すから、式だけのみこんだところで答えは艱難の後でなく当であります。筆の先から出るのは、片づけて云ってしま ては出ません。しかも、艱難の後に、必ず答えが出るかとえばまだ成っていないのであります。肚から出る会話と いえば百のうち百といっていいほど、惨敗か、挫折か、余は、甲ならば甲、乙ならば乙の、その場合に、出なくては 儀なく転向かであります。わたしは中年で思いも寄らず作ならない会話のことであります。作中の人物がいう言葉で これをいうのです。 家になり、現に戯曲と小説との両道に精進して、些かながあって、作家がいう言葉ではない、 ら有名さを持っていますが、わたしの家族からは一人の作説の方では余りはっきりした例を知りませんが、劇曲の方 家志望者を出すまいし、事実今のところそれは行われておでは幸い例を知っております。劇曲は紙の上でなく舞台に そこな ります。それも艱難の激しさが肉体を害い、精神に細さを再生しますから、その場合にこういうことがあります。読 与えるからであります。しかし、作家が男児一代の事業かんだときは左程に思わなかった白が、いざ檮古に立ってみ 否かなどいうことは、作家の道に傾倒し得ない作家のいうると、肚から出ている白というものは、そこに至って初め ことで、男児の一生を捧げて尚余りある道に相違ありませてびたりと演出者に生き演技者にも生きてきます。人物の ん。疑いをもつものは、成功を条件としているからであり白が、もし人物の肚から出たものでなく、単に作家の筆の ましよう。十が十、成功しないものならば男児一代の事業先から出たものであったときは、今いったびたりと生きて でないということでありましたら、世上何が男児一代の事くるということがないのであります。会話は、だから、 業がありましようか。一生を傾倒して悔なき事業と、わた作者の筆から出てはいけない、作中の人物の肚から出なく しは無論確信してかかっていますが、それであっても、家てはいけないのであります。 族の一人にすら作家志望をもたすまいとしています。何と人物に対して作者は愛をもたなくてはいけないのであり なれば、前に挙げた以外に、作家に適したものでなくてはます。正不正でも、善悪でも、美醜でも、何でも彼でも、 作家にはなるなという信条をもっからであります。作家に作品中の人物を愛さないで、良いものが書けそうなことは 跡適した生れつきという人は、そんなに多くいないらしいとありません。不正は不正なりにというよりは、不正な人物 の を描くために、作者自ら不正を愛するものにその刹那はな しか思いません。 旅 股約東の紙数が近づいてきましたので、急いで二、三のこるべきです。悪であれば悪を嫌っては悪が描けないのであ ります。ですから、作中の人格各個にわたって作者は愛さ とを申します。 せりふ 会話。劇曲の方では白という、あれは肚から出るのが本なくてはならない。作者は、正と不正とを兼ね、善と悪と
175 耳を掻きつつ 楓にかこまれ、一つの寺の鐘楼は桜の木にかこまれている人としての私のことは無価値だから書かない。 ことである。同じ名の遊女鐘でも松楓と桜と、趣きを異に 作家は作品を生めるだけ生んで、行く処まで行って、討 していることを、異とせねば更に異でない。 死になるか、凱旋になるか、どっちかになるときまってい このごろ私は桜の枝ののびている遊女鐘の鐘楼を仰いる。遅く出てきたのだからー・ー長谷川伸という作家名をつ で、遠い昔の江一尸吉原の遊女が、仏教を信じ、現在の苦海かって足掛け十一年だ。ーー早く出た作家よりよほど励ま を脱がれたいと念じたことの哀れさを旅半ばにして思っ ないと遅いものは遅い劣り方があるものに違いない、どう せ私など討死の組でしかなかろうが、それでも作家冥利 桜はまだ莟が固かった。