東京 - みる会図書館


検索対象: 長谷川伸全集〈第10巻〉
114件見つかりました。

1. 長谷川伸全集〈第10巻〉

なかったので、代理のものが命令を受領し、刑の執行を 合、死刑の執行を部下に命じたものはない」、といって、 やった、そのあとで沢田は、戦場から上海に帰ったので 寸分も譲らなかった、又、「死刑に手をくだしたものは」 ある」 と、その氏名をいって、「いずれも戦死して今は既に世に 畑の弁護人のアメリカ人が、こんな手記を検事にわたし ない」といった。 検事は執拗に反証をひっさげて、それは嘘言である、実たら、畑の命取りに必ずなるから渡すなと熱心に勧告した 際には東京命令が死刑をおこなわせたので、命令発信者はが、畑は応じない、そのほかに幾人かの日本人も、手記を 東条英機 ( 首相・陸相・大将 ) であり、杉山元 ( 参謀総長・元渡さないようにと説得したが、畑は笑って応じなかった。 帥 ) である、東京命令と被告沢田の間にあって、汝をしてそして日く、事実を事実の通りに明らかにするべきで、一 かば 死刑をおこなわしめたるは、当時、南京にありし畑俊六で身の安危を考えるよりは、沢田の生命を庇うことこそ、事 あると責め立てたが、沢田は淡々とした態度で、「われ独実そのものなのだからね。 りこれを行うに決し、これを行わしめたのです」と静かな畑は手記を、上海から来たアメリカ人の花形検事の手に ま わたした。この検事はほとんど同時に、東条からも手記を 口調で、主張を断乎として枉げないでいる。 アメリカの花形検事は、反証集めに東京へ飛び、巣鴨プうけ取ったが、この方は日時などは、記憶によればと但し リズンにいる東条英機に手記を書かせた、杉山元は終戦の書きっきではあるが、畑の手記と比べると正確さがだいぶ とき自決しているのでこれは除き、畑俊六にも手記を書か欠けていたという。その本文を要約すると、あの命令を せた。検事はこの二つの手記から、沢田をして、沢田のい発したのは杉山と予 ( 東条 ) とである、というだけであっ うところに異なる事実を引きいだし、死刑に該当させよう としたのであったろう。 南京で畑元帥の幕僚長であった宮野正年大佐 ( 後に少将 ) したよ は、沢田の軍事裁判で、証人台に起たせられること二十数 畑俊六の手記を下読みした畑の弁護を担当しているアメ リカ人の弁護人は、肝をつぶした。畑は何の資料もないの回に及んだ、その間に検事は、論理的技巧をつかって、証 きべん に、月日とか時間とかを、極めて明瞭に書いて、大要次の言を失効させようとしたり、詭弁をつかって落とし穴に誘 ようなことを記していた。 導したりした。証人に対してそれなのだから、当の沢田に 「東京よりの命令を、沢田に達せしめたのは自分であ対しては、論理の皮をかぶった詐術すら用いた。がしかし 沢田は、初めからいついかなるときでも、〃我これを行わ る、沢田はそのとき戦場にあって戦闘中で、上海にはい

