る、夜が更けたのです。横の方の銘酒屋で毎晩聞える男との晩、父が受取った金はわずかな額で、それまでに売り値 ふぎけ 女の巫山戯る声もやんだ、裏の方に住んでいる引ッばりとのほとんどを、借金の返済に廻したからだそうです。着の ずうずう いう、哀れだがイケ図々しいので嫌いな女連が、店の前をみ着のままで深夜に出ていった父は、場末の安宿へいって 通って帰ってゆき、往来を通る人もなくなったが、二階の泊ったそうです。着のみ着のままなのは父だけでなく、新 コも似たものです。着物は父のも新コのも、質屋であらま 客は降りて来ません。新コは帳場格子の中の机にむかっ て、客が帰るのを待っていましたが、いっか居睡りが本物しは流れてしまっていた。 になり、勘定机に頬をつけて睡ってしまったのを、朝にな新コは棄てられたのではない、店を買った夫婦が、こと におかみさんの方が新コを貸しておいてくれと頼んだから って気がっきました。 眼がさめた新コは店の戸が開いているので、いつもの通でした。その夫婦はそれまでに二、三度、煙草を買いにき り父が開けたと思い、顔を洗いに起とうとすると、見たこてみたそうです、そのとき小さな新コが、小器用に店番を ともない物を着せられていたのに気がっきました。だれか勤めていたのが気に入って、小僧に雇いたいと話が出た どてら - 一とわ の褞袍でした。父がいつもいる店のうしろの座敷で、知らが、父は断った。それでは当分の間だけとなったが、それ ない男と女の話声がしていて、父の声がない。新コは足がも父は断りはしたが、考え抜いた末に、五日か十日のこと しびれているのに気がついたが、二階へ急いで行ってみまならと承知したのだそうです。 した しかし、五日や十日で父の落着くところは出来ませんで した。父はいません。階下へ降りて座敷をのぞいたが父は した。転々と流浪して歩いたと思えるのだが、この時のこ いません。知らない男と女が何かいったが、新コは何とい とについて父は後年になっても何もいいません、よほどひ われたのか知りません、通り抜けて台所へいったが父はい ません。便所の戸をあけてのぞいたが父はいません。棄児どかった日々だったのでしよう。 にされたと気がついた、そこまでは憶えています、それか新コはその後ずッと煙草屋の小僧でした。 背負籠の小母さんは来なくなった、あの店は代が変った ら先どうしたのだったか憶えがない。その日から新コは、 帳場格子の中の机の脇へ寝ることになった、小僧に変ってと聞いたのでしよう、新コだけは小僧でいたのにです しまったのです。 もし、この田舎の小母さんが、秀と新コの様子を外所なが 父は店を居抜きも居抜き、何も彼もみんな付けて売渡ら見て、母か母の親兄弟に知らせる役を引受けていたので し、新コが勘定机に睡ったのを見て出て行ったのです。そしたら、母達にはこの時から新コ達の行方が判らなくなっ すてご
しろおとッさんそれで今のところ手一杯だと、鼻をつまらにはなった。 せていった。 うしろ姿さえ見たことのない、二日五日市村の二階家の その翌日から子供は廊下に坐って、墨をふくませた筆女主人が恋しくなった。菓子が欲しくなったのかも知れな いが、それよりはあのお尻をこっちへ向けた家のところ で、紙に文字を書いた。本当は硯や筆や紙よりも一冊でい 、立ってみたいのだった。 いから何かの本が欲しかったのだったのだが、父の落魄の ある晩、父と義母と烈しく睨みあった、なぜだか子供に ひどさを知っているので、本を一冊買ってといえなかっ た。父は腰提げの煙草入れをその晩から押入へ投げこんはわからなかった。父はランプの細長いホヤをんでいた だ、ポン筒の中に煙管がなくなっていたのだと後に知っ火箸でうち砕いて出て行った。義母はそのあとで、子供に 眼もくれず出て行った。 幾日も幾日もたつうちに、神風楼が遊女屋であることを子供はその晩、ひとり起きていて父の帰りを待った、こ て見て知っているそれと違って、規われたホヤのランプは油煙をふいて臭かった。