てすか、ドッですかと。そうしたらその人は大袈裟に頭の子供の〃生涯の記憶〃の中の一ツになった。子供はその を両手で叩いて、新コの奴がまた妙な質問しよると笑ってとき自分のことをいわれている気がして、何ですかとそこ にいる人みんなに聞いた。しいンと一時なっていたが急に 教えてくれなかった。 阿野阿之輔という色の赤黒い現場掛りがいた。現場経験笑い声で一杯になった。笑い方が嘲笑だったか、それとも がない人らしかった、だれかこの工事に関係が直接で地位そんな物と違うものだったか、子供にはわからなかった 通いの現場小僧新コになって間もなく、外六父子は江 の高い人の姻戚だったので、ここへはいっているらしく子 供の眼にも映っていた。この人は昼飯の時間のとき、みんロ邸にいなくなった、そんなことは新コは何とも思ってい なかった、が、庇護してくれた一ッ一ツのことは忘れた ながする馬鹿話の中に加わるのが常だった。或る日、とい うのは子供がここにかなり慣れてしまい、外六がつけたのが、庇護をお駒さんにうけたことは忘れなかった。その ろと人はいわず、新コと呼ばれ、機敏に飛び廻るようにな後、松影町三丁目の酒店のおかみさんになっていると聞 ってからだった・江口邸の女中お駒のことが話題になっき、礼をいいたさに行って探したが遂にわからず終いにな った。覚東ない新コの記憶だがお駒さんは美しい人だっ た。だれかがお駒がヒマを出されたそうだ、江口さんが引 はねっ ッばって刎付けられたからだろうという者があった。それた。 は違うと異説を立てるものが出て、あれは情夫が出来たか新コはやはり本が買えなかった、月給袋はそのまま家へ らヒマを取ったのだといった。その情夫はだれだ、ここの入れ、いつも懐中に五厘銭もなかった。 父はそのとき品川から祖母を迎えとれるくらしになりた 連中が知っている者かというものがあると、あれではない かこれではないかと、いろいろな男の名を挙げた、それまくて、必死に働いていた。 で黙ってにやにや聞いていた阿野阿之輔が、あいてのおと こは吾輩が知っとる、諸君の想像はあたっとらん、真相を 弁当小僧 知っとるのは吾輩のみ、その真相たるや意外とも意外とも 意外なる人物じゃと子供に横目をくれていった、みんなが それはだれだとわいわいいうと阿野は、意外なる人物とは 意外なる人物じゃといって、茶をついで歩いていた子供の 方へ、横目をつかって八字髭を横撫ぜした。この横目はこ土丹岩と赤土で桜木町の往来際から、河を埋立てた突ッ
道具 ) 、ノビ ( 窃盗、忍び込みのノビ ) 、叩き ( 強盗 ) 、ギ ( 詐欺師 ) 、夜、刀を抜いていとに迫りたり、しかもいとの寝室に於て 娘師 ( 蔵破り ) 、邯鄲師 ( 枕探し ) 、按摩 ( サギ賭博 ) 、モサなり。いとは暫く猶予を乞い、刀下に死すること怖るるに ( 掏摸 ) 、かせぎ ( 万引 ) 、突っこみ ( 強姦 ) 、赤者・火 ( 放火者 ) 、非ざれど、一子幼にして仇撃の事いまだ成らずと語り、与 見留め ( 監視人、認メ印を押しに警察署へくるから ) 。 惣右衛門にして仇撃せば二夫に見えんといいたり。 明治元年七月十七日、与惣右衛門は宮田忠左衛門が八日 市邸よりの帰途、要撃して殺せり。約東なればいとは与惣 布施いとの哀話 右衛門の意に従いたり、然るに与惣右衛門は功に誇り、放 恣を極め、布施家為に倒れんとす、諫むれど肯んぜず却っ 大森陣屋最上家 ( 五千石の旗下なり ) の士、布施内蔵太、て専横いたらざるなく、殊に酒癖悪し。いとは進退に窮 代官役にて江州蒲生郡大森村に在り。江戸邸より国詰となし、明治四年十月一一十六日の夜、隣家より泥酔して帰れる りし足軽頭宮田忠左衛門と氷炭相容れず、藩主最上氏は深与惣右衛門を刺殺し、頓死といいて葬送せり。 