2. 長谷川伸全集〈第10巻〉

チャンドラ・ポースの印度義勇軍は終戦後、印度軍の許十数カ所の支社支店を所轄する総支配人に就任してくれと Ⅷに収められしが、もとより印度独立の為戦えるものなれば いう、一支社の支配人すら適せざるに総支配人の如きは以 罰すべきものにあらず、といいて正規の印度軍隊にもあらての外と固辞せしが、全世界二十七の支社長より x x に打 ざればその処置について義勇軍中にて優れたる三人のうちち来れる祝電を見せられたり、こは x x が任に就けること の一人〇〇〇 ( 欠字 ) にネールより依託あり、仍ってそれを賀したるものなるなり、事ここに至ってはうしろは見せ ぞれに職を見付けて、その全部をそれぞれ就かせ、この難られずと、遂に諾し、現にその職にあり。〇〇〇 ( 欠字 ) 件を巧みに処理したり、これをはじめとして、才能を次々は大臣の地位にあり、貿易関係はその所轄の下にありその に発揮し、目下、ネール、〇〇〇、〇〇〇 ( 欠字 o ・ 2) と依頼なりしかば、今いいたるが如くなりたるならん。 第三位の重要人物となりたり。 在東京の印度綿布会社支社は xx がはじめ固辞したる 大阪商科大学を出でし日本人 x x ( 聞きしかど忘る ) 南方を、地位に満足せざるものと察したるらしく、 x x にあり にありて召集され、印度語の通訳となりたり。或るときては決してそうでなく、事実その任に耐えずと思いしな 「獅子身中の虫」といえるを訳して「獅子の腹の中にいるり。故にその次には東洋十数支社支店の支配人の地位を以 蛔虫」といえり。このたぐいなれど精励にして正直深切なてせしならん。 但し実務に秀抜なる xx と思いしにはよもあらじ、遊ば 終戦後、帰りて神一尸にありしが、たまたま最も深く交わせて置くつもりなるならん。 りたる〇〇〇 ( 欠字 ) が印度の重要人物となりしを知り、 x x は齢いまだ若し。二十七歳とか聞きたり。 手紙を送りて祝福し、他日、平和旅行が可能となりしとき 〔註〕昭和四十二年八月二十一日、欠字部分についての長谷川 印度に赴きたし、その時は頼むといえり。やがて返事来り 七保未亡人の問合せにたいして、山本豊太郎氏 ( 大阪 ) より て、印度に来りなば生涯を我が許冫 こて過せ、然れどもその 左記の如き返事があった。 時の来るまで職を見付けてやらんといえり。数日後東京に ・ ( 前略 ) : : : 〇〇〇脱字の事、岩畔さんは廿日面〔会し ある印度の大綿布会社支社より上京を乞い来りしかば行け てよいという事にて京都・北部邦雄氏 ( 岩畔さんと同期で元 るに、貴下を東京支配人にすというなり、 x x 驚いて到底 光機関の事実上の総帥にてチャンドラ・ポースと共に印度独 そんな任に耐えずとて固辞して神一尸に帰りたり、然るに再 立に尺、力した男 ) 共に私の友人、二十日京都大学病院に訪 び上京を乞いて来ること切なりしかば、再び上京したるに ね、三人で脱字を検討してみました。

3. 長谷川伸全集〈第10巻〉

128 と思うようになっていた、それで二十八円といったので死んで遺骨は長崎へ還った、その後へ、東京落ちゃ満洲帰 す。 りや何人かの出入りがあり、その中から居坐ったものが出 新コはその人達とは、昼のうちだけ、つまり新聞記 それから十数日して電報で、あすより出勤さるべしとたが、 『日本演劇史』の著者からいって来てくれたが、無一文の者として一ッところで仕事を分担してやっているだけの知 のこ じんだて 合いで、それ以外では知らないも同然だったのでした。新 時でもあり、後が困らないだけの陣立を社に遺しておくこ たねこ とが、不平不満はいつもいろいろあったが、食わんがためコは夜になると街をうろっく一人武者で、種子点外だのメ ちやば に入れて貰った処だけに、そうする義務があると思い、案リケンの杉太郎だの茶場金だのと往来し、昼は面を拭って を立てて実際に試み、そのうえで社長に退身を申出でる記者で働いているという、鵺のような者たけに、月給相当 と、それは不都合であると拒絶された、しかし居残ったのだけに働いているだけのものとはソリが合わない、そんな では新コの方で不都合なので、押切って出てゆくことに決ことのためだろうか、新コが立てて遺して行った案は行わ めました。社長は最後のどん詰りになってから、約東手形れなかっただけでなく、新コは排斥されて出ていったと風 で三十円振出し、功労に酬ゆると新コに渡したが、それを説されたそうです。と聞かされても新コは何とも思いませ 新コは右から左へ売渡し、上京の費用にしました。約手はん、毛をもって馬を相するが如き、敵となるものは頼ます 期限通りに払われず、元来は振出すべき性質のものでなかとも出来てくる常在のものであるのを、いろいろの処でみ ったと、二、三度ぐらい拒否したが、結局は払ったそうでて来ているからです。 す。その社長がいったのでもあろうか、新コは請負業に転新コは東京の新聞記者にして貰えたが、社内のだれもが むだばなし ずるための退社だと噂が立ち、そう信ずるものがあったよみんな偉くみえます。冗話をしているのを黙って聞いてい この人達はると、いよいよ自分よりだれもが優れたものに思えて、し うです。新コが記者に仕立てた若い人達は 純粋に記者で、新コは用心深く、この人々を街をうろっくまッた、東京へ出るのではなかった、自分の劣り方がわれ 仲間に引入れないようにしたーー、ーさすがに新コの東京行をながら明らかだ、これでは早いところで身を退かないと恥 知っていた、といっても人の数が多くなると免かれないこ晒しになるらしい、十日たったらこの人達に追いつける見 ふた 込みがあるかないかが知れるだろう、追いつける見込みが とで、合う蓋も合わない蓋もあって、寄りつかなくなった 立たなかったら追いつけないということだから引きさがれ 者も二、三人あった、それには東京行を打明けないから、 噂の方を信じていたことでしよう。前にいった折淵秀楼はと、心のうちで決めて幾日かたっと、少数の人の外はどう めえ