飛騨の花は四月末から五月にか に、後世にのこるものが作りたいので生めるだけ生むこと けてで、東京よりは春が遅い、峯には白雪がかかり、目のに努め、そこで書けるだけの約束よりしないという遣り口 前の山にまだらな残んの雪がある。そういう冬の名残りがをとっている。 まざまざとしている頃、遊女鐘を桜の枝越しにみた私は、 だから、他人の批評に答えることだけはテンでしない、 つい二、三日前、汽車の窓からみた、駿河の黒い土に咲くその暇があれば作品のことに何かしら没頭することをして いる。そうしないと私では力が減る。 桜の花が乙女のように笑っていたのを思い出した。 しかし、ウケないこと請合といった小説を書かせる処が 春は天上から訪れてきているのに、桜はそこでは咲き、 ここではまだ固い。遊女鐘の伝説を持っ寺と寺とが桜をもあれま、、 冫ししとか、思うがままに私の戯曲を上演させてくれ ち松楓をもっことも、矢張り人の世の一部をみせるものとればいいとか、そんなことがもし「云いたいことを言う」 して興味と感慨とを唆るものだと思い、私は又北へ向って 冫はいるなら、決してないでもないが、これは種目が変っ ( 昭和九年四月 ) たにしろ、たれしも持っている希望だから、「云いたいこ 旅をつづけた。 とを言わない」うちに判り切っていることだ。思うがまま になる人の一生だと考えることが出来ないから、出来るこ 討死凱旋 とで希望を何とか達成してみようという考え方を私は執る のである。ただ易々とそんなことは出来難いもので、殊に 作家としては「云いたいことを言う」ことがまずない。 戯曲は、やればやるほど難しいのが判ってくるので容易な 私人としてはあるが、それはつまらないことだし、又、私らざることと戒心して勉強する他に途がない。行く処まで つ」 0
116 いって、三十五歳で初めて『難有御江一尸景清』、俗に『岩あったが、遂に超越して大作家となった。そういうような 戸の景清』というだんまりを書いて上演された、これは処優越を期した闘争作に徹底したこともあったが、それは独 女上演である。十九歳で五世鶴屋南北の門下に入り三十五り黙阿弥のみが経た道路ではなく、生きている限り、だれ 歳にして処女上演である。天保五年から嘉永三年まで、長でもが通過する約東されたる険道である。 い時を経てようやくにして上演されたものは、作家として黙阿弥がまだ世に出ぬ頃、何歳のときかは知らず、岡本 だんまり は問題にとりあげなくてもよさそうな暗挑物である。しか綺堂氏に教えられたのであるが、失意に沈湎した余り、芝 も、これは再演もされているが佳作ではない。 居からの帰途、橋の上から投身して、腑甲斐なき一身を棄 黙阿弥が本当に世に出たと目すべきは、三十九歳の作てようとしたことがあるという。幸いに妨げがあって果さ 『都鳥廓白浪』である。これは苦心の作でもあり、上演しず、しかも、この自殺未遂によって心機の轄然たるものが て成功した作でもある。恐らく黙阿弥自身もこの一作を出あって、幕末明治へかけての大劇作家となり、不朽の諸作 世間の作と観ていたのだろう。前にいった一世一代の記念をのこすことが出来たのではあるまいか。 作『島鵆月白浪』が、退隠記念であるが故に『白浪』と持黙阿弥の作品といえども全部が佳作傑作であるのではな ってきた、それは、出世間の作『都鳥廓白浪』の『白浪』 いのは知れ切ったことである。佳い作が佳く、傑れた作が と照応させ、『島鵆』と「都鳥』、『月』と『廓』 ( ながれと訓傑れているのである。芭蕉の句が駄作は堙滅四散し、概し ます ) とを照応させたものである。この二ツの作の終始がて代表作が残っていると観てもいいように、概して黙阿弥 あって、世間が呼ぶに白浪作者といったことが、自らなるの諸作のうち、今日も舞台に再現されるものは、佳い作に 根拠をその中に持ったことと解される。 数えられるものだけである。