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検索対象: 長谷川伸全集〈第10巻〉
463件見つかりました。

1. 長谷川伸全集〈第10巻〉

な遊女屋を建てました、このことも前にちょッと触れてい のは元居留地のもの、本牧のもそうです、どちらも経営者 ますが、電燈は明治の末近くだったのに、自家発電所をもは下級海員あがりの外国人が多く、日本の女名義になって だて っていて点燈していたのだから、規模の大きいこと、華麗いるものは、そのはとんどが外国人の街の紳士がうしろ盾 を極めたこと、空前だといわれたものです。多分は絶後でに控えていた。井上という人がこうしたチャプ屋のこと もあると思われます。新コが異人屋のお家騒動とかで軍次を、一冊に纒めて出版したが、今では稀有のものになって に呼出された頃は、神奈川の神風楼は廃業してそのあと、 いるようです。随って新コなどがチャプ屋と聞いて描くと いろいろあって脳病院になっていたが、火災に罹って跡形もなく描くチャプ屋は、本牧のチャプ屋の名によって、日 もなくなったのはいっ頃だったか、 新コに記憶がない、明本人相手のずッと後期のものしか知らない人とは、牛乳と 治末年でしよう。 粥ぐらいに違います。チャプ屋のチャプは Chop house から 異人屋で客にする外国人は、地もの・旅のもの・マドの出たチョップの訛りだというが、横浜開港前後の土木工事 三種で、地ものとは居留外国人のこと、旅のものは観光又が盛んなころからロにされたらしく、関東の土工の間にチ は商用で渡来中の外国人、マドはマドロスの略語で海員と ャプとは食事のこと、金魚チャプとは水ばかり飲むこと、 めし いうことです。おなじ異人屋でも白人以外は客にせず、海ノウチャプ又はサラン。ハンチャプは飯にありつけないこと 員でも高級海員に限るというのもあります、ナ / ・ 、ハー・ナと、かなり広まっていて新コもっかったものだが、だいぶ インがそれです。軍次のいうニッコウ・ハウスは外国人の古い前からだれのロにもされなくなっています。 みでなく、日本人も客にするくらいだから、外国人の種族 別や職業の階級など問いません。チェリー・ ハウスは日本 人を客にしない習慣がまだ保たれ、フジャマ・ハウスもペ新コはニッコウ・ハウスを知っているどころか、そこの ンキ塗りのドアがびたりと閉っていて、日本人は寄りつけ家の遊女の大半は軍次の手引きによって友達同然で、とき 徒 のませんのです。 どき泊り込むことさえあったのです。そのころ新コは兄の 市異人屋は公娼だが、元居留地とその近接した街にあるチ家を出てしまい、寝るところがないので、様子を知ってい あャプ屋と、本牧辺のチャプ屋は外国人向きの私娼です。ぐる洋風な事務所へ夜更けに忍び込み、椅子を並べて寝る やまて ッと高級のものは俗称山手の百番といって、外国人墓地にか、机の上に寝て、夜明けに立ち去ります、折淵秀楼に学 近いところにあったものです。チャプ屋のチャプ屋らしい んだものを、知合い同然のところに限りやった訳です。六