く宮田忠左衛門を信じたれば布施内蔵太の建言いつも採用与惣右衛門の死につき世評兎角にあり。官憲これを耳に されず、内蔵太は忿懣の極み自刃したり。布施内蔵太の妻し、明治五年十一月、いとは八日市に拘引され、大津裁判 は水口藩山口氏の女にて名はいい、文政九年正月生る、二所より出張の宇津木 ( 中等属宇津木孚明 ) 、内田等の判官これ を糺問すること竣烈なり。県令は松田道之なり、判決容易 十歳、内蔵太に嫁ぎ一男四女を挙げ内一一女夭す。 いとは宮田忠左衛門を亡夫の仇としこれを討たんと欲しに下されず。 たれど、子女幼く容易に決行し得ざりしが、たまたま最上明治七年一月、東京上等裁判所に移され、九年八月懲役 氏の陣屋に江戸より来りて武術指範役なる丹野与惣右衛門三年の判決あり、情状酌量せられ一一等を減ぜられしなり。 ( 丹野与三右衛門と記せるもあり明治元年九月、文武館ー明道館と東京監獄に収容されて後、いとは着衣の紺糸を唾にて湿 抄いうー創設され、文学は田中勝三、高田喜太郎、武芸は鳥越準左衛し墨に代え、又は瓦の破片を硯とし木炭の破片を墨に代 眼門、丹野与三右衛門なり ) といえる剣士あり、いとの長子初え、捻紙を筆とし、 子を思ふ心の闇にふみ迷ひ道を忘れし身こそ恥かし 太郎 ( 後に友政という ) 年漸く長じ武芸を与惣右衛門に受け 世の中に憂もつらきもありぬれど我身にまさる憂は るに及び、与惣右衛門はいとの容姿の美しさに心迷い云い あらじな 寄りたれどいとは応ぜす、粗野の性なる与惣右衛門は某
上に厚く下に薄く、というャツを是正してくれ、殊に正直中二日たって三十日、私もかみさんも外出していると 者の貧乏人には厚くすることを心がけてくれという意味がき、あの運転手がきて、何ごともなく済ましていただきま はいっているのだ、といったがダメである、あの運転手はした、忘れませぬ、といって帰ったそうである。そのとき 処分されます、と営業所長も事故掛長もいった、大石主事まで名を知らなかったが、板橋君というそうな。姓だけで は隅に引っこんで黙っていた。 なく名もいったのだが、聞いた家のものが忘れてしまっ その頃はまだ怒ると体中がポカボカして、頭も目も冴えた。 て、動きが軽快になってくる、という妙なところが私にあ った。このときも形容のしようがないくらい好い気もちに なって、それではポグとして最後のテでゆく、あなた方に飛ばされたとき私は右の小指を先に、次に掌、それから は圏外にお下がりを願い、東京市長を相手に一ト喧嘩ぶち二の腕と肘と次々につき、それから右肩から右の臀、次に ましよう、ポグは非力で、無学で、弁舌もダメだから公開左の踵をぶつけ、そのあとから右の足がやンわり落ちたら 喧嘩状というのをやる、幸いにも私は、只今ならば若干のし い。これは傷と、あとから出た痛みから見てのことであ 虚名をもっているので、市長相手の公開喧嘩状は、大新聞る。といっても私は武芸は一つも知らないのだから、時の のうち一紙だけに持ちこめば取りあげる、取りあげなかっ拍子でそうなっただけである。 たら、取りあげざるを得ないやり方がある、さあ、もうお右肘と二の腕の皮膚がくされはじめた。医者の手当をう 前さん方に用はない、帰ってくれ、帰るんだ、とやらかし けたが、悪化するばかりである。左の踵は揉んだのが効い た。狼狽の色が所長にも掛長にも出た、大石は首をつき出て治った。臀の痛みもとれた、右の肩が痛みだしたが、こ 記して黙っている。 れもやがて治った。 八月にはいると、右腕がひどく痛む。外出のときは汕紙 爐所長と掛長が何か話しあっていたが、所長がいった、折 許角のご厚意です、例の運転手は叱言の程度ですませます、 をまいた。寝床には油紙を敷いたが、シーツを汚すこと毎 足 有難うございます。といった。後で大石から聞いたのだ晩である。医者の手当がすこしも効かない、どうしてこう 我が、そのとき所長も掛長も落涙していたそうである。 なったのか医者にもわからない。事によったら、四円払っ あらた お茶を更めて出し、菓子も更めて出した。私の体中のポたときの医者が、薬を誤ったのではないか、或いは薬の濃 カボカはまだつづいていた。 度に間違いがあったのではないか。 なか