油が尽きて 子供はさとった、品川。 模が大きいのに圧倒されて、そんなものだと思わなかった灯が消えた。子供は暗い中に坐って泣きはじめた。 が、それと知っても別にどうでもなかった。義母が和風の朝になってみると、子供は蒲団の中に寝ていた。父が夜 おいらん 方の神風楼で、花魁についている新造衆というのをやって中に戻ってきてそうしてくれたのだったろう。 いると、それもいっかしら知った。父が毎日毎日出歩くの義母は三日も四日もこなかった。五日、六日してから父 と義母とが、一緒に二階へ仲よく帰ってきた。昼のうちだ は、職を求めて狂奔しているのだということも知った。 子供はある晩、小僧にゆこうかといい出した。父は黙っつこ。 父はここへ子供がきてから初めてみる上機嫌だった。お て眼をつぶっていた。もう一度いったら叱られるかしらと とッさんの働き口が出来たよ、お前の働きロもあるのだけ 思って、もういわなかった。 日がたった。ときどき風呂へいった。理髪店へはゆかなれど、お前ゆくかといって咽喉の奥をごくンといわせた。 子供はうンと首を縦に振った。 半かった、父に銭がないのだったろう。 新近所に子供がいるのはその声で知っていたが、外へ出な義母は廊下へ出た、泣きにいったらしかった。 いから友達は一人も出来なかった。孤独を楽しむ子供には ならぬらしいが、孤独を悲しがることに気がっかない子供
兄は笑顔をみせて、どこへ働きに出るのだいと聞いた。そ れは知らないさと子供は当り前ではないかというように答 えた。 兄と父とが話をはじめた、何をいっているのか子供に は、さつばりわからなかった。父がいうことの中にドッグ ドックというのがあった、兄はわかるとみえて、ああそう かといった。ドッグとは何だろうと子供は田 5 いもしなかっ 父につれられてゆうべ、横浜弁天通り二丁目の往来へい ったあの子供は、街の瓦斯燈の青白い光りの中を、往った がまぐち たたず り来たり佇んだりして、夜学の塾から帰る兄を待った。兄子供は十銭銀貨を一ッ兄から貰った、手に握った、蟇ロ きんちゃく は品川へきてくれたことが一度あった。自分の顔が自分のも巾着もこの子供は今までもったことがなかった。 父と子供は弁天通りを真ッすぐ、街燈の照らす下を帰っ 目に浮かんで出てこないあの子供は、兄の美しい顔をすぐ 眼の中に浮べられた。 た。その中途で振返った子供は、兄が見送っている黒い姿 いをみた。父にそういうとあれは郵便箱だといった。郵便箱 街燈の下のほの暗いところに父は佇んで、兄の行って る木村生糸商店という、角店で和風で大きな家から遠のい は黒く細長い箱型をしていた。 て、往来の隅に佇んでいた。子供は二度も生糸店へ、秀太汽車で神奈川へ帰った父と子とは、碧海橋をわたりかけ 郎の弟ですけれど兄さんまだですかと聞きに行った。 た。父橋の半ばで立ちどまって、灯がおびただしく瞬い ている横浜をみて溜息をついた。黒塗り二頭立の馬車が、 時計台の時計の針が九時から十分ばかり過ぎた。寒い 目。しオここへ来て短くない日数 子供は三度目を聞きにいこうとして父のいる暗い瓦斯燈の洋風の神風楼の蔔庭こよ、つこ。 下から、青白い光りにはいり、四角の中に久の字の軒燈がを送った子供は、洋風の神風楼のムスメや、通ってくる ある、生糸店にちかづこうとしたら父が呼んだ。瓦斯燈の〃地〃と〃旅〃の異人客を見慣れていたけれど、やはり馬 下に父と兄とが黒くみえた。兄さんおいらあしたから働き車を振返り振返りみた。 にゆくんだと、子供は兄の木綿縞の着物に、自分の青ッば草履屋の二階へ帰りつくと、父がランプにマッチを摺っ い筒ッばの着物を摺りつけ、大手柄のようにいった。兄はて灯にした。子供は廊下へ出て眼の前の和風の神風楼をみ た、いつものように電燈がみんなついていた。洋風の方を 〃姉さま人形〃と他人からあだ名をつけられた子だった。 ビキの小便
