二人 - みる会図書館


検索対象: 自分史の書き方
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1. 自分史の書き方

第 3 章なにを書くべきか たのである。 昭和菊 ( 1970 ) 年、二人は大学に近い三軒茶屋に引っ越した。 はじめは二人で仕事をしてその稼ぎで生きていくつもりだったが、どんな仕事も身に付 かず、二人は結局、親からの仕送りが頼りの同棲生活を続けることになった。 二人がそれぞれにアルバイトを探して働こうとした試みは次のように記録されている。 私とシンちゃんはそれぞれにバイトを探した。 新宿歌舞伎町にあった「マイアミ」という喫茶店に面接に行くと、頭の禿げた小太りの 嫌らしい感じのオ 1 ナ 1 が私を見て、「君はまずドアガ 1 ルからやってもらおう」と言っ お客が来るたびに重いドアを開け、お辞儀をし「いらっしゃいませ ! 」 1 時間ほどやったが、なんだかアホらしくなって辞めて帰ってきた。 次は新宿の富久町にある小料理屋の面接。小脇に抱えていた、羽仁五郎の『都市の論 とても ! 」「そう、じゃあ、 理』という本をチラリと見て「その本、面白い ? 」「はい ~ せ 0 かくだけど、他を探して」と即、断られた。 273

2. 自分史の書き方

第 3 章なにを書くべきか : : : うん 。今日はもう遅いので明日話す」とお父さんは問い詰める私を遮るよう に寝室のドアを閉めた。 ( 略 ) 朝をひたすら待った。やっと夜が明けお父さんに訳を聞いた 「実は : : : 信一はある女の部屋にいた。捜索願いを受けた警察官が見つけたのだ。信一に 昨夜会って話をしたのだが、どうしても帰らないと言うのだ」 その女の人とは、いろいろなところへ二人で出かけ、町中の人が知っている事であり、 知らないのは玉置家と雨宮家と私だけだった。 警察官さえ知っていて、捜索願いが出て真っ先に探しに行ったところが彼女のアパ 1 ト だったそ、フた。 シンちゃんに会わせてくれと毎日頼むが、どうしても会わせてくれない。 1 週間すぎた 頃、雨宮さんは思いあまって、彼女のアパートにいるシンちゃんを訪ねた。 ドアを開け部屋に入ると、二人で食べかけのお鍋のあとがそのまま小さなテープルの上 ・ : 会わなくても、何も聞かなくてもそれだけで充分すぎるほど、今の「二人」が見え るよ - フだった。 さえぎ 281

3. 自分史の書き方

しかし、それから間もなく二人は、申し合わせてもう一度駆け落ちをした。今度は京都 へ向かった ( 東京にいるとまた見つかって連れ戻されると考えたからで、京都は単なる思い付 きの行き先。京都が好きだったから目指したのではなかった ) 。 結局、京都には二泊ぐらいして、東京に戻り、一一人で住む家を探した。 私の大学のある地下鉄丸ノ内線、中野坂上駅から近い青梅街道の陸橋のそばにある部屋 に決めた。 その部屋は床がフロ 1 リングで縦長のワンル 1 ム。 真ん中にシ 1 ツをぶら下げて二部屋に仕切り、台所側をシンちゃんのク部屋気トイレ 側を私のク部屋にし、奇妙な同棲生活を開始した。 玉置も雨宮も、「もうわかった ! 二人で住んでいいから、とにかく大学だけは行って くれ」という条件で私たちを連れ戻す事を諦め、大学だけは行くという約東で「家出ーが 認められた ( ) 。 それはまったく奇妙な同棲生活だった。 親公認の同棲で、しかも間にシ 1 ツをぶら下げて、身体の関係なしのままの生活を続け 272