の尺、しようがない、せめて母親とおなじ愛情の女の人があって食べさせ、金を三百円だかわり、さっきのような事を 0 て、あの子に身も心もうち込んでくれたら、或いは育っすると自分で不幸を自分のためにつくるということを話し かと思うが、それも千に一つの頼み少なさだと、こう云うて別れたそうで、その後、その小さな姉が働いて得た中か のを聞いたヨソ者の女で、そこの町の工場で働いていたのら、百円だけ返したいと、投書の中に百円硬貨を一枚入れ て、新聞販売店へ投げこんだ、というのがあった。 が、あたしにその子を育てさせてくださいと買って出て、 子どもの父親や親類たちも、それではとヨソ者の女に子ど両親のない女の子が伯母の家の厄介になっているが、お 腹がへってならないので、棄ててあった物を拾って食べた もを預けたのです。 のだろう、都心から少し遠い公園で、腹が痛くなって困っ それからその女の我を忘れての養育がはじまり、長いド にわたって困難もあり絶望しかけたこともあったのですているところへ、どこかの娘さんが通り合わせ、持ってい が、とうとう成人させまして、前に申したように今ではちる薬をのませ、話をしているうちに治ったので、娘さんが ゃんとしだ先生になっておられます。以前はヨソ者の女でお金をはらって女の子に食事をさせ、腹痛の薬を袋のまま も、今は先祖代々の土地のものと全く同格です。その女くれて別れた、ところが薬の袋のうちにペンダントがあっ は、子どもが幾つのときでしたか、子どもの父と結婚しまたので、女の子が仮名文字だけの投書をつくり、薬の袋と ペンダントとを添え、新聞の売捌店へ頼んで新聞社に届け 今では壮年期に達している先生が申すのです、私が毎日てもらった。 この二つとも朝日新聞の東京版にある〃読者のひろば〃 こうして人さまに何ごとか教えていられるのは、母が私を たまもの 生かしてくれたその賜物です。私は観世音の化身の母に育に、昨年のいつごろであったか出たものである。ウロおば てられてきたのです、とこのことを口にするときは、襟をえのところがあるが、そうひどく狂ってはいないつもりで ある。 それとなく正してなさいます」 明治初年、白川八十助という越後村上の旧藩士が、ある 幼い弟をつれた年のいかない小さな姉が、空腹のためだ ろう、何やらを万引きしかけたのを、高校生だか中学生だ朝、網打ちにゆくとて家を出たが、時刻を間違えて早過ぎ 、刀、カ 、人にわからないように止めさせて、食堂へつれて行た、そこで馬喰町の河内大明神の境内にひと休みしている
465 解説 体力の限界ぎりぎりまで耐える、という人並はずれた強さが著者にはあ 0 た。だから戦時の食糧難 のあいだも、決して闇の物を買うのを許さず、焼け出されて自宅に転がり込んだ罹災者一一十数人と同 じ、わずか数きれの芋と数十粒の豆という食事を続けた。終戦当時には栄養失調にな 0 ていたし、戦 争がもう半年も続いていたら、著者の体力は保たなかったに違いない。それでいて、空襲下で「日本 捕虜志」の草稿を書き、敵討の研究を怠らずにいた。 二度目の入院も、一時は快方に向って、五月六日に退院をした。著者は、これで回復すると信じ、 快気祝を作 0 て、見舞にきてくれた各方面へ挨拶状を出した。生きて価値を見出す毎日をこれから送 りたい、という意味であった。だが、再び風邪が原因で、容態は悪化したが、なかなか再入院を承知 しない。ようやく、七保夫人をはじめ新鷹会員の進言を容れて、再び聖路加へ入院したのが六月五日 であった。