II モチ米に執着する文化 昨年の調査以来、サラ博士には世話になりつづけだが、今回も彼の親切さに甘えざるをえない。博 士は、すでに私の調査の拠点として、サンパトンの稲作試験場に一室を用意していること、場長が、 今日は会議でバンコクに来ているので後で紹介するといわれる。さらに博士の希望として、現地調 査とともに圃場での栽培試験も合わせて行って、その方法を試験場の職員に教えてやってほしいと いわれる。さらには携行した実験機具類、顕微鏡や簡単 な分析機具などを、帰国時にできれば試験場に寄付して ほしいことなどを付け加えられる。ローカルな試験場に 実験機具類が皆無である事情をすでに私も承知である。 栽培試験のことも寄付の件についてもそのつもりでいる スことを返答する。 ン 後刻、局長室で紹介された試験場長、プラチャーンさ メ んは、五五歳くらいの恰幅のよい人物だった。英語は話 の ン せないらしいが、やさしいタイ語の単語を選びながら、 Ä私にもわかるようにゆっくりと歓迎の挨拶をしてくれる。 サ とにかく、この人にこれから長い間世話になるわけだ。 握手にも力が入る。 試験場には他に三人の技術者がいた。いずれも大学出 のプリーダー ( 育種専門家 ) だというにしては、彼らの
やっている仕事の中味はあまりそれらしくはない。サンパトンの稲作試験場にかぎらないが、国内 各地に分散する二〇あまりの稲作試験場も、だいたいにおいて稲品種の展示場だと考えれば間違い 、よゝ 0 、 ノンケーン所在の中央試験場あるいはフィリピンの国際稲研究所などで育成あるいは選抜さ れた新品種や、在来の奨励品種群を系統や品種ごとに栽植して、年々の収量比較がおもな仕事だ。 サンパトンの場合には供試される品種の九〇パーセントまでがモチ稲であることが、他の試験場と は異なる点である。こうした仕事を大きな圃場を使って、かなり大まかに行う。七〇人以上もいる 農夫たちの仕事を、現場監督よろしく指図しているのが大学出技術者の日常である。 もっとも、私が帰国する直前。 こ、この試験場に病理と昆虫の「専門家」が新たに着任して、たん なる展示場から組織的にはすこし前進した。ふたりともカセッアート ( 農業 ) 大学新卒のお嬢さん で、日に焼けるのを避けてか、一日中研究室にこもりきりだったことを思いだす。いずれも二〇年 も前の事情で、試験場の組織や内容なども現在では大きく変わっていることであろうと思う。 水田でとれる虫のペースト しかし、雨が降り始めないかぎりは、試験場の仕事もそうだが、サラ博士に約束した私の圃場実 験も計画がたたない。八月中旬になって、とうとう私はポット試験に切りかえることにした。チェ ンマイの園芸店から、手ごろな素焼鉢を六〇個ほど買い求める。そこに水田の土をつめ、水道の水 をはって播種を終える。北タイの代表的モチ稲品種「ニオ・サンパトン」などの生育経過を追跡す る仕事がやっと始まった。この試験の結果などを含めて後日に英文の著作としてまとめているが、
7 サンパトン稲作試験場にて 地域研究と自然科学的調査 一九六五年の雨季の到来は、例年になく遅れているらしい。私のいるタイ北部だけではなく、タ イ国全土がそのようである。「バンコク・ワールド」紙が、このままだと中央平原だけでも四〇万 ライ ( 約六万四〇〇〇ヘクタール ) の水田に稲が植えられないだろうと報じてから、もう旬日がたっ ている。サンパトンの稲作試験場も例外ではない。七月下旬だというのに、大きな溜池の底が露出 してひび割れが見えている。圃場の中央にあるこの貯水池にピン川上流の降雨が溜まらないかぎり は、二七ヘクタールの水田の田植えが不可能なのだ。苗代にはすでに播種が終わっているが、苗は 黄変していかにも弱々しくみえる。 この年の五月末から、私はチェンマイの約三〇キロメートル南西にあるこの試験場に滞在してい た。これから約八か月間、ここを拠点にして北タイのモチ稲のことを調査する予定だ。場長室の横 一サンパトンの一年から
