それとともに、この旅行の日々のしんどさを正直に語っておかねばなるまい。インド農村を広く 調査して回るような計画には、現地に共同研究者を求めて同行するのが常識だと思う。事実、その 後の各地での私の調査はそのスタイルをとることが多かった。もちろん今回の調査にもそれを考え なかったわけではない。前もってインド農業省や中央稲研究所あてに、私たちの調査目的を知らせ るとともに共同研究者の推薦の依頼をしていた。しかし、私が意図した古煉瓦の採集のことは、私 作 の手紙の文章が意を尽くしていなかったきらいもあるが、どうも十分に理解してもらえなかったよ 稲 の うで、適任の共同研究者はついに推薦されなかった。これも考えてみれば無理からぬことかも知れ 陸 亜ない。成果の期待が不分明な調査行に、三か月ちかくも同行する研究者がいないとしても不思議で はない。私が逆の立場に置かれたとしても固辞したに違いない。 ン イ 結局、私たちはデリー農業省のパル博士の紹介状と地図を頼りにして長途の旅行に踏み切らざる をえなかった。私たちの車のドライバーのクマールはケーララ州の出身で、私たちと同様にガンジ 133
2 大草原にきたシンデレラ・クロップ ライスランド・フーヅ社の精米所を訪ねて スタットガートの町に戻る。いまから一〇〇年前にドイツ系移民が開いた人口一万余の小さな町 に、よそのところにはない施設がふたつある。そのひとつ、ライスランド・フーヅ社 (Riceland FoodsCo.) は米の集荷、精米等の工場設備をもち、この種の会社としてはアメリカ最大の規模を誇 る。稲作農民たちの出資によって「アーカンソー稲作農民協同組合」 (Arkansas Rice Growers cooperative Association) としていまから六〇年前 ( 一九二一年 ) に創設されて以来、急成長をとげ てきて、現在では全米の米総生産量の約二〇パーセントを取り扱う。米のほかにダイズとコムギの 部門もあって、アメリカ最大のダイズ倉庫もここの所有であるという。多くの米倉庫などが州内に 散在するが、この町に本社と付属の研究所が所在する。研究所長のビッカースさんが案内してくれ 彼よ一〇数年前、私がまだ京都府立大学に在職していた頃、ダイ る。私はすっかり忘れていたが、 , 。 ズの加工に関するミッションの一員として京都に訪ねてきて私と会っているという。そういわれる と、私たちは大徳寺納豆や湯葉の工場に数名のアメリカ人を案内したことがあった。その頃のビッ カースさんは、たしか農務省の役人だったはずである。 研究所は米やダイズの加工、いわば新加工製品の開発などの仕事が多いらしく、立派な化学分析 の研究室などがそろっている。米を使った新しい料理の開発などもここの仕事のひとつだ。ティー ・タイムに出されたプディングも米をベースに、パイナップルとバニラの香りがきっかった。パン 184