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検索対象: 自分史の書き方
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1. 自分史の書き方

さて、せつかくだから、ここで、牛木さんがスチュワーデスになるまでを牛木さんの自 分史から少しだけ引用してみる。 牛木さんは、生まれは会津だったが、東京電力に勤めていたお父さんの転勤で、高校は 埼玉県の秩父だった。 、は、「女性でも経済的に自立できる力を付けなければならない」という考えを持ち私 を教育した。 この頃、私は『アテンションプリ 1 ズ』という番組の影響を受け、スチュワ 1 デス に憧れていた。ジャンポジェット ( ー 747 機材 ) が導入された時期で、森英恵さんデ ザインの当時流行であったミニスカ 1 トのワンピ 1 スの制服は話題になり、女の子が一度 は憧れる職業であった。しかし、父には、そんな夢みたいなことを言っているなと一蹴さ れ、父の考えとも合致する薬剤師を目指し大学を受験するが、失敗し浪人生活に入るので 浪人時代、池袋の予備校に 1 年間通った。 ~ 地方の山間部で育った私にとって、池袋は大都会であり、予備校の帰りに立ち寄る西武

2. 自分史の書き方

第 3 章なにを書くべきか だが、そうだとして、それはそれでいいではないか。 「人生の勝ち負け」を真に決めるもの 池田さんの自分史について、あと一つだけ述べておくと、彼女は人生について独特の考 えをもっている。それは「勝ち組ーより「負け組」のほうが、実は幸せなのではないかと いう考えである。彼女自身の文章を引用すると、こうだ。 最近になって周囲の友人を見渡して気づいたのは、いわゆるク負け組と言われる人た ちの中に、本当の意味で生活を充実させている人たちがいたことだ。彼らこそ一番のク勝 ち組だったのではないだろうか。彼らはとっくに勤めを辞めて、自分のやりたいことに 没頭している。生活は豊かではないが、その表情を見れば心が満たされているだろうこと は想像に難くない。 人の一生を一日に喩えるなら、私は現在、人生のピークである午後 0 時はすでに過ぎ、 午後三時ぐらいにいるだろう。 このまま働き続けようか、あるいはここらでひと息入れようか ? 夕暮れ時までは、ま 347

3. 自分史の書き方

やり方としては、誰かの上手に作られたクラスタ 1 マップから固有名詞部分を全部のぞ いて、構造的な縮約図のような形にしてしまうという手があると田 5 った。そういう考え方 から全員のクラスターマップをながめ直してみると、いちばん巧みに描かれたものが池田 さんのクラスターマップだった。 彼女は自分の作品を包括的に「引用不可」にしていたから、はじめはそれもあきらめて いた。しかし、この本の編集の最終段階になって、私は考えを変えた。彼女に直接交渉し て、重要な部分は可能なかぎり引用させてもらおうと思ったのである。それぐらい彼女の クラスターマップはわかりやすかった。 彼女のクラスターマップは、 3 2 053 21 ページの折り込みに構造的スケルトン ( 針 金模型図 ) の形で示してある。このようにすることで、具体的詳細な内容の提示は避けっ つ、そのもつ意味は一見してわかるようにできたと思っている。 池田さんは、このような「一見してわかる解説図面」を描くことに、たいへん優れた才 能をもっている。とりわけそのうちの①「家族関係」の家系図は実に見事な図面で、言葉 で聞いたのでは、内容があまりにコンガラガっていて、まるでわからない複雑なことが、 一目見てわかる図面に仕立てあげられている。 その図面については、解説なしではわかりにくいと思うので、また先で語ることにし 308

4. 自分史の書き方

とするなら、そのような「自分の人生を構成する一連の事象の流れ」を具体的につかむ ことにこそ、「自分の人生はなんだったのだーという問いへの答えがあると言うべきであ る。そして、よく考えてみればそれを具体的につかむためになにより必要なことは自分史 を書くことだ、とい、つことになるだろ、つ 別の言い方をするなら、「自分の人生がなんだったのかを知りたければ、『まず自分史を 書きなさい』」ということである。 自分史を書きながら、自分の人生のさまざまな岐路となった場面を思い起こす。そし て、その前後の状況を思い出しつつ、ああでもない、こうでもないと記憶を呼びさまし て、その前後のあれやこれやの記憶を芻してみる。 あのときの、人生の岐路に立って下した自分の決断、判断は正しかったのか。あるいは あのときの自分の行動・言動などがちがうものになっていたら、別の人生が展開する可能 性があったのか。そしてそのほうがよかったのか。それとも、よくよく考えれば、すべて 書 を はほとんど必然的に起きるべくして起きたことだ ? たのーか、などと考えをめぐらして、後 史 自悔の念で臍をかんだり、自分の人生に妙に納得したりするわけである。そのように思いを めぐらすことこそが、自分の人生はなんだったのかを考えることそのものになるわけだ。 め じ 先回りして言っておけば、こういう問いに対して、堂々めぐりの記憶の反芻をいくら続 ほぞ よんすう

