のだから、差止めを食って仕合せでした。あんなことに馴きも、階段を降りるときも、何のこともなく、無事な父の れッこになったら、新コの行く方角は凶の方だったでしょ姿をみて初めてどきッとしたのは、どきッとする順序が違 う。父は若旦那の出だけに助ツ人なそに行ったことはない うようですが、新コの躰に起った順序はそうだったので らしいが、揉め事の中は相当にくぐって来たらしく、それす。 だから高山元検事が人殺しに行くと知って、追ツかけて出庭下駄は一足だけで、父が穿いて狭い庭へ出ていったの てゆくときも、高山と一緒に戻って来たときも、平常とたで、新コは素足で庭へ降りた、足の裏が霜柱を踏んでサク いした変りがなかったのだろう、そういう時の出掛けに、 リと音がした。父は庭木一尸を開けて作事場へ出てゆき、一 高山が不承知で暴れたら縛るとて細引を、怪我したら血止ト巡りして作事場の門をあけ往来へ出た。新コはそのうし め用にとて手拭を、持って出るだけのユトリがあるぐらい ろ十五、六歩のところへ離れて付いて歩いた。風はないが にはなっていたのでしよう。それから後の何年間にも揉め疎らにみえる星の光りが、凍っているようなのに漸く気が 事があっただろうが、ロに出したこともなく、妙な素振りついた。父は引返して門を閉め、庭へはいり家の中へはい をみせたこともなかったから、新コは父を剛胆だとも臆病った。新コは義母がもってきてくれた雑巾で、足の裏を拭 だとも思っていない、そうするものだと思っている、そのくときそくりとして、冷いのと寒いのに気がついた。来た 故かして新コは父が拳銃を肌身放さずになったと知ると、奴はどこの者だいと聞くと、父は泥棒だといった。泥棒に ずるずるべッたりという形容のように、別 にどうというこ一発お見舞い申上げるのかいと聞くと、弾丸はヘえッてい となしで料簡が決ったのでした。そのころの新コが覚悟をない空包だといった。みんな空包がはいっているのかいと 据えるとはこんな簡略なものだったのです。 聞くと、二発空包でそのあと四発は実包だといいました。 翌日の朝、いつもの通り薄ッくらいうちに飯を食ってし まうと、義母が台所へゆくのを待って父が、新コはこの頃 かわや せいた たツた一度だけ父は夜中に、厠の小窓から作事場の背板そわそわしているが、何があってそうなのか、ゆうべ二階 あた から降りてきたとき素手だったが、 の塀を乗越えかけた三人連れの一人を狙って、弾丸が中ら 作事場へ入ってからは ないように射ったその音に、二階で独り寝ていた新コは眼何かもっていた、あれは何をもっていたのだと賺すような をさまして階下へ降りてゆき、廊下の雨戸を繰っている父聞き方をした。砂利だよ、砂利をばろッ布に包んでこの間 の姿をみたら胸がどきッとした。銃声を聞いて飛起きたとから家のところどころに置いてあるから、どっちから家の くら きれ
屋の脇で、ずンぐりした男が駈寄ってきて、お可哀そうに ないでしよう、それでいいのでしようかとしゃべった。そ と涙を眼に溜めていった。髭だらけのその男は、色のさめれはこの現場小僧の思いっきだったのか、だれかのロ真似 た斎藤と襟字のある印半纒を着ていた。あたしは熊です、 だったのかわからない。新コを憎む人達は、嫌な顔を現場 おばえておいでなさるまいけど、ずうッと前に永らく大旦小僧に向けた。新コを憎まない人達は、面白いことをいう 那のお世話になったものですというようなことをいった。 と喝采した。そのあとでだれかを呼びに現場へ飛んでゆ だかりがしているところがあったので、 熊は今ここの芝居の楽屋に住んでいるのです、芝居がみたき、その帰りこ人 くなったらお出でなさい、そのときはこっちから来て、楽行って覗いてみた。一人の人夫がーー新コは土工と人夫の 屋番の熊といって呼んでくださいと裏の方へつれて行っ違いを知っていたーーとんば返りを煙草休みにやって見せ こ。楽屋ロだった。 ていた。軽業だと思ったら違った、その人夫は役者だった 父にその話をしたら、そうかといっただけだった。父はのだ。