172 の女だか知らないから、年をいうことが出来ないのだ。弁鱈目だった。おいらも二十五までにエラクなる、誓いを立 当小僧は勝誇って、お前は知らないで違うといっているのてろと弁当小僧がいった。 だとやり込めた。それじゃあ、その人はどこにいるかお前 弁当小僧に教わって石ッころを拾った。二人の石をカチ 知っているかといったら、芝居を知らないのかとまたやり ンと触れあわせ、頭の上高く投げあげて、その下で眼をつ 込められた。芝居なんかじゃないよ本物だよ、本物はどこぶって動かずにいた。どちらの石もよそへ落ちた。空が青 にしたか知っているかと推し返すと、知らないというかく海の色がもッと青い日だった。 ら、佐賀県藤津郡だといったら弁当小僧が感心した。タチ それから後の二人の小僧は、あうたびにエラクなる話ば の悪いことをいう現場小僧だ、佐賀県藤津郡とは、書留郵かりした。どうエラグなる途をとるのか、そんなことは二 便をたびたび出しにいく名宛先でおばえたのだ。後に知っ人とも話さなかった、話せる子供達ではなかった。こんな たのだが、「本朝一一十四孝』の八重垣姫は、甲州の武田の夢物語でもいっか知らず新コの心をふくらませた。それが 娘ということになっているのだ。 あったから、前いったカルルス煎餅を食べる手段を思いっ 何のことからか新コは弁当小僧と口論になった。なにツ いていながらやめたのかも知れなかった。すばりと一ペん なにツと二人とも本気になり、弁当小僧の方が、お得意先で思いとどまったのではなかった。本町通りから弁天橋へ の物だからといって持っていた弁当を地に置いた。取組み出て渡り、それから海岸伝いの間で、何度もやりかけて、 あいをやろうというのだ。現場小僧は弁当箱を手放さずにそのたびに思いとまったのを憶えている、その後もたびた いた。やらないのかというから不具になるとイヤだと取組びそうだった、幸いなことに思いとどまり続けることが出 合いを断った。品川。 て海へ突ッこまれてからは、死ぬのも来た イヤだが、不具になるのがイヤでイヤでならなかった。 事務所の超特室へときどき現れて、大きな声で話をする その日はそれッきりで、現場小僧は先にいき、弁当小僧紋付袴のロ髭の濃い人があった。新コはこの人をみてお辞 は後から歩いた。 儀を忘れている人が世の中にあるのを初めて知った。角刈 次の日、二人は仲好くなっていた。 のような頭髪がいつも理髪店へ行ってきたばかりのよう いつだか弁当小僧が、大きくなったらエラクなろうとい な、眼がどっちだか少々ばかり妙な、何かいったあとで、 った。ウンなろうと現場小僧もいった。弁当小僧はいくっ唇を簟笥の環のようにする癖があるこの人は、佐賀県の川 までにお前はえらくなると聞いた。二十五さと答えた。出原茂輔という政治家だった。
時だったか、吉さんも宴会に出ろとなった、吉さんは迷惑はしぶとくない気でいた。 がって、そういう席でうまい酒をまずく飲むのはご免だと新コは本を懐中にいれて出勤し、呼ばれない限り湯沸し 断った。宴会の翌日はゆうべの話を面白そうにしている人の大火鉢のそばで読んだ。秋だったかしら冬だったかしら 以前は一ト声で飛んでいったのが、二声も三声もかけ が多かった。関東人の方が芸人揃いで、現場の毎日とちが 、余興では九州から上ってきた人々は、関東人に歯が立ないと、気を本にとられているので起たなかった、聞えな たなかったそうだ。 いからだ、呼んだ方はこのごろ狡くなったといった、その 、、よ、末が出勤中は本を読んではいけないとなった。新コは本を 新コはいろいろの使いをするうちに、遊女屋へしカオし 人は妾をもっているから行かないのだと気がついた。新コもたない毎日になった。小便に往きかえり新コが大火鉢の の家にも妾をしている年増の美人がときどき来ているか脇にばつんとしているのを見て、このごろ本を読んでいる ら、妾を囲いものといい略しておかこといったのを知ってのを見たことがないがと聞いてくれる人もあった。読書禁 いた。