4. 長谷川伸全集〈第10巻〉

で、痩驅長身の大人に、エラクなったら逢いにゆくから緒にきていた前島が、今度お出なさいと副官が目で合図し と、別れを告げたことがある。後にその痩驅長身の大人ていますと二度までいったが、私はヘンに頑固なのだろ は、広島県の水野甚次郎 ( 初代 ) といって、世に知られた う、一番おしまいに出るよ、あたしはね、私ごとで来てい 請負師になったが、私の方はやっと東京の新聞記者にはなるのだから、といって七人目、つまり最後のものとして畑 ったが、大記者には一生かかっても成れつこないので、訪さんに、極く短く挨拶した。私は長谷川です、とだけで、 ねもせず手紙も出さず、そのうちに年月がたって、私は作あとはロのうちで、神々よこの方たちの願望成就をたすけ 家の端くれになりはしたものの、水野はいよいよ大をな給えといって、畑さんの目をみて、黙礼した。畑さんは私 し、しかし、世にもう亡かった。これに似たことがほかに しい目つきを向けた。後で聞くと畑さんのうしろにいた も幾つかある。畑さんのときもそれと同様なことが、私の副官が、世にもいい顔をして、元帥 ( もうそうであったと思 心のうちにあったのである。 う ) と作家とを見ていたそうである。そうかも知れない、 手つとり早い言葉でいうと、まだこのぐらいではダメ、 いろいろの人が多数ここに来ているが、今、四十年前の中 もう少し何とかなったらお目にかかろうである。 隊長と新兵が、元帥と作家になって再会していると知って 月日がたち、年も一つ二つかわってからだったと思う、 いるのは、当人である二人のはかにま、リ し鬲官と前島と二人 だけである。 畑さんが二度目に最高指揮官として南京に赴任するにあた り、私は畑さんにお目にかかる、というよりは戦場への赴そういえばそのとき、こういうこともあった。東京駅の 任を見送りにゆく気になった。 ホームで畑さんたちを待ちあわせているとき、ホームの中 そのころの新聞を探すと、年月日が確実になるが、そこ央の一部に荷物に雨覆いをかぶせてあるのが、急造の舞台 記まで手を延ばさずにおく。私は畑さんを東京駅のホームみたいである、そこに新聞・雑誌の諸君が群集していた。 爐で、多くの人に混って見送るために起っていた。一等車のそのだれもが私に気がっかないのではない、あいっ長谷川 許後尾の車輛のあとの方のデッキに、畑さんが高級副官をう伸だ、と気がついた人もあるのだが、元帥と作家を結びつ しろに随えて起っていた。国府台の新兵時代からこのとき ける材料をだれも持っていないらしい、材料をもっていな 我まで、四十年余りたっている。 ければ、私のアゴ ( ロ・話 ) をうまくとればいいのである。 畑さんの前に東条英機陸相や蒙古の徳王や、いろいろのだが、だれも取材にこない。来たところで私はスラリとか 人が、次々に出ていって挨拶していた、その何人目かに一わすだろう、それはある大新聞が、長谷川伸はロをひらけ