新コはその男の顔をおばえた。 そのことを祖母にした。忘れずにそういってくれたのかと 役者が人夫になったのは、役者をやめたからだなそと、 涙をこばした。新コはおばえていないが、祖父が盛んなこ新コは考えっきもしなかった。あの男にあったら芝居の話 を聞こ , っとだけ田 5 った。 ろ、熊は家にいた多くの中の一人らしかった。 新コは海が荒れて工事を休む日があると、芝居小屋へ熊幾日たってからだか帰りにその男と一緒になった。この を尋ねてゆき、楽屋口から入れてもらって、芝居をみた。 間ひっくり返ってみせたあれは、芝居でやることだろうと 平土間に仕切りがなく、追込みと俗にいった、値段の高い聞いた。妙な顔をして笑っていたその男は、それから芝居 見物席は、階下と階上と正面だけの桟敷だけだった。初めの話を歩きながらして聞かせた。おもに立廻りの話だっ て見せてもらった芝居は何だったか忘れた、市川権十郎だ た。話をしているうちにその男は、手真似を入れてときど ったか沢村源之助だったか、見ることは見たが、何が何だき声色をつかった。野毛の都橋のところで、まあず今日は かわからないが面白かった。 これぎりと、太鼓の音を口でいって別れて行った。 かば 事務所の人の中で、新コを庇う人が幾人もいた。憎んで ときどきその男と帰りが一緒になった。新コの方で一緒 いるとはツきりわかる人も幾人かいた。あるとき新コは、 になるようにしたのだ。芝居の話をいつも聞かせてくれ 、ことを沢山すると男爵になるでしようが、女がい 、ことを沢山しても、女爵というのがないからなれ いつの間にか役者の人夫がこなくなった。芝居の話は聞
162 た。用地の終いのところに門と塀のある平家建ての屋敷が 一ツ、その隣りに門が開けッ放しになっている古い二階建 レいての屋敷があった。父は平家建ての屋敷をしげしげ見てい たが、こっちだといってそのすこし先にある、海をすこし 埋立地にした処へはいって行った。掘立ての大小の小屋 が、あっちこっちに、四ツだか建ちかかっていた。 桜木町駅のところに、石造建築の横浜停車場があった、 父が知らない人と何か話をしながら子供をみた、知らな その前に出ると緑の広場があって噴水がだれの眼をも喜ばい人も何かいって子供をみた。それではと知らない人が子 せた。停車場を出た父について、あの子供は左へ左へ歩い供にいって歩き出した。その人の行くところが働きロのあ た。弁天橋の手前から川口に沿ってすこし行く、目の前はるところだと思って、子供は父を放っておいて付いて行っ 燈明台だった。父がいっかだれかと話しているとき、燈明 た。今通った門のある平家建ての中へ、ずンずンその人が 台の御役所といっていたのを聞いたことがあった。丸い硝 はいって行くので、子供もずンずンはいって行った。気が 子張りの塔があった。 つくと父の姿がなくなっていた。 川口がじき尽きて海だった、そこらは鉄道用の石炭置場瘠せた小さい口の尖った爺さんが、どこからか出てき で、石炭人夫がパイ助という竹の半籠を二つ左右にさげ、 て、知らない人にロに泡を溜めて何かいった。知らない人 天秤棒で担いで、伝馬船から置場へはこんでいた。人夫はは子供に、この方のいうことをよく聞いて、辛抱するん みんな真黒に汚れ、往来の土も墨を塗ったように汚れ放題だ、わかったかといって帰ってしまった。 ) つ ) 0 子供が泡の溜まる爺さんのロを不思議がってみている そこを通りぬけると、もう往来が汚れてはいなかった。 と、こっちへ来いと台所ロへつれて行き、軒下へ立たせて 海の風がびゅうびゅう吹いて潮臭かった。子供には何よりおいて、根掘り葉掘りいろいろのことを聞かれた。名や年 も先に、そんな中で斜め左の海の向うに遠くみえる、白塗や生れたところいたところ、それはいくら聞かれても、こ りの神風楼が眼についた。ゃあ神風があすこに見えるとい の子供は答えるだけだったが、、」 お前の親二人は夜になると った。父はうンといっただけだった。 どんな風に寝るのだと、今までたれも聞かなかったことを この老人は聞いた、終いには子供の世界にはまだないこと 右は海で左は木の柵がずうッと続いている鉄道用地だっ ら、一冊にいっかなっている「少国民』を持ってゆかなか 子供はその「少国民』と永い別れをしに、父の尻こっ て外へ出た。