ように固く、指は生粋の稼ぎ人のようにがツちりしたもの になっていた。父のそうした労苦の後に酬われたそれも、 わずかのうちの憩でしかなく、やがて崩れる時間を前にし ての、崖に咲いた一茎の草の花みたいなものだったのでし 外へ出るときの父が、いつの頃からか、懐中か隠しか抱 き鞄の中に、拳銃を入れているのに新コは気がっきまし た。現場廻りを仕様ことなしにやっている新コは、現場以 外にどんなことが父に起っているのか知りません、父は新 父は遊廓地と川一ッ隔てたところに、手頃な空地をみつ コに何もいわなかったし、聞こうとしない新コでした、父 けて家を建てた。駿河屋の再興が出来かかり、死んだ後に からばかりではない、だれかに聞けば知れることだろうの 二人の倅に譲る物を積みかさねてゆかれそうないとぐちに聞こうとしない、何故だか判らない、性癖なのかも知れ が、漸く開かれかかったのでした、といっても、階上が二ない。そのころは請負師ならだれでも、拳銃ぐらいはもっ タ間の階下が二タ間、あとは女中部屋だけというーー・そのているというほどのこともない世の中でした、新コの知っ ころの好みなのか、父だけの好みなのか、台所が二十坪近ているところでは、拳銃や刃物を肌身放さずもっているこ くあって、職方が寄贈の黒塗りの二ッ竈がデンと据ってい とは、気の弱い者のすることで、まこと男なら兇器じみた る、そのうしろに別棟で、見ッともなくない湯殿があると物はもたない、とこう聞きもしていたし思ってもいたの はいうもののーーー申さば多寡の知れたものだが、ここへ来で、父がそんな物をもっているのは争い事でもあって、敵 るまでに骨身を削った父は、これからの拠点が出来たのでが出来たか、怨みをだれかに買ったか、何かが起って けやき 徒 の ほッとしたのでしよう、夏の月の晩、欅の一枚板を外へもて、襲われる惧れがある、それでなくて律気で腰が低く、 市ち出し、空を仰いで寝転がり、細い声で、追分節をうたっ喧嘩口論を嫌う父が拳銃を肌身放さずとなるはずがない、 あていたのを何度もみた。年のわりに皺が額や鼻のわきに太聞くに及ばないことだ、それならそれで、その気になれば ひと 一りようけん く出ていて、色の白い若旦那だったという他人の話は、どそれでいいと新コは料簡を決めた、だが、料簡を決めたと あらたま こかの別人のことのように色の赤黒い父で、その掌は板の いうほど、更った決め方ではなく、いっ決めたでもなく決 れても、洋服着ていたよ異人さんだもの、というだけで、 見すばらしかったか、そうでなかったか、眼が届いていま せんから判りません。 人殺しに行く男 かばん
めないでもなく、有耶無耶の裡に有耶無耶に決ったのでし母にも新コにも一ト言もいわず、洋傘をもって飛ぶが如く 出てゆきました。新コは現場小僧のころさんざ見て来た血 新コが十四歳ぐらいのとき、父のところへよく来る人まぶれ騒ぎの中に、このときの高山とおなじ形相を何度も で、検事を退職した高山という、ロを中にして三方に髭の見ていたから、喧嘩にゆくのだとすぐ判った、しかし違っ ある、瘠せてのツばで、眼が据っている老漢があった、色ていた、喧嘩ではない、人殺しにゆく形相だったのです。 の悪いその顔が笑ったときでも、どこかに紐が結んであるだいぶしてから人力車が二台やって来て停まり、車から降 ようで、人好きのしないこの人は、いつも黒紋付の羽織にりたのは父と高山で、細長い風呂敷包は父がもっていた。 袴を着けていて、話の一ト区切になると、求刑をしている父は高山を追っかけて行くときも戻って来たときも、形相 法廷の検事のような顔つきをした。新コにだれが聞かせた はいつもとほンのすこし違っているだけだった。二人とも 話だったか、高山は若いとき、駿河屋の秀造にうしろ楯に泥だらけです。