2. 長谷川伸全集〈第10巻〉

は銀三枚をくれて、立去らせたそうである。そのため小浜 と眺めている。 すし屋は馴染みの客に食わせようとして、腰をのばしてでは、何かというと、二汁七菜をお前にもくれようかと、 ハヤリ言葉に一時なったという。ハヤリ言葉は兎に角、失 すしを置くが早いか、太い腕が客の頭の上からぬっと出 て、すしがなくなったときは江漢のロの中へはいったとき業して去るものに銀のほか、二汁七菜の馳走をしたのが面 である。すし屋は負けない気になったらしく、すしの食わ白い せ攻めという戦法に変ったらしく、どンどン握ると、江漢そのころの二汁七菜というと、今どきのどの程度のもの の方もどンどン食う。この勝負の色がやがて出た、すし屋か私にはわからないが、水戸の光圀の家来で市川翁助は、 の握る手がふるえてきたのである。その手許を見てすし屋或る大藩の屋敷へ使者にゆき、食事どきであったのだろ う、三汁十一菜の料理が出た。使者というものは、先方が の顔をゆっくり眺めて、江漢がいった、「勘定」。 示した好意をいただくべきものだから、三汁十一菜たりと 江漢の友人だか後輩だかが、そのすし屋へはいったら、 ひじ も、平らげるべきだそうである。 すし屋が咎めるように、すしってものはな、肘で押しつく ところがこのときは、使者の市川翁助を困らせようとい らして食うものじゃねえ、後できな、といったという。そ の返報に、江漢が今いったような食い方をしたのだそうでうのだから、順を追って三汁十一菜が出揃ったが、箸はワ ある。江漢の著書は少くない。私はこの人と知合いではなザとだろう、ない。そこで翁助は接待のものに、箸があり っこ 0 ませぬなどとはいわない、そのころの帯刀には必ずついて へり いた小柄を静かにぬき、立派な塗りの膳の縁を欠いてと 私は、前いった重箱ずしのときから、今にいたるまで、 そのすし屋のすしを食べたことがない。私は狭量だからでり、削って箸をつくり、飯数杯と料理のこらずとを平らげ た。それを見すまして酒をもってきて、イザ一献ときた。 ある。 盃は出さずにいる。すると翁助は、どうぞこれへおつぎ下 されと、皿鉢の構いなく膳部の上へ酒をつがせ、その膳を 3 三汁十一菜 もって縁の角からぐッとのみ干した。 それだけのことなら、ちょっとした者ならやりそうであ 若狭小浜の酒井遠江守忠隆のとき、というと三百年ばか り昔だが、財政の立て直しのため、新参の侍たちに永の暇る。ところが、使者が帰ったあとで、彼の手製の箸をみる が出されるにあたり、二汁七菜の料理をくれ、銀五枚か又と、箸の先二、三分しか濡れていなかった。これはその頃

3. 長谷川伸全集〈第10巻〉

り。幕議一変、遂に越中安堵となる。 また美濃傘には「加納の八丁傘」という評が昔からあっ た。つまり八丁させば破れるというのだ。 元祖金右衛門は俗に五丁目の金右衛門という、四代目市 美濃傘金右衛門 之丞、寛政九年六月出奔、家絶ゅ。 寛永十六年松平丹波守光重が播州明石から濃州稲葉郡加 徳川頼房、肘で小突かる 納に移封の時、播州の傘職人金右衛門をつれて来た。これ が美濃傘の開発者だ。 元禄期に傘が各地で賞用され、蛇の目はその時に出来た 徳川頼房、鷹狩のとき肘を小姓土井甚作政道の胸にあて のだという説がある。享保期に日傘が京阪と江戸とで流行たり、肘を胸にあてらるれば当てられし者の命三年を出で した。寛延中に日傘禁止令が出ているくらいだ。 ずという説そのころ信ぜられたり。土井甚作、息せききっ かせいちゅうきゅう 加納は松平氏三代、次で安藤氏、苛政誅求をした。安て頼房の馬に追いっき、頼房の胸に肘をあっ、頼房怒り、 きた 藤氏の後は永井氏で宝暦六年に移封されて来り、百十四年「何をバカ」と叱る、甚作日く、肘胸にあたる命三年の内 にして明治維新となった。 という、それでは一命を主君に奉られず、命大切なれば斯 ところで美濃傘は、代々の藩主の財政窮乏が傘の手工業くの如しと。 発達を招ぎ、その生産高を大ならしめたのである。安政期甚作の千石にて抱えられしとき、世人日く、甚作には百 おばしめし にありては、その産額五十万本という。安政六年には「傘石、土井に九百石の思召なるべしと。 一本」「傘二本」「ろくろ一」「ろくろ二」の如き藩札をさ甚作の病みて死せんとするとき、頼房来りて日く、汝予 え出した。 の馬前にて予の命に代わるとつねづねいいしこと、今、死 抄傘は分業化されていた。但しこれは単独ならす兼たるもしては偽りとなると。甚作、むつくと起き、甚作決して死 眼のが多かった。 せずと、湯づけ二椀を食し、それより全快せり。 柄竹屋、骨屋、ろくろ屋、横揉屋、繰込屋、繋屋、紙染甚作は長き刀を帯す、頼房日く、余り長いが抜けるか。 屋、紙継屋、張屋、仕上屋、飾屋。この他に撥条、金具そ甚作三間ほど退き、抜いて見て答えて日く、抜けますにご ざりますと。これも「水戸暦世譚』五十四にあり。 の他や、日傘なれば模様描きなどがある。 あんど ひじ