それより前、著者の再起不能を知って、門下生の有志が協議し、著作権と蔵書を新鷹会へ 譲与して下さるよう、それとなく病床の著者へお願いをした。前例のないことだとは思うが、著者の 著作権と数万冊にのばる蔵書を保護し、後進の育成に役立たせたい、と考えたからであった。著者が すぐ承諾をしてくれたので、七保夫人の同意を得て、文部省へ財団法人設立願を呈出した。 正式に財団法人新鷹会が発足したあと、六月十一日、著者は永眠した。お通夜の日、著者の机の奥 から、著者自筆の、歿後かくあるべしという指示書が夫人によって発見された。 それには、長谷川伸の著作物より生ずる出版、興行の収入は、挙げて二十六日会、新鷹会、一般の 文学芸術に於ける新進ならびに新人の庇護に使用すべし、とあ 0 た。門下生の願いと同様のことを、 すでに著者は、昭和二十年十二月一日の時点でそう決めていたのであった。 二十六日会は、著者を中心とする劇作研究会で、いまは新鷹会に合併されている。 「我が「足許提灯』の記」は、十九話に分れているが、そのどれもが従来の著者の小説、戯曲、随筆 の中にはなかった話がほとんどであり、機にふれて門下生に話してくれた事柄も多く入っている。著 者の昔からの習慣で、人から聞いたり、読んだりした話で記憶にとどめておくべきだ、と思ったこと
屋の脇で、ずンぐりした男が駈寄ってきて、お可哀そうに ないでしよう、それでいいのでしようかとしゃべった。そ と涙を眼に溜めていった。髭だらけのその男は、色のさめれはこの現場小僧の思いっきだったのか、だれかのロ真似 た斎藤と襟字のある印半纒を着ていた。あたしは熊です、 だったのかわからない。新コを憎む人達は、嫌な顔を現場 おばえておいでなさるまいけど、ずうッと前に永らく大旦小僧に向けた。新コを憎まない人達は、面白いことをいう 那のお世話になったものですというようなことをいった。 と喝采した。そのあとでだれかを呼びに現場へ飛んでゆ だかりがしているところがあったので、 熊は今ここの芝居の楽屋に住んでいるのです、芝居がみたき、その帰りこ人 くなったらお出でなさい、そのときはこっちから来て、楽行って覗いてみた。一人の人夫がーー新コは土工と人夫の 屋番の熊といって呼んでくださいと裏の方へつれて行っ違いを知っていたーーとんば返りを煙草休みにやって見せ こ。楽屋ロだった。 ていた。軽業だと思ったら違った、その人夫は役者だった 父にその話をしたら、そうかといっただけだった。父はのだ。新コはその男の顔をおばえた。 そのことを祖母にした。忘れずにそういってくれたのかと 役者が人夫になったのは、役者をやめたからだなそと、 涙をこばした。新コはおばえていないが、祖父が盛んなこ新コは考えっきもしなかった。あの男にあったら芝居の話 を聞こ , っとだけ田 5 った。 ろ、熊は家にいた多くの中の一人らしかった。 新コは海が荒れて工事を休む日があると、芝居小屋へ熊幾日たってからだか帰りにその男と一緒になった。この を尋ねてゆき、楽屋口から入れてもらって、芝居をみた。 間ひっくり返ってみせたあれは、芝居でやることだろうと 平土間に仕切りがなく、追込みと俗にいった、値段の高い聞いた。妙な顔をして笑っていたその男は、それから芝居 見物席は、階下と階上と正面だけの桟敷だけだった。初めの話を歩きながらして聞かせた。おもに立廻りの話だっ て見せてもらった芝居は何だったか忘れた、市川権十郎だ た。話をしているうちにその男は、手真似を入れてときど ったか沢村源之助だったか、見ることは見たが、何が何だき声色をつかった。野毛の都橋のところで、まあず今日は かわからないが面白かった。 これぎりと、太鼓の音を口でいって別れて行った。 かば 事務所の人の中で、新コを庇う人が幾人もいた。憎んで ときどきその男と帰りが一緒になった。新コの方で一緒 いるとはツきりわかる人も幾人かいた。あるとき新コは、 になるようにしたのだ。芝居の話をいつも聞かせてくれ 、ことを沢山すると男爵になるでしようが、女がい 、ことを沢山しても、女爵というのがないからなれ いつの間にか役者の人夫がこなくなった。芝居の話は聞