こういうところに劇作家は得 そこで、わたしのいうのは、黙阿弥ほどの人でさえ、十がある、悪い作は概して再現されず、全集でも版行されな 九歳ではいって三十九歳まで ( 凡作上演の三十五歳としてもい い限り、通常では悪作凡作を読もうとしても、容易なこと い ) 、世に現れ得なかった間に、焦躁とか絶望とかいう、志では手にはいらない。そこへ行くと全集ばやり時代には、 みた を得ない時代には、だれでもが経験する悲惨がなかっただ極端なる例の一ツに、冊数を充すだけの作品がないので、 ろうとは到底考えられないということである。わたしにし作文まで入れたという話があるくらいだから、全集が選集 ても憶えがある。 でない限り、玉瓦混淆を敢えてやらざるを得なかったろう りようが に違いない全集もあったことだろう。 黙阿弥は、後進の三世瀬川如皐に一時凌駕された傾きが いんめつ
132 の『馬鹿囃子』と、白井喬二のたとえば『宝永山の話』、わ純文芸小説がいいか、の問題であります、いろいろの論争 たしの物からとりあげて申せば『よもすがら検校』とか、 がありますが、およそ小説というようなものは論争によっ そういったものを併せて読むならば、近代髷物小説のとって発達もし精撰もされ鍛練もされますが、作家には帰結の た航路がはば判りはしないかと思う。但し、右にあげたの問題はた 0 た一ツであります、それは良い作品を書くこと は短い物ばかりを特にあげたのであります。長篇よりもそであります。論争を事実上解決するものは、小説の場合は の方が便宜が多いからであります。 小説であります。理論の上で有利なことよりも、作家は小 しかしながら、髷物作家の誕生は、必ずしも同じ径路か説という作品によって有利でなくてはなりません。作家に らではありません。その現れは、等しく髷物作家といってとっては一も小説、二も三も四も五も、すべてこれ小説で も、めいめいが意見を異にし、抱負に別があり、目的に相あります。傑作を一つ書く前に、百千の凡作をかいてもそ 違があります。それは実に已むを得ないもので、端緒を発れは恥辱ではありません。傑作を期待せず、ただ書く作品 してまだ十年前後に過ぎず、果物でいえば実を結んだぐらがすべて凡作であったのでは、申すまでもなく、恥辱であ いのところであるに過ぎません。熟するのはいつのことります。 きた か、現在の諸作家の次に来るものが熟さすかその次の代の傑作はだれだってそうそう書けるものではありません ものが熟さすか、それは予測のつくことではありません。 、傑作を書くために作家を志すのが当り前で、だれがあ 又、熟さすといっても、五、六分熟か、七、八分熟か、甘って凡作をかくために作家を志したものがあろうかという 熟か、果物の食い頃というものには差別があるくらいです人があるかも知れませんが、それだけのことでは決心に過 から、稀有の人物を得て成る小説著作は、もとより果物をぎません。わたしのいうことは、決心とともに実践躬行を 熟さすのとは大きな違いで、手取り早く申せば熟さす者が いうのであります。常に、傑作をかくために学ぶというこ 出て熟させない限り、何ともいえないことであります。そとは、容易なものではない、それは修業を怠らぬというこ の代り、こういうことだけは間違いない。髷物小説の世界とであります。功利にのみ走って、計策や、手段の巧拙 でも人物の出現が待たれているではないか、そうしてそので、一時の流行を狙いとるが如きは、傑作を自身に期待し 人物の坐る席はまだ空であるではないか。 て適くものとはいえません。 それからまだ重要なことがあります。他でもありませ但し、一生を投じて、熱意を傾倒したが遂に成らなかっ ん。髷物小説をも含めて大衆小説が良いか、し 、うところのたとします。それでもよいのであります。咲かせた花が必