入りの引違いの障子を開けッ放しにし、出て行くとき閉め 、ト肥りの小万という内芸者です。 よなか 夜半に女が男ひとりの処へ、こんな時にはいるので 小万はどうして怪我したかとはいわない、その水はダた。 メ、疵口を押えていなさいといって、疵口をのそいて、廊も、障子を開けッ放しにしておいて、それとなく事柄の証 かなだらい 下の奥へゆき、水を入れた金盥と酒徳利をもって引返して明をだれにともなく立てる、という風な女だったのでしょ 来て、疵口を手荒く洗い、新コさんこれ焼酎です、このぐ らいの疵なら若いのだものすぐ治ってしまうと、新コの手新コはわずかあればかりのことに疲れたのだろう、前後 拭を器用に引ッ裂いて結んでくれた。小万は陰ながらいっ不覚に睡って、朝だいぶ遅くなって眼をさました。顔洗い にいって右手をつかってみたところ、痛いだけで別にどう も聞いている声よりも平明でひそやかないい方で、気の弱 とい、つこともない。 いものだと熱を出す新コさんならすぐ睡ってしまうに違い ない、といったようなことをいって、ここの始末はあたし朝飯の膳がくるのを座敷で待っていると、小万が呼ぶの かなだらい 三、、、、あしたの朝は疵口がもう付いで廊下に出ると、水のはいった金盥と焼酎や鋏や布を持っ がするから早く寝オカしし て待っていた。疵口を小万が洗いながら、新コさんの躰は ているといった。新コはそうだろうこんな疵ではと思い 礼を手短くいって座敷へ戻り、ランプの芯をねじって出疵に強いといった。そうかも知れなかった、大患に罹るま し、明るくして見ると、血がついたのは敷布だけで、それでのその後の久しき永らくの間、新コは痛いとはこれが痛 しずく いというものかと思うことはあったが、我慢ができない痛 も一カ所だけが紅椿の花ぐらいで、あとは赤インキの雫ぐ らいのものでした。左手で敷布を剥いで寝る仕度をするとさというものは知らなかった、たとえば向う脛に骨が出る おやゅび 拳銃も匕首もあった、手先がない方ばかりを把羅掻いたのほどの母指大の穴があいたときでも、左腕の皮があらかた でした。気がついて正面の窓を見ると紙障子が引きつけて剥けたときでもそうでした。こんな躰の上廻ったものを不 ある、桟が二ッ三ッ飛んでいるのは、加蔵がれんじ格子を死身というのでしよう。 きっ * 一き 小万は朝のこの時になって、初めてゆうべだれが来たの の切るとき刀尖が当ったのだろう。雨一尸がどうなっているか 市確かめる気がっかず、寝ようとすると小万がはいって来かと聞いた。新コは隠すことをしない、半畑の加蔵だとい った、何のために光り物をもって夜半にご入来だか判らな あて、濡れ雑巾で畳を何カ所か拭き、敷布をもって出て行っ いともいった。新コさんはこれからどうする気だと聞くの たただ拭いたのでなく何か撒いて拭いたようでした、灰 だったかも知れない。小万ははいって来るとき、曇り硝子で判らないと答えた、実際にわからないのだったのです。 めの
きせていると、流し場から声あり、「先生よ、それはおら食わせて、うまがりませんといっては狡いそ。おい病人、 せがれ 幻がとこの倅だわ」 軽く食べておけ」。この病入、これがキッカケになり、ぐ これで滝七はこの種の誤診はやらないだろうと思うと、 しぐい央方に向った。 そうでない 、ときどき繰返しもするし、新規の誤診もやっ滝七医者が出しぬけに瞑目して、じっとなっているとき た。或るときこの医者が息子の背中を洗ってやっているがあるので、懇意な人が尋ねたら、声をひそめて答えた。 と、湯槽から出てきたものが、四方を見まわし、自分のつ「あれは寿命で亡くなる患者があったから冥福を祈ったの れてきた息子を探していたが、頓狂な声を出していった。 さ。わかるとも。