5. 長谷川伸全集〈第10巻〉

印しったのとおな のころの当り狂言の一期前か同期のウケた芝居の一つが けだが、ダレた、飽きたと見てとると、蔔、 0 「大花魁』である。 じゃり方で、「陸には乃木希典閣下、海には東郷平八郎大 かたきやく 遊女がうちかけの裾に書生を隠し、敵役を追いはらって元帥」とやる。これも喝采されたものである。セリフの節 から、学問をしろと勧めるところがある。書生はそれに感廻しだけに喝采したのである。 激して、「それほどまでにアネさんの、ご意見もらった上 この役者、深山幽谷の背景の前で、勤王の志士に扮し、 からは、すぐにも東京へ上京なし、たとえ煉瓦の角をかじ同志のものを叱りつけ、仁工立ちになって、日く、「いで っても、勉強三昧せざあなるまい」とウケるためだけのセや、この海原の水上に、火を放って焼きはらわん、いずれ も用意」 リフ廻しでやる。 「石をかじる」というよりも、「煉瓦の角をかじっても」 深山幽谷の背景は、有りあわせで間にあわせたとして といった方が、前の話の兵隊ではないが、新しかったのでも、おかしいのは海原に水上があって、そこへ行って火を ガンひょう。 つけると燃えるらしいが、しかし、そうすると、何が焼き 払われるのだかわからないので、聞いたのが私の知ってい 『月形半平太』を勝手にやっていた或る役者が、評定場とる人。彼の役者そのとき日く、「そんなことまで気をつか っては、役者が悪くなる」 幕内ではいっている場で、議論沸騰の最中に、下げ緒をも って大刀を背中にまわした月形が、花道から出て七三で立又、あるときこの役者が、幕切れに一人舞台で、日く、 「ああ、欣喜雀躍、手の舞い足のふむところを知らず、あ ちどまり、立ち騒ぐ諸士を制して日く、「これはいずれも。 かたじ 遅刻千万忝けなし」。どこの国に遅刻してきて、忝けない あ、悲しいかな」 きロ このイカサマ・セリフの話を、後輩の面々にしたあと ャツがあるものか、と客が思いそうだがそうでない、どこ の で、私は付け加えていうことにしている。 灯ろか、往々にして、「高キ屋」と賞讃の声がかかる。 この役者は芝居がダレた、客が飽きた、と思うと起ちあ「イカサマ・セリフの役者は、役になり切って、本当に泣 許 「がって天を仰ぎ、それから花道の方を睨んで、日く、「高いたり笑ったり怒ったりしたことがない、その人たちはイ たた 我きやに、のばりてみれば煙り立つ、民のかまどは賑いにけカサマ・セリフのお祟りを、だれよりも先に受けている。 今の東京にも似たのがチョイチョイいる」 り」、とウケるいい廻しでやって、客に喝采させる。 この役者、戦時中に、といっても彼が生きていたときだ

6. 長谷川伸全集〈第10巻〉

しいことをやんなさる、あたしもス 花楽さん、お前さん、 そこで玉山が後席を読みはじめると、もともと出来てい ケに出しておくれと、一流の大家の方から買って出てきてる芸なのだから、聞いているうちに客は、耳ざわりだった くれる。勿論そのころは今と違い、講談席が東京だけでも大阪訛りもあまり気にならなくなり、いつの間にか聞き入 何十というはどあったときなので、講談師もあれば講談屋って、おわると大喝采であった。 これと似たことが、今も〃東京の芸の人〃〃大阪の芸の もあり、ゼニが欲しいだけで講釈場稼ぎをしているのもあ りだから、他人の恩返しに手伝うのはゴ免だという者もい人〃の間にある、といってもそれは人による、つまらない 人にそれが有ろうはずがない、とこれは、寄席芸能家の一 さて花楽が計画した通り、神田の大きな寄席の昼席を、人が近ごろいったことである。 大阪初下り玉田玉山と、ツルシの一枚看板をあげた、その 初日は大層な入りで、いよいよ真打ちの玉山が出て、講釈 4 百足屋の娘 にかかると、東京の客がやがてガャガャやり出した、つま りひどく不評なのである。玉山はこのくらいのことはある 明治の落語家で柳玉といって、ウマイのだが人気があま と、知ってかかっていたらしく、落着いて一席すました りなく、日本橋にそのころあった木原亭だけが、どういう が、一人も拍手しない。 縁故かして真打ちをとらせていた、という人物がある。 このとき楽屋から高座へ飛び出したのが花楽で、お客さ その柳玉が木原亭が打ち出しになってから日本橋をわた ん聞いてください、実は私、大阪へ先年まいって、こういろうとする、橋の袂のところに人力車夫が幾人もいて、ヘ うことがありました、そのとき玉山先生に意見され、お骨え旦那、お安くまいりましようなどと声をかける、これを 折りもいただき、東京の芸に恥という泥を塗る代りに、 その仲間でパン ( 番 ) をかけるといった。 の 灯〃東京の芸〃もよく聞くとなかなか良いといってくれるお 柳玉を知らない車夫が、旦那、ご都合までお安くまいり 許客さんが沢山できました。お客さん、毎度われわれがよくましようとパンをかけると、柳玉を寄席の帰りの芸人と知 足 申しております通り、芸人は下手も上手もなかりけり、行っている仲間が、オイよせよせ、相手はお化けだといっ 我く先々の水にあわねば、とやり、〃大阪の芸〃をどうかよた。落語家は夜の稼業だから、隠語でお化けというのであ く聞いてください、お願い申します、というと、客が一斉る。柳玉がその途端、極めていいマで、人力車夫に合掌を に拍手して、わかったと口々にいった。 向け、相手が訳がわからないまま、おやおやと思ったとこ ごせき