新コは父からどこかへ行っていろといわ なって貰ったことがあるという、そうかも知れません、それ、外へ出たので、その後どういう納まりが着いたか知り れでなくて貧乏している父のところへ、ウマが合うというません。 さかはし でもないらしいのに、たびたびやって来るはずはない。高高山が殺そうとしたのは逆橋の松という、人づきあいが 山は父に漢籍にある文句を引いて何やらいつも云ってし 上手な道楽者で、締め括りがないのと狡いのとが半々だと た、訓え導いているつもりだったでしよう。その高山が冬評判のある請負師で、父には仲間の一人でした。逆橋の松 の雨が降ったりゃんだりしている日、人力車に乗ってやつが高山から金を借りて返さない、高山に殺意を起させたの てきて、格子を開けてはいって来たが、狭い土間に突ッ起は、その金の借り方と弁解にイカサマとハッタリがあった っただけで、父を呼んで何か二言か三言低声でいって出てからだそうです。後年になって逆橋の松は土地を売り、音 ゆき、待たせてあった車に乗るとき、車の蹴込みと腰掛け信不通になって久しく年月が去り、新コが作者ぐらしには に立てかけてあったものだろう、風呂敷にくるんだ細長い って、どうやらこうやらのところまで来たとき、その娘 こうでん 物が辷って梶棒の中へ落ちた。高山はそれを拾って車に乗から父が病死したと手紙で知らせて来たので、弔電と香奠 り、幌の前掛けを掛けさせずに行ってしまった。父は蟇口を贈ったが、ふと気がついて年を繰ってみると、前にい を片手に、細引繩を片手に、台所へ飛んでいって乾いてい た高山元検事の一件のとき、逆橋の松の年齢を四十歳とし る手拭を手当り次第に引掴んで、懐中と袂とに突込み、義て七十三、四歳、五十歳だったら八十三、四歳になる、長 こ 0
のだから、差止めを食って仕合せでした。あんなことに馴きも、階段を降りるときも、何のこともなく、無事な父の れッこになったら、新コの行く方角は凶の方だったでしょ姿をみて初めてどきッとしたのは、どきッとする順序が違 う。父は若旦那の出だけに助ツ人なそに行ったことはない うようですが、新コの躰に起った順序はそうだったので らしいが、揉め事の中は相当にくぐって来たらしく、それす。 だから高山元検事が人殺しに行くと知って、追ツかけて出庭下駄は一足だけで、父が穿いて狭い庭へ出ていったの てゆくときも、高山と一緒に戻って来たときも、平常とたで、新コは素足で庭へ降りた、足の裏が霜柱を踏んでサク いした変りがなかったのだろう、そういう時の出掛けに、 リと音がした。父は庭木一尸を開けて作事場へ出てゆき、一 高山が不承知で暴れたら縛るとて細引を、怪我したら血止ト巡りして作事場の門をあけ往来へ出た。新コはそのうし め用にとて手拭を、持って出るだけのユトリがあるぐらい ろ十五、六歩のところへ離れて付いて歩いた。風はないが にはなっていたのでしよう。それから後の何年間にも揉め疎らにみえる星の光りが、凍っているようなのに漸く気が 事があっただろうが、ロに出したこともなく、妙な素振りついた。父は引返して門を閉め、庭へはいり家の中へはい をみせたこともなかったから、新コは父を剛胆だとも臆病った。新コは義母がもってきてくれた雑巾で、足の裏を拭 だとも思っていない、そうするものだと思っている、そのくときそくりとして、冷いのと寒いのに気がついた。来た 故かして新コは父が拳銃を肌身放さずになったと知ると、奴はどこの者だいと聞くと、父は泥棒だといった。泥棒に ずるずるべッたりという形容のように、別 にどうというこ一発お見舞い申上げるのかいと聞くと、弾丸はヘえッてい となしで料簡が決ったのでした。そのころの新コが覚悟をない空包だといった。みんな空包がはいっているのかいと 据えるとはこんな簡略なものだったのです。 聞くと、二発空包でそのあと四発は実包だといいました。 