4. 自分史の書き方

ぐにトンボ帰りして大学生に戻った。そしてそれから 3 カ月後に長男・眞クンが生まれ お産は東京でした。玉置の母と雨宮の母の両方が上京してくれて、お産を助けてくれ た。玉置の母は 2 週間、雨宮さんの母は 2 カ月間もいてなにかと面倒を見てくれた。 母も帰り、シンちゃんと長男眞君と 3 人での生活が始ま「た。 大学 2 年生のシンちゃんはいつも朝まで本を読んでいて、マコの夜中の授乳、おむつ交 換などすべてしてくれた。 毎朝私は、「今日も眞君は夜中に起きず、ぐっすり眠れた ! 」と言い でも、よく見 るとおむつか、ハケツにいつまい、 母乳が売るほど出ていた私のおつばいを右・左と両方マ ~ コに飲ませていたのはシンちゃんだ 0 たのだ。 あとから考えると、この間のシンちゃんと、赤ん坊の眞クンと、雨宮さんが親子 3 人で 過ごせた東京での 3 年間が雨宮さんにとって生涯もっとも幸せに過ごせた日々だったのか もしれない。しかし、その幸せが続いたのも、シンちゃんが大学を卒業するまでで、それ が終わると、親との約東どおり、二人は@町に帰らねばならなかった。 ま : 」 AJ 278

5. 自分史の書き方

第 3 章なにを書くべきか 今でも忘れられないこんな書き出しの長い別れの手紙を書いた。 二人の子供の父親にではなく、私にとっての心のシンちゃんに自分の赤裸々な思いを書 彼女との事実がクきっかけではあった。 しかし今ようやく長い長い一人の孤独な時間に耐え、自らの意志で自らが選んだ離婚に 同意ができる。愛しているから離婚ができる。手紙を書きながら嘘もなくそう思った。 始まりの一行しか思い出せない手紙だが、とても満たされた思いで書き終えた事を覚え シンちゃんが離婚を求めてきたのは、私への誠実さではなかったろうか 毎日嘘をつきながら、自分と私をだましながら生活していくことができなかったか 男の人には二通りあるのだと思う。 妻や子供を捨てられる男と捨てられない男と。 シンちゃんは捨てられる男で、私はそういう人を好きになったのだ。 293

6. 自分史の書き方

思い出に変わるまで シンちゃんが市でタクシ 1 の運転手をしている事を聞いた。 離婚する前に、どうしてもシンちゃんと二人で話がしたく、マコと宏の顔を見せたく、 一一人を連れ、夜行列車で市へ会いに行った。 私たち親子は、時間の許す限りシンちゃんの運転するタクシ 1 に乗り、市街をぐるぐ る廻った。 シンちゃんに迷惑をかけぬように、会社にバレないように、タクシ 1 のメーターを回 し、代金も払った。 1 日乗って 3 万円ぐらいだった。 うれしかった。楽しかった。何を話したのか忘れてしまったが、 周りのすべてから遊離 した、シンちゃんと私とマコと宏の「普通 . の時間だった。 マコもうれしそうだった。宏はまだ何もわからない赤ちゃんだったがニコニコしてい た。二人ともシンちゃんと良く似ていた。そう感じた。 294

7. 自分史の書き方

第 3 章なにを書くべきか 4 人の調停委員さんがいて、一人の方が聞いた。 「あなたたち、本当にこれでいいの ? 別れていいの ? 」 久しぶりに再会したシンちゃんと私、不思議な程に自然な笑顔で軽く会釈をし、シンち ゃんが引いてくれた椅子に座り : : : 調停委員がこれでよいのかと確認したくなるほど、何 気ない二人の姿だったのだろうか。 シンちゃんと別れて何年か過ぎたころ、「歳ーになったら、死ぬ前に一度だけシンち ゃんと二人きりで会ってみたいと思っていた。 昔の親友にでも会うみたいに。 今はこのまま会わずに死んでいこうと思 歳を通り過ぎ、もうすぐ歳になる私だが、 っている。 あらカ 深い意味はない。人生の流れに抗うことをしてはいけない気がしただけだ。 会う時がくれば会うだろうし、会う必要がなければ会わずに死んでゆくだけの事。そう 田 5 , フ いま雨宮さんはその歳をはるかに過ぎているが、彼女は、こんな自分史の最後をこう 閉じている。 297