4. 長谷川伸全集〈第10巻〉

れ、その何楼とかいった遊女屋へゆきました。本番の妓夫ねてくれるので、それじゃあ花魁衆すみませんがアマ台を あき がまだ残っていましたから朝のうちだったのでしよう。新一枚通してくださいといったのが、一座を惘れさせたよう コが呼び金をもって来たというと、妓夫は心得ていて、仲です。 どんを呼んで二階へ知らせ、おあがンなさいと云った。幼そうかも知れません、海老虎や初めての女達に、子供あ いとき知った品川へ先頃行き、台屋の出前持を暫くやってがりの奴がアマ台一枚などというのは、そうサラにあるこ きた後だけに、新コはこういう処で遊んだことはないが、 とでもないでしよう、それに花魁衆といったのが、海老虎 知らない世界ではないので、〃お座敷通り″という面会者よりも女達にはあッというほどの意外さだったのでしょ 扱いだとすぐ合点がゆき、仲どんについて二階へゆくと、 おいらん こちらでと仲どんは新コにいって、障子越しに、何々花魁新コは二度目の品川で、陣屋横丁にあった魚角という台 でまえもち かまめし お座敷通りですと断って障子をあけました。そこは突ッっ屋で、暫く出前持をしていましたから、釜飯といって二人 きの小間で、簟笥・用簟笥やら長火鉢やらがあり、押入に前の小釜で焚く、汕揚入りの信田飯、蛤あさりの深川飯、 もえきから 萌葱唐草のゆたんが見えていました、これも新コの知って鶏肉入りの一番飯などは焚けました。出前は多く遊女屋 いる、どこも大抵おなじ物の本部屋です。間の襖を向う側で、素人屋へも行きました。魚角の亭主はいなせな料理人 から遊女があけると、新コの眼には珍しくもない派手な夜で、かみさんは母親のように年上で、叱言は一切その口か 具の上に、海老虎が起きあがっていて、新コさん何でもおら矢次早に八方へ飛んだ、どうやらこの人が一家の権利を ごるから遊んでゆきなという。海老虎の相手の女が、小間押えているようでした。年古りた後新コは、陣屋横丁を訪 へさがって身づくろいをしているうちに、二人ばかり遊女ねましたが、おなじ名の仕出し屋はあったが、何度か代が がはいって来て近くへ坐り、何の彼のと機嫌をとってくれ変り、魚角の角が覚に変っていました。錯覚ではないと思 たが、新コは忘れるともなく忘れていたが、女達の躰にか 出前持をしているときに、今もあるかどうか知らない のかっている年期だの、証文面に加算されているだけでしか みずきん しんたま 耕ない不見金だの、新玉だの初見世だの、台の物一枚に酒一が、沢岡楼という遊女屋に越後生れの遊女がいて、本名は る 本のことをいう一枚一本だのと、そんなことが思い出され確かおたかさん、源氏名は忘れた。この人が新コに身の上 あ て、こういう処にいるのが厭でなりませんが、海老虎はじを聞き、その若さでこんな処にいて末はどうなると意見さ め女達が、何がいいかと食い物飲み物の好みを口数多く尋れ、銭と菓子とを貰いました。これが新コが後に作った 、 0