5. 自分史の書き方

デパ 1 トやパルコは、刺激的であり魅力的であった。受験勉強よりその魅力にはまるのに 時間はかからなかった。池袋から次第に渋谷へと足が向いた。受験勉強は二の次になっ 翌年、再び薬科大学を受験するが、どの大学も合格に至らず、すべり止めに受験した短 大しか受からなかった。当然の結果ではあったが、夢に描いた薬剤師としての人生を諦め た。そして、ごく普通の短期大学の英文科に入学し、就職する道を選んだ。私にとって は、一つの挫折であった。この時点では、短大を卒業し、適当な企業に就職し一一、三年間 働き、そこでめぐり会った人と結婚し、家族ができ、人生を終えるのだろうと漠然と考え しかし、人生とは面白いものである。ひょんなことから高校時代に憧れたスチュワ 1 デ 一スの道が開くのである。 る スチュワ 1 デスへの道は、どう開いたのか。短大の二年生になって間もなく、就職活動 を 表 がはじまった。 年 の 分 自 ~ 人気の会社は、航空会社、商社、損保会社等であ 0 た。私は、その当時、初任給の一番 一高か 0 た某洋酒メ 1 カーを受験したが落ちた。人気の主要な会社の就職試験は、六月から

6. 自分史の書き方

般的な慣習あるいは法的原則に従うという人はとくになにもする必要もあるまいか、もし あなたが、 必ずしも一般的な慣習に従わず、なんらかのこだわりをもって「こうしたい」 「こうされたいーあるいは「こうされたくないー という積極的な望みがあるなら、きちん と書きものにしておいたほうかいし そういうものがあると、遺された人々が楽なのであ る。 もう一つ、書き残しておいてしかるべきものがあるとすれば、自分の生きてきた人生に ついて、あるいは自分の生きてきた時代についての所感のようなものということになろう か。歌心ある人なら、辞世の句にしてもよいだろう。所感というと、ちょっともったいぶ ったいい方になるから、単に「感慨ーといっても、 しいかもしれない。と / 、に一言、つべきこと がなかったら、「感慨無量なり , の一言でいいかもしれない。 これまで何人かの人が、自分史の「あとがきーにおいて、「あと何年かたったら、また 自分の来し方についての思いが変わるにちがいないだろうから、何年かしたら、もう一度 自分史を書き直すか、あるいは補遺のようなものを書いてみたいーと記していたが、それ ーしい考えだと思う。 人間は一生の間、思いが日々に変わる動物だから、「自分史ーを一度書いてそれをテキ スト上は完結させたとしても、思いかそこでストップするということはない。多分、人は ある日、なんらかの思いをはじめて、その思いがなかばにある状態で死んでいくのだろ 346

7. 自分史の書き方

戦、王将戦以外のタイトル戦を扱うとなれば、毎日だけの問題で済む話ではない。ど うしても日本将棋連盟の協力体制が不可欠の企画だ。私は、日本将棋連盟と各新聞社との 関係がそれぞれ微妙な事情を抱えていることは承知していた。最初に持ち込むところを間 違えると、この企画自体が成立しなくなる恐れがある。最終的に、その適任者として考え たのが、将棋界のご意見番でもある加藤治郎名誉九段だった。 加藤九段は、当時では珍しい大学卒の棋士で、しかも早大卒だったから柳沼さんの先輩 にあたる。加藤九段に相談すると、まずは、大山康晴・日本将棋連盟会長 ( 当時 ) のとこ ろに話をもっていけとい、つことだった。 大山会長には、八月に開かれた毎日新聞の名人戦のパ 1 ティの席上で企画を話したとこ ろ、「わかりました。いっからできますか」と、非常に好感触が得られた。後でわかった ことたが、 大山会長は即断即決主義で、しかもせつかちでもあった。 表 すぐに、大山会長が直接、毎日新聞社の山内社長に連絡をして打合せの段取りをしてく 年 分れたのも驚きだった。大山ー山内会談で、週刊将棋は翌年 ( 昭和五九年 ) 一月の創刊が決 章 第 143