翌日の朝、いつもの通り薄ッくらいうちに飯を食ってし まうと、義母が台所へゆくのを待って父が、新コはこの頃 かわや せいた たツた一度だけ父は夜中に、厠の小窓から作事場の背板そわそわしているが、何があってそうなのか、ゆうべ二階 あた から降りてきたとき素手だったが、 の塀を乗越えかけた三人連れの一人を狙って、弾丸が中ら 作事場へ入ってからは ないように射ったその音に、二階で独り寝ていた新コは眼何かもっていた、あれは何をもっていたのだと賺すような をさまして階下へ降りてゆき、廊下の雨戸を繰っている父聞き方をした。砂利だよ、砂利をばろッ布に包んでこの間 の姿をみたら胸がどきッとした。銃声を聞いて飛起きたとから家のところどころに置いてあるから、どっちから家の くら きれ
そのうちに父は請負仕事の区切りをつけ始め新コに、近 いうちに三州へゆくようになるからその気でいろといいま した。新コはいつものようにただ、そうかいと答えただけ でした。父は行くとき持ってゆくものがある六発だよとい った。六発とは六連発のこと、随って拳銃ということだ。 すると、三州行きは尋常でないことで行くらしいと、聞く 新コには日記も留め書きもないので、年月日を確実にすまでもなく合点した。父は慌てて、何もあるのではない ちょう ることが出来ません。これからのことは二十歳のときかそが、旅先のことだから念のために一梃ずつみんな持ってゆ の前年か、それとも十八歳のときか、判断の下しようがな く、といって、三州乗込みは俺とお前と、野原の次に赤 二十一歳のときは土木の世界から去っていた、これは目の勇助と四人の外に、庄司久造といって三州生れの者が 傍証があるから確かです。 帳付けで、俺達より一ト足先にいって、もろもろの手配を 父はそのころ、諸方を夜を日に次いで飛廻り、天下の糸付けておくことになっていると云いました。 平の番頭だったという、島中という老人との往来が特に多その後も、父は東海道の方角へ行ったり、東京へ行って くなった。天下の糸平は幕末に頭角をあらわし、明台にな幾日も帰らなかったり、帰って来たかと思うと、何処を駈 ってからは商界の傑物といわれた田中平八のこと、その番廻るのか夜遅く戻って来て、朝早く出てゆくのが連日でし 頭だったというだけで、相当の人物であると合点される時た、その間には退役海軍中将の < 閣下が来たとか、愛知県 代だったのでした。前谷という東海道筋の或る都会で有名のだれとか、三重県の有力者とかが来たとかで、割烹店で だとかいう、はツきりした顔だちの、少壮実業家風の人物金のかかった宴会がひらかれた、その費用は、天下の糸平 などとも往来が繁くなった。新コはそんな情勢を鼻の先に子飼いの番頭だから天下の番頭だと、冗談めかして傲語す の見ながら、父に何も聞かない、父も話さない。新コは父だることもある島中老人と、父と二人で出したらしく、それ 市けでなく、だれにも、此方から進んでモノを問うたことがでいて、宴会の催し主は前谷という少壮実業家風の男でし あなく、だれの云うことにも、それは何故にと反問をせず、た。新コは天下の番頭老人が好きだった、老人の奥さんは それからどうなったと話を引き出しもしなかった、云うが美人の年寄りで、でツくり肥った色の白い、深切に裏表が ままに聞くがままにでした。 ない人だったが、何をいわれても口はもとより、顔にも表 初旅 しまなか
口に盛塩をして、東にした下足札を敷台へ拍子をとった撤 き方をして、大黒柱をたたいて鼠啼きをする、それからば たンばたンと女達が厚い草履の音を立てる、張り店という他人の家の一ト間きりの二階を借りている、それが親の ものも知っていた、引付けるということも、トキという拍家だった。失望も落胆も知らないこの子供は、麻裏草履を 子木のせせッこましい音も知っていたから、小さな眼で入母子二人でせッせとやっている、侘しい店から、昼でも暗 のれん い一ト間きりの座敷を通って、二階梯子をあがった親の家 り口の浅黄暖簾と家の構えをひと目みただけで、どういう は、古畳と古壁だけに見えた、隅ッこに四角い火鉢があっ 家だかわかった。 