化学試験の答案のようにロではいえぬが 「先生、そら、おらが倅だわ」 形容しがたいものが響いてくるからな」 この医者が患家の門口から声をかけ、穿き物をぬごうと この人、昭和十五年 ( 一九四〇年 ) 、八十九歳で亡くなる すると、そこの家のかみさんがびつくり仰天していった。 まで、片田舎へいって患者に接していた。 「先生、病人は隣りの家です」 和服で患家へゆき、下駄をはいて歩き出すとうしろに声 2 秘薬安心丸 あり、患家のものが、先生その下駄はおらとこの下駄だと いうと、医者はあとを振り向きもせずいった。「心配ない、 伊勢一志郡の久居藩五万三千石の藤堂家へ、青柳健之助 あした来たとき穿きかえてやるぞ」 と建部健一郎という浪士が、幕府側から預けられた。この 患家の門ロで医者が大きな声でいった、だいぶよくなっ 二人は幕末史に出てくる、京都にあった事件の一つ、文久 たそ。そこの家のものが腹を立て、診察もしないで先生は三年 ( 一八六三年 ) 二月、足利三将軍の木像の首を切って、 * 一ら かたわ 何をいうと咎めると、すうっと患者の傍らへきて、門ロで三条河原で晒しものにした浪士団のものである。 わしがいったことを聞いたか、家のものがわしを咎めたの 二人の待遇は甚だよろしく、三度の食事はうまい物だら も聞いたか、両方とも聞いたか、それでは診察だと、一と け、日に一度は必ず茶菓が出る。監視の士が交代制でつい わたり診てからいった。おい病人、わしが門ロでいったのてはいるが、実際は話相手の役である。医者も絶えすやっ が本当かどうか、晩飯のときわかる、おい家の衆、晩飯をてくる。囚人とは名ばかりのお客さんである。 、刀ー刀 病人がうまがって食べたらわしの勝ちだ、といって出てい いくら好遇しても、酒をのませるというとこ ったが、すぐ小戻りして来ていった。「おい、まずい物をろまではやらない。二人はそれが気に入らないとはいわな ずる
たちは、謂うところのチャンとした家庭から妻を迎えさせていた少年時代である。後に海の男になったが、そのころ たかったので、この出来ない相談をフツかけられ、二の句は、谷へくだり又のばることが自由自在なのだから、木に がっげないほどびつくりしている。その一方で肝をもっとのばり枝を伝わることなど、南方には到底できないこと 潰したのは芸者の笑子である、笑子にとって南方が世界のを、いとも軽快にやってのけたのだろう。 学者であろうとなかろうと、それは構わないが、この学者明治四十三年 ( 一九一〇年 ) ごろ、和歌山県庁の命令だと いって、南方の研究材料の採集が禁じられた。イヤそうで 先生の食い溜め飲み溜めは、まあまあ良いとしてイカモノ はない、南方の学問以外の問題で、県庁が南方に限らず、 食いはやる、昼を夜の如くつかい、夜を昼の如くつかい、 屎尿の放出はところ嫌わず、反吐は自由自在につき、それたれかれ共に立ち入りを禁じ、やがてその地域を処分する を又胃の腑へ逆戻りさせる、等々、ただの人間から見れば予定になったのだそうである。 放れ業つづきの日常を、見たり聞いたりして知っているの南方は立ち入りの禁止を伝えた警察署にいって、君たち で、目をまわすより外ないくらい怖がり、だれがあんな化は学問を何と思ってプチこわしに取りかかったのかと、激 け物のところへゆくものかとか、何とか、ロ走った。それしく抗議したが、警察署長は上司の命令でやったことだと いうだけである。つまり南方は学問の尊厳を力説するが、 が南方の耳にはいった。或いは笑子の味方の甲乙丙丁のう かげ 署長にはさつばり通じない。署長がいう法文の忠実履行と ちだれかが叩いた陰ロであるともいう。 いうのが、南方にはさつばり通じない。だからこの論争 南方は何を思いついたのか、田辺界隈の無頼漢二十余人 あが いたず は、徒らに双方が熱つばくなるだけでしかない。 に召集をかけた。この無頼の徒は南方を崇めること神の如 和歌山市の県庁へ乗りこんだ南方は、学問を冒濆する不 く、そのいい付けに従うこと子分さながらであったと う。