8. 自分史の書き方

しかし、ある時期から考えを改めた。雨宮さんの自分史は、あまりに強烈な読ませるカ をもっていただけに、これを最後にもってくると、あたかも彼女の自分史をもって本全体 の締めくくりとするかのような印象を与えてしまう。それはちょっとちがうのではないか と思ったのである 雨宮さんの自分史は、一口に言えば、情念の書である。彼女の生きる力も、読ませるカ も、その情念から発している。しかし、情念のパワーは、人が本来もつ、生きる力の一部 でしかない。俗に人の心というか精神世界を構成する三大要素として知情意の 3 つがあげ られる。この 3 つがバランスよく発達をとげてはじめて、その人の精神は健全にはたらく ようになる。そのバランスが悪くなるとその人の精神のはたらきもどこか歪んだものにな る。三要素は誰の心の中にもあり、誰の心の中でも常日頃はたらいているが、そのバラン スは常に変動している 雨宮さんの場合は、普通の人よりそのバランスがかなり強く情のほうに傾いている。雨 宮さんの自分史を、全体のトメ的ポジションに置くと、あたかもこの本がそのような生き 方、そのようなものの考え方、感じ方を必要以上に推奨しているかのように受け取られか ねないと恐れたのである。 それに対して、池田さんの自分史には、そのような強い性格がむき出しにされた部分が ない。それでいて、強い自己主張はないが、強い人間存在を感じさせる。 304

9. 自分史の書き方

第 2 章自分の年表を作る 「それは流通業に対する志望動機だネ。私が聞いているのは当社、の志望動機だよ」 この辺で完全に頭は真っ白、「え 1 と、え 1 と、京王線の桜上水に住んでいまして、渋 谷はとても近いので : : : 」 「君は家の近所で働きたいのか ? 他に動機はないのかネ」 ここで他の面接官から「落ち着いて自分の思っていることをゆっくり話しなさい」と助 け舟のようなコメントが出た。しかしすでにこちらとしては大混乱しており、考えがまと まらない。 「えー、先輩が大手のダイエ 1 や西友より東光ストアの方が入り易いんじゃないかと言っ ていたもので」。支離滅裂の回答。 「君は当社が一一流だから入り易いと思って受けたのかネー しどろもどろの受験生とけんか腰の面接官。まるで警察の取り調べ室のような雰囲気の まま、私の面接は終わった。 後でわかるのだが会社側の質問の主は山本宗一一社長だった。山本宗一一氏は伊勢丹の基礎 を創り、「商売の神様と呼ばれた人で、東急グル 1 プの総帥、五島昇氏が三顧の礼をも ってグル 1 プへ迎え入れた名経営者であった。当時は東急百貨店副社長と東光ストアの社 長を兼務していた。 一面接終了後、五人の受験生は控室、戻 0 て会話を交わす。 107

10. 自分史の書き方

~ 周囲から見れば、私は無謀で過激な人間である。 ここにあるように、池田さんの人生の基本的なあり方は「全部ク行き当たりばった り乙だったのである。ただその結果として、なにがどうなろうと、それはそれで受け入 れてしまうというある種の思い切りのよさを含む「無謀で過激な」側面ももっていたが、 それゆえに知情意のバランスが妙にいいのである。 人間関係クラスターマップについて 彼女の自分史を紹介する前に、もう一言だけ述べておく。 実はこの人の自分史は、最終的に提出はされたものの、「外部発表不可」の条件がつい ていた ( 実はこの講義の内容を受講生の作品とともに書籍化するプランがある段階からあった ので、各人の作品について、「外部発表可ー「条件付き可」「不可ーをあらかじめ各生徒に尋ねて それをあえて、こちらからお願いする形で、一部加工した上で以下に示すような形で発 表に踏み切ってもらった。 お願いした理由はいくつかある。一つは、この人の描いた「人間関係クラスタ 1 マッ 306