て、批評や感想も挾み込んで語った。犀次にくらべると、 をどうしてよく見ないのだと又いった。新コには返辞がで 土工という職について体得したものがぐッと多いらしいのきなかった、一ト目じッと見たらそれでもういい、何度も です、それだけに勇助の思い出ばなしは殺伐なことにも及繰返してみる気が起らないというだけのものでした。新コ うえ - 一 んだ、無茶苦茶なことでもやはり犀次を遙かに上越すものはこの旅に出るとき一冊の本も携えてこなかった、腹へ巻 かたぎ があった、その話を忘れずにいたら、明治土工気質の一半いた晒木綿の間へ拳銃を突ッこむまでは、本をもって行く の一半ぐらいを伝えられたろうものを、新コはウワの空でとも持ってゆくまいとも思わなかったが、銃口が腹巻越し 聞き流した。新コが文筆ぐらしには、ったのは、それからに臍のちかくへ触れたとき、何ということなし本のことを 二十余年してからのことで、そのころは他人の語ったこと忘れた。だから新コは鼻グソをはぜるか、蜜柑を食うかし を材料に採るものになろうなそとは希ってもいなかった、 かしなかった。新コは風景も人物も大抵は一ト目みたらそ 又、そんな生活は知らぬ別の世界のことでしかなかったのれッきりで済まして、二度と見ることはまずありませんで でした。勇助の話のうちで憶えているというほどでもない した。自然にも人にも不感性だったのだろうか知れなかっ たま が、躰のうちに三発の弾丸がまだはいっているというのが た、無知の故のみではないでしよう。 あった、その箇所をみせたが、どこだったか忘れた、或い 言葉は忘れたが勇助が、どういう訳で鼻の先にいる別嬪 は弾丸をウケたといったのであって、躰のうちには、は、 を見ようともしないのだと尋ねた。新コは返事を略して勇 って残っているといったのではない、そんな気もする。古助の顔だけみた。新コさん又そんな眼をすると勇助がいっ あと い弾丸疵の痕というものは、小さなおできの痕みたいなも たのを記憶しています。眼のことは勇助だけがいったので とび のだと思ってみた、これが弾丸疵の痕を見憶えた最初でし なく、ドテ鳶の仲間の金公という、胸に朱入りで蛇を一匹 いれずみ 刺青していたのもいった。又、戦争というものはどッちか 新コは東海道の箱根から先を、汽車で下るのは初めてな ー、でなければ双方が、道徳を破るからオッ始まるもの ので、犀次や勇助は新コさん初旅だねといって笑った。富で、不道徳をやッ付ける戦争と、どっちもが不道徳でやッ 士山が近々とみえる三島あたりで、勇助が新コの脇へきて付けッこをする戦争とがある、不道徳をやッ付ける戦争は もったい 坐り、お山はいつ見ても勿体ないぐらい綺麗だねというか道徳が一方にある、双方が不道徳でやッ付けッこの戦争で ら、そうだよと新コは答えた。新コさんは富士のお山を一は道徳なんかどっちにもない、新コお前は道徳で万事が片 と目みただけだねというから、そうだよと答えると、お山づくなんて何処で聞いてきたんだと、グウの音も出させな ねが へそ
