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1. アメリカは日本経済の復活を知っている

うざわひろふみ こみや 1 ベル賞学者たちを指導していた宇沢弘文シカゴ大教授を、なんと助教授として呼んだ。小宮 りゆ、ったろ、つ 隆太郎助教授は、新書『アメリカン・ライフ』 ( 岩波書店 ) とともに、さっそうとハ 1 大の学問の息吹を伝えていた。 そして私のゼミの指導教官である大石泰彦教授は、当時のしきたりにかまわず英断を下し、 根岸院生に大学院での講義を依頼した。私もその講義を聞いた一人だった。 また、私の一生の師となった館龍一郎教授は、留学の際、イエ 1 ル大でジェ 1 ムズ・トービ ン教授に指導を仰ぐよう勧めてくださった。そのことが、私の人生を大きく変えたのである。 残念なことに、館先生は長い闘病の末、二〇一二年二月に逝去された。日本銀行が ( これま でから見れば ) 大胆な政策変更をする直前である。お世話になった館先生のことは、あらため て次章で述べたい。 巨人トービン先生の教え 経済学部を卒業し、東大大学院の修士課程に進んだ私は、海外留学を目指してアメリカのフ ルプライト留学制度の試験を受けた。試験の会場は、いまも六本木にある国際文化会館だ。 なかむら 英語が苦手な私だったが、 幸運にも合格することができた。中学から大学まで同級生の中村 正氏 ( その後日本協会会長 ) も一緒だった。ただ留学してからイエ 1 ル大の先生に聞 いたのだが、私は奨学金があったから入学できたものの、その順位は最低だったそうだ。経済 せいきょ

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人柄のすべてに惚れ込んでいた。ト 1 ビン先生に親しく指導を受ける幸運に浴したことで、私 の学者人生は大きく開けた。それも館先生のおかげだ。 ただ二〇年後に、私が教師として東大からイエール大学に移ることを決めたことで、館先生 をがっかりさせてしまった。これは一番の親不孝だったと思う。 日本のシステムでは、研究者を若いときに研究させ、そののちに教育や大学学務で恩返しを させるというサイクルになっている。せつかく育てた弟子、つまり私が突然いなくなること は、館先生にとって想定外だったはず。いまでも申し訳なく思っている。 それでも、館先生と疎遠になってしまうことはなかった。外国でやや適応に苦しんだ私が一 撃 衝時帰国した際にも、先生は温かく慰めの言葉をかけてくれた。 日奥様から、先生はクラシック音楽がお好きだったと聞いた。特にプルックナ 1 の交響曲九番 がお好きで、内輪の告別式には、それが流されていた。 月 私も音楽が大好きだ。しかし、いくら音楽好きでも、べートーベンやプラ 1 ムスはともか 年 一一く、マーラーそしてプルックナーともなると、何番がどんな曲か識別不可能になってしまう。 ぞうけい 〇 つまり、プルックナ 1 が好きな先生は、それだけクラシック音楽に造詣が深かったのだ。 先生と私は、いつも経済学や政策のことばかり話し合っていたわけではない。それなのに、 章 五音楽談義をした記憶がないのが不思議だ。

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ひけっ 平明に相手を説得する秘訣をもっと学んでおけたら良かったのにと思うと、残念でならない。 もう一つ、私の学者としての道筋を示していただいた先生の言葉がある。イエール大留学か ら東大に戻り、助手終了のための論文を書き終えたとき、先生は大学の隣にある学士会館へ食 事に誘ってくださった。 当時の私は、理論の仮定をより現実的なものに修正して、その結果を確かめるという研究を せいちか していた。人の仕事を手直しし、精緻化するような作業だ。これを見た先生は、食事の席で、 「皆が平面しか見ないところに垂直の棒を立て別の次元を作り上げるような仕事をしなけれ ば、インパクトのある理論にはならない。字沢君の仕事を見習いなさい」という助一言をしてく 衝ださった。また、「オリンピックのように、外国の雑誌に日本の旗を掲げるような仕事も必要 日ではあるが、経済学の展望を広げるような仕事も目指しなさいーとも。 先生の言葉をそのまま実現することはたいへんに難しい。だが振り返ってみると、これは私 月 の学者としての人生を導く大事な道標になっていた。以前は抽象的な理論としてしか議論され 一一ていなかった「ゲーム理論」を、国家間の利害関係が絡む具体的な国際金融の現象に適用しょ 〇うと挑戦したのも、先生のアドハイスがあったからこそだ。 章 五 いま増税すると財政再建は絶対不可能に 第 館先生とは「郵貯論争、についての話もした。小泉内閣による郵貯改革以前、日本の金融仲 159