新コの知っているおかこはそうではなかったが、新止をいい渡されたことをいうと、お前ぐらいのとき本を読 コが使いにときどきいく先のおかこは、現場小僧を小さいまずにいるのは一生の不幸だ、読め読めといってくれた。 人間だと気がっかなかったらしく、吹き降りにびッしよりそれはいうだけだった、読めるように奔走してくれはしな 濡れていても、霙の降る寒い日でも、気をつけてくれたこかった。 とがなかった。しかしそれは新コが、好かれない現場小僧吉さんが怒ったのはそのときだけで、あとは怒りなどし なかった。吉さんのおかみさんは中仙道の何とやらいう、 に、だんだんなって行ったその故だったろう。 昔は宿場だったところに置いてきた子がある、東京へ出て いい人だった吉さんが、ある日、新コをひどく怒ったこ とがあった、大人には新コが悪くなったとわかるらしかっくるときその子に会いたくて、夜になるのを待って会いに 、新コにはわからなかった、そのためだろう続けざまに行ったが、会えないでうろうろしているうち、町の火の見 記また怒られた、いくら怒られても得心がいかないので、黙櫓のところへ月が出たと、話したのを憶えている。そのと 半っているだけであやまらなかった。あるとき二、三人の九き子供に会えたといったか、会えなかったといったか、忘 新州人が、このごろ新コはしぶとくなったといっているとこれた。そんな話を聞かされても、新コは生別れになってい ろへ新コがはいって行った、顔見合せて大人達は黙った。 て、顔も名も知らない母を思い出しもしなかった。いっか おもかげ 何がしぶといのか解るようにだれもいわない、だから新コ紙屋で似ているといったのは、生みの母の俤があるとい
この小学校もやがて、自分で働いて食わねばならなくな のを憶えているのは新コの方だけで、船田は忘れていまし って退校したので、新コは同窓会も知らず、校友会も知り 、天麸羅蕎麦をおごるといったのも忘れてしまっていま ませんから、あれは中学も大学も一緒でねというような言 した。新コも彼に鶯の饅頭を遂に贈りませんでしたが。 葉は、梯子もかかっていない別な世界のことにしか聞えな い。その後、横浜船渠の工事請負人のところの住込み小僧 煙草屋の小僧をどのくらいしていたか、 から、通いの現場小僧になった初めは、何ごとにもヒケ目 知っている人と いう人がみんな世を去ってしまい、今では判りません、判が先に立っ子でしたが、現場というものに慣れッこになっ らさねばならない重要さは、新コにだとてありませんかてくると、陰鬱なところがなくなって、煙草屋小僧のとき ひと に輪をかけたものになったようです。 ら、他人には尚更どうでもいいことでしよう。 ふつかいっかいちむら 品川の二日五日市村の妓夫の家に引取られ、南品川の城或るとき、新コを大工の弟子にさせたらどうか、あんな 南小学校へはいったのは十歳で、三年生に編入だったので者は、そうでもしてやらぬと将来が可哀そうだと、現場掛 しよう、小学科二年の履修証が出てきたから、それが証拠りがムダ話をやっているとき云っているのを聞きました。 あんな者といったのが、新コの疳にさわった、だれがクソ でそういう勘定になります。 新コは煙草屋の小僧のときとまるで違った子に、わすか大工になんかなるかと決心しました。それでは何になると の間に変ってしまいました。知らない土地で知らない子ば訊く人はよ、つこ、、、 オカオが訊かれても新コは答えられない。志 かりの中へはいったことは何でもないが、学科のどれもこ望をもっことを自分で発見するには、あまりに何も知らな れも勝手が違ううえに、学校の慣例も、子供同士の遊戯のかった、教えてくれる人もなかった。大人の中のこの独り ト僧は、そういう意味では孤独でした。 方法も唱歌の歌詞も、知らないだらけなので追いつけな 4 僧から撒水夫 そのヒケ目が強く出るのです、人真似をしてその日そ新コは第二号船渠の築造が竣るまでに、 の日を押ッつけ、そのうちに覚えるという器用さがない、 まで、永い間、働かせて貰ったが、その間に敬服した人と しっては二、三人しかありません、もッといたのだろう 学習の課目のうち、一ツや二ツは出来るものがあっただろ ー田童吉だの来栖壮兵 うが、課目の全体にわたっては霧の中をうろついているよが、遠くの方にいるので判らない。月 うなもので、卑屈にはならなかったと思うが、陰鬱にはな衛だのと、名だけは知っていましたが、入船町とまだ名が っていました。 なかった埋立地から野毛山伊勢山の雀を眺めるように、そ
