一か月間というのはいかにも短すぎる力し 、ゝ、 ) まは文句などいってはおられない。さっそくに礼状 を出してはみたが、問題は経費であった。いっ許可が下りるかわからない段階で、予め文部省に海 外学術調査補助金 ( 科学研究費 ) を申請しておくわけにはいかない。そして、本年度の申請はとっ くに締め切られていて、審査も終了している。早い調査隊はそろそろ出発する頃だ。ビルマ調査の 実現に心配していただいていた岩村忍先生とご一緒に、文部省の研究助成課に出向く。ビルマから の正式な調査承諾書を入手することがきわめて難しい事情を岩村先生からも口添えしていただいた おかげで、どうにか特別の配慮が得られそうになった ( 当時の研究助成課長は埼玉大学の手塚晃教授で あった。最近、私は文部省の科学官室において手塚教授と同席することが多いが、手塚さんは当時のことを 記憶しておられるだろうか ) 。 同行する「協力者」には農学部助手の田中耕司君を選ぶ。その後、田中君は私とともに東南アジ ア研究センターに移って、いまでは海外調査のべテランの域に近づいているが、このビルマ行きが 彼の最初の海外調査歴となった。 とりあえず必 準備期間は半年しかない。本格的にビルマの考古学や歴史を勉強する時間もない。 要なことは、どこに、 ) しつ頃に建造された煉瓦の建物があるのか、それをもっとも古い時代から系 統的に採集するにはどうしたらよいのか、それにはどういう経路で旅行したらもっとも効率的なの カ など、きわめて即物的な問題の解決が必要である。許された調査期間が一か月だから、慢然 と調査していることができないのである。ビルマ考古局のオン・トウ局長などに手紙を出していろ いろと質問するのだが、返事は届かない。その後の経験までを含めていうことになるが、当時のビ
っても完全な休養日をとることにする。一日寝ていてもよいし、野帳の整理をしてもよく、とにか く休日の効用は長期の調査行においては予想外に大きい 私たちの海外学術調査の経費は、文部省の科学研究費によって支出される。国費であるから、贅 沢はもちろん論外のことで、最低限の支出ですぐれた調査結果をうることが前提である。大学の教 師というのは一般に当面の研究に貪欲であるから、国内での連絡旅費や現地でのホテル代を節約し ても、それを調査の直接経費に回すことを考えがちで、ついつい上記のような配慮を怠るケースも あったようだ。このことは決して得策ではない。 調査計画といくつかの成果 前置きが長くなりすぎた。旅行に出発しなければならないが、出発準備のために一週間をカルカ ッタ、カタック、。 テリーでの下交渉に忙しく過ごす。到着した次の夜が、ちょうどカリ・プチャの 祭りであった。この祭りは月のない闇夜を選んで行われ、夜おそくまで花火や爆竹の音が町中にひ びき、日頃、外を出歩くことの少ないインドの女性たちも着飾ってマイダンの公園に集まってくる。 の 真夜中までの騒音と蒸し暑さのなかで、インドに来ていることを実感させられる。 陸 亜あとの便で秋浜片山、黒田の三氏がカルカッタに到着するのを待って、いよいよ調査行にかか ンることになる。秋浜、利光の両名は主として中央インドからデカン高原を回り、後の三名はガンジ ィー ス川流域を調査し、やがて黒田君はネパールへ、片山さんと私はアッサムへ入る予定だ ( しかし、 Ⅲ アッサム行が不可能になった経緯については前述したとおりである ) 。二か月後に五名が再びマドラスで 131