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したが、 連絡が来ない。どうしたのかなと思っていたら、奥様から「主人は亡くなりました」 へきれき という青天の霹靂のお知らせを受けた。彼はまだ六四歳だった。まだまだ働ける年齢だ。この ような葬儀に列するのは、本当につらいものだった。 加藤さんの葬儀では、須田美矢子さんから、「本当に悲しい。浜田さんも、裕己さんがいた から、慣れない内閣府の仕事がうまくいったのですよね」と話しかけられた。「私も悲しい。 彳かいなかったらたいへんだった」と答えた。 ただ、私と加藤氏とでは意見が違う部分もあった。私が内閣府に赴任したとき、すでに日銀 はゼロ金利解除の愚策を行っており、私は岩田規久男氏をはじめとするリフレ派の意見に同調 衝していた。一方、加藤氏は、フリードマンやマネタリズムを嫌う字沢先生 ( 私のかけがいのな 日 い恩師でもあるが ) に影響されてか、金融緩和で日本経済を立ち直せるとするリフレ派には大 四 一反対だったのだ。 月 こういうことを思い出すと、須田さんと葬儀の席で会話をしながらも、内心では複雑な思い 年 があった。しかし加藤氏への感謝は尽きない 〇 章 五 第 「ゲーム理論」に導いたアドバイス そして二月一一日、今度は、私の一生の師であり、『金融』の共著者でもある館龍一郎先生 の言報に接した。 ふほ、つ 巧 7

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融政策の自由度を与えて、臨機応変にやらせたらいい」とジム。 彳がいったからという理由ではなく、私も、物事が分かっていて政策を自由に決められる中 央銀行には、縛りを与えないで自由にやらせればいいと思う。 ただし日本の場合は、「中央銀行は物事が分かっている」という大前提が、そもそも認めら れないのである。そういう意味で、私は、インフレ目標の設定賛成に変わった。それも一。 セントの「目途」などという曖味なものでなく、二 5 四パーセントのしつかりとした「目標」 の設定が望ましいと思う。 ジムと最後に会ってから一年後、東京の内閣府から与えられている公務員マンションの電話 が鳴った。同僚の・ Z ・スリニヴァサン教授からのものであった。 「ジム・トービンが、急にお亡くなりになった。君は特に親しい弟子だったから電話で伝えよ 、つと思って : : : 」 一生の師であり、また私が外国に対して適応不順になっているときも励まし続けてくださっ たト 1 ビン先生は、もうこの世におられないのか : : : 電話を聞きながら、心の支えを失ったよ ほうぜん うで呆然となった。 私がイエール大学に移ってから、適応に苦しんでいることを心配した東大の字沢弘文先生に 対して、ジムは、「コーイチの面倒はちゃんと見るので心配しなくていい」と答えたとい、つ話 を聞いたことがある。実際、ジムは私の大きな支えだった。 あ・い亠まし 144

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学の講義を補講にまでして帰国するのは時間の無駄かもしれないーと、日本に着いたらトンボ かって教わったジェームズ・トービン、フ 返りでアメリカに引き返そうかとも考えた。だが、 ランコ・モディリア 1 ニ ( ともにノーベル経済学賞受賞者 ) といった先生たちの顔を思い浮か べると、そうもいっていられないと感じたのである こうした私の師たちは、若い学者が、いわゆる実物的景気循環論にかぶれ、自分たちの考え 方を古いというようになっても、自分が正しいと思ったことを一生懸命に訴え続けた。自分が 一生かけて獲得した知恵と学問に対して、真面目で真剣だったといえるだろう。それこそが学 す者の役割なのだ。 そしてリ 1 マン・ショックを経たあと、現実を説明できず政策の役に立たない流行理論 ( た 識とえば実物的景気循環論 ) に、なぜこれら先生方が批判的であったかが納得できるのである。 常 のトービンは、金融緩和が実体経済には効かないという同理論の非現実性を、一四行詩 ( ソネッ 〇ト ) までつくって風刺している のだよしひこ 以下で紹介する政策も菅内閣時代のものだが、当時の財務の責任者は野田佳彦氏。つまり後 済の総理大臣である。野田内閣でも、やはりまったく経済の論理に反する政策が続けられた。 日本政府の空洞化促進政策 二〇一一年、夏休みから研究室に戻ってみると、その日イエ 1 ル大学で二五年の永年勤続を

7. アメリカは日本経済の復活を知っている

4 そこで私が、 「では文献を調べます」といったところで、とたんにさえぎられた。自分で考 えずに文献を調べてはいけないというのだ。 「先行研究を調べすぎてはいけない。君の発想が消されてしまう。あまりすぐに他の人の仕事 を見ると、アイディアが枯渇してしまう。まずは精一杯、自分の頭で考えなさい。そのうえ で、困ったときに他の人の文献を見ればいし まずは自分で考える。自分で考えると、どこかで壁にぶつかる。そうすることで、先人がど のように苦労してきたかが分かる、とも。これは日本にはないやり方であり、非常にありがた い助言だった。 そういう指導を受けているので、私は先行研究を知ることに熱心ではない。もちろん、論文 を公刊する前には、先人の業績とどう違うかを調べなくてはならない。時にはそれを怠って、 すでに発表されている仕事を二重にしてしまい、審査員に突き返されることもある。だがト 1 ビン先生の指導は、自分の発想の持ち味を殺さないために、たいへん貴重であったと思う。 白川日銀総裁の直言 実は、日銀の白川総裁にも、こんなことをいわれたことがある。彼が総裁になる前、親切に も「日本銀行のオペレーションと研究成果を教えてあげます」と、研究会に呼んでくれたとき のことだ。 140

