育児休業 - みる会図書館


検索対象: 自分史の書き方
75件見つかりました。

1. 自分史の書き方

第 3 章なにを書くべきか 当に、つまくいくのかしらと心配したとい、つ この頃、組合の活動家でもあった大塚さんは熱心に育児休業法の制定に向けて取り組ん でいた。 結婚しても、迷うことなく仕事は続けていた。 その頃、組合では、働きやすい職場をということで、条件整備の運動を取り上げてい 「育児休業法を」「勤務時間の短縮」「学級の人数を減らそう」などである。 育児休業法が、まさに国会に提案されようとしていた。組合を通して職場にきていた署 名用紙「育児休業法の制定をーを持って、色々な知り合いに署名を頼んでまわった。ま ず、職場の人。ご近所の方。日曜日に会う友達。そして、お使いに行ったお店の人にま で、書いてもらうように頼んだ。国会両院議長へのはがきでの要請行動もあり、何枚、人 ~ に頼み、何枚自分で書いたことか。 育児休業法以前、産前産後休業は 658 週間で、加算休暇 2 週間を入れても、出産後 2 カ月半で職場に復帰しなければならなかった。子供を産んでも仕事を続けようとする先輩 たちは、おばあちゃんに子供の世話を頼むか、そのために人を雇うかするのが常だったと 211

2. 自分史の書き方

いう ( 当時保育園は数も少ないし、産休明けの 1 歳未満児はそもそも預かってくれなかった ) 。 しかし、結婚した翌年、教諭の育児休業が認められるようになり、無給だが、産後 1 年 間休むことができるよ、つになった。 ~ 次の年、わたしは長男・直人を出産し、 1 年間の育児休業を取 0 た。次の章では、育児 休業明けの子育てと仕事との綱渡りの日々を書くことになる。 一あれは、しんどい日々だ 0 たなあ。 この制度を利用して、 1 年後から自分の手で子育てと教職の仕事も両立させようと思っ たのである。しかし、それは言うは易く行うは難かった。 次の年の 4 月、自宅から通い易く、保育園が近いという条件を出して、小学校へ異 動した。近いといっても、自転車で分、バスで分ぐらいかかった。 学校と保育園がホンの 152 分のところだったから、子供を保育園に送り届けてから、 あわてて学校にかけこめばなんとかなるのではと思っていたが、微妙なタッチの差で、こ の両立がむずかしかった。 かた 212

3. 自分史の書き方

第 3 章なにを書くべきか ~ 今、思い返すと、この時代の学校の先生方は、みんな素直で率直で熱か 0 たのだ。言い 換えると、未成熟でもあったのだが 何年か経った後、校長先生になられた 0 先生にお会いしたことがある。 「 OZ 小時代は楽しかったですね」 と、おっしやっていた。 育児休業の権利を勝ち取る 女の人の自分史においては、就学、就職もさることながらなんといっても、結婚・出 産・育児というファミリ 1 ・メーキングが、人生の大きなステップになる。 いまでこそ女性の労働環境はめぐまれたものになり、働きながら結婚・出産・育児をす る人もかなりいるし、育児休暇をとることも普通 ( いまは父親もとれる ) になっている ~ てしまった。さすがにびつくりして、どうしようと思ったものだ。 しかし、そういう衝突事件も、いまは双方の側にとっていい思い出になっているとい 209

4. 自分史の書き方

大本営の大誤報・ 忘れてはならない「民族の歴史の核」・ ■サンプル 2 「埼玉版ニ十四の瞳」 大塚眞理子さんの自分史より 旧制師範学校戦後民主主義教育・ 先生一年生 : 「先生の先生ーに鍛えられる 育児休業の権利を勝ち取る・ 「お母さん先生ー大奮闘記 子供たちの優しさに助けられ・ ■サンプル 3 「全共闘・高度成長の時代を生き抜いて」 江渕繁男さんの自分史より 新宿騒乱事件の目撃者・ 立教大学の学園紛争・ ヘルメットからスーツへ 人生の重大な選択 企業精神に染め抜かれて・ 218 213 209 203 199 195 191 240 237 235 2 引 224 222 187 182

5. 自分史の書き方

ことぶき が、かっては、女の人は結婚すれば、仕事を辞める「寿退職ーが普通の慣行だった。結 婚をして勤め続けても、出産したら、子育てのためにも退職というのが普通だった。しか し大塚さんは、働きながら子供を二人産み、立派に育てあげたのである。 だが、その陰には、なみなみならぬ苦労があった。読んでいて、その大変さが伝わり、 よくぞここまでやれたなと感心する。なにしろその頃「育児休業ーなんていうものは存在 していなかったのだ。もっと正確にいえば、育児休業法は、大塚さんたちのような世代の 婦人労働者が作ったものなのだ。 話の順序として、その前に、結婚について述べておこう。 1974 年、歳で結婚。夫・研一とは、 OZ 小の仲間である先輩のお宅で知り合っ 仲間たちが、会費 2000 円で、《結婚を祝う会》を開いてくれた。招待状も、式次第 も、手作り。お酒は足りない人もいたけれど、花いつばいの会場で、歌ったり、おしゃべ りしたりの楽しい会だった。 夫・研一さんは、高校の英語の教員で、本を読むのが趣味というもの静かなタイプの男 性だった。大塚さんの母親などは、こんな人が、活発に動きまわるタイプのうちの娘と本 210