7. 長谷川伸全集〈第10巻〉

も格別の差があるのでもないらしく、ヒケ目を感じているは幅が広くなり底が深くなったが、その対蹠の面では味も のは東京の地理に詳しくないのと、東京の習慣と社の気風素ッ気もない青臭さです。それらの人々が話すのを聞いて が呑みこめない、ただそれだけで、その外はだれとも一長いて、新コは読むべき本を知って読みました。 一短を分け合っているに過ぎないと、五、六日目にわかつ新コは十六年ほどこの社にいましたが、終始一貫して俗 ひら て来ました。そこで「東京市案内』という一一冊本を、韋駄 にいう平記者です、社が重要としないのではなく、新コの ふしど 天走りのように読み、その次には同じその本を臥床の中で方で固く辞して部長といった椅子に坐らないのです。平記 は勿論、厠の中でも読み返し読み返しした、これで大抵の者ならまだしも、部長というような椅子には、羞恥がその ことは知ってしまい、後は東京地図を内懐中へ入れてお背後にくッ付いていて就けないからです、新コは芸者屋の き、拡げてみる必要のあるときは街頭で拡げ、社内ではそ所謂さんになっていたのでした。 んな物をもっているような顔をしません。そのうち追い追 言印に引戻してやり直しますーーメレーのお隈には有 いに口をきく人の数が多くなったが、最初の二日ばかりはる物のすべてをやって別れた、そのとき新コの物とては着 だれもはとんど口をきいてくれなかったので、東京の奴原ている物だけです。そうでもしないと、去ってゆく女より は排他的なのかと思ったが、それは違っていました、社内も新コの方が、後になって思い出したとき哀れだからで のだれかが新コの悪い噂を聞き込んで来た、そのためらしす。家鵯の脚絆みたいな人間でありたくないのです。 いが、或いはそれは当推量だったかも知れません。口をき いてくれた最初の人は高峰荻波と大村台山です。台山は物 故してしまったが、著名にしてル大で未完の長篇小説を遺新コの父はずッと前に日本を去り、朝鮮から満洲にはい しています。荻波は〃通〃といわれる知名人です。 り大連に腰を落着け、難行苦行の末でしよう、小さいなが 新コは今までと違う選み方をして本を読み出しました。 ら料理屋を建てて義母にやらせ、自分は土木仕事をやって の今度は新コの目前に、教養を身につけた人もあれば、学校いたらしいということです。父は昔の駿河屋を再現して二 市経歴をもっというに過ぎない人もあり、専門をもっている人の倅に引継ごうとする夢は断念したが、遺産を形ばかり あ人もあれば、専門をもちたいとする人もあり、偽瞞者ではでも遺して死にたいとする、その念願だけは棄てなかった らんだ いとぐち 四ないかと思えるもの、懶惰なもの、浅いながらも阿諛をやあって、その緒をんだところで、永い間の過労が出 るもの等、かって新コが渡ってきたところとは、良い面でたのかして病いっき、死ぬなら日本でと、新コの兄秀太 わずら くみ一