5. 長谷川伸全集〈第10巻〉

分で紅白の梅花を次郎に彫らせて激励したるが、梅吉の刺 ろうがい 青は仕上らず、風邪がもとで労咳 ( 肺病 ) となり、遂に死せ 車屋おらくの刺青 おらくは一生男知らずで終りたり。活弁花やかのころ土 明治十二年頃の銀座の〃美人番付。によると 0 筆頭が宇屋松濤これを映画化し、熱演したしと念願したることあり 野丸甚五郎の娘お岸 ( 銀座一丁目 ) 、車屋江一尸八のおらく ( 鎗しが、実現せずに終りしと ( 柳原緑風「明治銀座評判娘』 屋町 ) 、牛屋のおゑい、河井のおあい、紺屋のおさく、時計「銀座」八巻二号、昭和十五年二月号 ) 。 屋のおまき、しやも屋のおかね ( 銀座二丁目 ) 、その妹およ し、すし屋のお若、牛屋の松本のおつる ( 尾張町 ) 、学校の 静岡青楼と名泥工 お嬢さんおこと ( 竹川町 ) 、その妹おとみ、鳶頭の娘おじゅ う ( 弓町 ) 、梅ケ枝のおふく、時計屋のおよね、鳥屋おふさ にちょうまち 静岡市の安倍川町は遊女街にて、二丁町という由、蓬 おらくは車屋小町、父は江戸八と通称、尾張町以北の西莢楼という四階建ての遊女屋に、鏝細工の人物花鳥その他 く粤まやど いろいろあり、加藤某の談では伊豆の長八の門人の細工な 側を丁場とする俥宿。おらくは一人娘なり。 りといい、法月俊郎 ( 吐志楼 ) の説では長八と関係なき全く 梅ケ枝のおふくの兄梅吉は妹おふくの寺小屋友達おらく に惚れ、われから進んで江戸八の輓子となりしが、そのこ別途の泥工の作なりという。 いれずみ この名泥工は若松斎鶴堂といい、本名は森田太十郎、八 ろの輓子はみな刺青あり、梅吉のみなし、故に軽蔑された るが、その裏には、車屋小町に惚れている美男というがヤ十一歳のときの写真が蓬莱楼にありたり。その作に「曾我 の討入」「赤穂浪士の討入」「楠公」「秀吉と柴田」「熊谷敦 ッカミの種なり。 おらくは梅吉をかばいしが、仲好しの鳶頭の娘おじゅう盛」「日清戦争」その他あり、更に「松」「藤」「秋草に雨」 の発企で、おらく、おふく、それにおじゅうを入れて三人「桜」「竹」などあり。いずれも四畳半の四壁につくれり。 娘が新富町櫓下の彫師次郎、後年、櫓の次郎といわれし男人物の眼にはギョグを入れてあり、桜竹藤などは本物の幹 などを入れてあれど、細工と本物の区別つきがたし。表が のもとへ梅吉をやりたり。 梅吉通いしが痛がりてつづかず、負けぬ気のおらくが自かりは四階建てに戸袋五ッあり、いずれも神代人物を一人

6. 長谷川伸全集〈第10巻〉

生る、三十四歳江戸に出で、後藤恒後に学び、伊藤鳳山にの者をあつめ名残りの杯をせり。もしやと思いしこの連中 学び、後に勝海舟の門に入る。 のなかにも遂に代行者はなかりし。ところが、一番最後に その伝は乏しきが如し、「佐藤政養伝』わずかに「横浜おくれて駈けつけたる人足頭の源左衛門が、あッしがやり ますと、恩返しに買って出て、ハマへ行き太田屋が送る材 近郊文化史』にあり。 木で家を建てた。地所は広い方がいい、家は一軒でも多い 力いいという幕府なのだ、太田町はこれがはじめだ。 人足頭・源左衛門 源左衛門はまず弟平三郎を呼びしが、平三郎は居留地係 なり。平三郎の手形がないと居留地へ女がはいれなかった 野沢枕城 ( 藤吉 ) の「現在の横浜』 ( 明治三十年刊 ) は多という。この女というは岩亀、神風の遊女の居留地通いの 分「横浜新報』に出たものを纒めたものならん、刊行署名ことなり。 人西村巳之吉。西村渡満以前のことにあたる。同書は二十二年目、二千余両の利金をもちて江戸の太田屋に至り差 年以前から説き出して現在に及べるを以て、正しくは明治出せしに、俺の方で礼をしようと思ったに、それはお前た ちのものだというので、兄弟はその金をそっくり品川でつ 十五、六年頃より明治二十四、五年頃までにわたる横浜が かってしまったとい , フ。 書いてある。 横浜の太田屋新田の太田屋とは、江戸深川の木場問屋太源左衛門の菩提寺は地蔵坂蓮光寺にて、初めは太田町に 田屋某のことにて、幕府より横浜に貸家を建てることを命源左衛門が建立せしが、後に地蔵坂へ移転せしなりと。 ぜられたるなり。物騒な横浜という新開地、血腥いことも よそ 日夜にあり、他所者に対する排他的な気持もありで、太田 清水次郎長の談片 屋の主人は自らハマへ行くことを怖れ、三十余人の店員を 抄集め、だれか代行するものはないかといった。が、だれも 次郎長は甘い物好き 眼行くという者がない。主人が怖ければ、店員は尚怖かった のだ。 主人は代行者が店員中にないと判りしかば、お繩をうけ るよりはハマへ行って死なんものと漸く決心がっき、出入清水の次郎長の姉の子を浅井惣七という。女の子のみだ