6. 自分史の書き方

昭和戦前期に山崎さんのお母さんが書き始めようとしていた自分史を、娘の山崎さんが、 その資料を受け継いで書き継ぐという形になったため、壮大な昭和庶民生活史を内に含む 形になった作例である。いい 自分史を書くためには、自分の周辺のどこかに転がっている にちがいない「自分史資料ーを探してみるところからはじめるべきだという話は前にも書 いたが、そのような大事な資料が本当に身近に転がっていたという好例である。 その次に読んでもらいたいと思っているのが、大塚眞理子さんの自分史である。これは 埼玉版『二十四の瞳』みたいな話で、実にほほえましい側面もあるが、それ以上に、この 時代の、必ずしも恵まれない環境にあった ( 大学進学など夢の夢のありえない話だった ) 女 の子が、ふとしたきっかけでゲットしたチャンスを生かして、またたく間に小学校教員と なり、奮闘努力しているうちに、そんなことできっこないと思っていた「教職に就きなが ら二人の子供を産んで育てる」ということを現実に可能にしてしまった、お母さんの大奮 戦記 ( これは本当にすごい ) である。この大奮戦記が、育児休業獲得のための政治運動と ピッタリ重なっていたことでもわかるように、日本社会における女性の地位向上はこの世 代 ( 戦後民主主義第一世代 ) の活動とピッタリ重なっていたのだということがよくわかる 話になっている。 166

7. 自分史の書き方

第 3 章なにを書くべきか 破水午前四時一一十五分女児分娩一一千七百グラム 命名長女綾子 四月七日 ( 二十七日目 ) やや見えるらしく、あやすと笑い又ウンウンと話をする。 この貴重な記録を残された山崎さんのお母さんはまだご健在で ( 当時 ) 、育児日誌の引 用部分に次のように記されている 母は今九十四歳で大変元気に過ごし、当時の日記を見せてもらえる。また上記の『育児 日記』は、私が結婚するとき、花嫁道具の鏡台の引き出しの中に入れてくれた大切な資料 である。母の日記から私のところだけ抜粋したことがうかかえる。母も「この年になって この日記が役に立っとは」と感慨深げに喜んだり、恥ずかしがっている。この自分史が事 一実のこととして書ける幸せと、母との対話を通じての充実感を味わ 0 ている。 山崎さんが掘り出した、お母さんが付けておいてくれた生活の記録 ( お母さんの「自分 史」 ) は、内容が実に豊富で、時代資料として貴重なので、もう少し引用しておく。戦争 が厳しさを増した昭和四 ( 1944 ) 年 4 月、山崎さんは世田谷区の松原国民小学校に入 173

8. 自分史の書き方

臍帯切りから産湯づけ、私を病室に運ぶなど、働き続けた彼のほうはぐったりして眠 り込んでしまった。助産婦さんは私たち一一人を見て「どっちがお産をしたのかわからない ~ ねと笑 0 た。 まさに「案ずるより産むが易しの言葉どおりのあっけないお産だった。 しかし、自分に赤ん坊が生まれたということか、まだ実感として湧かなかった私は、彼 が家に帰ったあと、赤ん坊を抱いて、部屋にあった洗面台の鏡の前に立った。自分の目で ~ 確かめたか 0 たからだ。そこには、ぎこちなく赤ん坊を抱いている私がいた。 子供が生まれたことで生活がガラリと変わった。 食事の支度、おむつ洗いなど、彼は育児にもよく関わ 0 てくれた。彼は週に数回、講師 をするほかは執筆の仕事をしていたので、時間的に東縛されることはあまりなかった。し かし、大人二人と赤ん坊、それに赤ん坊の家具などが増え、毎日、息が詰まりそうだっ 娘の首も据わったころ、ちょうど夏の暑い季節だったため、また彼にも休息が必要だろ さいたい 334

9. 自分史の書き方

る直前」という微妙な時期だった。 セカンドステージ大学の学生は、大半が戦後っ子だったが、大日本帝国の臣民時代を身 をもって体験した人々がほんの少数おり、山崎さんもその一人だった。ちなみに、わたし も昭和 ( 1940 ) 年生まれだから、大日本帝国時代を 5 年間だけ体験している。 母親が記録した「大東亜戦争 . 山崎さんは、自分の誕生を、母の「育児日記」を援用して、次のように書いている。 母の育児日記 三月九日午前四時頃 出産の兆し。直ぐに大井病院に入院したが痛みも止まり一旦帰宅。 十日夜になり十分おきに陣痛が起る。 十一日朝、母に付き添われ再び大井病院に入院。午後七時頃より痛み激しく午後十一 時分娩室に入る。 一十一一日午前一時半 172

10. 自分史の書き方

しを何回もした最中も三人の子供別にファイルされていた。そのおかげで今回の私の『自 分史』に大いなる関係資料として利用させていたたいた 。父が大変几帳面な人で、それを 結婚という儀式の時、 ( 嫁入り ) 道具の一つとして母に委ねたそうだ。年月日の確かな数 これがな 字は、その後母に借りた母の『自分史』と母の『備忘録』によるものが大きい 一ければ幼い頃ももちろん、つい最近のことでも日にちなど不確かなことがある。 父親はともかく、母親は子供の成長記録をちゃんと残している人が少なくないはずであ る。親が健在の人は、ぜひそのあたりを聞いてみるとよい。育児日記、小学校の通知表な どは意外に残っているものである。 山崎さんの場合、育児日記以前からの記録がある。山崎さんが生まれる前、お母さんが 妊娠して、病院に行って診てもらったところから記録がはじまっている。その前後、親戚 の人からお祝いの品物をいろいろいただくと、どこからなにをもらったかをキチンと記録 していた。銭単位で記録されたあらゆる経費のこまかな記録がすべてに付いているから、 昭和十年代の日本の生活史、経済史の記録としても貴重である。この資料を存分に使って 書かれた以下の部分は、昭和史の記録としてもきわめて貴重と思われるので、以下に相当 の紙面をもって引用する ( 現物はこの何倍もの量がある ) 。 170