8. 自分史の書き方

第 3 章なにを書くべきか 当に、つまくいくのかしらと心配したとい、つ この頃、組合の活動家でもあった大塚さんは熱心に育児休業法の制定に向けて取り組ん でいた。 結婚しても、迷うことなく仕事は続けていた。 その頃、組合では、働きやすい職場をということで、条件整備の運動を取り上げてい 「育児休業法を」「勤務時間の短縮」「学級の人数を減らそう」などである。 育児休業法が、まさに国会に提案されようとしていた。組合を通して職場にきていた署 名用紙「育児休業法の制定をーを持って、色々な知り合いに署名を頼んでまわった。ま ず、職場の人。ご近所の方。日曜日に会う友達。そして、お使いに行ったお店の人にま で、書いてもらうように頼んだ。国会両院議長へのはがきでの要請行動もあり、何枚、人 ~ に頼み、何枚自分で書いたことか。 育児休業法以前、産前産後休業は 658 週間で、加算休暇 2 週間を入れても、出産後 2 カ月半で職場に復帰しなければならなかった。子供を産んでも仕事を続けようとする先輩 たちは、おばあちゃんに子供の世話を頼むか、そのために人を雇うかするのが常だったと 211

9. 自分史の書き方

~ 入社式も無く、同日入社の 4 名は応接室、通されました。初日の予定は、午前中にガイ ダンス、午後は店舗回りと案内を受けていたのですが、そこに取締役秘書のさんが現れ 「これから千葉へ開店準備に行って下さい」と予定変更。そのまま全員千葉へ向かうこと になり - ました。 最寄りの市ヶ谷駅から総武線で 3 時間もかかって新店舗にたどりつくと、指示された仕 事は、商品を棚にならべること。レイアウト表を見ながら品物をならべても、立ち会いの 先輩社員から「商品が不ぞろい」などの叱責を受け、何度もやり直しをさせられた。結局 終わって家に帰り着いたのは午前 1 時すぎ。それからも、毎日店舗実習などの過重労働が 続き、はじめの 1 カ月間で、体重が 8 キロも減ったという。 徹底的に働いて日本を支えた団塊の世代 この頃、セプンーイレプンはその名のとおり、朝 7 時から夜Ⅱ時まで営業しており、関 さんが研修で配属された直営店 ( 当時は全国に数店舗、社員教育用としての直営店があった ) では、 2 人の社員と川人のパ 1 ト従業員で切りまわしていた。社員のほうは、 2 人が交代 交代で、午後 2 時からⅡ時までと、午前 7 時から午後 4 時までの勤務をこなしていた。し 152

10. 自分史の書き方

第 3 章なにを書くべきか が襲来してくる 学校に通「ているうち、私も妹も頭が痒いと言い出し母が良く見てみると、二人とも 虱がいた。縁側に二人並び、前にセルロイドの下敷きを持ち、母が梳き櫛で髪の毛をす くと、小さな虫が落ち、そのときの気持ち悪さは今でも覚えている。 結局、山崎さん母子は、昭和四年川月末日までここにいるのだが、その間母親は、自分 たちの生活をこまごまと日誌に書きつづり、それを日分ずつまとめて父に郵便で送り届 けていた。 その疎開日誌がきれいに保存されていて、それを引用しながら山崎さんの自分史は書き すすめられるが、それを読むと、当時日本全国でいろんな形で繰り広げられていた疎開生 活というものが、どういうものなのか、実によくわかる。疎開生活がよくわかるという以 上に、戦時中の庶民の日常生活がどのようなものであったかが、細かい生活データととも に実によくわかる。ところどころそれを引用してみる。 六月一日 一今日から日記を書いてお送りする事にしました。是によ 0 て私たち母子四人、其の日々 かゆ 175