7. 長谷川伸全集〈第10巻〉

ろへ今いった将校があらわれたのだから話は忽ちついた。欲をなんとかして誘い出そうというので、若い学生が重箱 シャとシェーンの料理は前後一一回で、第一回はシチュー をもって行った先が、下町で有名なすし屋の一つであっ ・ワン 風なもの、これは兵隊を甚だ喜ばせた、が、ニャー 汁の経験ある兵は忽ち感づいたものの、上等やこれはと褒病人に食べさせるのだからと、訳をいって頼むと、うン めたという。勿論、一人の中毒者すら出さなかった。第一一ともすウともいわないが、売ってくれるものと思って学生 回は将校は一人三十匁ずつの天麸羅、兵隊は矢張り三十匁は、長いあいだ待っていると、結局、すしを重箱へ入れて くれたので、金を払って帰ろうとすると、そのすし屋の倅 ずつ、馬鈴薯を入れた煮付けであった。好評は前とおなじ であったが、四千五百人の兵隊の中から二十余名の中毒者だか主人だかが、おい待ちな、当り前なら売ってやらねえ が出た、但しその中毒はシャとシェーンからでなく、使役ところだが、特別に売ってやったんだから有難く思いなと いってすぐ、常連らしい客四、五人に顔を向けて、ねえ、 の兵とその指導者の手抜かりで、馬鈴薯から芽をつみとら そうだろうというと、客たちが、愉しそうに声を出して笑 なかったのが原因であった。幸いにこの中毒は軽かった。 さてそこで、話の受け売りに罵詈讒謗を加えた男に、そった。このことを私は、病気が全快してから聞いた れは違うだろう、志智中尉たちのやり方はこうであったは ある日、友達に伴われてきた客が、世間話をしているう ずと、伝言しようとしたところ、その男は早くも勤め先にちに、今いったすし屋についての話を聞かせた。前いった 席がなくなっていた。事によるとこの男、今も、戦時中の重箱ずしの二、三週間ぐらい後である。 中野江漢といって、すばらしい体で、すばらしい健康 岡山の部隊では、兵隊に猫と犬をくわせ、おのれらは牛肉 で、すばらしい腕力の人が、そのすし屋へある夜、ぬッと を食べてと、ロ軽く喋っているかも知れない。 記志智君は五、六年前に、このことをも併せて書いた『一一一はいっていった。常連が何人かいる。そのうしろにぬッと 爐等少尉物語』を出したが、今はもう探したとて見当らない起って、倅だか主人だかが握ったすしを、仁王尊のような 腕をのばして、とるが早いかロへ入れる、その早さ、目に 許物になっている。 ふうばう 足 もとまらずである。すし屋は疳にさわったらしいが、風貌 我 2 すし争い 魁偉で、肩ひろく、腰太く、ロは一つもきかず、握ったす しを片っ端からとっては食い、とっては食いである。客も 大正のおわりに近いころ、私が病気で寝ているとき、食これに圧倒されて息を詰め、この成りゆきどうなることか