路時間も聞いたのだが、記憶しそくなった。又この人のいた部隊流して華僑の女を三人も妾にし、贅沢にふけり、貯金も 名と投降の月日、チャンギーの監獄に拘置された日数などは、 していたことがわかり、官職も剥がれ獄にくだされた、 彼が語るに急でロにするのを忘れ、私も問うのを忘れた。が、 とい , っことがわかった。 五十人や百人が島送りになったのではないから、おなじ運命 それにしても新任の収容所長のやり方は、前よりほん に落ちた人で、今も健在の人がどこかにいるはずと思う。幸い の少し良くなっただけであった。その所長が交代にな にその人たちの中のだれかが、ここで私が書くのより精密で確 り、新任者が又やって来たが大同小異でしかない ( 註・ 実な記録をのこすと、それは〃紙の上の記念碑〃になると思 主として労力を何にそそがせたか聞いたのだが忘れた、死者病 う ) 。 者については、彼も語りわすれ、私も問い忘れた ) 。 その島は小屋も何もないところで、野宿を三日やらさ 代々イヤな奴ばかりが続いたとき、そいつらとは人種 なら れ、その間に地均しから小屋掛け、道路つくりまでやっ が全くちがうようなイギリス人の将校があらわれた。食 た。司令はイギリス人の将校で、部下は植民地兵、雇人事についても労働についても、小屋の内外の休憩につい はその島にある街の華僑とその輩下らしい者たちであっ ても、理解し信頼してくれた。そしてあるときいった。 『私は戦闘中、日本軍の捕虜となったが、日本軍人は私 給与は頗る悪く、被服も靴もくれない。朝食は水のよ を深切にしてくれた、その好意を忘れかねて今、私は返 礼をしているのである』 うな粥、昼食はとうもろこし、夕食は粥。リ 高食物は一日 に八人に小さい鰯の罐詰が一つ、イギリスの祝祭日には この人があったので、私は今もイギリス好きである」 これも一日四人に小さい罐詰が一つ、という虐待であ 私は二度と岡田某に会うことが出来なかった。今は昔、 記る。 乱世であった時であったからである。 あしげ 爐労働は殴打と足蹴とを命令語に代用して、朝早くから 日没まで酷使した。ところがこのイギリス人の将校はシ 足 ンガポールへ召喚され、代りのものが来たが、この人間 我も日本人の捕虜を苛酷に扱った。そのうちに島の華僑で 捕虜収容所へ出入りしているものの口から、初代の虐待 酷使をやった将校は、捕虜への給与品のほとんどを横に ) 0
ぐりながら危なくないくらい。足許提灯も持ちょう次第で にも勉強だ、いいか伯勇、わかったか伯勇といったが、そ ある。 んなことは耳にはいらない。何をいやがる、ワザと見せび と、伯山がおい提灯を消しな、蕎麦を一ばい食 0 てゆこらかして天ぶら蕎麦を食 0 てみせる師匠があるとは知らな うと、伯勇をつれて蕎麦屋へはいり、天ぶら蕎麦を一つ、 かった、と怒ってしまったので、返事だとて生返事であ る。 酒を一合、それだけしか注文しない。伯勇が、おやおや、 がまち 上り框のところに腰をかけているおいらを忘れるのはひど お玉ケ池の家へ伯山を送りこむと、提灯を上り口にほう いよと思 0 たが、黙 0 ているより仕方がない。やがて酒がり出したまま、伯勇は浅草馬道の親の家へ帰り、晩飯を掻 くる、伯山がうまそうに呑んでいるが、十八歳の伯勇は酒っこみながら、とッさん俺は講釈師がイヤにな 0 たと、今 には心をひかれない。そのうちに天ぶら蕎麦がきた、伯山夜の天ぶら蕎麦の話をした。すると父親が寝床から起きて がそれをうまそうに食べて、勘定をはらって、伯勇、提灯きて、伯山の家のある方角に向って合掌して、どうも有り をつけろ、ああ、うまかったといった。 がとうございます、と礼をいった。伯勇は意地悪の師匠 つらら 外へ出ると軒の下に氷柱がもう出来ていそうな寒さであめ、何が有りがたいものか、と腹は立てているが、横にな る。暫く歩いてから伯山が、おい伯勇、お前も今夜みたいるとすぐ、若いときでもあり、寝てしまった。 に寒い帰り道には蕎麦が食べたかろうといった。伯勇は腹翌日の朝早く、伯勇の父親はお玉ケ池の伯山のところへ の中で、何をいってやがる、手前ばかり呑んだり食ったり ネにいった。