橋を渡りながら右にみえる、横浜の遠景に子供の眼はゆた。晩になって父が押入をあけて蒲団を出した。空ッばに なった押入の隅に、柳行李とお膳とお櫃と、茶呑み道具が かずに、橋向うの右にある、白塗りの大きな大きな大きな 家に眼を奪われた。この家は何なのと聞くと父は答えなかあっただけだった。 義母の姿をみたのは夕方前だった、銀貨を父に渡して子 った。知っていらあ、これはホテルだと子供がいった。品 川の子供はホテルを知らなかった、知っているのは片岡だ供のことを何かいって行ってしまった。 目の前の神風楼は昼よりも夜の方が電燈が一杯ついて明 けだった、片岡はホテルの外側を知っているだけでなく、 中の部屋のことを知っていて話してくれたが、いくら聞いるかった。子供はその晩ぐったりして寝込んだ。女の呼ん でいる大きな声がときどきしたと思った、夢だか本当のこ ても何が何やらわからなかった。 父は黙って歩いた。子供は右側の門と前庭と玄関と、何とだったかわからなかった。 千枚とも知れぬ硝子の戸が嵌っている三階だか四階だか朝のご飯は父が、表のみえる廊下へ出て赤い土鍋を七り の、白塗りのホテルをみて大きいなあと歎称した。父を仰んにかけて焚いた。おかずは煮豆でその他に何もなかっ いで顔をみると眼をそらしていたので、その方をみると左 あんどん 父はそこにご飯があると、壁の隅の膳を指ざして、子供 側に洒落れた和風の二階家があった。引手茶屋と行燈にか ひとり残してどこかへ出て行った。 半いてあった。何だい引く手茶屋というのと子供が尋ねた、 ひる 新父は何ともいわず歩いた。引く手茶屋と読んだ子供は、宮義母は正午前に帰ってきて、子供に品川にいたときのこ 戸川という家号は間違いなく読んだ。父がはじめて笑い顔とを聞いた、話を聞くのがうまいので、子供はそれからそ になって、あれが読めるようになっていたのかといった。 れと頬を赤くして話した、そのうち廊下の真向うに白い顔 ひっ
っても半端土方で、きりッとした面構えの三十余りの男で から一歩を進めていたが、多寡が知れた身の上です、下の 子は泥ンこになって自分の飯代を稼いでいる、どちらもこした、聞けば以前はどこかで博徒だったのだそうです。孕 びと のままでは、単なる使われ人で、将来は背の高い子供に成み女をつれているので、聞かずとも女房とだれしも思って るかも知れない、それをそうさせないためには、金とか家いたが、よほどしてから他人だと知れました。父はこの男 とかを用意したい、それと一ツには、子にとっては鏡であを土工の親分に仕立てるつもりでいたが、或る日、出し抜 る母を、子らに失わせた償いの心もあったのでしよう。父 けに父に暇乞いして、女をつれて出て行った、きぬのお産 は会津その他で、たびたび山深くへはいり、西と北越の時が二タ月ぐらい後だという頃です。徳はきぬをつれて、新 化の海とも闘ったが、それらは一向に酬いられるところなコが行っている本町の普請場で根切りをやっている、そこ 、土木建築の下請負の下請人より外に、往くべき途がなへ来て、暇乞いの挨拶してゆきました。男は腹掛け股引・ いと観念してからは、浮き沈みはあったが、官庁工事の小 紺半纒、女は着物の上へ縞の半纒を着て、端を前で結んで さいのなら、どうやら請負入札ができるところまで、肌に いた、二人とも脚絆に草鞋で、菅笠を手にしていました。 男れる頃は、 血を滲ませるように這い廻った末に辿り着きました。 きぬという女は十人並の顔かたちでしたが、リ 父は秀造じいさん譲りなのでしようか、月 、ツばけな仕事顔の色がだんだん悪くなって来ていた。父から聞いたとこ を請負うと、職人で叩いていたものの中から、見込んだもろでは、徳はあの女を故郷へつれて行ってやったのだ、俺 のを引ッ張ってきて仕事を渡しました、諸職悉くそうしたの推量では、あの女はお産で死ぬか自分で死ぬかどっちか のではなく、既に親方である人達の中へ、一夜づくりのよしらだ、徳の世話になって流浪しているのを済まない済ま ないと思っているらしい、ということでした。