黙阿弥ほどの大劇作家の全集でも、逐次通読してゆくこ嘆でもあり、平凡なる作家の部分的優秀は認められること ; ないという悲歎でもある。 とは頗る困惑し頗る倦怠する、何としても一人の作家は二 人の作家でない、況んや五人十人の作家ではあり得ない。 きぜわもの 史劇を書き御家物を書き、生世話物を書いても、黙阿弥は 脚色法の二種 黙阿弥の色に終始する、殊に黙阿弥の特色をうかがうべ き、所謂二番目では黙阿弥が濃厚である。それがよいので ある。木と竹とを併有する作家は或は在るかも知れない 黙阿弥の作品に脚色物が多いことは今更いうまセもない よみほん が、木と石とを併有している作家はない。玉と瓦とを作品 ことである。在り物と称した旧作の改変作、及び読本、講 ごうかんもの 中に持っ作家はあっても、三本の手を持っ作家はない。 談、人情噺、合巻物、そういうものから取材することはそ わたしが黙阿弥を偉とすることは、凡下の作を出しつつの当時の常套であった。今も又、取材の範囲がその頃とは 佳作傑作を生み出したことである。特色に終始して特色を異なっているだけで、依然行われているのである。 深めて行ったことである。凡人の超凡人たる心である。人取材は何であれ、出来上りの優劣によって、高くもなり にはそれぞれの特色が必ずある、が 、しかし、その人の固低くもなるので、取材だけで、高下優劣が決するものでな かかと 定が停滞であれば、作家は失落の崖ッぶちに踵を出したも いのはいうまでもない。しかし、在来の作を改変作する書 のである。特色を深めて行くことは進展の途を歩むことでき直し物より、黙阿弥でいえば講談、人情噺その他から取 ある。特色の推進は容易のごとくして実は容易でないもの材したものの中から代表作が数えられる。「小袖曾我薊色 である。 縫』 ( 鬼薊清吉 ) や、『網模様燈籠菊桐』 ( 小猿七之助と玉菊 ) 殊に劇作家は、佳作傑作をのこしさえすれば、百千の愚や、『童三舛高根雲霧』 ( 雲霧仁左衛門 ) や、『扇音同大岡政談』 作凡作をものしても、それは箕の目を漏るる小石のごと ( 天一坊 ) や、『蔦紅葉宇都谷峠』 ( 文弥殺し ) や、『梅雨小袖 跡く、土にかえり水にかえるものである。黙阿弥はその小石昔八丈』 ( 髪結新三 ) や、まだこの他にもある。「雲上野三衣 の にも、技術上の、又は趣向の上の、形容の上の何かしら教策前』 ( 河内山と丑松 ) を前作とし、「天衣紛上野初花』 ( 河内 旅 股 . えるものがある。偉なる作家というものは、遂に平凡に終山と直侍 ) を後作とする、二代目伯円の原作に拠る脚色も ったる作家と、同等同列の技術その他を施しても、よく教また、代表作として今も繰返され、将来も繰返されるだろ え、よく語るものを持っている。これは黙阿弥に対する讃うと思われる一ツである。
す。しかし、作品は作品がもっ良さが第一でありますか それはそれに違いない筈です、その時の現代小説でなく ら、その辺のことは多くの赤穂浪士に関する院本類のうて作者は何を書こうか。形体は古き前代といえども、内に ち、断然として『仮名手本忠臣蔵』が光っていることで、 もつものは、作家の呼吸するその時にとっての現代であり 判定もっき、合点もゆくだろうと思います。但し『仮名手ます。 本忠臣蔵』が不滅に輝いている原因を、作品のみの功に帰ただ、前にもちょっと申しましたが、正確な史実の探求 することは、劇作家としてのわたしは同意しません。なれによって、史実に拠り切った小説が出来れば、それは過去 ども、ここでは髷物小説を語るのですから、深くはいる必の時代再現でありますから、現代小説とは全く絶縁した小 要もなく、部門としてもヒラキのあることですからそれを説であります。足利期に著作された「軍記物」の代表作の 略します。 一つ『太平記』や『平家物語』やは、やや過去の時代再現 髷物も現代小説である。或は準現代小説である、やり方に相当するものだと申せます。