南方はこの者どもをして、笑子のいる家の屋根を裏向義不正の知事、ここに来って我が論難をうけよとやった。 なだ けにして地に着けさせ、縁の下と土台廻りとを逆向けにし知事は避けて出ない、部長そのほかが出てきて、宥めたり じゅうりん すか 賺したりしたが、受けつければこそ、学問を蹂躪して恥と て天をいただかそうというのである。 幸いにこのことは仲にはいる人があって、騒動にならなせざるものどもよ、よく聞けと、西洋東洋の学問・文化を 論じ、世界各国語を縦横につかって弁舌をふるったが、聞 いうちに納まった。 新五郎さんはこのとき幼児であった、しかし次の話のとかされている連中には、雀がビフテキを貰ったようなもの きは、研究材料の採集に南方に随行して、山をめぐり歩いである。 しによう きた
秤棒が撓むほど担ぎこんできた。売れた、毎日毎日ひどく型の瀬戸の蓋物だった、飯とおかずが一緒にはいってい 売れた。それを担いでくるのは色の白い若い男で、言葉はた。それを落してこわしたので竹の皮包になった。その次 上方だった。 一品料理を売る場所は野天だった。いつも西に古道具屋から買った木の箱にはいった、瀬一尸の弁当にな 洋料理屋の亭主が一緒にきていた。現金買いもあったがカった。四角い木の箱をさげて通うのを、新コな弁当箱ばッ ケ売りもした。月給日になると亭主が勘定をとりにきた。 かり一人前ばいと九州人に笑われた。それを売って漆塗り 払いがよかったかどうか知らなかった。新コは事務所の人の折畳弁当箱を買ってくれた。これだと持っていくのに楽 人にいい付けられ、カツレツだのシチュだの取りに行っ だった。困るのはひどい古物なので、飯に漆が剥げてつく た。ビフテキは値が一番上位なので、持ってくる数がすく ことた、一々とって棄てたのでは、飯粒がヘる、そのまま なかった、オムレツが一番売れたらしかった。 食べた。黒い漆のかけらなど何でもないが、苦になるのは 担ぎの男は好男子だった、真白い上着に半ズボン、白い漆が剥げたあとの赤錆だ、錆臭いけれど、臭いところを棄 からすね 空ッ脛を出して、素足に草鞋をはいてした。。 、 ' とのくらいしてたのでは、飯が少くなるからそれも食べた。赤錆が口を てからだったか、亭主が御膳籠をフウフウいって担ぎこんへンにさせたが我慢できた、ときどき咽喉の底からゲッと で来た日があった。売切れになってから亭主が事務所へき吐き気がするのが我慢できなかった。といって食べないで て、話しているのを聞いた。役者の人夫よりずっと好い男はいられないし、赤錆のついたところだけ棄てるなどは以 もど だった担ぎの男が、売上げの金を浚ってきのうの午後、どての外だ、げッと嘔しかけのを抑えつけて食うには、そう こかへ行ってしまったのだそうだ。 なった途端におかずをすこし咽喉へ送ることだった。おか その後どのくらい担ぎこみの一品洋食がつづいたか憶えずは煮豆か切りするめかひじきか干大根の煮たのだった。 かない、憶えがはツきりあるのは、その一品洋食を自力で魚が欲しいとも牛肉が食べたいとも思わなかった。本が買 はもとより、他力でも食べたことがないことと、今にみて いたかった。夜学へいきたかった。 記いろこの籠一杯の洋食を銭を払って食ってみせると、とき 半どき思って御膳籠を睨みつけたことだけだ。 コ 新新コは一品洋食がくるようになってからは、正午前に弁新コは事務所の人の煙草を一個買うために、永住町の県 当を食べた、そうしないと一品洋食をいい付けられて取り庁官舎の外側の煉瓦塀について屈折して何町かゆき、鉄道 にいくとき、辛いのだ。新コの弁当箱は最初のうちは、中の踏切を越えて、雪見橋の袂の煙草屋まで行った。大抵の たわ