伯山が喜んで、おとっさん、お前さんが一緒 しやがって、せめて天ぶら蕎麦の残りぐらいくれると思っ に怒ると伯勇の一代がダメになると内心すこしは心配して ゆとう たら、湯桶のソバ湯を入れ、みんな呑んじまやがって、としオカネ 、 ' ー、—J こきてくれたのでこちらは大喜びだ、伯勇は 怒っている。伯勇、お前は食うとしたら何を食べると伯山ね、みっちり修行すると大物になることは請け合いだ、お が聞くので、せめてブツかけぐらいは食べとうございますとッさんや、おかみさんと二人でうまく梶をとってやって と伯勇がいった。幕末ごろにはまだ蕎麦のモリカケのカケくださいよ、といった。 を、ブツかけといったものらしい これが、次郎長伯山と私どもがいっている、三代目伯山 伯山がそれを聞いて、おい伯勇、気を大きく持ちなよ、 を仕立てあげた師匠で、後に神田松鯉 ( 松鯉をマツリとも読 蕎麦のブツかけが食べたいなどとは小さい、種物のうち好ます ) といった、二代目伯山である。 きな物を食う気になれ、その代り一にも勉強だ、二にも三
すぐ、先ほど眼鏡をなおして眼を明るくしてくれた娘さんに突ッ立たせて叱ってやると、街頭へひつばり出し、確か を思いださせた、そして三次郎さんは娘さんのあのときの琴平町の北の角が建築中で、そのころだから板割りで囲い 眼が慈眼であったことを思い浮べて、現実を超越したことができている、その前で、叱ったのだか励ましたのだか、 だと承知しながら、あの娘さんは観音さまのお姿にひとし何をいったか私はおばえていないが、ただ一つ、立派な人 きものと田 5 った。 間になってくれよ、銭や身分が出来た出来ねえではない、 これは一燈園の「光友』 ( 昭和三十七年二月十日号 ) という横丁の隅っコの家に寝起きしていても、立派に生きている 会報のようなものに出ていた。「光友』は「平和の鐘』 ( 昭人間というものはあるのだからな、と云ったように思う。 和三十七年一月号 ) から転載したのだという。 従妹がそのとき何といったか、どっちの方向へ歩いてい 前にある石山寺の月の夜のことは、今から二十余年の昔 ったか、忘れて思い出せないが、暫くしてから行方がわか のことだが、今いった眼鏡直しのことは、昨年のことであらなくなったとは聞いていた。以来、四十余年の今日ま る、と云うのは、三次郎さんの手記「生きた観音さま』ので、私はその従妹に再会していない。しかし、その間にこ 書き出しに、「この間淡路源之丞から頼まれて、大阪の大ういうことはあった。 毎ホールで」とあるからである。 私の「一本刀土俵入』などが、上演され上映されてから 後のある日、小説や芝居や映画と関係のない人が、ある女 のお方からの伝言ですが、二十数年むかし、往来でいい聞 何のことからであったか、年月ひさしい昔になったのでかされたことを忘れずにきました、今からも忘れずにいる 忘れたが、私は芝虎の門の裏の方にあった父の家へ呼ばれつもりです、といって帰った。そのときその人が、これは 記て行ったのが夜であった。そのころまだ娘でいた従妹を叱そのお方からですと置いていったのは、昔はこの上なしに る役をいいっかった。小説や戯曲などを書く気がすこしも私が好んだ南京豆 ( 落花生 ) の大きな包みであった。 おびただ それから又も年月が夥しく去ってゆく間に、一度、この 許なかった三十二、三歳のときなので、私は新聞記者こそし 足 ておれ、物知らずで向う見ずで、今よりずうっとオッチョ従妹について次のような話を聞かせてくれた人があった。 我コチョイであったので、従妹にむかって、天井のあるとこ 「今わたくしどもの方で、学問と技芸を教えている先生が ろで叱られる値打ちをもつ人間になったら、家の中の畳のございます。その先生は俗にいう月足らずで生れ、母親は 上で叱るが、今はその値打ちがないのだから、往来の片隅お産のあとで亡くなりました、お医者さんはこの子には手