8. 長谷川伸全集〈第10巻〉

ば自己宣伝ならざるはないと書いたのが、カチリ来ていた な、早く世をおわった。 その引きつづきで、素直に取材させるものか、とそのころ その安房八郎が在学中 ( 師範学校 ) 、同窓の親友四人と、 は思っていたからである。 学校にちかいところにある蕎麦屋で、蕎麦を食べたあと、 そのうちに一 - 人やってきた、名刺も出さず名乗りもしな話が将来のことになった。勿論それは、約東された義務を いが、先生きようは何ですといった。見送りですと私が答完全に果したその後の将来のことであった。 えると、畑さんですかというから、ああそうですと答える 一人は検事になって悪と闘うといい、 一人は、判事とな 一人は陸軍の と、どういう関係ですと聞くから、知りあいだものと、こり弁護士となって良民の味方になるといい ともなげにいった。これに引っかかって、ああそうですか法務官となり軍の健在に尺、すとい 一人は劇作家になり と行ってしまった。 演劇をとおして世にささぐる育英戯曲を書くものになると いった、それが安房八郎である。最後まで黙っていた一人 畑さんが乗った列車が出た、見送りの人々がそれそれ散 っていった、私も降車ロの方へおりていった、前島と一緒は、僕は生涯を初等教育にささげるよといった。この人 である。 は杉山勝栄君といって、現に学習院の先生で、蕎麦屋で いった通り初等教育に献身している。あとの三人も初 もし、私を追っかけてくる記者があったら、多分その人昔、 は私から取材しただろうが、そういう人は、東京駅の構外一念を貫いて昔いった通り、それぞれの道についた。その で前島と別れるときも、それから後もなかった。だから当中で陸軍の法務官であったものは、説明するまでもなく、 時の新聞を見ても、″駅頭で四十年前の中隊長と新兵の再法務大佐という上に元という字がつくようなことになった ので、今は関東のどことかで、帰農生活にはいっていると 会〃といったような記事はない。 し、つ この人が法務の少佐で、南京の総司令部に勤務している 3 五人の親友 とき、前にいった私が再会して見送った畑さんが、南京に 新国劇の島田正吾君夫婦の弟分で、久松喜世子さんの養赴任してからのこと、書類をもって長官室へいったとき 子で、安房八郎 ( 岩本恒男 ) といって、足柄山からやってきや、又は呼ばれていったときに、指示をうけ或いは叱られ た金時のような、好い青年がいた。私にとっては劇作の後ることがある、然るに、扉をあけて廊下へ一歩ふみ出す 輩で、豊かなる天与の才能をもっていたのだが、惜しいかと、胸のうちに湧きおこってくるものは、ああ教わったと