くるわ けなくなったが、芝居に興味をもち過ぎるぐらいもつ新コ 正午にはまだまだの頃だった。廓の昼という特殊な街へ になっていた。熊の手引きで芝居をただみる回数も多くな新コはつかっかはいって行き、二葉楼へいって、こういう つ ) 0 人が来ていますか、手紙をもって来ましたから受取りに米 読書はつづいた。何冊かになった本を入れる箱を自分でてくださいと、昼のことでがらンとしている式台のところ つくった。板は現場で燃し木にする中から拾った、釘は事でいった。それが取次がれて、あがって来いということだ 務所のを黙って使った。その箱に巨人出生と書いた。新コったので、新コは案内の女のうしろから二階へいった。品 のつもりでは弁当小僧との約東の二十五までにエライ人に 川の妓夫の家にいたこの小僧は、そんな家を何とも思って なる、その意気込みを自分にみせたものだ。曲りなりにも いなかった。行った先は本部屋だった。いつづけ客だから 「水滸伝』を読んだことがあるのに、拙いこんな文句をかそれはそうなると、新コは知っているのだ。 いたのだから、新コの読書から得たものは、袋なら破れて手紙の宛名の人物は、酒臭い本部屋から飛出しかけた。 いる、笊なら底抜けだったらしい 生意気な小僧だ、受取りにこいとは何ごとだ、貴様はそう 埋立てがかなり出来た、潮留工事も完成が近くなった。 いえといわれてきたかと怒鳴った。小僧は手紙を出して受 そのころ花崗山石がどこからかはこばれ、船から船へ移して取りをくださいといった。受取りはいらぬと威張った。受 陸あげが始まった。石工が出はいりを始めた。 取りをくださいと又いった。帰れと飛びつきそうにしてい 青粘土の捏ね返しはとッくになくなり、青い泥だらけのった。怖くなったので新コは花魁すみませんけど受取りを 子供もその親もこなくなった。 かいてくれませんかといった。 ま 事務所の九州人にときどき新加入があった、その一人で花魁が この遊女はたいした玉ではなかった 妙な苗字の、頭が薄禿げになった男が、ときどき苦情のよあこの子はと呆れたのだろう、ロをあいた。 うなことを事務所でいっていた。どういう訳か大抵の人が その男には何もいわなかった。二、三日その男の姿がみえ 半なくなったと、会計の福田が不機嫌な顔をして新コを呼 新び、この手紙を当人に手渡し、受取りを貰ってこいといし 四付けた。宛名は妙な苗字の男で、いるところはロで教えら れた、真金町遊廓の遊女屋だった。 号ⅱ
んだ。勿論、小僧の売り物は残らず長八が買いしめた。 やがて小僧が三枚の鯛を買ってきてみせた。これが江戸 日冲へながれ 前の鯛だ、こいつは江一尸中からうまい餌が品 , 、、 くら そとうみ てゆく、そいつを食って、荒い外海とちがって内海で育っ たので、この通りいい恰好をしていて味がズバ抜けてい 、次のやつは生け鯛といってね、江戸の沖で生れて育っ たが、網にかかって生け洲のなかへ入れられ、餌はふンだ しわ 江戸前の鯛 ンにもらえても、、い配なのだろう、これ見なよ、面に皺が よっているくらいだもの、うまかないよ、三番目のこいつは 江戸の深川に住むようになってからの伊豆の長八が、日伊豆で生れた鯛だ、波があら過ぎるところへもってきて、 本橋の魚問屋からたのまれて、魚づくしの額面を仕上げた餌は海っぺりの岩についている貝を突きこわして食うのだ ところへ、蛤・あさり・バカなどの剥きみ売りがきて、眺もの、面がシャグンでしまい、鼻ッばしらがマグレている、 めていたが、親方あの鯛はいけないねといった。