8. アメリカは日本経済の復活を知っている

学者の推薦状ではなく、家族の知り合いのアメリカ軍人に推薦状を書いてもらったのがその理 由の一つだったらしい。当時は、推薦者の選び方すらよく分からなかった。 「アメリカに留学するなら、イエール大学に行って、ジェームズ・トービンに学びなさい」と いう館先生のアドバイスに従い、私は後にノーベル経済学賞を受賞することになる偉大な経済 学者に教えを叩っことになった。 館先生と同じように、トービン先生も、学問はもとより人柄もプリンシプル・、 ( 主義や信条 ) の面でも、本当に立派な学者だった。文字通り、私は敬服の限りだった。「この先生に指導を 受けることができて、本当に良かった」と思えた。 、つ 救 ある経済史の先生は、「トービンの学問を論ずるには、ただ講義の内容や論文を考慮するの を 本では足りない」といっていた。「学生とソフトボールに興じ、学生を自宅に招き、そしてとて 日 も大きな大 ( ニューファンドランド ) を飼っているといったことと、彼の学問は体となって 学 済 いるのだ」と。 経 ト 1 ビン先生との師弟関係のなかで印象的だったことはいくつもある。その一つは、博士論 で れ文を書こうとした際のことだ。 ト 1 ビン先生に指導教授になっていただくことができ、さて自分の論文を書こうという段に 四なった。テーマは国際間の資本移動である。その見通しを述べると、「いいだろう」とトービ ン先生。 リ 9

9. アメリカは日本経済の復活を知っている

そこで、卒業すると経済学部に学士入学した。それからは、講義や研究が、打って変わって 楽しくなった。当時の父は大学の助教授 ( 教育学 ) 。必ずしも家計は豊かではなかったのだ が、経済学部に入り直したいという私の願いを認めてくれた。貴重な知的遍歴を許してくれた 両親に心から感謝している おおいしやすひこ 経済学部では一一年間、大石泰彦先生 ( 東京大学名誉教授 ) のゼミに入り、館龍一郎先生の金 融論の講義も受けた。経済学部が楽しかった理由には、法学部の学生たちのように、試験の成 績を一つでも上げようという雰囲気を感じなかったこともある 当時の東大経済学部で主流だったのは、マルクス経済学。二〇人ほどの教授のうち、近代経 済学を教えていたのは、大石先生と館先生くらいだった。 その頃の私はまだ純粋だったから、先生のいうことはなんでも正しいと思ってしまうきらい かあった。マルクス経済学を学んでいると、考えれば考えるほど悩んでしまう。その救いにな ったのが、大石先生と館先生だった。 「先生にもいろいろな人がいる。時には間違ったことをいうこともある」ーーーそう考えられる ようになってからは、すいぶんと楽になったものだ。 これは、いまの大学新入生に対する私のアドバイスでもある。 国際的だったかっての東大

10. アメリカは日本経済の復活を知っている

〈館先生について思い出すことの三つ目は「インフレ・ターゲットであります。日本経済の バブル崩壊後、政府日銀の採った金融政策は、需要の回復を目指した低金利での金融緩和であ ったと思います。私の予想ですが、当局は短期、少なくとも中期には政策効果が上がり、デフ レ局面は収東する予定だったと思います。意のままにならす、ゼロ金利となっても、二〇年も 続けざるを得ないデフレ経済に落ち込まざるを得なかったとは、思いもよらないことであった と思います。売れる土地を思い切って売り、財務を改善し、生まれた融資金の運用の上でも、 力いーり・ 1 セントの乖離や矛盾の また年金基金、期待される運用益五・五パーセントと国債の金利一バ 企業負担は由々しい問題であり、先行きはどのようになるのだろうと思いあぐね、卒業四〇年 後、初めて先生の研究室を訪れました。その折、先生日く、「日本経済は長い間一貫してゆる やかなインフレに慣れ、成長を続けてきたのであり、その軌道を回復するためには、金融当局 が緩やかなインフレ・タ 1 ゲットを表明する必要があると思う」と〉 すでに述べたように、フルプライト留学生としてアメリカで学ぶ機会がやってきたとき、館 先生はイエール大学に留学するのを勧めてくださった。 「イエ 1 ルにはケネディの大統領諮問委員だったジム・トービンというすばらしい先生がいる から、彼に指導してもらいなさい それが館先生の言葉だった。館先生は、トービン先生の学問だけでなく、その経済政策観 1 162