しかし、正確な史実に拠り によっては現代小説以上に現代小説になれるだろうとわた 切ったものではない、 というのが定説ですが、それはそれ しは云いましたが、柳亭種彦の「諺紫田舎源氏』を例にととして別な検討に任せ、わたしは「太平記』や『平家物 れば、題名の示すとおり、紫式部の『源氏物語』に擬し語』ほどに、過去の時代再現を歴史事実と結び合わせる作 て、平安朝文学に型取って徳川下期の市井文学をつくった 品が、現代小説といっている型のもっ表現法によって、鮮 もので、種彦の狙ったところは人の知るごとく、徳川氏の明に描かれるものの出ることを、歴史物乃至史実小説の誕 大奥生活にあります。こういうはどの現代小説であります生と申そうというのであります。申すまでもなく現在で ので、わたしは「その時にとっての現代小説の一ツ」とすも、そういう方面に手をつけている作家がありますが、史 るのであります。 実に拠り切った小説とはまだ距離があるように思っていま 式亭三馬の『浮世風呂』のごとく、市井をそのまま直写す。 跡したのは、その時の現代小説でありますが、時代をずっと髷物小説の発達は、ここ数年」 が、いつの時代よりも著〕 の 前に採った滝沢馬琴の「里見八大伝』のごときは、その時しいのだと信じます。平凡社が大衆文学全集を刊行した頃 旅 股の髷物小説であります。しかし、前者も後者も、作者の生の作品と、現在の作品とを較べてみると、どの作家のでも 四存時代をかいていることに違いはないのでありますから、深浅厚薄はありましようが、とにかくに進展しています。 共にその時にとっての現代小説であります。 それは当り前のことで、進展のない髷物小説だったら、と
202 力いいからか、そうでもない、私の物は無条件で 専念するが一番いいと信じ、論争に長じないのは作家に生 。脚本 ; れついたからだとさえ信じていいと思っている。 上演を承諾しているから、今もどこかで二ッ三ッ上演して いるだろう、その程度だ。 三田村鳶魚氏の批難は批難ではなくて誤謬の指摘である では何かーーー役者は月三円の収入しかない、それで安ん から、答えるも答えないも無い、教えられているのだ。 じている、だから舞台で声をかけてもらおうと思う筈がな 論争というものは、論争技術によって勝負が決し易い 尠くとも論争的手取りは、論争的手取りに非ざるものよりい役者だ、喝采させようと思っていない、それで熱烈さを 持っている。この境地から発してくるものが、未熟で不揃 勝目が多い。 いでありながら面白さを感じさせるのではなかろうか。 そこへ行くと作家が作品で押切ろうとすることは、もっ ( 昭和九年三月 ) とも正しいと信ずる、私は信ずるに随って非力であろうが なかろうが、論争を顧みずして、そのいとまがあれば作品 の素材をもとめ、スケッチの集積にしたがう。修業いまだ 半途にある作家の私として、その方が大切無上である。 0 っ ) 0 特異な劇団として新国劇、前進座の二ツがある、それよ りも更に特異な劇団としてスワラジ劇園がある、スワラジ は印度的な素草鞋でなく、不座である、劇ダンでなくエン である。 西田天香氏の傘下から発したもので、常に各地を巡り歩 いて、簡素な道具で芝居を演じている、宗教生活者の団体 この劇団には名優が一人もいない。それで芝居が面白 スワラジ