長八は伊それだもの、肉は硬くって味は大味だよ、といった。 豆の松崎に生れ、東京が江戸といったころから深川に居着長八はそれを聞いて、なるほどそうか、と大きに喜び、額 き、明治二十二年 ( 一八八九年 ) の十月、七十五歳で亡くな面をやり直して、前よりずっと良い魚づくしを仕上げた、 った人である。 というこの話は、静岡の左官屋さん白鳥金次郎君の『名工 剥きみ売りの小僧ッ子に、作品の中の一つをケナされて伊豆長八伝』という単行本にある。講談浪曲の読み切り物 長八は納らない、鯛はもとよりどの魚も写生なので、いけ にありそうなこの話のそもそもは、、、 とこから出たものか知 ないねがあるものか、というと小僧が、親方は田舎の人だるべくもないが、泉斜汀 ( 泉鏡花の弟 ) がどこかに書いたの ね、この鯛は江戸前じゃないよ、こいつは伊豆の鯛だもを、「実業学校国語教科書』 ( 保科孝一編 ) が収録した、そ の、河岸で扱ったところで、田舎出の客を相手の安料理屋れを「名工伊豆長八伝』がっかった、という訳である。余 かポテ振り ( 三流ぐらいの魚の行商人 ) が買うだけさ、と真向計なことだが保科孝一は国語学者で、大学教授でもあった からやつつけた。すると長八が、お前これから河岸へいっ し、国語審議会などにも、深い関連があった人である。 て、江戸前の鯛というものを二、三枚買ってきてくれと頼 それはさてとして、この話の本物は、或いは本当にちか 第十一話渡り職人と芸と芸 おさま
のある女の他に、だれも見掛けなかった。家の中がきちんことがなかった。用をいいつけるほとんどは会計の福田が せん・ヘい といつもしていて、玄関も格子戸も磨いたようになってい取次いだ。本町の風月堂へ、カルルス煎餅の罐に詰めたの た。藤井の弁当のおかずに黄色い物がいつもはいってい をときどき買いにやらせられた。その店では、新コのよう いりたま′一 た、煎鶏卵であったと新コが知ったのは十八年もしてからオイ冫 よ、曽こでも、罐に詰め終ると一ペん見せる、それから包 、、こっこ 0 装して渡した。その見せるとき、カルルス煎餅のいい匂い 藤井の息子が外国から帰るそうで、老人が有頂天になっ がプンとした。一枚でいい、食べたいと思った。それから そその ているうちに、帰ったという噂を聞いた。色の白い丸顔後、買いにやらされるそのたびこ、、、 しし匂いに唆かされ、 の、髪の毛を見ごとにわけた、居留地の商館番頭でもない 一枚でいいから食べたいと思い思いした。・ とうしたら食べ と着ていないような背広服で、黒靴と指にはめた金の指輪られるか考えた。罐を地面へぶつけて壊し、こわれた煎餅 が光っている青年が、ある日のこと事務所へきて、みんなを食って、転びましたといって帰ると、叱られもするだろ のいるところへは足踏みもせず、江口・土岐・大串など工 うが、食べられもすると思った。だが、やらなかった。叱 ライ人のいる方で外国の話を聞かせていた。 られるのが怖いのではない、殴られるのは痛いが叱られる しま この人は、それから暫くして、この現場で洋服を着てい のは痛くない、さんざんいわれた終いの方で丁寧にお辞儀 こぞ る階級のものが、挙ってやった何かの賭けがあったとき、 をすればい、、 そういうことをのろと罵られて、江口邸の 自分が賭けたのと反対の方へもだれかの名で賭けた、両天下男にやられやられしたとき、おばえてしまっていた。け 秤だ、どっちに転んでも損をしないハリ方だ。それが知れれど新コは遂にやらなかった。 て、だれも面とむかっていうものはなかったが、陰では大弁当はこびの若林の小僧で、顔だけ知っていて名を知ら 笑いのタネにした。新コはそれがあったからとて、藤井のない、新コより三ツも年が上で、おなじ位の大きさの子が 息子を嫌いにならなかった。親の藤井とおなじように、初あった。毎日毎日弁天橋の脇から現場へ、体中を弁当箱だ 記めから好きではないが、好きでない度が深まりもしなかっ らけにして行く二人は、、 しっとなく仲好しになって、いろ 半た。この小僧はどこかに傍観者みたいなところをもってい いろのことを話合った。どういう話の続きからだったか、 新たらしい 若林の弁当小僧が、八重垣姫は十八歳だといった。新コは 新コは、鍋島の旧藩士で家老の家柄だと、だれかがい っそうじゃないといった。では幾ツだと聞かれて現場小僧は た江口貞風から、用をいいつける以外に言葉をかけられた返答にぐッと詰った。八重垣姫とは女に違いないが、どこ