8. 長谷川伸全集〈第10巻〉

惨死したり、死体はあれど引上ぐるすべなく、鳥獣の餌食二番型拳銃、二間の竹槍を携えたり。 となり、その亡魂が出ずるなりという。これは作り話でな 肥後菊池郡に菊の池あり、中古、足利に抗したる菊池 く、近江屋の五助、大和屋の権六、宮の下奈良屋の八蔵、 氏の庭跡といい伝う。昔からこの池に入れば命を失う 底倉俵屋の三平など、幽霊を見たりという。 といわれ、荒廃甚し、雲梯の年少のとき、この辺に到 早速、近江屋の五助を呼びて雲梯が聞きしに、早雲寺の りてそのことを聞き、単身その禁を破りて村人に示せ 坊さんが一七日の祈檮をした翌日、宮の下まで買物にゆき し為、後に数丁の美田となり、日本第一の良米を産す し帰りがけ、夜十時頃、驟雨にあい、滝の家から五十歩ほ る地となりしとい、つ。 どの処にて先方が明るくなりたれば、驚いてみれば幽霊が左は断崖、右は峻山、三丁程を一時間かかりてのばりた 出ていたのできやッといって倒れ、正気づいて起きあがつるそこは、五助が幽霊をみたる処より三十間ほど離れおれ てみれば何もなく、水の音のみ聞えしかば、狐狸が化かせり、若者達は坂下にあり。 しならんと残念に田 5 った途端、青い火が燃え、そのうしろ その日、雨あり、やみつ降りつす。風そのとき吹いて渡 に髪ふり乱せし、男か女かわからねど立っておりたり、何り、十四、五間先に青い火燃えあがりたり、熟視するうち としてそこから逃げしか、気がついてみると、そこは奈良に火は消えたり。五、六間進み寄りしに青き火再び燃えあ 屋 ( 宮の下 ) で、既に翌日となりおり、それより十日程熱をがり、そのうしろに果して人影あり、画でみたことある幽 出せりという。大和屋の権六は幽霊に出会い、高熱を出し霊の通りなり。雲梯はそのとき幽霊はなしと思いおりし て、四、五日前に死去せりという。 に、実物ここにある如し、然らば談話して学界に寄与せん 雲梯は五助を案内に昼間、滝の家に到りて聞けば、このと近づかんとせしに火消えたり、ふと心づけば青き火燃 家のものは一人として幽霊をみざるはなく、そのときは番え立ちし処に、幾千万の螢を集めしが如き物あり、馳せ寄 人が一人いるのみにて、家の者が逃げておらず、客はもと って竹槍にて叩きしに木の株にして、竹槍の先に螢火の如 抄よりおらず。引返してその夜、雲梯は幽霊退治に出発せんき物つきたり、即ち燐火なるを知り、蝦マッチを点じてみ 眼とするや、鉄砲、竹槍、芹、鎌、刀を持参にて堂ヶ島はじれば、全く古き木の株より発する燐光なりしかば、拳銃を め宮の下、底倉、木賀の若者が聞き伝えて参加を申出でた空に向けて射ちしに、若者達スワこそと馳せつけたり。仔 1 り′・ 細を告げて検めさせ、幽霊とみしは岩角にして、手とみた 夜九時、雲梯は蝋マッチ、西洋蝋燭、兼正の短刀、三十るは竹葉なりと示したり。木の株は楠なりき。若者たちは あらた

9. 長谷川伸全集〈第10巻〉

110 論〃ということは、十二、三歳の現場小僧以来、歩いてき に、その実態がもうあったもので、長崎丸山の遊女が出島 ひとよめかけ しゅうかんまち た諸所で抜きさしならず身についてしまったもの、といえの和蘭屋敷へ一夜妾に通ったとおなじく、洲干町の廓から ば云えないものでもないのです。 居留地 ( 租界 ) へ遊女が免許状をもって通った、それもあり あげや 土俵溜にちかい席で、懐中を「大日本歴史』でふくらま又、長崎同様に江戸錦画的な異人揚屋が出来たのだそうで せている新コを、軍次はやがて見付けて傍らへ来て、急なす。明治になってからは高嶋町という埋立地で、草深くな 用で是非ともの相談があるから、小屋の外へ出てくれとい っている処へ移転を命令され、洲干町はやがてして横浜公 う言葉っきに、尋常でないものがあるので、ああそうと答園地になり、現在もそのままだから、昔ここに入場料をと えただけで外へ出ると、軍次が一言もなく先に立って歩く って旅客に見せるほどの豪華建築があり、一軒で百人以上 しゃべ だけです、平生はお喋りで、世故に通じていて、新コよりの遊女を抱え、特定の人の見物に限られはしたものの、芝 本の数を多く知っているため、片時も沈黙していない男居興行が楼内の女達だけでやれたという、有りそうもない が、唇が片ッ方とれてしまったようにしているのは、何か実際があったとは、謡曲の『邯鄲』のいう栄花の夢は粟飯 しら緊迫性をちらっかせるものだったが、新コは黙ってい の一炊のことなり、不思議なりや測りがたしやです。京浜 るのが平生だから、軍次が口を切らない限りいつまでも何間の鉄道が布設されると高嶋町の遊廓の方は、客車の中か もいいません。雑沓している街を通り越すと、場末らしい ら丸見えなので取払いが命ぜられ、長者町の仮宅時代を経 まがね 形相の街へはいる、横に曲ると何軒目かに青物屋がある、 て、真金町を主とした一廓に移転したとき、海遠く越えて その前で軍次が新コを待合わせ、初めて並んで歩きながらきた外国人のためのみの、形式も実際も異人屋という特殊 しい出したのが、ニッコウ・ハウスにお家騒動がオッ始ま性のものが出来ました。それには前にちょッと触れておい っているので、僕は弱い女達の方の味方についたが、形勢たが、その中でナンパ ー・ナインという神風楼が、名実と が甚だ悪い、新コさんスケ ( 助勢 ) てくれないかという頼みもに第一位で、チェリー ハウスの桜花楼やハナ・ハウス です。 その他、何軒かあるその一ッずつに年と共に移り変りはあ ニッコウ・ ハウスというのは遊廓地にある特殊の見世ったが、 異人屋が跡を絶っということは、その頃まだあり で、日本人を元来は客にしない異人屋という、幾軒もあるませんでした。神風楼は高嶋町の廓取り潰しのとき神奈川 遊女屋の一ツです。異人屋はこの土地が開港地になったと 、和人向きと洋人向きに分けて、建築様式から客間・寝 き、田圃と沼沢地を理め立てて娼楼がはじめて出来た幕末室、それから女の化粧衣裳まで、趣向を別にした大仕掛け でじま