戦火の拡大でアッサム行を断念 カルカッタに戻って、さっそくに総領事館に出向く。「戦争は東の国境でも拡大の方向にある。 在留邦人の引き揚げも考えているから、このさいはアッサム行をあきらめてほしい」ということで ある。領事部の伊藤書記官は、私が数年前まで勤めていた京都府立大学の出身という間柄もあって、 今回の調査にいろいろと配慮をしていただいている。これ以上の迷惑はかけたくないが、すでにア ッサムへ行く飛行機の予約も済んでいる。明後日には、予定どおりならばガウハーティに着いてい るはずだ。 総領事館からの帰途に、アッサム・オフィスに寄る。すでに顔なじみになっていた役人氏は「こ れ以上戦争がはげしくなったら、民間機は飛ばなくなるだろうが、そうなったら日本領事館に電話 して軍用機でアッサムから戻れるように交渉したらよい。万一、あなたたちがパキスタン軍につか まっても、日本とパキスタンの関係は悪くないから、殺されるようなことはないだろう」という。 諧謔のつもりかもしれないが、ここ数年間もアッサム行を真剣に考えつづけてきた私には、彼の言 葉に笑顔で応える余裕はなかった。結局、アッサムの調査を断念する決心をした。 海外調査隊のチーム・リー ダーは、こういうときにいちばん悩むものではないだろうか。私と同 じように、今回のアッサム行、特にアッサムの野生稲調査に期待をかけてきた片山忠夫さんの落胆 を思うと心苦しい。しかし、海外調査は全員が無事に帰国することを前提として行動することが鉄 則だ。この規範をいままでも犯したことはない。今回も例外とするわけには ) ゝ し力ないと思い直す。 片山さんと一緒のアッサム調査が実現するのは、それから七年後、一九七八年まで待っことにな
が、これだけで稲起源の諸問題を結論的に述べるとしたら、一知半解の謗りをまぬがれまい 概して、雲南のことがあまりにも情緒的に論じられることが多すぎるようだ。雲南はたしかに未 知の部分が多く、興味深い地域である。それであるが故に、ここの調査にはアジア全体の視野から する冷静な科学的態度が強く要請されるべきであろう。この雲南調査の報告書 ( 佐々木高明 ( 編 ) 『雲南の照葉樹のもとで』日本放送出版協会、一九八四 ) のなかで、私は次のように述べて、自戒ともし 本人の意図とはまったく関係ないとはいえ、雲南プームに若干の責任のようなものを感じる につけ、この地域の調査を冷静に行うことの必要をとくに強調しておきたいと思う。雲南の稲 の問題は、今後、長期間にわたる調査の対象として十分な内容を持っことに間違いない。性急 な結論よりも、着実な事実確認のつみかさねが必要であろう。今回の調査行から、第一に指摘 したいのはこの点である。 2 西双版納に立っ 昆明で受けたきびしい制限 雲南における調査の具体的なスケジュールは北京ではきまらなかった。すべては昆明における私 たちの受けいれの窓口になる雲南省民族事務委員会との交渉にまっことになる。当初私たちに認め られたのはわずか五日間の西双版納、しかも州都である景洪滞在にかぎるという話であった。佐々
私の調査行が始まった頃にくらべると、海外調査に従事する研究者の数は飛躍的に増加したし、 国の内外ともに調査の体制も、相互のコミュニケーションも格段に進んだ。私の行ってきたような 泥臭い調査はいまははやらない。もっとスマートに効率のよい調査が行われていて、私の往年の記 録などはあまり参考になるまいかとも思われる。しかし、熱帯アジア全般に、稲作にまつわる諸般 の事情が、年々に移りかわりつつある。二〇年前に、あるいはわずか一〇年前に見られた現象で、 いまは失われつつあるもの、すっかり失われてしまった部分もある。個人的な備忘録のような内容 をいまのうちに書きとめておくことも、稲作文化の基層の理解のためにあながち無用ではあるまい と考えて筆を進めた。 本書の執筆は、前著『稲の道』以来の縁で、日本放送出版協会第一図書編集部の道川文夫さんか ら続編の執筆を奨められたことが契機になっている。いまから四年前のことである。道川さんは、 私の還暦記念の出版として慫慂されたのであるが、還暦はとっくにすぎて、いま、私は京都大学の 定年退官の日を二か月後にむかえることになった。本書を、あらためて定年退官の記念として上梓 させていただくことによって、道川さんとの約束を果たしたことにしたい。 本稿を執筆しながら、たびたびの調査に同行されて苦楽をともにした多くの友人や後輩の助力に、 あらためて感謝したい気持がつねに念頭を去らなかった。現地でさまざまな援助をいただいた人た きちにも同様であった。いちいちお名前をあげないが、いずれにしても、こうしたおおぜいの方たち との協力なしには、調査の成果も今日のような形にはならなかったであろう。また、頻繁に海外出張 あ に出かけることは、当然のことながら、国内に残る同僚や関係者にいろいろと迷惑や余分の負担を 219