る、夜が更けたのです。横の方の銘酒屋で毎晩聞える男との晩、父が受取った金はわずかな額で、それまでに売り値 ふぎけ 女の巫山戯る声もやんだ、裏の方に住んでいる引ッばりとのほとんどを、借金の返済に廻したからだそうです。着の ずうずう いう、哀れだがイケ図々しいので嫌いな女連が、店の前をみ着のままで深夜に出ていった父は、場末の安宿へいって 通って帰ってゆき、往来を通る人もなくなったが、二階の泊ったそうです。着のみ着のままなのは父だけでなく、新 コも似たものです。着物は父のも新コのも、質屋であらま 客は降りて来ません。新コは帳場格子の中の机にむかっ て、客が帰るのを待っていましたが、いっか居睡りが本物しは流れてしまっていた。 になり、勘定机に頬をつけて睡ってしまったのを、朝にな新コは棄てられたのではない、店を買った夫婦が、こと におかみさんの方が新コを貸しておいてくれと頼んだから って気がっきました。 眼がさめた新コは店の戸が開いているので、いつもの通でした。その夫婦はそれまでに二、三度、煙草を買いにき り父が開けたと思い、顔を洗いに起とうとすると、見たこてみたそうです、そのとき小さな新コが、小器用に店番を ともない物を着せられていたのに気がっきました。だれか勤めていたのが気に入って、小僧に雇いたいと話が出た どてら - 一とわ の褞袍でした。父がいつもいる店のうしろの座敷で、知らが、父は断った。それでは当分の間だけとなったが、それ ない男と女の話声がしていて、父の声がない。新コは足がも父は断りはしたが、考え抜いた末に、五日か十日のこと しびれているのに気がついたが、二階へ急いで行ってみまならと承知したのだそうです。 した しかし、五日や十日で父の落着くところは出来ませんで した。父はいません。階下へ降りて座敷をのぞいたが父は した。転々と流浪して歩いたと思えるのだが、この時のこ いません。知らない男と女が何かいったが、新コは何とい とについて父は後年になっても何もいいません、よほどひ われたのか知りません、通り抜けて台所へいったが父はい ません。便所の戸をあけてのぞいたが父はいません。棄児どかった日々だったのでしよう。 にされたと気がついた、そこまでは憶えています、それか新コはその後ずッと煙草屋の小僧でした。 背負籠の小母さんは来なくなった、あの店は代が変った ら先どうしたのだったか憶えがない。その日から新コは、 帳場格子の中の机の脇へ寝ることになった、小僧に変ってと聞いたのでしよう、新コだけは小僧でいたのにです しまったのです。 もし、この田舎の小母さんが、秀と新コの様子を外所なが 父は店を居抜きも居抜き、何も彼もみんな付けて売渡ら見て、母か母の親兄弟に知らせる役を引受けていたので し、新コが勘定机に睡ったのを見て出て行ったのです。そしたら、母達にはこの時から新コ達の行方が判らなくなっ すてご
うことすらあったくらいだから、世人の種痘嫌いはひどか たかみさんが、坊主め又来たかと、小さい児のチンボコを 松斎に向けたので、シャアと引っかかった。松斎はそんな 松斎は種痘によって、天然痘から先す子供を守ろうとい ことで怒りなどしない、小さい児の用足しがおわるのを待 って、説きつけにかかったが、多分、このときは不成功で うので、〃必救千児〃という標語を、腰さげの物入れ ( どう らん ) でもあろうか、根付けに彫って身につけた、そしてあったのではないかと思う。 又こういった。