9. 長谷川伸全集〈第10巻〉

です、その用意とは機構や設備や議論や理由の外に、或るていないといったそうです、そして会うことが厭だったの 意味では本当の教育者であるかの如きものを心にもつ、然か、遂に顔を会わせず終いになりました。 恵まれて新コは、前いった五十円の不義なる入手が・ハレ るべき男が女一人につき一人ずつ必要だということです。 新コが経過はどうであろうとも、恐喝取財に該当しそうず、熱心だった完同警部のホシ稼ぎの材料ともならず、事 なく過ぎて今に到ってはいるものの、自廃の結果、三人の なことまで、出来あがらせたこの一件の十三人の女のう ち、軍次とグウ公と新コが一人ずっ引取ったうち、一人は自殺者を出しなどしたことと併せて、わが負債の重さを忘 自殺し、一人は病死、一人は立去り、満足な結果は遂になれかねています。 、三人の男のそれそれが、一人に一人ずつの然るべき男 ではなかった故です。その他の十人のうち単独自廃のキチ ーのお澄と、合意廃業のお杉を除いて、故郷へ帰らせたの が二人、男に引取らせたのが六人、併せて八人のその中か らも、二人の自殺者と、異人屋よりもッとひどい処へいっ たものが三人あります、どうなったか判らないのが三人で す、その三人のうち第六候補者に引取られた人だけは、充新コが二十七歳の春ごろから、君のような人は東京へ出 足の家庭をつくったと新コは思っています。だとして良けて本当の新聞記者になるといいと、会うたびにいってくれ る年上の人があります、尾滝鵜山という東京に定住してい れば、一割弱しかモノにならない計算になります。 た中央新聞記者です。そういわれても新コは、無学である 完同竹二警部は新コをその当時、何とかして検挙しよう としたが、何もタネがないので、数カ月後に断念したそうのを知っているので、本場所へ出て働くのに自信がなく、 です。どうして執念深く目をつけたのか、山元召川と軍次何ともっかず笑っているのが、返辞にならない返辞のはず だったが、鵜山は東京からやって来て新コの顔をみると、 の説では、廓の者の仕返しだとあるが、そんなことを新コ は信じません。それから二十数年して、湘南の或る土地で君のような人はと毎度やります。これはその時限りの嬉し 完同が署長であったころ、彼の倅が刑科に触れかかったのがらせらしいが、それにしては永続きがして、翌年の夏過 ぎた頃まで、君のような人は東京へ出てが続いた。あまり を、新コが或る女に頼まれて事なくすませたことがある、 そのころ警視になっていた彼は、新コのことが記憶に残っ続いたからかしら鵜山は話をすこし進めて、君は都新聞が

10. 長谷川伸全集〈第10巻〉

ダメ、老紳士は用心などしているらしくもないのに、乗ずへ、これこの通り手に入れたといって持ってゆき、自慢し たいのです、というと老紳士が笑って、よろしい売ってや 2 べきスキがないのである。 その後、何人かが行ったが、どれもこれも失敗であつろう、これがなければ、この次から妙なものに付き纒われ た。このいずれもが仙台上野間のことだというから、仙台ないですむ、といって、いくらだったかで売り買いが出来 から老紳士が上京する用向きとか日とか時間とかを、巾着た。やがて仙台が近くなると、お金をなくさないでくださ い、私が素姓をうち明けただけに、どうも気になります 切の方で調べたものらしい 二年近くの間に、何人かの巾着切が失敗した。こうなると、二度とか注意して、汽車が駅へはいると巾着切が、で はご機嫌よろしく左様なら、お金は大丈夫ありますねと念 と聞き伝えて、方々から、腕自慢の巾着切が出てきたが、 を押し、それではと、老紳士を先に下車させ、巾着切はあ これが又みんなダメであった。 ところが一人の巾着切が、それまでのものとは逆に、上とから下車し、ホームから改札ロへ出て、巾着切が老紳士 野から仙台へ向けての汽車に乗った、例の老紳士と隣合せを追い越し、左様ならといったときは最早、老紳士の懐中 には時計の代金と旅費の残りも一緒になくなっていた。 の席を占め、仙台にあと一時間ぐらいというとき、巾着切 が実は私は掏摸で、あなたの金時計をとってこいと、仲間前にある話のやり方もこのやり方も、骨法は一つであ 一同からいいっかって来たのですが、断念します、恐らくる。惜しむらくは、これでは骨法のつかいどころが悪い。 私どもの方の日本一といったようなものが出てきても、あ なたが相手では私と同様、断念するよりほかありません、 というと老紳士が、この時計に目をつけたものが上京のそ終戦後、アメリカから交換船で送り返されてきた中の一 の都度、一人又は二人、甚だしきときは三人も、交代か別人の中年の男の一家が、東京から三百里余りのところにい 組か知らぬが、それとなく付きまとうので、或るときは面る或る事業家が旧友なので、生きてゆく道を相談したとこ 白く、或るときは蒼蠅い、といって笑い、君は今までののろ、パチンコ屋をやるといいと、資金を出した。そのパチ ンコ屋が繁昌して、何軒かのパチンコ屋をつくるところま 中で一番いい男だ、といっこ。 そこで巾着切が、その時計は由緒のあるものですかと聞で行ったので、一家の生計がやや確立してきたところでパ くと、いや何の来歴もない、貰ったからもっているだけだチンコ屋をみんな値よく売って、キャパレーをはじめ、こ という。それでは売ってくれませんか、私は仲間のところれが当った。店は二度か三度かに拡張された。 ら′ス 1 み、