る。そのとき、片山さんに対する長い借りをやっと返せたと思った。 2 予備調査から カトマンズでアッサムを想う 四年を経過して、一九七五年の同じ一〇月下旬、私は久しぶりにダムダム空港に降り立って、カ ルカッタ独特の空気の匂いをかいだ 今回の調査行は、東京外国語大学アジア・アフリカ一一一一口語文化研究所の飯島茂さんを隊長とするネ パール調査に私と鳥越洋一君 ( 当時・京都大学農学部 ) が京都から加わった。私は飯島さんに頼んで、 ネパールからの帰途にアッサムの予備調査をすることを計画書に加えてもらうことにした。短い日 数でもアッサムの雰囲気をつかむことが論文をまとめる上に必要な段階にきていたのである。 アッサムとメガラヤ両州のほかに、トリプラとナーガランドの両州にも申請を出すことにする。 、ヾールへ入る前にカルカ 前回の経験から、後の二州から返事が届くのには約一か月かかるから、、イノ 索 探ッタで申請だけを済ませておく必要がある、イノ 。、ヾールの調査はちょうど一か月だから、予定どおり 源ゆけば一二月初旬にはアッサムに入れるはずである。 作今回のアッサム調査には、西べンガル州農業試験場のビスワス博士も同行する。彼からはすでに 稲 承諾の手紙を受けとっている。東京大学農学部の松尾孝嶺先生門下であるこの育種学者とは、私が 一〇年前に初めてインドに来て以来の知己である。もっとも、彼もアッサムへは行ったことがない。
か誇ってもよいのではないかと思う。たとえば、秋浜さんと片山さんの野生稲の綿密な調査は、イ ンドにおける野生稲分布に関するおそらく世界でもっとも広汎で正確な記録として残った。私の仕 事のうちでは、ガンジス北岸の段丘地帯に分布するきわめて古い遺跡群の煉瓦のなかに、明らかに ジャポニカと判定できる種類を数多く発見したことである。このことは、アジアにおける栽培稲の 成立や伝播の経路についてのその後の研究に、きわめて有効な示唆を提供したものだ。 サンチ・ニケタン、「哲学の町」 それとともに、この旅行の日々のしんどさを正直に語っておかねばなるまい。インド農村を広く 調査して回るような計画には、現地に共同研究者を求めて同行するのが常識だと思う。事実、その 後の各地での私の調査はそのスタイルをとることが多かった。もちろん今回の調査にもそれを考え なかったわけではない。前もってインド農業省や中央稲研究所あてに、私たちの調査目的を知らせ るとともに共同研究者の推薦の依頼をしていた。しかし、私が意図した古煉瓦の採集のことは、私 作 の手紙の文章が意を尽くしていなかったきらいもあるが、どうも十分に理解してもらえなかったよ 稲 の うで、適任の共同研究者はついに推薦されなかった。これも考えてみれば無理からぬことかも知れ 陸 亜ない。成果の期待が不分明な調査行に、三か月ちかくも同行する研究者がいないとしても不思議で はない。私が逆の立場に置かれたとしても固辞したに違いない。 ン イ 結局、私たちはデリー農業省のパル博士の紹介状と地図を頼りにして長途の旅行に踏み切らざる をえなかった。私たちの車のドライバーのクマールはケーララ州の出身で、私たちと同様にガンジ 133