「おれが浅草にいて、浅草から疱瘡病みを しかし、その後になってこの小便小僧の母は、熱心な松 出したのでは残念至極だ」 斎びいきになり、種痘のため大きに働いた。 この言葉の通り松斎が明治二十一年の夏、亡くなるとき 松斎の医者としての名声が高くなり、一般患者が多くな まで、天然痘患者が出なかったという。嘉永一一年から明治っこ、」 オ卩人も多くなった、三間町の小さな家から、おなじ にかけて、松斎の手で二十三万人に種痘したというのだか浅草の西仲町の家に移った、が しかし、種痘の実施はいよ ら、〃必救千児〃を何度ということなしに突破したことで いよますます熱、いにつづけた。 ある。 明治になってからのことだろうが、文明開化時代だとい 浅草の貧乏ぐらしの人たちのところへ、松斎が現れるうのに、おかしなことがあった、種痘されるとその人間は と、かみさんたちが怖れたり嫌ったりした。男親は働きに牛に化けてしまうというのである。これは、電信線には処 出ていていなく、いるのは女房と子供である。松斎はそこ女から絞りとった生き血が塗ってあるから、遠いところで で母と子とを説きつけるのだが、子供は割りによく聞きわあるのに音が通じるのである、という説を、妄信したもの けるが、女親は頑固でロ汚なく、坊主又きやがったか、ロ 何があったのと同様のことである。写真の撮影についても、 ラロ べん来たってそんな魔法にバカされるものかと、唾をひっ コレラ患者と避病院についても、徴兵の初めのときも、鉄 の 爐かけないばかりである。それでも松斎が説きつけようとす道布設のときも、そのはかにも、バカ気た説が唱えられ信 。いなくなられたのではじられたものである。但しこの種のことがそれ以来、絶後 許ると、子供をつれて逃げてしまう 足 だかどうかを、私は知らない。 種痘はできない。 我或るとき松葉町だか万年町だかわからないが、例によっ 或る年、米の値が高くなり、貧しい人たちが困ったとき、 5 て松斎が、貧しい人たちの長屋へきて、ハイ今日はという松斎は三種にわけて袋に入れた米代を、勤勉だとか正直だ と、小さい児を抱いて横に向け、シイイと小便をさせてい とか、気の毒な子がいるとか、病人がいるとかの家へ、人
たでしよう。その後、背負籠の小母さんは秀の奉公先を探と、勝負がついてしまうまで声を贈りました。喧嘩は船田 し当てて、異人さんの往来繁き弁天通りの生糸店の裏口が勝って相手は逃げました。船田は新コのところへ来て顔 へ、たびたび行商にこと寄せて、秀を見に来たそうです。 をのぞき込み、落ちぶれ小僧お前だったかといって行って それがいっ頃からいっ頃までだったか知りません。 しまいました。 ひとえ だれも白地の単衣なぞ着なくなった薄ら寒い、或る日の それからどのくらい経ってからだか、銭湯の中で落ちぶ 宵のロに、白がすりの単衣に白い兵児帯の、瘠せた長身のれ小僧と呼ぶので、見ると船田でした。湯から出ると船田 若い男が煙草を買いにはいって来ました、青白い細長い初も出てきて、寄席の木版色刷りのビラの脇に貼ってある書 なま めてみる顔です。煙草を受取ると、君はここの子かと訛り きビラを指ざし、僕が演説をやる、これが僕の姓名だと、 のある言葉で聞いた。落ちぶれて小僧になっていると新コ船田敬中と書いてある処を指で教えてくれたが、新コには がいうと、落ちぶれてといったのが注意をひいたらしく、 田と中だけが読める、船はカンで判ったが敬が読めなかっ がまち 年など聞いて、上り框に腰をかけて話し込みました。僕はた。今夜の船田は黒い着物に黒い縮緬の帯でした。新コは 東京から、さきほどここへ来た船田敬中といって落ちぶれ煙草店から暇をとるまで、船田とはちょいちょい顔を合わ てんぶらそば なり 書生だ、何かで金がはいったら天麸羅蕎麦をおごってやろせていました、見るたびにいい服装に変っていた。船田は うぐいす うかといった。新コは、おいらがエラグなったら鶯の饅どこに住み何をしているのか、新コは知らなかったが、博 頭を買ってやるよとすぐ答えた。鶯の饅頭とは金側の時計徒の親分と往来で立話をしているのを見たことがある。