和泉とあるのは、東海道戸塚在の村の名で、母の生れた席にいるだけであったらしい。幕間に知っている人からは ところ。横浜と太田とは明治を迎えて二十年前後の話であ短い祝いの言葉をかけられ、知らぬ人から見物され、そう いう中から私に与えられる祝福の目が、あすこにもここに ったろう。駿河屋とは私の生れた家のことである。これら の話を私は自分の記憶力をアテにして、後に何かに書き留も見つかった、そこらあたりから私は、落ちつきを取り戻 めるつもりでいるうちに、年月多く去り、その間に記憶かすことが出来た。 らみんな消え去ってしまった。 と、中幕がおわると、六代目尾上菊五郎から、ちょいと この夏、隆ちゃんの弟の三谷隆信君が気がついていい出来てくれと人をよこした。私は芝居の楽屋が嫌いなので、 したので、母の誕生百年を記念して、私たち兄弟姉妹とそ断ると、そういわずに来てくれ、聞いておきたいことが の子たちが、新宿の厚生年金会館の一室に集って、昇天しあると、又いって来たので、それではと行ってみると、 て十六年になる母の追慕を語りあったのだが、だれもが、 『親譲御所五郎蔵』の序幕があく前で、五郎蔵の顔をこし 豊かなる母の郷土史風の話を聞いたという記憶だけが記憶らえていたが、鏡の中にうつる私をみて、「おツかさんに であった。 会ったってね、おめでとう。新聞をみたよ、朝日を、都に 今となっては、どうしようも、最早ない。 も少し出ていたね」と、これを何度かに分けていってか ら、母の顔をはじめて見たときのことを聞き、「そこでな 母と私のことが新聞に出たその日、来る人や、電話ロへ ンて返辞したンだい」とか、抱きつく気にならなかったか とか、涙はどこで出たかとか、おツかさんが涙をこばした 呼び出すものやで、疲れもしたし、悩まされもしたので、 逃避の場所を劇場にもとめようとした。そのころ私は、ちのはどこでだとか、陽気な調子で次から次と、うまく質問 よッとやそッとの体の悪さなら、芝居を観ていると治った からである。 その晩、寝床へはいってから、時間がたち、寝返りばか 芝居は考えるまでもなく明治座ときめ、黒川一君といつりしているうちに、ああ、きようは六代目が私から取材し てそのころ松竹の人で、真山青果・菊池寛などによく尽、した、と思った途端、イヤ待てよ、そうばかりではないぞ た奇行家に、座席を手に入れることを頼んで、急に飛んでと、忘れていたことを思い出した。菊五郎は私から聞くだ け聞くと、話頭を一転して、今度の御所五郎 ( 御所の五郎 一番目の終りから見たはずだが、私はただ茫然として座蔵 ) をよくみてくれ、上ッつらは歌舞伎芝居で内容は近代
もと の食事の作法にびったりなのだから、ここにおいてはじめばる湯気をみて察し、すぐは手にとらす、そこ許の姓は名 て、市川翁助の勝ちとなった。 はと聞き、何のなにがしと答えると、さてはそこ許の先祖 あつば 箸といえば私が若いとき聞いた兵隊ばなしの一つに、国は関ヶ原の合戦に、何のなにがしが組下にて、天晴れなる おおぐら 府台の砲兵隊に大食いの兵隊がいて、最初の外出のとき汁功名手柄ありたるなり、イデその次第を子孫なるそこ許に 粉屋へ飛びこみ、汁粉を十二杯くれと注文したところ、手物語るべし、とウソと本当を捏ねあわせて聞かせ、その次 間どっているので催促すると、お連れさんがまだ来ないのは、そこ許の遠祖は何のなにがしといって源平の戦いのと で控えているのですと亭主がいうと、その兵隊がいった、 きと又もウソと本当とを捏ねあわせて聞かせ、もういい頃 「おれ一人で食うのだ。それから箸は一膳でいし 、あと十になったので銀茶碗を手にとり、ひと口ずつ茶を楽しん 一人分の箸の代は汁粉の方で差引いてくれや」 だ。ここに至って茶坊主はひき下がった。 市川翁助が又ある大名屋敷へ使者にゆき、退去のとき玄さて暫くの後、茶坊主が出てきたが、銀茶碗がないの 関で、敷台の板にソリ目ができていたのか、或いは本物がで、そのことを翁助に婉曲にいうと、この使者がいった、 発したのか、プウという音がした。見送りの屋敷方の人々茶碗でござるか、あれも一緒にいただきました。 は翁助が去った途端、どッと笑った。すると翁助が引っ返市川翁助が又ある大名屋敷へ使者にいった、冬のことら いんぎん してきて、敷台にあがって慇懃に、只今われら尻より出でしい。