いに神楽の作家のような目にはあわずに燦然たる名声を伝 えている。 鈴木老人の話では、といっても口碑の伝承だろうと想像 されるが出雲の作品は材を「古事記』『日本紀』からとっ たということだ。出雲が神職であったから無論そうだろう し今日残っている神楽の古典 , ーー若干の新しい物といって も、今では中古典になっているお伽神楽などだがーーーそれ 「別れ囃子』という拙作が今月上演されているが、あれに は「天の浮橋』にしろ『八雲神詠』にしろ、そういう取材 神楽の囃子をつかい、発声映画の脚本「江一尸ッ子神楽』に も神楽と囃子とをつかうようにしてある、徳川夢声氏の名だということが一見明瞭だ。 出雲以外にも作家があったと考えるのが正当であるが、 作『ジンタ』が描いているのと同じはどの感情を、私など どういう人があったか私にはわからない、現存している古 は神楽と囃子とに持つのである。 武州大宮の神職奥村 ( ? ) 出雲は現在ある神楽の脚本作家典神楽は、明治七年に幕政時代の神楽師が流離から復活 だといってもいいくらいに多くの著作をした、こういう話し、教導職の総称のもとに中教院直轄となり三十七家がそ を神楽の方で、昔は品川流といった流派に属した鈴木老人のとき立てられた、このうち適存したものが現在ある元締 に聞いたことがある。今ならノートにとっておいただろうまたは会長で、そのとき徳川時代に演じていた曲目を「神 が三十年近い以前の私では、他日作家の端くれになるなそ楽次第書』にして出し皇典講究所か何かで審議して許可し とは知らなかったので、筆録をしておかなかったのは今とたものが、今でも祭りのときに神楽堂で演奏される古典物 だそうである、だから「神楽次第書』は台本でーーという なると残念のような気がする。 同じ出雲でも竹田出雲なら院本作家として知られているより梗概だーー・著作の形をしたものがないという。 ことしろぬし つが神楽の台本作家の大宮の出雲のことなどは知られていな神楽の「敬神愛国』の登場人物は大国主ノ命。事代主ノ み - 一と 掻 い。俳諧の名吟は大抵作者がわかっていても俗謡はいかに命とその従者のモドキ ( 俗に馬鹿 ) とオカザキ ( 汐吹き ) 、 を 耳名作だとて大抵その作者の名がわかっていない、能が , , 徳日それに章魚だ、こういえばあれかと判るだろう、神楽とい 期に特別保護をうけなかったら或は足利期の世阿弥父子のうものは滅多に題名を示さない習慣をもっている。『八雲 すさのおのみこと やまたおろち ような作家ですら伝わらずにいたかも知れなかったが、幸神詠』は素戔嗚尊と翁夫婦と娘と八岐の大蛇と五人、 , ) 馬鹿囃子
天、地、国、政を誤ることは誤謬以上のものであるが、 き殊に三階の人々が物見高く立ちあがって見おろし、果は なかんずく その他の、たとえば就中一一一一口語の如き、その時代から現代に数人が階下へきて、依然人目につかぬよう坐っている仁左 近づけるに非ざれば、作者は思うところを表現し得ること衛門氏の席の前にきて松島屋松島屋と大きな声でいった。 カ / し この場合のこの人々は老優を賞讃し敬意を表したのであろ 作品的に、そうすることが描写を誤らさずとすれば、史うが、それは喜ばれるどころか忽ち怒りを買った。逸話の 的事実の置換えその他の如き、行うて毫も差支ない、差支数多くを聞いているので、稀代の老名優が、一ツの風格を 勃然として怒り、松島屋と ないではない作家としてはそれが正当である。その代り史もった人だとは知っていたが、 叫んだ人々を殴りかねまじき勢いで座を起ったことは当時 家にはそれが当然誤りだとされる。 作家の正当は作品に起立しているからである、史家の正無名作家に等しかった私を驚かせた。そこに居合せた門人 なだ 当は研究に起立しているからである、二つの面は一つの面の老優が押えるようにして宥めたが、氏は容易に肯かなか った。しかし、門人の努力で事なくして済んでしまった。 にならない、要するに戯曲小説の出来上りが佳良なれば、 こういう光景を目撃して間もなく、中村歌右衛門氏が同じ 史的事実の正確と誤謬とを問わず、問題は消失する。 ( 昭和九年五月 ) ような場所で観劇しているのに心づいた、ところが、氏の 方は全く見物から発見されず、随って成駒屋などと面前へ きていう人などなかった、氏が見物席にいることが判れ 顔を見らる しうまでもな ば、仁左衛門氏の場合と同じであることは、、 いのであるが、全く見物の目につかぬように、不用意の如 くして深く用意されて、ほンのちょっとした坐り方の位置 小説と戯曲と二つの途に跨って仕事をしているので、 説だけやっている作家よりは、・、 しくらか華やかそうな外貌によって、鋭敏な多くの目から隠れ了せていた。 私などはそういう名優という如き地位の人と違うから、 つにみえるらしい、事実、そうした現れを、自分でも心づく 掻ようになったのは一昨々年からであった。そういう一ッそれほどのことは勿論ないが、外出すると顔をみられると 心づいてから半年以上、或は一年余かも知れなかった、不 耳は、外出中ひとびとから顔を見られることからである。 行かって片岡仁左衛門氏が劇場の桟敷で見物中、人目につ愉快におもい続けた。顔をみられる立場に置かれたもので くのを厭っている風があったが、やがて幕間に見物が心づないと、この不愉快ということが判りかねるかも知れない はて
つくに滅亡している筈であります。ですから、今後も進展説」、ちぬの浦浪六の「撥鬢小説」などが出るところまで進 1 してゆくに違いないと信じて誤りなしと思います。 展しました。「何々でおじゃる」といった風な用語をとっ 髷物小説は、明治政府が成って断行して以来の、産物でた渋柿園は、沢山の戦国物と髷物とをのこしました。浪六 はなくして、その時があったので髷物小説の実がおこった は「三日月』を世に送って撥鬢小説という、髷物作家とし のに過ぎません。髷のある無しに拘らず、その時代の読者ての席を世間の一角に大きく占めました。 が、今の読者が髷物小説を愛好すると同じこころを持って 前にわたしは平凡社の大衆文学全集時代よりも、今日の いたことは、前後に申したところによって、大体ながら推方が作家は成長しているといいましたが、進歩は生命のあ 量が出来たこととおもわれます。ですから、「その時にとるものの持っ約東でありますから、進歩が見られないでは っての髷物小説」は過去のどの時代にもあったが、それは廃滅に帰しているべきです。髷物の進歩を語るものにこう こ、フい , フことに 実があったので、名があったのではない、 いう例を引くことも出来ます。 帰するのであります。 劇作の老大家が必要あって渋柿園の「金忠輔』と吉川英 明治の初期に髷物小説は開化小説の発生と並んで、或る治の『金忠輔』とを読みました。そして渋柿園の物と吉川 よぜん ときは全く圧倒されて余喘を保ちつつ、ともかくも相当に英治の物とから得たものは、時勢の推移が大きなものであ 多産をのこしていますが、それ等は今日いうところの髷物ることでした。どちらが良いかといえば吉川英治の物がい 小説とは、まず以て質を異にして、技術などの相違も著し 。しかしながら、渋柿園は明治期の作家、吉川英治は現 いものがあります。もしいうならばそれ等は「原始髷物小代であります。この二人の作品価値を『金忠輔』で決定す 説」であります。こういう呼び方を仮りにつかうのは、今ることは、ここでは全く無用のわざであります。ただ、後 日の探偵小説とは大きな相違をもっ我が日本の探偵実話のに来れるものの方が進歩しているという例に引いたにとど 創始者高谷為之の著作及び、清水柳塘、橋本理木庵などのめおきます。 著作を、わたしが「原始探偵小説」と呼んだことがあるの しかしながら、今の髷物作家は作家として出世するとき と同じ意味合いなのであります。 に一様には申せますまいが、渋柿園や、浪六や、新講談の 明治初期の髷物作家は、戯作者の流れを汲むものが多先駆のごとく見ても差支えないような『立川文庫』の筆者 しそう く、「実録体小説」の型を追うもの尠からぬものがありまから、暗示や使嗾やを受けてはいまいと思います。それで した。そういうものから後に、塚原渋柿園の「戦国物小 は何に刺戟されたかと申しますと、こういうことを申さね