かであったのだろうか。トーンへの鎮魂の思いを抜きにしては、この章を書き進められないことを 残念に、また悲しく思う。 ポットに稲を植えた直後から、皮肉なもので雨がやってきた。二、三日、沛然とした降雨があっ しろ たあとで溜池に水が満ち、試験場の水田で犂起しにつづいて田植えが一斉に始まった。犂起しゃ代 かきをする農夫が腰にビニール袋を下げているのに気がつく。土のなかからいろいろの幼虫が出て くると、犂をあっかう手を休めて大事そうにつまみ上げている。貴重なたんばく源だということだ が、その後、知人の家で何回かこの虫のペーストのような料理をすすめられたことがある。最後ま で私は敬遠して箸をつけなかった。 雨が降り始める以前のことだったが、日本のある製薬会社の人が、場長に除草剤の薬効試験を依 頼しにきていた。いくばくかの委託研究費のようなものが試験場に入ったはずだ。研究費の乏しい 試験場にとっては、これも大事な財源である。その後、たしかに小さな圃場に除草剤が散布された が、数日すると、他の水田と同じように、 一列にならんだ農夫たちが田面を足で踏み始めている。 この近隣の農家でも同じであるが、試験場の除草は手取りでなく、足で踏み込む方法がふつうであ る。畦に置いたポータブル・ラジオからは流行歌がポリュームいつばいに流れ、そのリズムに合わ せるようにして土のなかに雑草が踏みこまれる。なかなか能率的である。いずれにしても、除草剤 の試験は本気で取り組まれている様子ではない。委託された除草剤の試験に、どんな報告が書かれ たかは知らないが、農夫さんたちの虫を集める余祿と、田圃のなかのいろいろな昆虫や魚の小さな 生命のことを考えると、ここには除草剤などはまったく無用であると思った。 すきおこ
Ⅱモチ米に執着する文化 ここで特につけ加えることもないだろう ( G 、ミ 0 Rice ぎ ~ ミ斗 e T ト University Press 0f Hawaii, 1967 ) 。 この一連の試験で、生育経過を丹念に計測するのはトーンの役割であった。トーン・マイチャイ が彼の本名で、試験場に着任した次の日から、私の助手として働いている一九歳の青年である。私 は彼に日当一〇バーツ ( 当時のレートで約二〇〇円 ) を払う契約だが、この試験場のおおかたの農夫 ーツ、農夫頭で一三バーツだったから、 さんの日当が八バ トーンは半月くらい 一〇バーツはわるい給料ではない。 の間に、調査に必要な用語、たとえばプンゲッ ( 分蘗 ) ン 一とかクサタケ ( 草丈 ) などの日本語を覚え、また簡単な と用向きは日本語で通ずるようになっていた。この怜悧な 水若者の存在が、どんなに私の仕事を助けてくれたか知れ 場ない。チェンマイ郊外の農業専門学校へ入るのが彼の希 望だったが、貧乏だからどうなるかわからないと寂しそ ン うな顔をすることもあった。 Ä後日のことになる。私が日本へ帰国してから半年後、 サ まったく思いがけずにトーンの急な訃報に接することに なった。彼の死を伝えた主任技師のウタイさんからの手 紙には、「悪性の病気」によるとあったが、赤痢かなに
問した。日頃考えてきたタイ国における稲の歴史について、特にその変遷の過程についての疑問を 述べ、次回に機会があればその調査を行いたい旨を伝えた。私の説明を、サラ博士は興味深そうに 聞いてくれた上で、残念ながらわが農業省にはそうした問題について関心をもつ人もいないし資料 もないが、時間の余裕があれば帰国前に美術局を訪ねて、いろいろと相談するようにと紹介状を書 いてくれる。タイの美術局はこの国の考古学的調査や研究を統括しており、その分野の雑誌である 翌朝、さっそくに国立博物館の一隅に同居する美術局を訪ねた。タイで行われた考古学的調査、 特に出土米の事例について資料があればと依頼する。しかし、この国の古い稲作のことを窺うに足 るような調査事例は皆無という。ニールセンらのサイヨークでの調査は終了しているはずだが、ま だ報告書は出ていなかったし、ゴールマンやソールハイムの発掘もまだ始まっていない時代だ。ま して、その後にタイ国を代表する古代遺跡として著名になったバンチェンについては、その遺跡の 所在さえもまだ問題にされていない時代であった。収穫はなにもなかった。 文 る す「古煉瓦のなかの稲籾」のアイテアを得る 執 サンパトンに戻る前に、アユタヤ郊外のハントラの稲作試験場を訪ねて、場長のキエンさんに別 チれの挨拶をすることにする。ハントラの試験場はこの国では唯一、浮稲をおもな対象にする試験場 モ である。二年前の予備調査の折も私はここに長く滞在して、この珍しい稲の生育経過などについて 勉強した。その後も、アユタヤへ出かけるたびに、試験場のゲスト・ハウスを常宿のように使わせ 「シンラバコン」の発行元でもある。 101