後 という巾着切のそのころの用語です、このくらいのことは年、怖がられもしたが役にも立ち、人に知られた壮士の頭 大抵のものが知っている街です、新コだけが特に知ってい になった船田が、二十四、五になってからの新コと往来で るのではない。船田は鶯の饅頭というのを知らなかった、 行きあい、顔をしげしげ見ていたが、君は落ちぶれ小僧で 金時計のことだと判ると大きな声で笑って、愉快だと何度はないかと聞いた、そうだよと答えると、僕を忘れたかと もいって、暫く又話して出て行きました。それから半時間 の いうから、憶えているよ落ちぶれ書生だろうというと、名 市か一時間もしてからでしよう、店の向うの四ッ角の隅の暗刺をくれて、もし困ったら米てくれ、僕がここへ流れてき あいところで、組打ちをやっているものがあった、一人は白たとき、最初に口をきいてくれて、エラクなったら金時計 7 い着物です。新コはそれがさっきの落ちぶれ書生だとすぐを買ってやるといってくれたのは君だ、ときどき思い出し 知って、店の前へ飛出してゆき、書生負けるな負けるなていたと懐かしげにいいました。だが、喧嘩の声援をした しげ
た頃だったかしら、兄の手の甲が冷たかった。 どに変ったそうです、片親のない子がマセるという、それ 家では騒いでいたようです、兄は何を聞かれても黙ってだったのでしよう。父は昼のうち外へ出て何とか再起の途 いた。新コは兄から黙っていろといい付かったので、頑強を見付けたいと狂奔しているそんな時だったからそうなっ に黙っていました。車屋さんは疳高い声の義母から、執拗たのでしよう。新コは店を小さな手でどうにかやってい く尋ねられていたが、高島町から車屋に頼まれて来ました た、と云っても、小間物も荒物も卸し店から見放され、仕 とだけしか云わなかったそうです。祖母も父も義母も、兄入れの途が止まっているので、店にある物は、ほとんどロ 弟二人で生みの母を尋ねて行ったが会ってくれなかった ーズ物ばかりになりました、新しいのが仕入れられるのは と、それだけは覚っていたと、後に祖母から聞きました。煙草だけ、その煙草の売行がわるい。煙草の検査に洋服の 兄の秀が関内の生糸屋へ、住込みの小僧にやられたのは男がときどき来て、新コに判らないことをいって、来るた それから間もなくです。生みの母を尋ねたから兄は小僧にびに叱りました、叱られると口惜しいということを、いっ 出されたのか、小イに間もなく出るのだから、弟をつれてか新コはおばえ込んでしまった、何を叱られているのか、 母を尋ねて行った兄なのか、新コには判りません。兄は四そんなことは知ろうともしません、口惜しい、ただただロ 十三歳で亡くなるまで、この時から三十年ばかりの間に、 旧しい。 母のことで新コと話合ったことは一度もない、亡くなると新コは銭勘定がうまくなったが、ピンヘット ( 輸入巻煙 おおじか き、死期を知っていたのだったが、遂に一言の母に及ぶこ草 ) 一ッと大鹿の五匁ダマ ( 刻み煙草 ) とでいくらといった となくして去りました。 ような寄せ算が出来て、ツリ銭を出すための引き算ができ るだけで、掛け算と割算とを知りません、そんなモノがあ ることすら忘れてしまったのか、知らなかったのか、どっ 兄は小僧に出たツきりで、新コに会いに来ません、新コちかでしよう。 徒 の は独りで兄を尋ねてゆくには小さ過ぎた、そのうち祖母が或る晩、見慣れない夫婦が荷物を少しもってやって来 した 市いなくなり、義母もいなくなり、二階に一ト間、階下に一 た、このごろ夜になるとよく来て父と話合っていた男がっ る あ ト間、あとは店と台所だけの家に新コは前いったように父れて来たのです。父はその三人と二階へ行っていつまでも みせばん と二人ぎりになり、学校へゆかず日ねもす店番をするよう降りて来ません。そのうちに前の遊び人の家で、御神燈を になると、自分では気がっかないがみるみるうちというほ 消して戸を締めました。そうすると表通りが急に暗くな