接待の士が、そこ許には毎日いかなることをなされ かたじ さる たるモノを口にてお笑いくだされ忝けなく存ずる、といつお楽しみなさるやと問うたので、手前は申の年の生れの故 て、敷台をおりるとき槻の板一枚を踏み折り、一礼して立にや、木のばりがことのほか好きにて、毎日、木のばりを 去った。 いたし楽しみおりますといった。多分、これは翁助が奇を 1 = ⅱ 翁助のやり方は、前の箸の先二、三分の濡れも、この槻好んでいったのではないだろう、何故ならば、木のばりは の の板の踏み折りも、手法はおなじで、勝負でいえば勝ちで水泳とおなじく、昔の言葉でいう、五体をみんなっかって 許ある。 やることであり、適当に心を配らないと落ちてしまう、 足 市川翁助が又ある大名屋敷へ使者にいったところ、使者又、適当に選択しないと、せつかくつかまった枝がヘし折 我を一つ困らせてやれというので、指図をたれがしたかは知れて落ちるから、鍛錬にもいいのである。 四らず、銀の茶碗を熱湯にひたし、その茶碗に茶をいれて、 ところで、接待の士は、この使者めを困らせてやろうと 茶坊主が翁助の前へもって出た。翁助は銀茶碗から立ちの いうので、「当日寒威凜々朔風冽々、宜シグ炉辺ニ近着ス
こういう人の中から出ること、いうまでもない。 というこの話は、ここで書いたものと、高田の話したのと みえ 歌舞伎芝居の見得の切り方にしてからが、こうして、こでは比べ物にならない。高田の話がズバ抜けて面白く、あ うやって、こうキマる、と教わっただけを、慣れつこになわれも深い ってやっているのは下らねえ役者て 。、いい役者というの 私はこの話をつかっていない。 は、教わったことを生かしてやる人のことさ、とこれはズ ・ハ抜けていた役者がいったことである。 きんちゃくきり その高田保が私にタネをくれた、巾着切のことである。 昔、京の春うつくしい季節のことでもあろうか、華やか 或る巾着切が新橋の芸者屋の前でいつも見かける半玉 ( おな衣裳をつけた美女が、人出の多いところを、あちらこち 酌 ) に心をひかれ、何年かたった後に、素人になっているらと歩いているのをみた或る男が、何とかしてその美女と 昔の半玉、今は中年増の女にめぐり会い、夫婦になった。 口がききたい、ロをきいてからのあとは、何とか思案がっ 女の子が生れたので男は巾着切をようやくやめ、勤めロくかも知れないと、美女のゆくあとについて、あちらへ行 を見つけて堅気になって八年、きのうの日曜日に、子供のきこちらへ行きした。するとその女が、人の姿がないとこ ものを買いに百貨店にはいったところ、金ぶくれをしたイろで男を呼び寄せ、先はどからあとに付いてはなれないの ヤな男に、どの階へいっても出会うので、こいつはカエは、このためなのでしよう、と巾着、印籠など五つ六つ出 ( 買え・スルこと ) ということだろうと、思ったときは手の指して見て、どれがお前さんの物か持ってゆけといったので が二本う ) 」いていた。その動きをどこかで見ていた刑事が男は肝をつぶし、こいっ女の巾着切であったかと、逃げ すいと寄ってきて、おい久方振りのカイモノ ( 犯行 ) だなと 旨ロ 己いった。時に高田はシンパサイサー嫌疑で警察へ引っぱら この話は明和三年 ( 一七六六年 ) に、七十八歳で亡くなっ の た若狭小浜の木崎藤兵衛 ( 正敏 ) の書いた物のうちにある。 れ、今いった男と留置場で一緒になり、一両日して高田が 許無事釈放になるとき、男がノリ付け封じの小さく折った手それから百七十余年たってから、今の話を引っくり返し 紙をわたし、女房に届くように計らってくださいと、涙をたような事実を聞いた。宮内省 ( 省とまだいっていた ) に勤め 我こばして頼んだ。その手紙は遺書で、男は自殺した。そのている、仮に e と呼ぶことにするが、家が上野桜木町辺で 死体は女房が引きとったが、死体の手の指先が二本、何にあったので、上野公園に散歩にゆくと、清水堂のちかく 挾んだものか、指紋のあるところがひどく潰されていた。 で、泣き・ハイという西洋剃刀売りがいて、人だかりがして 6 ) 0