10. 長谷川伸全集〈第10巻〉

ダメ、老紳士は用心などしているらしくもないのに、乗ずへ、これこの通り手に入れたといって持ってゆき、自慢し たいのです、というと老紳士が笑って、よろしい売ってや 2 べきスキがないのである。 その後、何人かが行ったが、どれもこれも失敗であつろう、これがなければ、この次から妙なものに付き纒われ た。このいずれもが仙台上野間のことだというから、仙台ないですむ、といって、いくらだったかで売り買いが出来 から老紳士が上京する用向きとか日とか時間とかを、巾着た。やがて仙台が近くなると、お金をなくさないでくださ い、私が素姓をうち明けただけに、どうも気になります 切の方で調べたものらしい 二年近くの間に、何人かの巾着切が失敗した。こうなると、二度とか注意して、汽車が駅へはいると巾着切が、で はご機嫌よろしく左様なら、お金は大丈夫ありますねと念 と聞き伝えて、方々から、腕自慢の巾着切が出てきたが、 を押し、それではと、老紳士を先に下車させ、巾着切はあ これが又みんなダメであった。 ところが一人の巾着切が、それまでのものとは逆に、上とから下車し、ホームから改札ロへ出て、巾着切が老紳士 野から仙台へ向けての汽車に乗った、例の老紳士と隣合せを追い越し、左様ならといったときは最早、老紳士の懐中 には時計の代金と旅費の残りも一緒になくなっていた。 の席を占め、仙台にあと一時間ぐらいというとき、巾着切 が実は私は掏摸で、あなたの金時計をとってこいと、仲間前にある話のやり方もこのやり方も、骨法は一つであ 一同からいいっかって来たのですが、断念します、恐らくる。惜しむらくは、これでは骨法のつかいどころが悪い。 私どもの方の日本一といったようなものが出てきても、あ なたが相手では私と同様、断念するよりほかありません、 というと老紳士が、この時計に目をつけたものが上京のそ終戦後、アメリカから交換船で送り返されてきた中の一 の都度、一人又は二人、甚だしきときは三人も、交代か別人の中年の男の一家が、東京から三百里余りのところにい 組か知らぬが、それとなく付きまとうので、或るときは面る或る事業家が旧友なので、生きてゆく道を相談したとこ 白く、或るときは蒼蠅い、といって笑い、君は今までののろ、パチンコ屋をやるといいと、資金を出した。そのパチ ンコ屋が繁昌して、何軒かのパチンコ屋をつくるところま 中で一番いい男だ、といっこ。 そこで巾着切が、その時計は由緒のあるものですかと聞で行ったので、一家の生計がやや確立してきたところでパ くと、いや何の来歴もない、貰ったからもっているだけだチンコ屋をみんな値よく売って、キャパレーをはじめ、こ という。それでは売ってくれませんか、私は仲間のところれが当った。店は二度か三度かに拡張された。 ら′ス 1 み、