Ⅱモチ米に執着する文化 に研究室が与えられている。チ ] ク材の大きな机と、助手のトーンが使う小さな机と、北タイ各地 からいままでに集め終わった七〇にちかい水稲や陸稲品種のサンプルが雑然と置かれている。圃場 のぎ に出ていない時間、トーンはもつばら稲籾の長さや芒の長さなどをキャリバーを使って計測し始め ている。午後になると西日が入りこむのがやや難点だが、静かだし風通しもよい快適な室だ。着任 してから二週間ほどは、日本人が何をしているのか興味深かったのであろう、試験場の農夫さんや 近所の子どもたちまでが、とき どき足音をしのばせて室を覗き ン 0 にきたものだが、近頃はそれも なくなった。事務室のふたりの お嬢さんが、タイ女性特有のに こやかな微笑とともに、ときど ヤク きお茶を運んでくれるだけにな っている。この試験場に来てか らすでに二か月が過ぎようとし ているが、北タイで現地調査を 行うことをきめてから数えれば、 すでに半年あまりもたっている。 この年に京都大学に東南アジ ラ 0 ファーン 0 ナー員 サンヾトンチェンマイ ラムノ←ン、 メーサリアン ビエンチャン ・ノ十 ャタ シャム湾 タイ略図
モチ米に執着する文化 : 一サンパトンの一年から : ・ 7 サンパトン稲作試験場にて : 2 モチ稲から稲起源論へ : 二シャン州とカチン州の短い日々 7 インレー湖畔の調査から : ・ 2 ミッチーナーの滞在・・ Ⅲインド亜大陸の稲作 : 一インドは稲作文化圏か・ : 7 ガンジス川流域の調査 : ・ 2 東経八〇度ーー稲作圏の限界 一一セイロン島の稲作ーーー大陸と島の交錯 : ・ ノスリランカへの四度目の調査 ヘーナと踏耕のこと : 128 128 127 107 107 152
のほうが心に響くことが多かったように思う。孤独の夜は、唐詩の抒情よりも歴史のスペクタクル のほうが確かで素直な眠りを約束してくれた。当時、チェンマイに生活する日本人は二、三名にす ぎなかったが、そのひとりであった大山平八郎氏宅の書棚に、偶然に『パリ燃ゅ』を見つけて、こ れも暗い電灯の下で何日もかかって読み終えた。余談になるが、『鞍馬天狗』の著者とだけ思いこ んでいたこの作家の作品の感銘は尾をひいて、帰国後に何冊本かの選集を購読してみたが、『パリ 燃ゅ』ほどの感動は他の作品からは受けることがなかった。 北タイの夜空を焦がしたイケヤ・セキ彗星 当時の日記で確かめてみると、一〇月の一一日に、北東の風が初めて吹いた。そろそろ雨季も終 わりに近づいてきたらしい。そして村の祭りのシーズンとなる。一一月中旬から始まる稲の収穫ま ではまったくの農閑期で、試験場の農夫さんたちも所在なさそうにしている時間が長い。農夫頭の サマイさんは、すこし日本語が喋れる。こんな小さな村にも戦時中、日本軍が一小隊ほど駐留して いた期間があったのだという。サマイさんの日本語はそのときに覚えたもので、一人称を「自分」 というほかにも、軍隊調が残る日本語である。しかし、サマイさんが私の室で油を売っていたのも わずかな期間で、早生の品種から稲刈りが始まった。そして、私の任期も終わりの日が近づいてき た。調査のとりまとめ、資料の整理に、トーンと一緒に試験場に泊りこむ夜もふえてきた。一一月 の末にもなると、サンパトンの夜は冷えて、仕事を終えて村の宿舎まで帰る途中はジャンパ に。歩けなかった。そんなある夜半、「イケヤ・セキ彗星」が東から西へ長い尾を描きながら輝い
っと詳しいことを知りたい。 水陸兼用種の普遍的分布 農業試験場に立ち寄ってみる。現在も栽培されている在来品種のなかにいろいろと珍しい種類が ある。たとえば、モチ種とウルチ種との中間品種というのがいくつかある。特殊な調理上の用途が あって、いまも栽培されているという。かって東南アジア、中国および日本の品種を使って、胚乳 でんぶんのアミロースとアミロペクチンの比率をくらべたことがある。私の学位論文のなかの一部 となった実験であった。そのなかにはモチとウルチの中間という材料は含まれていなかった。珍し いので何粒かの玄米をいただくことにする。また、現地語でコノロル (khonorolu) といわれる品種 群は水陸兼用種のことだ。焼畑にも水田にも共通して栽培される種類で、この地帯に広く栽培され ている。三年前にアッサム農科大学の試験農場を訪ねた折に、この品種群のコレクションに接して いる。アッサム地方一帯にこうした品種がたくさん分布していることに私は特に注目した。ラオス や北タイでもこの種の品種が栽培されていることを承知していたが、これほどに普遍的ではない。 索 後に、しばしば私はこれを「水陸未分化稲」と呼んで、栽培稲の起源にまつわってその重要性を 源指摘することになった。そのことの契機が二度のアッサム調査にあるといえる。 作メガラヤ丘陵の畑作では、今日では陸稲よりもジャガイモのほうが広く栽培されている。その栽 稲 培の方法も興味深かった。上に述べたかっての焼畑農耕の残像あるいはその末期的変形とでも形容 すべき姿を、そのプロセスのなかに見出せるのである。このことについては、別の拙稿に次のよう