レー周辺にくりかえされたいくつかの王朝や土侯の盛衰興亡の夢の跡だ」 ( 『稲の道』 ) 。私たちの調 査はこれらの中世遺跡を主体にしたが、その結果の大要についてはすでに前著に紹介した。ここで は、もっと古い時代の二つの遺跡の調査のことに触れておこう。 ラングーン考古局のオン・トウ博士がぜひにとすすめてくれたのが、前述したタウントマン・サ イトである。マンダレー南郊 ( アマラブーラの村を通りすぎて、イラワジ川支流の自然堤防に遺跡 がある。イラワジ川の洪水によって川岸が削られた後に発見されたものだ。多数の人骨、石斧、装 飾具などが出土したが、そこに煉瓦の小塊が散乱している。おもな出土品は考古局に集められてい るが、まだ完全に発掘は終わっていないらしい この遺跡の年代について、考古局は前一世紀から二世紀の「新石器時代」としているが、この同 定についてはユネスコなどの外国人学者の間には異論があって、もっと新しいとする。マウン・マ ウン・ティンさんは逆にもっと古い時代の遺跡と考えているようだが、いずれにしても今後の精査 が必要なようである。そういう事情があって、残念ながら私たちはここの煉瓦に含まれていた籾を 調査報告書においては対象外とした。年代が判然としないからだが、ちなみにいえば九〇パーセン ト以上の稲籾は明らかにラウンド・タイプ、すなわちジャポニカと考えて間違いのない種類であっ 遺跡の年代についてマウン・マウン・ティンさんと考古局との間で意見を異にしていることを述 べたが、発掘方法についても考古局のやり方に批判的なところがあるようだ。マンダレー考古局の じゅんじゅん セイン・マウン・オオさんに対しても、諄々と自説を展開して譲らない場に居合わせたことがある。
あ - とがき 初めて熱帯アジアの土を踏んだのが一九六三年、いまから二四年も前のことになる。以来、調査 や会議のために諸外国に出かけた回数は、今回初めて正確にかぞえてみたところ、長短をまじえて 三〇回あまりになる。近年になって中国や欧米への出張が加わったが、その大部分は東南アジアと インド亜大陸にかぎられていた。 これらの海外調査の大部分は、アジア稲作の起源と伝播を追うことを主目的としていた。あれこ れと残した課題はあるにしても、この仕事の一応のとりまとめは『稲の道』 ( 日本放送出版協会、一 九七七 ) や『アジア稲作の系譜』 ( 法政大学出版局、一九八一一 l) として、すでに刊行してきた。したが って、本書ではそのことにはほとんど正面からは触れないでいる。 本書は、こうした調査行の過程で私が感得し、あるいは考えたアジアの稲作文化周辺のいくつか の問題を、紀行文風のスケッチに託して叙述してみたものである。調査の日々の足跡、その途中に おける多くの挫折と些少の「発見」なども加えて、きわめて個人的な記録が主体である。その意味 で、アジアの稲作に対面しての私の「心象風景」とでもいった部分が多い内容である。もつばらア ジアと述べたが、例外的にⅣ章の一部にアメリカの稲作のことに触れた ( 「アメリカの稲ーーシンデ レラ・クロップ」 ) 。しかし、ここにおいても、私の思考の焦点が実は太平洋を越えてアジアに向け られていることを、お読みいただければわかるであろう。 218
ことになる。ここから眺めると、シルヘット一帯はまさに水甕のようだ。すでに乾季のはずなのに 広大な水溜まりが光を反射している。焼畑の土の上に育っ稲とはまったく別の形をした、浮稲のよ うな稲が育っているに違いない。 ひとりの男が水タバコを吸いながら、黙然とこの雄大な風景に背を向けていた。風景に似つかわ しい雄々しい顔だちである。何族の人なのであろうか。その近くの岩の上に座って、私たちもしば らく休むことにする。 アッサムの調査を計画し始めてからの長い年月のことが回想されてくる。そして、ともに不十分 だった二回の調査のこともだ。短い日数の割にしては、私がそこから得たものは少なくはないが、 もっと調査したいことがたくさん残った。もういちど、アッサムの調査を期待したいが、まだかな り遠い将来のことになるであろう。明後日から、私たちはアッサム農科大学を再訪して、プラマプ トラ河畔の野生稲や栽培稲の調査にあたることになっている。しかし、残された日数はわずか四、 五日だ。未完の旅のページを閉じる日が迫っていた。 がめ