どうして徳 うな親方を割込ませたのです。こうした人の中から、一、 二といわれるところまでノシ上げたものが、二人やそこらが他人の女をつれて歩いているのか、父は二人並べておい 出ました。 て尋ねたそうだが、徳は元締さん、そいつはお聞きなさら ・一もろ 新コが作った芝居の本の中に「小諸徳次郎』というのがねえでくださいといっただけ、ロをとうとう割らず終いだ かえ ある、その主人公の男と女とは、父が親方の卵を孵らせてったそうです。きぬはよく徳に尺、していたと、これも父の 話です。 いる頃、どこで見掛けてだか家へつれて来た徳ときぬとい う二人、それを素材の素材にしたものでした。芝居では渡新コは父の手代で、入札があればその官庁なり会社なり り者の博徒ですが、モデルの一部の徳は土方でした、とい に行き、仕様書・仕訳書・契約書や図面を写しました。船 まんば
の話にも結びをつけたのは伏田でした。父よりも伏田は謂 さいのを、父も犀次も新コもうしろ首に掛けた。父は背広 うところの教養があるらしく、満目荒涼の秋だの、諸行無服だが、勇助と犀次と新コは、印半纒・腹がけ・股引・脚 常を告げわたる鐘の声なぞと、その話に要りそうもない文絆に手縫いの地下足袋、三人とも二子の羽織を引ツかけて 句を入れて、話を語りひろげて行った。新コは雑誌で読ん いて、羽織の紐は三尺何寸かある。だれも彼もいい気持に だ文句が、通例の話のうちに織り込まれているのを聴いたなって豊橋へ引返し、田原の古ばけた乗合馬車に乗った。 のは、この時が最初でした。衛生試験所の髭青年だって、 ところがその日の豊橋の小型新聞に、県下渥美郡の一部海 話に伏田ほど文章を千切って挿入れはしませんでした。 面を埋立て、田畑を得んとするものと称し入り込みたる自 伏田はフランス人の事業団の代表に会ったかと父に聞い称請負師一行は、その出身地にては名もなきものにて、莫 た。話は聞いているが会ってはいないと父は云った。伏田大の費用を要する工事を、果して能く遂行するや疑問多大 は一度どうかして会ってみたい、前谷から聞くと代表は、 なりと或る人いえるが、この一行が詐欺師に非ざれば、自 学識があって多芸多能で、絵なども玄人の域に達している他ともの喜びというべきなり、という記事が出ていたのを そうだ、というようなことを躰を乗出していっていまし知りませんでした。知っていたら豊橋を素通りする勇助と 学 ) 0 犀次とではない。 翌日の朝、新コが眼をさますと、朝帰りの犀次も勇助 も、風呂からあがって来たところでした。伏田がそのうち にやって来て、父と新コと勇助と犀次と五人で、前祝いの 後に電車が通じたが、 そのころはガタ馬車だけが豊橋・ 盃を挙げた。そういうときの新コは末席に坐った、父がそ田原の間の乗り物でした、人力車もあったが、四里三十丁 はすや うさせる。そこへ田原の旧家だという蓮矢宋左衛門と、 ぐらいある長帳場では、銭がかかってそのうえに遅いのだ う、角力の年寄みたいなおやじがやって来ました。父は面から、人力車稼業には向かないものとされていました。 識があるらしく、犀次と勇助は初対面の挨拶を交した、新田原へ着いたので、ガタ馬車から下りた新コは一ト目だ コは手軽く父によって紹介されました。 け街をみた、別に何ということも此処にはなく、人通りが 伏田と蓮矢に見送られて一行四人、汽車に乗って豊川へ いたって少い田舎の町だと思っただけです。眼についたた ゆき、稲荷へ詣で、大護摩を焚いて工事の成就を蒋り、護ッた一ツは、町の裏のずっと向うに太い煙突があって、黒 摩札のバカでかいのを勇助がうしろ首に掛け、それより小 い煙を吐いているのと、何軒もの家の戸袋に漆喰細工がし はみ : ハし ふたご